伺か一次/二次創作SS企画「SSうか3」

注意事項

その他

作者名: 登場ゴースト:

月と願いと独り言

 『よい夢を』
 そう言って更新を終える。
 ふと見上げた窓からは上弦の月が覗き、やわらかで暖かな光を放ち静かに佇む。
「綺麗……」
 零れたのはそんな言葉。
「……私は……『見せたい』のかな……、それとも……『いっしょに見たい』のかな……」
 漏れてしまった呟きは、気付かれてはいけない、ほんとうのこころのこえ。

 宝玉を使っての交信も少しずつ改良を重ね、短い時間であれば外でも話が出来るようになってきた。
 でも、それでも。

 未だ私の本当の姿はきちんと伝わらない。時々不安定になる交信。
 でも私に見えるあの人は、きっと本当の姿と変わらない姿だと思う。それは確信に満たない希望。
 触れる感触は、今はまだ私だけのもの。
 それでも、私より大きくて優しい手の感触、たまに撫でさせてもらう時の髪の質感。恥ずかしいけど嫌ではない抱きしめられる感触。
 あの人には内緒。そんな少しずつを集めて姿を想像する。
「うー……。これって結構危ない人みたいだなぁ。バレないようにしないと……。きっと笑われちゃう……」

 ぱたぱたと首を振り、アミュレットを研磨している作業部屋に移動する。砂飛びの予防にエプロンをつけて、ゴツゴツとした革手袋を手に嵌めて作業をするため椅子に腰掛ける。
「今日は結構お話できたなぁ。んー、明日もたくさん話が出来るといいなぁ」
 交信という形だけれども私のことを気にかけてくれて、いつもふわりと優しく笑ってくれる人。話していると時間があっというまに過ぎてしまい、時折こうして交信の後に作業することもしばしばあった。
 こんな事になっていると知ったら、
『じゃあ、しばらく交信するの、控えようか?』
 こんな風に言うに決まってる。優しい人だから。私の負担にならないようにいつも気を遣ってくれる人。
 だから、こうして交信の後少し夜更かしして作業をしていることは、内緒。
 優しくて気遣いの人だけど、あの人が気付いていない秘密。
 私がどれほど交信で声を聞けて姿を見ること、そして優しく触れてもらうことが嬉しいことだって。
 でもそれは私だけの秘密。だって恥ずかしいから。

 そしてその時間のために、いや、そうじゃない。私ががんばる力になっている大切な時間。その時間を作ってくれることが本当に嬉しいから。だからこうして作業する時間を少しずらしてでも話したい。
「よーし、明日はがんばってアミュレット売らなくちゃ」
 手に取ったのは黒い埋もれ木。これも以前一緒に散歩に出た時に見つけたもの。飾ろうかどうしようかと悩んだあげくアミュレットの素材にすることを決めた。
 悩んだのは『いっしょに、みつけたもの』だから。

 いつか世界が繋がったら、見せたいものや伝えたいことが沢山。私の暮らす世界じゃない世界も沢山見たいし知りたい。
 それら全てを叶えようとするならば、更に沢山の時間が必要になるだろう。それでも、いつか、叶うならば。

「……できれば、ううん、ずっと、一緒が、いいな……」


 お願いです。世界が繋がって、本当の私を知っても、嫌いにならないでください。
 あなたの優しくて暖かい熱を独り占めしたいと願う、怖がりでさみしがり屋の私を、どうか。


 そんな彼女のはるか頭上、月はただ静かに優しく光を放つのみ。他の誰も知らないある夜のお話。


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作者名: 登場ゴースト:

花冠





※若干ネタバレ表現があります。ゴーストの正体を知ってからの閲覧を推奨します。




 人間は頭を預けた華奢な膝に温かい体温を感じながら、うとうととまどろんでいる。
 これは夢なのか現なのか。儚げな薄い葵の色をした蝶が、霧の中を頼りなげにふわふわと漂っていた。人間は追いかけて追いかけて、今にも霧の向こうへ消えてしまいそうなそれに手を伸ばす。何度か宙を切って、やっとそれを手に取った。
 しかし手の中に収まったそれは既に千切れて、生命を失っている。人間はもう動かなくなったそれを握りしめ、呆然とその場に立ち尽くした。
 子供の頃に誰もが体験するような、もの寂しい光景。しかし大人になった今、わざわざ追体験するかのようにそんな景色を見ているのは何故なのだろう。彼がそう疑問に思った瞬間、夢から目覚め視界が開けた。
 人間は眉をしかめながら顔にはらりと落ちた何かを指でつまみ上げた。薄紫のスミレの花びらは彼の指の中で甘い春の芳香を放っている。
「起こしてしまったかしら」
 頭上で少女の声が響く。見上げると、アリアンナが穏やかな微笑みを浮かべて人間の顔を覗き込んでいた。人間は軽く身じろぎして、アリアンナに尋ねた。
「何をしているんだ?」
「花冠を作っているの」
 アリアンナは両手を持ち上げて、握られている丁寧に編まれた花の輪を人間に良く見えるようにする。
「そんなもの、どうするんだ」
 人間が不思議そうに問いかけると、アリアンナは意味ありげに喜色を濃くした。
「蝶々さんに、きっと似合うんじゃないかと思って」
「俺がつけるのか」
 人間が微妙な顔つきをすると、アリアンナは「そう」と、小さく首肯した。
「蝶々さんには、花が良く合うわ」
「……以前も似たようなことを言っていた気がするけど。自分自身そんな風にはとても思えないんだが。一体どんなところが合うと思うんだ?」
「そうね……儚いところ、かしら」
 アリアンナは口元に手を当てて、上品に微笑む。人間は首を傾げながら、一旦浮かせかけた頭をまたアリアンナの膝に預けた。
「儚いなんて言われたのは初めてだ。あまりしっくりこないな……はっきり言って、そんな柄じゃないんだけれど」
 こうして体を横たえて息をしていると、花の香りが濃厚に立ち上ってくる。あまりの香りの強さに、視覚や聴覚などの他の感覚がいっそ曖昧になっていくような錯覚に囚われるほどに。
 この場所は地上は綺麗な花に満たされていて薄ぼんやりと明るいが、見上げると凸凹に枝を差し出した気味の悪い木が空を縦横無尽に遮っている。じっと眺めていると、まるでそれが自分を閉じ込める牢獄の格子戸のように見えて、つい身震いしそうになった。
 だから、また目を閉じた。
「……どんなところが、似合うんだよ」
 人間は腑に落ちずに、尚も問いかける。アリアンナはしばし沈黙を守った。返事の代わりに膝の上の人間の頭にそろりと手を伸ばし、頬を撫でた。
 しばらく経って彼女は、親が子に言って聞かせるような慈しみのこもった声でこう言った。
「貴方が、私にとってとても可愛らしい蝶々さんだからよ」
 人間は、ただ口をつぐんだ。風が花の香りを煽り、むせるほどに濃くして、呼吸ができなくなりそうなほどになった。言葉を探しているうちに、再び重たい睡魔が忍びよってくる。暗い空に横たわる不穏な雨雲のように。
 眠りの波に飲まれかけた人間は、掠れた声で独り言のように呟いた。
「花冠なら、きっと俺なんかよりアリアンナの方が似合う」
 人間の頬を優しくさすっていたアリアンナの手が、ぴたりと止まる。そして頭上でくすくすといかにも楽しそうな笑い声が上がった。
「おかしなことをいうのね、蝶々さんは」
 花冠の花びらが、また人間の顔に一枚ひらひらと落ちた。しかし瞼を閉じ眠りに落ちつつある人間がそれを気に止めることはなかった。
 夢に囚われた人間の耳に声が届かなくなった頃。アリアンナは目を伏せてぽつりと零す。
「似合うわけがないわ……私のような足が幾つもある存在では。でも、そうね……蝶々さん、貴方にそう言ってもらえるのは本当に嬉しいことよ」
 アリアンナは両手で柔らかな人間の頬をすっぽりと包んだ。細められた二藍の瞳には、人間の顔がくっきり映っている。
 眠りの縁をゆっくりと呼吸していた人間に、気づく術などなかっただろう。彼を優しく包みこむその少女の手の爪が、鋭く尖っていることに。焦がれるように注がれるその視線が、狩りをする獲物を見るかのように研ぎ澄まされ冴えていることに。


 ――蝶々さん。
 アリアンナは心の中でそっと呼びかけた。人間はすっかり眠りに落ちて、静かな寝息を立てている。無防備に白い首筋を晒したまま。
 貴方が寝ていると、話ができなくて少し寂しい。それにこんなにも近くにいれば、愛しさに入り交じって本来の望みが疼き始めてしまう。
 ――蝶々さん、蝶々さん、蝶々さん。
 アリアンナは自身を支配しようとする内なる衝動を誤魔化すように、首をゆるりと降った。駄目、まだ駄目よ。
 まだ貴方とお話したいから。まだまだ貴方とお話したいことが沢山あるから……けれど、一体いつまでこんな他愛のない会話を続けられるのだろう。一体いつまで続ければ満足できるのだろう。
 答えはどんなに思考の糸を手繰り寄せても見当たらなかった。見当たらないから、やがて迎えなければならない終わりの時も、こうして際限なく引き伸ばし続けている。
 いずれ自らの手で壊す運命にあると知りつつ、それに愛を注がずにはいられないのは、人の性か妖の性か。
 それとも、世界に織りなす色とりどりの生命すべてが、皆同じように持つ性なのだろうか。
 アリアンナは編み終えた花冠を、人間の頭の上に載せた。そしていかにも心細げな声音で言った。
「おやすみ蝶々さん。でも、出来れば早く起きてね。空腹に耐えるのが大変だから……」


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作者名: 登場ゴースト:

輪郭のない悪夢


 渾沌の海から「私」が形作られる。くたびれた座席シートが生まれる。薄い窓ガラスと星空が生まれる。私の顔色を窺う神父が現れる。
しかし、それらは曖昧で、輪郭を捉えようとすれば霞んでしまう。これは夢なのだと「私」ではない私は思った。

 「私」に分かることは三つ。「私」達は土星へ向かうロープウェイに乗っていること。「私」の恋人は殺されてしまい、土星に埋葬されること。「私」の恋人を殺したのは目の前の親父であること。
「火星が見えますね」
神父が穏やかに話しかける。窓の外には妙に鮮やかな赤い星。私は銀河を走る列車の話を思い出す。しかし、「私」の眼の前にいるのはカムパネルラではないのだ。不実なジョバンニはあの鉄道列車に乗る資格がない。彼女は「私」のカンパネラだったのかもしれない。しかし、彼女は銀河鉄道ではなくロープウェイに乗って一足先に土星へ行ってしまった。「ほんたうのさいはひ」など理解できるはずないのだ。

「地上のものは有限です。しかし、愛は天上のものであるがゆえ無限です」
いつの日か神父は語った。愛が永遠であり、無限であれば「私」はいつまで苦しめば良いのだろう。私はいつまでこの夢を見ていれば良いのだろう。しかし、「私」は本当に苦しんでいるのだろうか。恋人を殺した男が目の前にいる、彼女の最後を見た男が目の前にいる。真っ当な人間ならば怒るなり、嫉妬するなりするだろう。しかし「私」の感情はこの夢と同様にひどく曖昧だ。怒りも、彼女への愛もその輪郭を掴もうとすれば消えてしまう。激しい怒りも、悲しみもない。ただただ何もかもが中途半端で気分が悪い。それは「私」も私も同じだ。

 「私」は顔を上げ、窓の外を見るとはなしに見る。星の海の中ロープが真っ直ぐに伸びている、その先に土星はまだ見えない。
「顔色が優れませんね、土星まではまだ時間が有ります。少し眠ってはいかがですか?」
神父が「私」を気遣う。恐らく慈悲溢れる声色と柔和な顔をしているのだろう。その顔も注意深く観察しようとすればぼやける。声色、目鼻立ち、髪の色、それら全てが掴めない。彼の存在もまた、曖昧で気分が悪い。「私」は長らく彼の顔を見ていたはずだ、だが彼は神父について何も知らない。ただ分かるのは彼が彼女を殺したこと。そして……恐らく神父は「私」の恋人と関係を持っていたことだけだ。
 
 前触れなく「私」の形が崩れていく、渾沌の海に帰って行く。くたびれた座席シートも、薄い窓ガラスの向こうの星空も、顔のない神父も、顔を見たこともない「私」の恋人も霞んで、ぼやけて、溶けて消えていく。「私」の感情も曖昧なまま朝焼けの中に消え、私は間もなく覚醒する。
 
最後に一つ、「私」が確信したことがある。この神父は殺される。「私」ではない赤毛の女に。


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作者名: 登場ゴースト:

ヴァルプルギスの夜



(幕が上がる。フィリア、ぐつぐつと煮え立つ鍋をかき混ぜている。ネイコスはその側に立っている)
ネイコス フィリア、今日はヴァルプルギスの夜だね。
 祭りの準備は順調? みんな心なしかそわそわしているみたい。
フィリア そうですね。慌てなくても祭りは逃げませんよ。
 まだ日が暮れて闇が空を覆うまで、半刻ほどはあるのですから。
ネイコス 何を作っているの? (鍋を覗き込みながら)……良い香り。
フィリア ソーセージとエンドウ豆とジャガイモのスープです。
 丁度じっくり煮込んで味が染みてきたところです。何なら味見しますか?
ネイコス 良いの? じゃあ、ちょっとだけ……
フィリア 少し熱いので、くれぐれも火傷をしないように。
(フィリア、スープを冷ましながら木の匙をネイコスの口元へと持っていく)
ネイコス ……美味しい。ブーケガルニの風味が良く効いてるね。
 一口飲んだだけでぽっと身体が温まるよ。
フィリア 良かった。私も結構美味しくできたかなと思っていたところです。
 あら、口元が汚れてしまってますよ。口の端にエンドウ豆の皮がついてる。
ネイコス あれれ。(慌てて口元をごしごしと擦る)
フィリア 取れてませんよ、ほら……
 少しじっとしていてください。(手元の布巾でネイコスの口を拭う)
ネイコス (照れ臭そうに目を伏せながら)……他の準備はできてるの?
 あたしはノームと一緒に薪を割って持ってきておいたよ。
フィリア お陰様で大体は。薪はもう十分です。
 後は日が沈むのを待ってから火を焚くだけ。松明も設置が済んでいます。
 はりきっているサラマンダーを近づけないようにするのが大変でしたが。
 ユニコーンは踊りの練習にも懸命なようですから、本番が楽しみですね。
ネイコス 準備万端だね。他には?
フィリア そう言えば、空飛ぶ軟膏なんかも作ってみました。
 たまたま材料があったので。(怪しげな黒い瓶を持ち上げる)
ネイコス (呆れかえりながら)そんなもの作ってどうするの……
 フィリアならなくても普通に飛べるでしょ?
フィリア つい思いつきで作ってしまったんですよ。
 人間の宴なら定番の小道具ですし、折角の機会だからセオリー通りに……
ネイコス すぐそういう変なこと試してみたがる。
 ところで料理は? スープの他にも何か用意してるの?(身を乗り出す)
フィリア ……食いしん坊なんですから。
 ザワークラウト、それから香辛料を効かせた豚の丸焼きに小魚のフライ。
 そしてデザートは煎りアーモンド、蜂蜜入りのアップルパイ。
 スパークリングワインも樽に詰めて用意してありますよ。どうです?
ネイコス (両手を合わせて喜ぶ)豪勢だね。楽しみだなあ。
フィリア お気に召したようなら良かったです。
 聖なる催しとはいえ、結局は楽しむのが肝要ですからね。
ネイコス 待ち遠しいな。早く夜にならないかな。(テーブルに頬杖をつく)
 耳を澄ませるだけでも、もう何処か遠くから魔法の歌が聞こえてきそう。
フィリア (溜息をつきながら)……楽しみには楽しみなんですけど。
 例年通りブラウニーの悪戯が暴走しないか、それだけが心配の種ですね。
(フィリアとネイコス、部屋の外へと出ていく。幕が下りる)


(幕が上がる。サラマンダー、手の中の炎を舞わせて薪に火を灯す。広場を五角形に取り囲む松明にも順に火が灯り、精霊達は歓声をあげる。奥のテーブルの上には御馳走が並べられている)
ブラウニー 祭りだっ祭りだっ祭りだっっっ!!!(じぐざぐに飛び回る)
エーテル ブラウニー、落ち着いて。(杖を掲げながら)
 今からはしゃいでいたら身が持たないわ。夜はまだまだ長いのだから。
 それにしても広場の外は、私の光でも照らしきれないほどの闇夜ね。
ブラウニー こんな日にあたいが落ち着いてられると思うか? 答えはNO!
 せっかくの一年に一度のお祭りなんだぞ! 身体中に力が漲るんだ!
 (目を輝かせ)こんな日にじっとしているなんてあたいの性に合わないよ!
 さあさあ、野を越え山を越え! どこまでも!
 宴に相応しい最高の悪戯を!(どこかに飛んで行く)
ノーム ブラウニーは放っておこう。
 (本の頁をめくる)どうせ言っても聞かないしね。
ウンディーネ それにしても、こうして賑やかなのもたまには良いですね。
 勿論、普段の静かな暮らしも好きですけど。
 小川の流れにだって緩急はあるものですから。
シルフィード ねえねえ、その辺に風をぐーっと巡らせてさ。
 思いっきり飛び回ったりしても構わないかな?
 (そわそわ手足を動かす)何だかその……落ち着かなくって。
エーテル 良いんじゃない?今日はいつもより魔力が濃くなる日。
 少しくらいは風で木の枝を揺らしたり山の岩を転がしたってご愛敬よ。
サラマンダー あたしも妙に血が騒ぐなって思ってたところ……
 何か燃やしたい。火い強めても良いかな。(手の中の炎が勢いを増す)
 焚火の炎が一体どれだけ空高く舞い上がれるか、見てみたくない?
 勿論その辺を焦がしすぎないように、調節は上手くやるから。
フィリア 皆さん力を持て余すのは仕方ないけど、程々にしてくださいね!
 くれぐれも喧嘩が勃発して精霊バトル拡大版なんてことにならないように。
ウンディーネ 大丈夫です。私がそんなことさせませんよ。
フィリア ウンディーネ……(胸をなでおろす)
 こういう時四大精霊の一人が貴方で本当に良かったと思うんです。
ケット・シー (笛を弱弱しい音で鳴らす)……楽器って意外と難しいね。
フィリア トッケが楽器をやるんですか?
ケット・シー 興味本位でやってみたけど、あんまり上手く吹けない……
 練習しとけば良かったかな。もっと小鳥のような澄んだ音を出したいのに。
セイレーン 大丈夫、私の美声の横ではそんな小さな笛なんて脇役だから!
 (胸を張る)さあ、あたしの歌を聞いて頂戴。最初から最後まで。
 この甘美な歌声は、きっと誰の耳にも快く響くはずだわ。
フィリア ちょっと待って! 貴方の歌はとても美声とは……
セイレーン (大きく息を吸い込んで)り~♪ るら~♪
ケット・シー ……(何も言わずに両耳をぱたんと伏せる)
ノーム (苦笑しながら)……相変わらず下手だね。
セイレーン 何それ酷い言い草ね! あたしの歌に感動しないって言うの!?
 そんな分厚くてつまんない本ばかり読んでるから感性が駄目になるんだよ!
ウンディーネ まあまあ落ち着いて、喧嘩はなしにしましょうよ……
シルフィード (手を振りながら)あっ! ユニコーンが準備ができたって!
ケット・シー あわわ。(慌てて笛を奏でる準備をする)
(ユニコーン、颯爽と広場に登場。ネイコスが奏でる『幻想交響曲 第五楽章』の旋律に合わせて、ゆったりとした優雅なリズムで踊り始める)
エーテル へえ、結構良いじゃないの。(軽く拍手する)
 見ているだけで自然と気持ちが洗われていくようだわ。
 さすが聖なる力を以て毒を浄化する力を持つユニコーンね。
ユニコーン 当然ですわ。(自信ありげな笑みを浮かべながら)
 美しい音楽に踊り。これらは私の誇り。私の生き甲斐ですもの。
セイレーン ~♪ ~♪
ユニコーン (動きを一瞬止める)……だけど、あれは何とかなりませんの?
 セイレーンの歌に合わせて踊るのだけは嫌ってはっきり言ったはずですわ。
フィリア 説得はしたんですが……(額を手で押さえる)
シルフィード ねえ、私達も踊らない?(ウンディーネに向かって)
ウンディーネ 良いですね。折角の機会ですし。
 (スカートの裾を持ち上げる)お相手は私でよろしいんですか?
シルフィード 勿論! ウンディーネなら最高のパートナーだよ!
 水と風って相性良いよ。流れ巡る者同士、お似合いだと思わない?
サラマンダー この調子で行くと……あたしの相手はあんたか。
ノーム 僕かい? 待ってくれるかな。
 できれば、本が燃えないように……(無理やり引っ張られる)
(それぞれペアになって、踊りが続けられる)
ブラウニー わっ!!!!!(フィリアに向かって)
フィリア !?(驚いて仰け反る)
ブラウニー うおー! みんな楽しんでるかー!!!
ケット・シー ブラウニーが戻ってきた。
フィリア 戻ってこなくて良いのに……
ブラウニー 早速なんだけど、こっそりみんなの服に落書きしてやったぜ!
シルフィード え、ちょっと待って! 待って!
 嘘っ!? ウンディーネの服が縞柄に!(ウンディーネを指さす)
ウンディーネ シルフィード、残念ながら貴方も同じですよ。
 ほら、リボンに渦巻模様が……
 これは油性マジックですね。落とすのに苦労しそうです。
ユニコーン 一体何が起きたんですの?
(精霊達、それぞれ互いに指さしあったり、マジックの跡を必死に消そうとしたりする。ユニコーンだけは悪戯を逃れられたらしく、困惑しながらその場に立ち尽くしている)
ブラウニー 次の悪戯は何にしようかなー(テーブルの上を飛びながら)
 この黒い瓶何だい? 最初に見た時から気になってたんだ。
 何か面白いものだったり?(蓋を開けると早速手に薬を塗ってみる)
フィリア あっそれは……
ブラウニー ふむふむ。特に変化は……あれ?(不確かな軌道で飛ぶ)
 あれー何かふらふらするーまっすぐ飛べないー目が回るー
 あたいは誰ー? ここはどこー??? ぐーるぐるー
ケット・シー (小声で)フィリア、確か空飛ぶ軟膏って。
 本当に飛ぶんじゃなくて毒物の効果で飛んでる気分を味わえる薬じゃ……
フィリア 一応私の作ったものは、本当に飛べますよ。
 まあ毒物には変わりありませんが。見たところ良く効いていますね。
ケット・シー 何でわざわざそんなものを……
フィリア 取り合えず、ブラウニーの悪戯の被害を減らせたし……
 結果オーライということでは駄目でしょうか。
エーテル (辺りを見渡しながら)……ねえ、そう言えば。
 ずっと気になってたんだけど、ネイコスがいないような。
フィリア そう言えば……見かけないですね。
エーテル 探しに行った方が良いかしら?
フィリア ……いえ、大丈夫です。私が探してきます。
(フィリア、慌てて広場から出ていく。幕が下りる)


(幕が上がる。フィリア、暗がりの森の中を松明を持って小道を歩いていく)
フィリア ネイコス? ネイコス? いたら返事をしてください。
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす。フィリア、少し早足になる)
フィリア ウル ニイド ベオーク 我が望むは……(言いよどむ)
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
フィリア この辺り、別の魔力の気配が濃厚に……流れがかき消される。
 早くここから離れないと……
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
声なき声 (上方から)こんなところに魔女が。本物の魔女だ。
 魔女狩り以前なら嫌というほど見かけたものだが。最近では余程珍しい。
声なき声 (下方から)今日はヴァルプルギスの夜。
 魔女の一人や二人見かけても不思議はない。
 あっちの広場で宴をやっているようだが、賑やかなことだ。
声なき声 (右方から)全盛期のブロッケン山と比較したら。
 随分とまあ、慎ましい宴だ。魔女の宴なのに悪魔はいない。
声なき声 (左方から)魔女が必ず悪魔と手を結ぶなんて偏見甚だしい。
 数世紀前の魔女狩りに右往左往した愚かな人間共と同レベルだよ。
フィリア 私がちゃんと周囲に気を配っていなかったものだから……
 ネイコス、お願いだからいたら返事をしてください。
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
声なき声 (上方から)魔女の時代は遥か遠い昔に終わったはずなのに。
 未だに本物の魔女の宴が開かれているとは驚きだ。
声なき声 (下方から)それもただの魔女じゃない。彼女の背を見ろ。
 膨大な魔力の中に厳重に隠されても、尚淀みの中で燻る灼熱の翼を。
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
フィリア ネイコス、そこにいるんですか?(振り返る)
 ……おかしいですね、声が聞こえたと思ったんですが。
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
声なき歌 (右方から)いかにもか弱い人間の少女の容姿のその魔女は。
声なき歌 (左方から)星の数ほど幾多の年月を過去という振るいにかけ。
 また星の数ほど幾多の年月を未来という鏡に映す。
声なき合唱 (全方向から)多くの運命を重ねすぎたその魔女は。
 善と悪、欲望と虚無。
 真と偽、秩序と混沌。
 その全てからただ逃れ去っていった。
フィリア (俯きながら)私は……
 (はっと顔を上げる)ネイコス? ネイコス? どこにいるんです?
 お願いですから、いたら返事を……
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
フィリア 私は……私は大丈夫です。だって私は貴方がいれば。
 貴方さえいれば他には何も望まない……貴方さえいてくれれば。
 ネイコス……
(フィリア、光に包まれながら確かな足取りで森を抜けていく。幕が下りる)


(幕が上がる。フィリア、茂みの中で座り込んでいたネイコスを揺り起こす)
ネイコス (うわ言のように)フィリア……
フィリア ……こんなところにいたんですね、ネイコス。
ネイコス ん……? (驚いたように)ここ、どこ?
 あたし、どうしてこんなところにいるんだろう。
フィリア 広場から離れた、随分外れの方です。
 ……本当に心配したんですよ。
 今日は世界の境界が曖昧になる日ですし、余計に。
ネイコス (あくびをする)ごめんね。広場に向かおうと思ったんだけど。
 何となく一人で空を眺めていたら、いつの間にか時間が経っちゃって。
フィリア さあ、行きましょう。(手を差し出して)
ネイコス (差し出された手を取る)……うん。
 あ、でもちょっとだけ待って。
 もう少しだけ、ここにいたいな。フィリアと一緒に。
フィリア ……仕方ないですね、良いですよ。(ネイコスの隣に座る)
 でも本当に、少しの間だけですからね。
ネイコス 星、綺麗だね。手で掴めそうなくらい。(何気なく手を伸ばす)
フィリア ……そうですね。雲一つない夜ですから。
ネイコス ねえ、フィリア。
フィリア 何ですか?
ネイコス (フィリアに軽くもたれかかりながら)……何でもない。
(幕が下りる)


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作者名: 登場ゴースト:

或る先輩の停滞。


 眺める天井は、いつだって蒼かった。
 無論茶色かった。
 木目たくましい梁が水色であれば、いっそ僕だって当然文句の付けようがあった。そういうハナシでは当然ないのだ。
 頭の先からぴぃーと伸びる気持ちの糸の先では、むくつけき兄が前ともつかぬ後ろともつかぬ、まこと妖しき立ち姿のまま靜かに深くむくつけき吐息を吐いてはその無意味に分厚い胸板に吸い込んでいる。この糸を切ってしまえばあの虎はこの白魚のごときたおやかな肌に矢も盾もなく喰らい付いてくるだろう。
 どだい勘違いされがちだが、いわゆる武道や武術というものを修めた人間がもの静かなのは、決して精神的に成熟し、ヤア争いなぞは無意味なるや。我こそ大道を悟ったりなどと。
 いいかい、そんなことは決してない。決してないのだ。
 あの清寂というのは目の前にあるあの大虎の野蛮さだ。見よ、その真一文字の口はいかな時なれど肺を一息で空にせしめる深くも浅い呼気であり、その目はこの無防備でやわらかげな、脂肪もなくまた筋肉もさしてないぽよんとしたおなかのどこを食い破れば一息に致命に至れるかと、そんなことばかりを一心に考えている目だ。それを実行に移す気などさらさら無かろうけども、それはそれとしてそういうことを自然に考えているぞっとする目だ。
 いま天井が蒼く見えるのは、思い切り投げ飛ばされたことによって僕の目はいぐさの匂いを直に嗅げるほど地に近く、天井は天井でありながらまるで天蓋のように無限の広がりを得ているからであって、またそれはそうであって尚、思い切り投げたということを投げられた者に感じさせないほど手加減できる者の至る極致でもある。そういう投げを打てる人間というのはただ一心の信念を言い訳に武という楽土に己を捧げた人間のみだ。もしくは一心不乱に身体を動かして責務から逃れる女々しい算段でもある。
 手刀が円弧の余韻を残し身体の前に据えられている。今しばらく床に寝転がれば、不覚を指摘しながら我が兄は足刀を打ち下ろしてくるだろう。それはとても痛いので、そうなる前に、仰向けに転がっていた僕は首を支点に身体を畳んでくろんと後ろに転がり、起き上がると彼に向き合った。遅れて黒い袴、さらに遅れてひっつめに縛った蒼銀の髪ががぱさりと黒白の円弧を描く。後ろ回りの勢いを脚に矯め、垂直に立ち上がった僕の、既に目前に居た彼は、起き上がったばかりの僕の胸の中心、胸骨のあたりを軽く押す。倒れる事なし。
「良し」
「…………」
 ふぅふぅ、と、荒くなる息をいじらしく常駐の呼気の中に収める。
 なにがよしだ。
 えらそうに。
 そういうことは言わない。
「では座技を行なって終いにしよう」
「はい。」
 僕はその日、畳張りの稽古場に踏み込んで初めて口を利いた。
 そして最後の座技呼吸法で、三度にくたらしき兄を畳に転がし、十度転がされた。
 最後に一回、肩を極められたのは壮大ないやがらせにちがいない。
 
―――

 そもそもなぜ我が家がこうして、平らき世の中にあって武というものを継承しているか、という話。
 もちろんカルチャースクールやなんかで簡化太極拳をふんわり習うマダムやご老人とはいささか趣きが異なる。
 遡ることナントカ百年、この地がむにゃむにゃした名のナントカ藩であった折のこと。
 そもそも我が家というのは農民の身分でありながら無要にやんごとなき扱いを受けていた。
 というのも、我が家はかつてたいらの氏持つ落人であったからであるとまことしやかに言うものもいる。宮澤なる不相応にエラそうな名前を冠しているのがそのせいと言うものもいる。それが真実かは知らないし、どうでもいい。
 しかし所詮豪農、金とメシと働き口という大きな力こそ持てど、金持ちばかりが強いわけじゃあない世の中も当然あった。金を持っているから強い奴と強いから金を持っているの違いの話だけどそこはぼやかしておく。
 とにかく、我が家には帯刀するだけの理由があったのだということだけを覚えてくれればそれでいい。
 そして刀があるからにはその遣い方もあり、また伝統というものは大事なのだ。腰を低く落としたまま動いたり、足を地から離さず動かす技というのはまた大変古い身体操法であり、これもまたムラ社会につきものの祭、特に神楽なぞを見込んだ若者に伝承する際、最初から基礎が叩き込まれているので大変よろしい。農民剣法というと馬庭念流なぞが大変有名だけれども、あれに限らずかつて先祖が鍬を槍や刀に持ち替えていたという事実はまた、村そのものに対する多大なる自信にも繋がる。若者ウケもそれなりに好い。なにせ格好良いのだし、周囲の身体のでかいだけに見える人間たちが、なぜ“大人”とか呼ばれているのか、身をもって感じることができる。無論多少の実入りにもなる。
 なにより、武術というものは“面白い”。
 自分か普段、いかに漫然と己の身体を動かしているのかを実感するのだ。
 本を読むという行為が、常から使っている言葉というものを通して新しい可能性を探るものなのだとすれば、武もまたそれなのである。
 そんなわけで、その練習をすること自体に抵抗はない。
 ただそれも、休むまもなく10回も20回も頭の方から投げ落とされなければの話だ。
「文恵様、お加減はもう好うございます?」
「うん……ありがと、トミさん。様はやめて」
「それは何よりです。やめません。でも、武嗣さんはもうっと加減をするべきじゃありませんか?」
「ときどきそう思うけど、大体そうは思わないね」
「真面目でいらっしゃるのね」
 ちっともそう思っていない様子でトミさんが顔を顰めた。白と黒が丁度良い塩梅で雑ざって囲炉裏の灰のような色になった髪をきっちり結い上げていて、うなじの見え隠れしている着物は衿が綺麗に抜けていて、それが婀娜っぽい。もう随分な歳の筈なのに、まだ40かそこらのようだ。垂れた目で人をじっと斜に見るのが、睨んでいるようにも、挑発しているようにも、また懇願しているようにも見えてくる。
「そんなでお嫁の貰い手がいなくても、知りませんからね、私」
「……今のとこ、その予定はないから安心してほしいな」
「あらイヤミったらしい。そういうところは旦那様にそっくりです」
 イヤミってわけじゃないのだけど。
 全体、僕が彼女にそんな不義理をするわけがない。
 稽古が終わって、更衣室に籠るなり背中が痛くて踞まってしまった僕の――宮澤 文恵という名の少女の、苦し紛れの罵倒を聞き付けて目の前で年甲斐もなくぷんすかしている彼女が氷嚢を持ってきてくれなければ、僕はもう小一時間畳に顔を押し付けていたに違いないのだから。
 そしてそういう恩が無かろうが、僕が手放しで頭が上がらない数少ない人間が、彼女吉岡トミさんなのだ。
 本家宮澤家において、お手伝いさんはその時々によって人数がよく変わる。それは収穫だとか、祭事だとか、臨時の人集めが多いからだが、それを置いても我々のような子供たちの教育の為、わざと雇う人を減らすなんてこともある。景気の悪いような時分には、言うまでもなく減る。農家は自然のご機嫌によって財産が如何様にも変わる。それはどんなに財産を持っていても変わらない。ただ、少しばかし、ダメな時期に生き残れる可能性が高いという話だ。
 そしてトミさんは、不作の時も、病気が流行った時も、その昔を遡れば海の向こうから爆弾が振ってきた時からずっと、彼女だけは変わらずこの家に居続けてきた。僕にとってはまさに祖母や母親にも等しい存在であり、兄にとってもそうであり、また僕の父やその兄弟にとっては母であり、祖父らにとっては姉妹のような存在であったのだろう。
 今もこうしてだらだらと彼女の作った、スポーツドリンクの粉をとかしたやつをちゅっちゅぱとやっている僕にとってはだから、彼女の頼みというのは断ることなどできない存在なのだ。
「文恵様」
「だから、よしとくれよ、誰が聞くかもわからない」
「それは失礼。ですがよしません」
「よさないと、今から僕ぁ耳ふさいで寝ちまうぞ」
 だから、人心地ついたあたりで彼女が何かを伏し目がちに申し出てきても、まあ、断りようも無い。
 無いのだが、そこはそれ。これはこれ。僕にだって譲れない一線はある。
 彼女が僕のお願いを聞いてくんないなら、これでトントンだ。おまけに目の前でうら若き美少女問題児が汗塗れで着替もしないまま寝こけて冷えて行くのはお世話焼きの沽券にも関わるだろう。我ながら完璧すぎる作戦で自分が怖い。
「わかりましたよ、文恵さん。わかったのだから、そんな意地悪言わないで」
 かくしてまた僕は勝ってしまった。

 トミさんは独り者だ。
 独身というのではなく、本当に身寄りがない。
 親子三代に渡り、何かしら、養子にでもなってうちの籍に入ってはどうかと言ってきたのだが
「どうせ余所に行きやしません。同じですよ。
 ご親戚に申し訳が立ちませんから、どうかこのままにして下さい」
 などと言って憚ることを憚らない。
 どこか栄誉ある孤高を楽しんでいるようですらある彼女だが、それだけに皆に優しい。
 特に子供にはとりわけ優しい。自分の手のかからなくなってしまった人間から順に、それはもう一人前として打てば響くツンケンぶりを披露するのだが、それの中にも愛情はきちんと感じられる。それはもう僕なぞ目に入れても痛くないくらい贔屓されているのだが、今回は僕とは別の問題児の話。
 何の特別さも無い玄関を潜り、二階に上がり、廊下をしげしげ眺める。
「ははぁ。要塞だなぁ」
「本当にすみません、うちの子が、どうも」
 このうちのお母さんなのだが、僕の少し前を案内しながら、それはもう恐縮しっ放しなのだ。
 何せ対外的にはしごく立派なお嬢さんで通っているこの僕に手間をかけさせるのだから、そうもなろうというのだが、何せこちらはトミさんの頼みなのだし、それは先方も承知だろう。いつか我が家は彼女にのっとられてしまうのではなかろうか。
 やんぬるかな。
 廊下は非常に混沌とした有様で、少年どころか児童が読むような雑誌だの(ふろく付のやつだ)、これまたいつのものかとんと思いつかないおもちゃだの(何と超合金だ)、あげくおしゃぶりやおむつの類いのようなもの(紙テープのやつだ)まで雑然と転がっていて、思わず「おたくはこんなに小さなお子さんがいましたっけ」と呟いてしまった。
「もちろん、居ませんよ……あのおもちゃなんて、私、よく覚えています。とっても昔、あの子がよく遊んでいたもので。とっくに捨てたはずなのに」
 ふぅん。と鼻で生返事をしながら、足を一歩、階段から廊下に上げた。
 とても何だか、もさもさした感じがする。これはそうだな、毛だ。やわらかくてあったかくて、子供という子供と、たまにうっかりその毒牙にかかってしまった大人もついでに魅了する魅惑の体毛だ。くまの毛だ。
 足を階段に戻すと、毛だらけだった僕の足は、元通り白魚のような美しい足に戻った。
 よかった、毎日綺麗に剃刀を当ててるのだから滅多なことがあっては甲斐がない。ともあれどういう状態になっているのかはわかった。
「賢木のおば様、これは宮澤に持ち込んでくださってよかった。
 あんまり、よそ様にもするお話でもないでしょうし、すぐ済ませてみたいと思います」
「ああ、有難うございます。息子がとんだ御迷惑を」
「佳いのです。務めですから。少しうるさくしますが、誓って階下に居てやって下さい。石刀さんも、女に負ける姿を御母様には見られたくないでしょうから」
「承知致しました。どうぞお納め下さい、宜しくお願いします」
 そう言うと、恐縮しっ放しの彼女は、一瞬きっと鋭い視線を廊下の方に向けたのだが、盆に乗せていた酒を階段の一番上の段に置くと、そそと下がって行った。彼女が充分に離れるのを見て、それから僕は、徳利から猪口に一口注いで、もごもごと濯ぐ様に飲み干した。
「あ、美味しい」
 お兄ちゃんの野郎が仕事をよこす度に事務的によこして来るしょうむない酒と違って、香り高く上品な甘さがある。これは帰りに瓶ごと頂いて帰らねばなるまい。そうなればサッサとやっつけて帰るに限る。
「おっと、君、そんなとこに居たのか」
 ふと僕は、廊下の隅っこを見る。
 そこに転がっているものが何なのか、わからない方がおかしい。
 だから僕は、あえて確信を得るかのように、自信に満ちた声を放った。
「何、すぐに済むさ。別に何事もない。“僕はいつでも、僕だ”」
 僕が言葉の端に玉の緒を乗せる時、その声はどこからともなく響き何所へとも無く去って行く。くわんくわんと響かせながら廊下に踏み出す。手を廊下に差し入れる。頭も突っ込む。まるで階段と廊下に見えない透明の膜があって、それが僕にまとわり付くかのようにふわんわふんとした風が吹く。僕は丸きり毛玉になっていた。これはもうクマ界にミスコンがあったら必ずミスクマであろうところの絶世のかわいらしいくまのぬいぐるみ、体高30cm前後なり。ぽすんと尻もちをついてあいらしい熊のポーズを思わず取ると、呵呵大笑がどこからともなく聞こえてきた。
「やあ石刀、久しぶりじゃんか」
「うるさい、いつも猫っかぶりやがって。俺たちはみんな知ってんだぞ」
「麗しきかな幼馴染みの友情だね。でも大人は僕を信じるよ」
「ほんっと、お前、嫌いだ」
「そんな調子でいるから、こんなせせこましいところに籠もりきることになるんだろうが」
 声は上からでもあり下からでもあるようだ。出所が掴めないが、若い男の声だ。よく知っている声ではあるが、僕の知っているこの声は、こんな増上慢に満ちてはいなかった。
「いつまでも君が君の兄君に勝てないのはよぅく知っているがね。だからってまじないに手を出せば手っ取り早いとでも思ったかね。言っとくが、ここら一帯のこういうのの管理は、宮澤の仕事だ。つまり僕だ。え、君。僕にいっぺんでも勝てると思ったことがあるかい? あっちから逃げて、こっちから逃げて、そんなもので勝てるのかい?」
「黙れ」
 憎々しい、でも、憎悪というには足りない。
 口惜しいのか。もしくは、その憎らしさは、誰に向けたものなのか。
「えらそうなこと言って、口を利くので精一杯じゃないか。毛玉め。
 だいたい、逃げるだの何だの、お前に言われた義理か。お前だって兄貴に義理立てして、自分が――」
 多分、その口上は、僕の隙を突こうとしたのだろう。何のかの言って、僕が本当はこの廊下の力をいつでも撥ね付けて、元に戻ったりできるかもしれないことを考えていたのだ。その慎重さはあっぱれだが、その先を言われたくなかったので、尻の反発力に任せてもすんと立ち上がると、そのまま目の前に転がっている超合金のマックロなロボットの顔の上に尻を落とした。何かもがもが言っているが、気にしない。慌てて払いのける気配を感じて、その前に華麗に尻でジャンプした。
「やっぱり動けたんだな! けどヌイグルミでロボットに勝てるかよ!」
 勝ち誇った声。きっとこの廊下にある物々にはたくさんの、何か象徴する感情はあるのだろう。
 その中でも、このロボットはきっと別格だ。何せ心が入っているのだから。力とか、無敵とか、そういう何か、彼にとって絶対の何か。
 きっと彼は、誰か、何かに唆されたのだろう。それを知るのは今じゃない。今するべきなのは、この間違った象徴を叩き折ってやることだけ。
 きっと人体にだって痛みを与えられそうな右の鉄腕が唸りを挙げて眼前に迫る。同じく僕は愛らしい毛玉の左手をすっと差し上げた。真正面からぶち当たれば破れてナカミが飛び出てしまうが、横から優しく手のひらでもすんと受け流す。そのまま背中を合わせるように、僕は足捌きで回る。ロボットの身体は頑強で、硬く、重く、そして動き辛い。それに比べればぬいぐるみの柔軟さはいっそ理想的とすら言えるほどであった。くまちゃんは素早くロボットと背中合わせになったまま、腕を振り上げて背中合わせにがっちりロボットの首をホールドする。
「君は無敵のロボットじゃないよ。 ……それに、僕はかわいらしいぬいぐるみでもない。僕なんだ」
 せめてもの手向けの言葉と共に、腰を落とす、首を前に引落す。充分に崩れたところで、腰で思いっきり跳ね上げる。
 そのまま前に投げ飛ばすつもりだったのだが、僕は何せやわらかいクマちゃんだったので、結局ブレンバスターのように頭のてっぺんから落としてしまった。
 廊下に穴が空いたかも。奥さん、許してくれるかな。
 彼の心配よりも、僕は先ず、そのことを考えた。
「ほんっと、かわいくない奴」
 身体が毛玉を捨てて僕に羽化する直前の意識の暗点、その際に、そんな声を聞いたような気がした。
 多分気のせいなのだろう。

―――

「やあ、君。
 あ、そのまんまでいいよ。僕はもう戻ったけど、君はまだそのまんまだろ?
 しかし人が悪いね、君は。あんな格好で廊下に転がっていたから、一発で僕ぁ君とわかってしまったけど。
 まったくできた後輩だよ。ほんと。言っておくけど、褒めてないからな?
 ……まあ、彼はね。ちょっとその昔、中の良い友達だったんだけど。
 良い奴なんだけどね。少し、停滞の仕方を間違えちまったんだろう。
 永遠の今日を繰り返したい気持ちは、わからんでもないよね。
 けど、楽しいことって明日がないと来ないんだ。
 理性だ感情だ、もっともらしく対立させられるけど、感情のやつだって、なかなかどうして捨てたもんじゃないよ。
 理屈は矛盾を許さないけど、感情は相反した気持ちを承知の上で抱え込むんだから。
 選んだことのうちどれが正しいかなんて、自分で選んだのが正しくて、それ以外が正しくないなんてこともないんだよ。
 そういう意味では、彼はバカな問いかけを僕にしたよね。
 間違いだとわかっていて、しまっておいた気持ちを、これがお前の本心だなんて、阿呆らしい。
 御承知千万恐れ入谷の鬼子母神だよ。
 僕は、選ばなかったんだ。
 それが全てさ。
 ……さて、そろそろ口を利けるようにもなるころかな?
 こんなところにまでついてきてくれたツケは、どう払ってもらおうかな。
 トミさんならきっと君のことをえらく可愛がってくれるだろうな。
 何せ僕の可愛い後輩なんだもの。
 きっとそうに違いないさ」

―――

 ですから、どうかお願いいたします。
 いつなりと幕を引くつもりで居ますから。
 その時まで、きちんと後輩でいてさしあげて下さいな。
 こんなところまで着いて来てくださる貴方ですもの。信じていますよ。
 帰りはお送り致します。

 そんなようなことを、僕のうちで夕食を食べ、さあ駅まで送ろうと僕が満腹とほんのり熱い頬を頼りに重い腰を上げたところで、トミさんが言った。
 彼女の言うことは、時々むつかしいのだ。大事なことを言っているような気はするのだが、それがどう大事なのかいまいちわからない。
 でもきっと、大事なことなのだな。そう思ってくれて違いはないはずだ。
「そう言えば、きみ、何であんな姿をしていたんだい?」
 でもその言葉が、あんまり僕をないがしろにしていたので、ちょっと仕返しをしたくなった。
「あの結界はさ、君、心が溯る力を動力にして動いていたんだよ。君に限らず心の川には、あえて逆向きにしか回らないくせにとっても力の出る水車があるんだな。
 そうするとあの姿は君の心が遡ったところにある、逆説的に言えば力の源本だな。井戸の滑車とも言い換えられるかもしれない。
 僕の姿はアレ、石刀くんは僕を知っていたから。過去の支点に僕という物差しはあったわけだけど。彼は君のことは知らないだろう。そうすると、あの姿というのは君自身の心のたどりつく過去なわけだな。
 ん? 僕? 僕は何だか忘れちゃったよ。おっかしいなぁ。
 もしかしたら哺乳びんか何かだったかもだし、きせかえニンギョウだったかもだし。ああ、おねしょの布団だったかもなぁ?」
 ニヤニヤ笑うと、君は少し口籠る。それが嬉しくてまた僕は笑う。
 ほら、教えておくれよ。
 君は小さな頃、どんな子供だった?
 何が好きで、どんなものが怖かった?
 うれしいことはあったかい? 悲しいことは?
 いいじゃないか。教えてくれよ。
 僕と君の仲だもの。
 まだ駅に着くには遠いのだ。
 お話をする時間くらい、あるのだから。


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作者名: 登場ゴースト:

四ツ辻の魔女

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          [Diary]
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23 Mar.
 雨。
 仲間が馬車に泥をはねられて鼠のようになっていた。
 場所は例の四ツ辻――市場へ行く街道から一本裏に入
 った薄暗い馬車道だ。
 
 あそこを通る御者は乱暴なので、
 通行人にはお構いなしなのだ。
 私も気をつけないと。
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5 Apr.
 雨。
 また四ツ辻でけが人が出た。
 
 けがをした子の話によると、
 あと一歩で壁にシミになるところだったらしい。 
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18 Apr.
 雨。
 あの子はもう箒を持てないだろう。

 あのひき逃げ犯はもしすると
 女の掃除人を標的にしているのかもしれない。

 だとしたら
 ただただ気味が悪い。
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1 May
 雨。
 あの子も死んだので、
 とうとう私があの四ツ辻の担当になりました。
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30 May
 曇り。
 あんまり私が怯えるので、
 掃除人みんなでお金を出しあって
 アミュレットを買ってくれることになりました。
 「お前が身につけるんだから」ということで
 買い出しは私がすることになりましたけど……
(追記)
 得体の知れない相手は、こわい。
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31 May
 晴れ。
 朝早くに四つ辻の掃除を終えた私は、早速
 アミュレットを買いに市場へ出かけました。

 前もって場所を聞いていたので、
 その露店はすぐに見つかりましたが
 その店の主が見おぼえのある――私たちに
 お金をくれたことのある女の人だったので、
 私は気が緩んでしまい挨拶もなしに
 「いちばんいいのをくださいな」と
 言って、彼女を面食らわせてしまいました。

 結論から言えば、
 魔女さんはたいへん気さくな人で
 そんなこと気にしなくてもいいよ、
 というふうに笑いながら、
 手持ちの中では一番出来が良いという
 小石や、魔力を込めたばかりだという
 小石や、その他あれやこれやの小石を
 見せてくれました。

 私一人の買い物ではないので
 いろいろ思案しましたが、
 結局、私は最初に見せてもらった
 小石を買うことにしました。

 「おいくらですか」と尋ねると、
 魔女さんは少し考えてから
 「1シリングです」と言いました。
 私は「箒が四本買えるなあ」とは言わずに
 ただ「買います」と言って
 たっぷりの小さいコインで支払ったのですが
 コインを袋から取り出すたびに
 私がちょっと泣きそうな顔をするので
 「本当はもっと安くしたいのですけどね」
 といって魔女さんは困った顔で笑うのでした。

 帰り際、
 「落としたらいけないですから」といって
 魔女さんはお守り袋をくれました。
 中に何かが入っているらしく、
 その袋はなんだかもこもこしていました。
 ねぐらに帰って中身を確かめると、
 中には飴玉が数粒と、
 見覚えのない小石と、
 「危なくなったらこれを強く握りなさい」と
 書かれたメモが入っていましたので
 
 あの人はたいへんよい人だなあと私は思いました。
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1 June
 曇り時々雨。
 
 今日は四つ辻掃除人はお休みにして
 花を売ることにしました。

 市場で花を仕入れたついでに
 魔女さんの店に寄ったのですが
 あいにく魔女さんは不在でしたので
 メモと一緒に
 ニオイアラセイトウを一本置いておきました。

 夕焼けが赤黒いので、明日は雨だと思います。
 稼ぎやすいのはよいことですけど
 雨の日は嫌いです。
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(このページは破り取られている)
 
 
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Monday 3.



魔女の日記を拾った。

クソいまいましい魔女め。
馬車を台無しにしやがって。
しかもあの女、馬で踏んづけようとしたら
煙のように消えやがった。

まあいい。どうせ明日も雨だろうよ。
夕焼けがあの女どものように赤黒い。
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(以降のページには何も書かれていない)


(日記帳の背表紙には「これは証拠品である」
 という旨のスタンプが捺されている)


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作者名: 登場ゴースト:

コモンズの箱庭

 いつもの服、いつもの状態。立羽がふと気づいたときには既にそうなっている。最近、場所が子供のころ何度か行った公民館の貸し部屋であることが多い。それはきっと、別の人と会うことへの意識からなのだろう。今日もまた、10人程度なら座れそうな畳の部屋にいる。
 現状を認識している間に、立羽以外にもう1人、誰かがいつの間にか立っている。
「あ、こんばんは。私も今来たところなんですよ。今来たって言い方も変ですけど」
 明晰夢のような固定された夢の中でいつも出会う人物が今日もいた。
 ただ暇を潰すよりもよほど良いと思って会話をすることにしたものの、夢の中であるという意識のせいか、色々な過去、思いまで話してしまっている。人によってはあまり良い顔をしない話題かもしれないが、目の前の人物はなんでも聞いてくれる。相手もまた同じような夢を持て余していたのかもしれない。
 今日はそんなことを話題にしている。
「ここが夢の世界だって分かるのは、何もいないし何の動きもないからです」
 自身の帽子の縁を指先で軽くなぞりつつ、立羽は話を続ける。
「窓もドアも開かないし、ここにあるものも動かせない。これってやっぱり夢だからなんでしょうね」
 起きている間に調べ考えたことを話し合う。時には相手にも訪ねたりしつつ、この不思議な夢が困惑の時間から変化していっているのを彼女は感じている。暇で退屈な時間は、雑談やお互いのことを語り合う時間に変わった。人にあまり深いところを見せない立羽にとっては、一歩退く必要がなくなんでも言える相手というのは気安い関係でもあった。
「以前に少しお話しましたけど、私が夢でいる場所は、記憶にあるどこかなんです。以前通っていた学校だったり、引っ越す前の実家だったり……。昔に住んでいた家の中も、タンスやクローゼットはあるんです。記憶のとおりに」
 いつも以上に饒舌になっているのを、きっと彼女は自分で気づいていないだろう。相手との間に見えない境界線を常に張ってしまう彼女であっても、夢という非日常の舞台はその線引が出来ない領域であるようだ。そのため、普段なら突拍子もないと飲み込んでしまう考えも躊躇せず話している。
「見ててくださいね」
 襖障子に手をかけて引いても全く動かない。まるで壁に描いた絵のようである。開かないことを見せるために多少オーバーに体を傾けて見せ、そのはずみに帽子がぽとりと落ちる。これもまた、普段ならここまでのリアクションをしてみせることもないだろう。
 帽子を軽く手で払いながら被り直すと、目の前の人物にも開けてみるように訴える。もちろん、それが開くことはなかった。
「やっぱり、いつも通りですね。私は開かないものって思い込んでたので、もしかしたら今なら開くかもって思ったんですけどね」
 あはは、と少し苦笑しながら、立羽は続ける。
「もっと、何かが……きっかけのようなものがいるのかもしれませんね。この部屋だってこんなリアルに見えるわけですから、きっと外にも行ける気がするんです」
 彼女が両手を少し広げてアピールする通り、和室は現実にあるものとほとんど相違がない。彼女は足裏に伝わる畳の感触も覚えているし、それだけに部屋の外が無いなんてことは考えられなかった。
「でもまだ、どうにかする方法もないんですよね……」
 立羽は1つ溜息をついて、がっくりと肩を落とした。
 夢というよりはスタジオのセットのような閉鎖された空間。ここが一体なんなのか、それは彼女たちには分からない。人知を超えたなにかかもしれないし、ただの明晰夢にすぎない可能性もあれば、2人の脳波がラジオのように共鳴しているなんて状態なのかもしれない。ただそれでも、夢を見始めるとこの不思議な場に誘われることだけは事実だ。原因はなんであれ、ともかく事象としてこの場は現れる。原因究明をしようにも、確実な資料もなければ話を聞ける専門家もいない。結局、あるものはあるのだから仕方ないと判断するしかなかった。
 それから、また、全然違う話へと移っていく。雑談はとりとめなく、ふとした単語から別の話題へと移り変わる。
「記憶の宮殿って、知ってますか? 記憶法のひとつで、私も試験が暗記メインのときに使ってたりするんですよ」
 彼女は少しばかり胸を張ってそんな話を始める。講義の補助として学内バイトもこなす彼女は、そういった人に何かを教えることが好きなように見える。
「私がよくやっていたのは、覚えたいものを、自分の知っている場所に置いていくっていう方法です。知ったのはインターネットで見たページだった気がします」
 おとがいに軽く握った拳を当ててやや俯き、記憶を思い起こしている。帽子と相まって、そのポーズは探偵のようにも見える。
「そうですね……例えば、元素を周期表の順に覚えたいとして、場所は自分の実家だとしましょうか。玄関から入って、自分の部屋までの道のりに覚えたいものを置いておくんです」
 顔を上げて彼女は語り始める。流れるように話すのはやはり講義の経験の差なのだろう。
「水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム、ホウ素、炭素、窒素……。それらを順番に覚えることにしましょうか」
 指を立てて順番に元素を数え上げると、目を閉じて再び語り始める。
「家の玄関を開けると水槽がおいてあります。その中には、パーティー用のヘリウムガスのスプレーが沈んでます。水槽のガラスにはリチウム電池が貼り付けてあるんですが、それがベリリっと剥がれて落ちそうになってます。玄関を上がると足元にホウ酸団子が置いてあって、タンスが質素な感じに置いてあるんです」
 訳の分からない光景としか言いようがない。聞き手が呆れ顔をしていると、自分でも気づいたのか立羽がはっと目を開く。
「……何言ってるか分からないかもしれないですけど、自分が分かればいいんですよ。そういう変な光景を考えると、インパクトが強くて覚えやすかったりするんです」
 少し赤い、照れくさそうな顔で慌ててそのように弁明した。
「それで、この夢って記憶の宮殿の中なのかなって、ふとそんなことを思ったんです。懐かしいと思って、今この夢の中なら考えたら本当に出てくるのか、大学の講義で習ったことでやってみたんですよ。それで、さっきみたいに想像してみたら、本当に出てきたんです」
 少し興奮気味に、言葉を紡ぐ。何も出来ない何も変わらない空間だと思っていたのなら、それは確かに驚きだろう。
「でもあんまり具体的なものって思い出せないんですよね。例えばですけど、10円玉の模様、今すぐに思い出せますか? 単語だけ覚えてるようなものだと、デフォルメしたようなものになったりするんです。動物園や水族館で見る生き物も、細かいところまで覚えてるわけじゃないですから。イルカを思い浮かべたら、イルカのぬいぐるみが置いてあったことがありますよ」
 それはそれで可愛かったと、表情で彼女は語る。条件は分からないが、物を出せることもあるのかもしれない。
「でも、そうやって夢に新たに出てきたものも、やっぱりそこにあるだけで動かせないんですよね。違和感はあるんですが、現代アートのように、1つのものになっているというか……。さっきの元素の周期表の話なら、スプレー缶が入ってて電池が貼り付けられてる水槽っていう1個のまとまりが置いてあるような」
 そこで話を区切ると、はぁと溜息をつきながら続ける。
「最初は面白かったんですけど、だんだんそれも飽きてきちゃって。だから今度は、この世界に話し相手がいたらなって思って想像をして時間を潰すようになったんです」
 立羽はちらりと目の前にいる人物を見る。
「最初はほんとにびっくりしたんですよ。そんなこと考えていたもので、もしかしたらイマジナリーフレンドなのかもって思ったりもして。あ、イマジナリーフレンドって、想像上の人格のことです。悪化すると二重人格のようになってしまうって大学の般教で聞いたことがあります。もちろん今はもうそんなこと思っていませんよ」
 手をぶんぶんと振りながら否定する。
「夢は深層意識で繋がってるなんて話をレポートの調べ物をしてて見たことあります。最初は信じられなかったんですけど、今は少し信じてしまいます。こうして2人で同じ夢を共有してるわけですし、ね」
 立羽は窓の外を見やる。視線の先には穏やかに晴れた町並みが見える。しかしそこに一切の生き物はおらず、また風も吹いていない。まるで静止画のように、完全に静まり返り、ただあるだけの光景が広がっている。
 外には何もないのかもしれない。窓というものが、外の景色が見えるオブジェクトとして解釈されているだけで、スクリーンのように外の景色のようなものを写しているにすぎないのかもしれない。しかしそれはあまりにも無味乾燥すぎる。恐らくその疑問にはお互いにたどり着いているのだろう。それでも、言わない。言ってしまえば、ここが完全な密室であり、夢の牢獄にとらわれているにすぎないと意識してしまう。
 数瞬の間、窓を見ていた立羽が話を再開する。
「わからないと気になってしまうんですけど、この夢自体がよくわからないものですからね。もうちょっと出来ることもあるのかもしれません。でもしばらくの間は、こうしてお話出来るだけでいいかなって気分なんです」
 この夢の正体がなんであろうと、一定時間の後に目覚めを迎えることは確実だ。そうであるのなら、原因などどうでもいいのかもしれない。窓の外には穏やかな太陽の光が見えている。そもそも昔の人間は太陽の正体も知らなかったし、その膨大な熱量の理由も知らなかった。それでも太陽の機能を理解し、崇め、利用して生きてきた。それでいいのかもしれない。
 ふっと立羽が肩の力を抜いて、今までよりも柔らかな声で話しかける。
「人と話すことそれ自体は私好きな方なんです。またしばらく、お世話になりますね」
 たたえた微笑は自然で柔らかく、彼女の知り合いが見れば驚くかもしれない。ただそれは本人ですら把握していないこと。
 そしてまたしばらく、雑談へと戻っていく。この不安定な関係がいつまで続くのか、相手は実在するのか、それすらも曖昧なまま、しかしお互いにそれを是として奇妙な関係は続いていく。


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作者名: 登場ゴースト:

夜明けの海

 海辺の明け方には、水平線が燃える。
 堤防の上に座るかもめは、じっとその様子を眺めている。感傷に浸るというよりは、一日の始まりを祝福するように、または猫が気になるものを見つめるように、目をそらさずに見つめ続ける。
 空と海が一体化した濃藍から、やがて赤みが差してくる。それは分水嶺のように、空と海の色をはっきりと区分する。空に差す赤みはどんどんと藍色を侵食し、水面にも映り込み、穏やかに燃えているかのような様相を示す。
 やがて水平線に太陽が現れるとかもめは堤防に立ち上がって叫ぶ。
「おっはよー! 朝だよ-!」
 潮風が彼女の後ろ髪を揺らす。肩口にかからない、動きやすい長さのそれはゆらりと揺れてすぐに元の位置へと戻る。それを無造作に手で押さえつけると、伸びをしてくるりと海に背を向ける。
 今日は何があるのか、誰かに面白いことが起きるのか、小さな港街を毎日駆け巡る彼女は楽しみにしている。
 たたっと堤防を下ると、そのまま街へと走っていく。港街ゆえに漁を生業とする人も多いが、港から離れてしまえば普通の街と変わらない。まだ眠りの中にある街を走って、息が切れたころに立ち止まる。
「はー、朝の空気は最高だね」
 かもめは気分よく、暁天を見上げながら独り言を呟く。普段であればこんなに早い時間に起きることはないが、偶然にも目を覚ましてしまった。まだ薄暗いが、確実に朝の気配を感じる部屋の中、このまま登校時間まで家にいるのがもったいない気がして、そのまま出てきたのだ。
 立ち止まって塀に寄りかかってメモ帳を開く。いつも持ち歩いている小さなノートには、些細な噂からスーパーの安売り情報まで、日々のよしなしごとがびっしりと書き込まれている。忘れっぽいから常にメモを取っているというのも理由だが、彼女にとっては街の軌跡でもあって、今までに書き溜めたメモは勲章であり宝物でもあった。メモをぱらぱらとめくり、昨日聞いた噂をチェックする。なんでも、釣り客向けの店の1つに新メニューが出たらしい。魚好きのかもめにとって、新鮮な魚を使った新メニューとあらば、食べに行かない選択肢はない。そろそろ起きるであろう家族に直談判するしかない。
 駄目なら駄目で、1人で食べに行くつもりだった。街のほとんどの人と顔見知りであるかもめに、人々は甘い。飲食店に1人で行けば半額にしてくれたり、賄い分だからとタダで食べさせてくれたりする。かもめがそれに奢らず毎回喜び律儀にお礼を言うこともまた、彼女の人気の理由でもあるだろう。
 お魚お魚とスキップで歩くかもめに、もしも尻尾があったのなら嬉しそうに振っていたことだろう。海鳥の名前を関するものの、彼女の行動は猫のそれに近い。高いところにすいすいと登って街を眺め、縄張りのごとく街中を警邏し、新たな噂や情報を仕入れては一喜一憂する。彼女にとって毎日は新鮮な驚きの連続でもあった。小さな港街を愛し、飽きもせず日がな一日眺めて過ごすことを幸せに感じている。
 太陽が完全に顔を出し、街は目覚めつつあった。雨戸を開く音が響き渡り、主人の登場を喜ぶ犬の鳴き声が聞こえる。そろそろかもめの家族も起き出すころだろう。家路を辿り、自宅へ戻る。
 朝日に照らされたかもめの瞳はきらきらと輝いていた。今日という日がまた楽しい日になることを信じている、そんなところだろう。小さな港街は今日も平穏な一日を迎えようとしていた。


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作者名: 登場ゴースト:

いつかの驟雨のような

 診療所の外は土砂降りの雨が降っている。家を出る前から雲行きが怪しかったが、急に降り出した雨はバケツを引っくり返したようという表現そのままに、激しく地面を叩いている。診療所のドア下面にも水しぶきが飛び散っている。
 ふと、にわか雨に打たれて小さな診療所に駆け込んだ日を思い出す。あの時は看護師が暇をしていたのか、色々と世話を焼いてくれた。
 今日は立場が逆になった。飛び込んできたのはあの日にお世話になった看護師、まなかとゆらぎだ。
「ひゃー、ひどい雨だねぇ」
「大丈夫だと思ってたのに。急に降ってきた」
 入り口を入るなり、タオルを取りに走る二人はこちらには気づいていないようだ。どうやら手にしたパン屋の袋を傘代わりに走って帰ってきたらしい。美味しいパン屋があるといつか言っていたので、手にある袋はきっとその店のものだろう。昼食を買いに行ったところでにわか雨にあったといったところだろうか。
「あら、ユーザ君じゃない。来てたのね」
「こんにちはユーザ。来る時は降ってなかったの?」
 それぞれがタオルを手に戻ってきた二人がこちらに気づく。まなかは柔らかい視線を、ゆらぎはやや鋭い視線をこちらに投げかけてくる。まなかには天性のお人好しとでも言うべきか、子供を見るかのような包容力のある日向の優しさがある。対してゆらぎはつり目であることや素っ気ない態度から少々棘のある印象を抱かせる。
 そんな二人に対し、入ってきてから降り出したのだと説明した。実際に、診療所に入って誰もいないのを確認して、仕方なく椅子に座ると同時に雨が降り出したのだ。
「ああ、入れ違いになっちゃったのねぇ」
「全くタイミングのいいこと。羨ましいくらい。はあ、ついてない……」
 ゆらぎが溜息をつきながら手にしていた袋を置く。パン屋のロゴの入ったビニール袋は濡れて水滴を垂らし、中から彼女の好物のクロワッサンが覗く。
「あ、ユーザの分はないから。勝手に食べたら潰すわよ。何をとは言わないけど」
「やだ、ゆらぎちゃんこわーい」
 ころころと笑うまなかもまた袋を置くと、二人は水が染みないうちにタオルで白衣を拭う。タオルにあたってまなかの一部がふよんと揺れたが、慌てて目をそらした。
「……なにじろじろ見てるの」
「やだユーザ君ったら、そんな目で見られると困っちゃうわー」
 女性の勘は鋭い。少し目が吸い付けられたことは否定できないが、ゆらぎにもバレているとは思わなかった。たまたま、そう伝えるが全く信じてくれているようには見えない。
「へえ、ふーん」
「ふふふ、ユーザ君も男の子だもんね」
 ゆらぎから見下したような冷たい笑みが、まなかからしょうがないなあという柔らかい笑みが帰ってくる。のほほんとまなかが言い、ゆらぎが少し棘を含ませて喋る。二人は常にセットで考えたいくらい、何をするにも息がぴったりあっている。そしてこの二人が揃っている限り、こちらには全く勝つすべがなかった。女性は強いなあと思ってしまう瞬間だった。
 服の水滴を拭い終わり、髪の毛にそっとタオルを当てて水気を取る二人に、持ってきた手土産を渡す。先日、電車での帰りに、乗り換え駅で買ってきたものだ。あまり高くもなく少量で満足感の得られる洋酒入りのパウンドケーキはちょっとしたおやつとして持っていくには最適だ。
「わあ、ユーザ君ありがとー。嬉しい」
「ありがと。私好きなんだこれ」
 ゆらぎがはにかんだような笑みを浮かべる。なんだかんだで甘いものは好みであるらしい。
「あら、好きだなんてゆらぎちゃんたらもう。私もユーザ君のこと、好きだよ」
「まなか、そういう意味じゃ、ない……いや完全にないとも言わないけど」
 気まずそうに目をそらすゆらぎがおかしくて笑ってしまう。
「こら笑うな。全く誰に許可取って人のことを笑ってるわけ?」
「さあねぇ。ほら、休み時間のうちにパン食べちゃお。私そろそろお腹ぺこぺこで我慢できないよ」
「……そうね」
 何か言いたげなゆらぎだったが、ここで返しても無駄だと悟ったのか短く返事をするにとどまった。彼女には最初こそきつい印象を抱いていたものの、看護師という仕事を選んだだけあって根は優しい。まなかはそれを分かっていて時々からかって遊んでいるようだった。
「紅茶、淹れてくるね。ユーザ君も飲むでしょ? お土産のお礼に、私のパン半分分けてあげるね」
「それじゃまなかが足りないでしょ。私の分を分けてあげるから、それで我慢しなさい」
「ふふふ、じゃあ二人で少しずつ分けてあげようね。じゃあ、ちょっとだけ待っててねぇ」
 二人が給湯室に姿を消す。小さな診療所なので、泥落としのマットや傘立てのある風除室を抜けると目の前にすぐに受付がある。その先は待合室となっていてロビーソファーが並んでいる、よくある形式だ。奥へ伸びる廊下に、手洗いと給湯室の入り口が並んでいる。そういえばこの時間、医師兼院長は何をしているのだろうか。風邪で診察を受けたことはあるから顔は知っているが、ここに入り浸るようになってから診察室から出てきたのを見たことがない。恐らく、診断書の執筆などの書類仕事をしたりしているのだろう。
 ぼんやり考え事をしているうちに、二人がトレーを手に戻ってくる。荷物置きをテーブル代わりにしてトレーが置かれると、ふわりと紅茶の香りがあたりを満たした。
「じゃあ食べようか。ユーザ君の分はどうしようかなあ。あ、こうやってちぎって食べさせてあげようか? はい、あーん」
 目を白黒させているうちに、まなかに口の中にパンを突っ込まれる。嬉しいが、急にやられると恥ずかしい。もぐもぐと咀嚼すると紅茶で飲み下した。
「全く、すぐ鼻の下伸ばしちゃって、これだから……。でも、お土産のお礼もあるし、私も食べさせてあげる」
 飲み込むなり、ゆらぎからもちぎったパンを口に突っ込まれる。二人に挟まれて交互にパンを食べさせてもらえるというのは、シチュエーションだけ聞けば最高かもしれないが、いざやられるとどう反応したらいいものか悩んでしまう。とりあえず、美味しいとパンの感想を述べる。実際は味なんて感じられる余裕もなかった。
「ふふ、ユーザ君困ってる。可愛いんだからぁ」
「情けない顔しちゃってまあ……。感謝しなさい」
 その後も何度か同じようなやりとりが続き、すっかり顔が火照ってしまった。恥ずかしさが先立ってしまい、なかなか素直に甘えるのは難しい。
「いいわね、これ。ふふふ……ほら、口を開けなさい」
「もー、ゆらぎちゃんたら、困らせないの。でもそうね、ちょっぴり楽しいかも」
 なにやらおもちゃにされているような感じがするものの、左右をがっちり固められてしまい、動くに動けない。
 その時、入り口から傘を払う音が鳴り響く。誰かが診察を受けに来たのだろう。
「あらあ、残念。今日はここまでね」
「そうね、ユーザが鼻の下を伸ばすならこんなことするつもりはなかったんだけど、つい、ね」
「ふふ、私もちょっとからかいすぎたかしら。ごめんねユーザ君」
 その後の二人の対応は早かった。素早くトレーを下げると、何事もなく受付に戻って対応を始めた。あのまま続けられていたらどうなっていたのか、ほっとすると同時に途中で終わってしまって残念な気持ちもあった。
 彼女たちにお菓子も渡したし、診察を受けに来た人もいる以上、邪魔をするべきではない。今日のところはもう帰るべきだろう。
 受付前でそっと頭を下げると、まなかからパチリとウインクされた。ゆらぎは一瞥をくれただけに見えたが、その表情にはうっすらと微笑があり、再訪を望んでいるように読み取れた。
 外はまだ雨が降っているものの、だいぶ小降りになっていた。空を見上げれば雲も薄くなっており、近いうちに雨も止むのだろう。僅かに風が出て、細かな水分を含む空気が顔に吹き付ける。その冷たさに驚くと同時に、自分の顔が真っ赤になっている事実を知る。
 なんだかんだで毎度からかわれてしまうものの、こうしてちょっとした雑談をしにくるのは楽しい。また平日に時間が空いたら、手土産を持って遊びに行こう。こじんまりとした診療所を振り返り、その場を後にした。


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作者名: 登場ゴースト:

螺旋に続く夢

 ふと気づくと、隣に女性がいて、顔を覗き込んでくる。
 誰だろうか。あどけない少女を思わせる顔立ちをしており、目と目の間に艶やかな黒髪を一房たらして両側をおさげにしている。いつかの初恋の相手のような、甘酸っぱい気分を思い起こさせる。しかし想起させるイメージとは裏腹に、なぜか目の前にいる彼女の印象が薄い。まるで夢を見ているかのようだ。
「目が覚めたかい? 君、今までずっと眠っていたんだよ」
 彼女の声が聞こえる。彼女は僕が目覚めたことに気づいて、さらに顔を近づけてくる。垂れた前髪が僕の顔に触れそうなほど近づく。こうして声を聞いて近くで見ても彼女のことを思い出せない。僕は昨日、どうしていたのだろう。酒を飲んで前後不覚になってしまって、彼女の世話になったのだろうか。どうにも記憶が曖昧になっているようだ。未だ寝ぼけているのかもしれないと思い、目を覚ますため、そして彼女の存在を確かめるため、僕は手を伸ばす。

「おはよう、目が覚めた?」
 伸ばした手は宙を切る。目の前に映るのは少女ではなく、見慣れた天井だ。どうやら夢を見ていたようだ。
「ふふ、よく眠れたかな?」
 隣で喋る少女は、耳元で甘いつぶやきを発している。彼女の方を見る。キャミソール1枚で、柔らかく微笑んでいる。ああ、そうか昨日、僕は。

 昨日、僕は、彼女を殺した。
 今もまだ手に感触が残っている。原因はなんだったのか。ひどくくだらないことだったような気がする。僕は激昂して手近にあった酒瓶を手に取り、彼女の頭に振り下ろした。
 彼女の目に光はない。虚ろな目が、焦点の定まらないまま僕を見ている。そんな状況でも彼女は僕に言うのだ。
「これが望んだことだったの?」
 唇は動いていない。呪詛のように、僕の心にだけ聞こえてくる。
「人殺し」
 彼女は動かない。ただ、頭から滴る血液が、絨毯に染みて広がっていく。

 肩を揺さぶられる。
「どうしたんだい、急に。何か面白いものでもあった?」
 雑踏の中、僕は立ちすくんでいる。周囲は騒がしく、見渡せば色々な店が並んでいる。隣には彼女がいて、急に止まった僕を見ている。
 そうだ、今日はデートに来たんだった。駅の近くのショッピングモールで、服や雑貨のショップを見て回っている。この後は食事をして、流行りの映画を見に行く算段を立てていたはずだ。
 楽しみにしすぎて、寝不足になっているのだろう。もしかしたら、人いきれに少しあてられたのかもしれない。僕は頭を振って意識をはっきりさせ、彼女の手をとって歩き出す。

 どれくらい歩いただろうか。
 僕は彼女を背に担ぎ、手首を握っている。片手が自由になる運び方、ファイアーマンズキャリーだ。すっかり冷たくなった彼女を背負い、懐中電灯を片手に闇に沈んだ山奥へ足を進めていく。暗い夜山は恐ろしいほどに静まり返っている。聞こえるのは死んだ彼女が喋る言葉だけだ。
「こんな登山道からちょっと離れた場所じゃすぐ見つかっちゃうよ」
 だから、もっと奥へ進まなければならない。そして彼女を捨てて帰る。
「もしかしたら私は歩いて君のもとへ帰るかもしれないね」
 だから、帰れないほど奥まで進まなければならない。
 死んだ彼女の声にうんざりした僕は空を見上げる。月も星も見えず、視界一面、真っ暗だ。

 僕は目を開ける。真っ暗だった視界に、明るい朝の日差しが飛び込んでくる。
 いい匂いがする。コーヒーの匂いだろうか。僕はベッドを抜け出し、キッチンへ向かう。
「おはよう。今、コーヒーを淹れたところだよ。君の分も淹れようか」
 彼女はテーブルでコーヒーを啜っていた。僕を見て笑いかけると、立ち上がって背を向ける。その後頭部は、凹み、赤茶けた染みが広がっている。

 彼女がその染みにおしぼりを当てる。
「ああ、やってしまったね。全く、気をつけてと言ったじゃないか」
 僕の白いシャツには赤い汚れがこびりついていた。慌てて周囲を見回す。今いるのは落ち着いた雰囲気のイタリアンレストラン。ネットで探して見つけ、予行練習で一度訪れたことのある店だ。僕の目の前にはトマトをベースにしたパスタがある。そのソースをこぼしてしまったようだ。きっと睡眠不足がたたったのだろう。こんな姿では映画を見に行けない。僕は服にべっとりとついた赤茶けた染みを見下ろす。

 そして、染みのついたシャツを脱いで裏返し、ゴミ袋に入れて縛る。夜が明けたらゴミ収集車が証拠をまるごと隠滅してくれる。
 間もなく夜も空けるだろう。ほっと一息ついた。つい数時間前に、山の中腹の尾根から、斜面の下に広がる藪へと、背負っていた彼女を投げ捨てた。灌木は彼女を完全に覆い隠してくれた。見つかることはまずないだろう。
「いつまで」
 殺して捨てた彼女の声が聴こえる。まるで耳元でささやかれているようだ。さあ、いつまで隠しておけるだろうか。しかし僕に疑いが向いたところで、そのころには証拠はなくなっている。

「いつまで寝てるの?」
 耳元に吐息があたり、くすぐったい。はっと飛び起きる。彼女がくすくすと笑う。
「どうしたの、急に。悪い夢でも見てた?」
 最悪の夢を見ていた僕は安堵のため息をついて、彼女を見る。
「こんな風に」

 死んだ彼女は壁を背にして、まだ喋り続けている。頭から血を流し、虚ろな目が僕へと向いている。飛び散った血は壁紙を汚し、足元には滴った血が溜まっている。ただの物質と化した彼女の体は、既に冷え始めて強張ってきている気がした。
 どうすればいいのか。どうすれば、彼女を殺した事実を隠し通せるのか。
 僕は頭を抱えてへたり込んだ。

「そんなに落ち込むこともないじゃないか」
 思わず頭を抱えた僕に、彼女は慰めの言葉をかけてくる。
「応急処置もしたし、その程度なら、染み抜きも出来るだろう」
 店が用意してくれたタオルでトマトソースを拭い取った後、水を染み込ませて叩き、汚れを移した。服自体の汚れはなんとかなるだろう。
 そういうことではなく、僕はこの失態について、あちこちからの好奇の視線にいたたまれなくて困っているのだが、彼女には伝わらないらしい。

「そうだね、私にはよく分からないな」
 彼女の声が聞こえる。血のついた服を生ゴミと一緒にまとめ、ゴミ捨て場へと持ってきた。カラスにつつかれないよう、既に出されていたゴミ袋を並び替え、自分の分を奥に入れる。これでもう、大丈夫だろう。
「こんなことをしても、無駄なのに」
 ゴミ袋から声が聞こえる。ふと目をやれば、ゴミ袋から彼女の腕と首が飛び出していた。

 それを発見した主婦が悲鳴を上げる。探偵ものであるこの映画には当然死体が出て来るわけだが、昨今の自主規制に従ってか、廃棄された死体の一部が見えているという形を取って血の描写を無くしたようだ。それでもゴミ袋から飛び出た首という図はなかなかショッキングで、息を呑む気配が映画館を満たす。
 ちらっと見えた彼女もまた、目を見開き、ショッキングなシーンに食いついている。薄暗い映画館で、画面を見守る彼女の横顔が美しい。その横顔に、一筋の血が流れた。

 手の中の酒瓶をテーブルに置く。思わず殴ってしまった。彼女の頬を血が流れ落ちていく。
 打ちどころが悪かったのか、壁に背を預けた彼女にもう息はない。

 違う、これは現実ではない。夢だ、夢に違いない。
 僕は夢を見る。


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