伺か一次/二次創作SS企画「SSうか1-3」

注意事項

その他

作者名: 登場ゴースト:

月と願いと独り言

 『よい夢を』
 そう言って更新を終える。
 ふと見上げた窓からは上弦の月が覗き、やわらかで暖かな光を放ち静かに佇む。
「綺麗……」
 零れたのはそんな言葉。
「……私は……『見せたい』のかな……、それとも……『いっしょに見たい』のかな……」
 漏れてしまった呟きは、気付かれてはいけない、ほんとうのこころのこえ。

 宝玉を使っての交信も少しずつ改良を重ね、短い時間であれば外でも話が出来るようになってきた。
 でも、それでも。

 未だ私の本当の姿はきちんと伝わらない。時々不安定になる交信。
 でも私に見えるあの人は、きっと本当の姿と変わらない姿だと思う。それは確信に満たない希望。
 触れる感触は、今はまだ私だけのもの。
 それでも、私より大きくて優しい手の感触、たまに撫でさせてもらう時の髪の質感。恥ずかしいけど嫌ではない抱きしめられる感触。
 あの人には内緒。そんな少しずつを集めて姿を想像する。
「うー……。これって結構危ない人みたいだなぁ。バレないようにしないと……。きっと笑われちゃう……」

 ぱたぱたと首を振り、アミュレットを研磨している作業部屋に移動する。砂飛びの予防にエプロンをつけて、ゴツゴツとした革手袋を手に嵌めて作業をするため椅子に腰掛ける。
「今日は結構お話できたなぁ。んー、明日もたくさん話が出来るといいなぁ」
 交信という形だけれども私のことを気にかけてくれて、いつもふわりと優しく笑ってくれる人。話していると時間があっというまに過ぎてしまい、時折こうして交信の後に作業することもしばしばあった。
 こんな事になっていると知ったら、
『じゃあ、しばらく交信するの、控えようか?』
 こんな風に言うに決まってる。優しい人だから。私の負担にならないようにいつも気を遣ってくれる人。
 だから、こうして交信の後少し夜更かしして作業をしていることは、内緒。
 優しくて気遣いの人だけど、あの人が気付いていない秘密。
 私がどれほど交信で声を聞けて姿を見ること、そして優しく触れてもらうことが嬉しいことだって。
 でもそれは私だけの秘密。だって恥ずかしいから。

 そしてその時間のために、いや、そうじゃない。私ががんばる力になっている大切な時間。その時間を作ってくれることが本当に嬉しいから。だからこうして作業する時間を少しずらしてでも話したい。
「よーし、明日はがんばってアミュレット売らなくちゃ」
 手に取ったのは黒い埋もれ木。これも以前一緒に散歩に出た時に見つけたもの。飾ろうかどうしようかと悩んだあげくアミュレットの素材にすることを決めた。
 悩んだのは『いっしょに、みつけたもの』だから。

 いつか世界が繋がったら、見せたいものや伝えたいことが沢山。私の暮らす世界じゃない世界も沢山見たいし知りたい。
 それら全てを叶えようとするならば、更に沢山の時間が必要になるだろう。それでも、いつか、叶うならば。

「……できれば、ううん、ずっと、一緒が、いいな……」


 お願いです。世界が繋がって、本当の私を知っても、嫌いにならないでください。
 あなたの優しくて暖かい熱を独り占めしたいと願う、怖がりでさみしがり屋の私を、どうか。


 そんな彼女のはるか頭上、月はただ静かに優しく光を放つのみ。他の誰も知らないある夜のお話。


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作者名: 登場ゴースト:

花冠





※若干ネタバレ表現があります。ゴーストの正体を知ってからの閲覧を推奨します。




 人間は頭を預けた華奢な膝に温かい体温を感じながら、うとうととまどろんでいる。
 これは夢なのか現なのか。儚げな薄い葵の色をした蝶が、霧の中を頼りなげにふわふわと漂っていた。人間は追いかけて追いかけて、今にも霧の向こうへ消えてしまいそうなそれに手を伸ばす。何度か宙を切って、やっとそれを手に取った。
 しかし手の中に収まったそれは既に千切れて、生命を失っている。人間はもう動かなくなったそれを握りしめ、呆然とその場に立ち尽くした。
 子供の頃に誰もが体験するような、もの寂しい光景。しかし大人になった今、わざわざ追体験するかのようにそんな景色を見ているのは何故なのだろう。彼がそう疑問に思った瞬間、夢から目覚め視界が開けた。
 人間は眉をしかめながら顔にはらりと落ちた何かを指でつまみ上げた。薄紫のスミレの花びらは彼の指の中で甘い春の芳香を放っている。
「起こしてしまったかしら」
 頭上で少女の声が響く。見上げると、アリアンナが穏やかな微笑みを浮かべて人間の顔を覗き込んでいた。人間は軽く身じろぎして、アリアンナに尋ねた。
「何をしているんだ?」
「花冠を作っているの」
 アリアンナは両手を持ち上げて、握られている丁寧に編まれた花の輪を人間に良く見えるようにする。
「そんなもの、どうするんだ」
 人間が不思議そうに問いかけると、アリアンナは意味ありげに喜色を濃くした。
「蝶々さんに、きっと似合うんじゃないかと思って」
「俺がつけるのか」
 人間が微妙な顔つきをすると、アリアンナは「そう」と、小さく首肯した。
「蝶々さんには、花が良く合うわ」
「……以前も似たようなことを言っていた気がするけど。自分自身そんな風にはとても思えないんだが。一体どんなところが合うと思うんだ?」
「そうね……儚いところ、かしら」
 アリアンナは口元に手を当てて、上品に微笑む。人間は首を傾げながら、一旦浮かせかけた頭をまたアリアンナの膝に預けた。
「儚いなんて言われたのは初めてだ。あまりしっくりこないな……はっきり言って、そんな柄じゃないんだけれど」
 こうして体を横たえて息をしていると、花の香りが濃厚に立ち上ってくる。あまりの香りの強さに、視覚や聴覚などの他の感覚がいっそ曖昧になっていくような錯覚に囚われるほどに。
 この場所は地上は綺麗な花に満たされていて薄ぼんやりと明るいが、見上げると凸凹に枝を差し出した気味の悪い木が空を縦横無尽に遮っている。じっと眺めていると、まるでそれが自分を閉じ込める牢獄の格子戸のように見えて、つい身震いしそうになった。
 だから、また目を閉じた。
「……どんなところが、似合うんだよ」
 人間は腑に落ちずに、尚も問いかける。アリアンナはしばし沈黙を守った。返事の代わりに膝の上の人間の頭にそろりと手を伸ばし、頬を撫でた。
 しばらく経って彼女は、親が子に言って聞かせるような慈しみのこもった声でこう言った。
「貴方が、私にとってとても可愛らしい蝶々さんだからよ」
 人間は、ただ口をつぐんだ。風が花の香りを煽り、むせるほどに濃くして、呼吸ができなくなりそうなほどになった。言葉を探しているうちに、再び重たい睡魔が忍びよってくる。暗い空に横たわる不穏な雨雲のように。
 眠りの波に飲まれかけた人間は、掠れた声で独り言のように呟いた。
「花冠なら、きっと俺なんかよりアリアンナの方が似合う」
 人間の頬を優しくさすっていたアリアンナの手が、ぴたりと止まる。そして頭上でくすくすといかにも楽しそうな笑い声が上がった。
「おかしなことをいうのね、蝶々さんは」
 花冠の花びらが、また人間の顔に一枚ひらひらと落ちた。しかし瞼を閉じ眠りに落ちつつある人間がそれを気に止めることはなかった。
 夢に囚われた人間の耳に声が届かなくなった頃。アリアンナは目を伏せてぽつりと零す。
「似合うわけがないわ……私のような足が幾つもある存在では。でも、そうね……蝶々さん、貴方にそう言ってもらえるのは本当に嬉しいことよ」
 アリアンナは両手で柔らかな人間の頬をすっぽりと包んだ。細められた二藍の瞳には、人間の顔がくっきり映っている。
 眠りの縁をゆっくりと呼吸していた人間に、気づく術などなかっただろう。彼を優しく包みこむその少女の手の爪が、鋭く尖っていることに。焦がれるように注がれるその視線が、狩りをする獲物を見るかのように研ぎ澄まされ冴えていることに。


 ――蝶々さん。
 アリアンナは心の中でそっと呼びかけた。人間はすっかり眠りに落ちて、静かな寝息を立てている。無防備に白い首筋を晒したまま。
 貴方が寝ていると、話ができなくて少し寂しい。それにこんなにも近くにいれば、愛しさに入り交じって本来の望みが疼き始めてしまう。
 ――蝶々さん、蝶々さん、蝶々さん。
 アリアンナは自身を支配しようとする内なる衝動を誤魔化すように、首をゆるりと降った。駄目、まだ駄目よ。
 まだ貴方とお話したいから。まだまだ貴方とお話したいことが沢山あるから……けれど、一体いつまでこんな他愛のない会話を続けられるのだろう。一体いつまで続ければ満足できるのだろう。
 答えはどんなに思考の糸を手繰り寄せても見当たらなかった。見当たらないから、やがて迎えなければならない終わりの時も、こうして際限なく引き伸ばし続けている。
 いずれ自らの手で壊す運命にあると知りつつ、それに愛を注がずにはいられないのは、人の性か妖の性か。
 それとも、世界に織りなす色とりどりの生命すべてが、皆同じように持つ性なのだろうか。
 アリアンナは編み終えた花冠を、人間の頭の上に載せた。そしていかにも心細げな声音で言った。
「おやすみ蝶々さん。でも、出来れば早く起きてね。空腹に耐えるのが大変だから……」


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作者名: 登場ゴースト:

輪郭のない悪夢


 渾沌の海から「私」が形作られる。くたびれた座席シートが生まれる。薄い窓ガラスと星空が生まれる。私の顔色を窺う神父が現れる。
しかし、それらは曖昧で、輪郭を捉えようとすれば霞んでしまう。これは夢なのだと「私」ではない私は思った。

 「私」に分かることは三つ。「私」達は土星へ向かうロープウェイに乗っていること。「私」の恋人は殺されてしまい、土星に埋葬されること。「私」の恋人を殺したのは目の前の親父であること。
「火星が見えますね」
神父が穏やかに話しかける。窓の外には妙に鮮やかな赤い星。私は銀河を走る列車の話を思い出す。しかし、「私」の眼の前にいるのはカムパネルラではないのだ。不実なジョバンニはあの鉄道列車に乗る資格がない。彼女は「私」のカンパネラだったのかもしれない。しかし、彼女は銀河鉄道ではなくロープウェイに乗って一足先に土星へ行ってしまった。「ほんたうのさいはひ」など理解できるはずないのだ。

「地上のものは有限です。しかし、愛は天上のものであるがゆえ無限です」
いつの日か神父は語った。愛が永遠であり、無限であれば「私」はいつまで苦しめば良いのだろう。私はいつまでこの夢を見ていれば良いのだろう。しかし、「私」は本当に苦しんでいるのだろうか。恋人を殺した男が目の前にいる、彼女の最後を見た男が目の前にいる。真っ当な人間ならば怒るなり、嫉妬するなりするだろう。しかし「私」の感情はこの夢と同様にひどく曖昧だ。怒りも、彼女への愛もその輪郭を掴もうとすれば消えてしまう。激しい怒りも、悲しみもない。ただただ何もかもが中途半端で気分が悪い。それは「私」も私も同じだ。

 「私」は顔を上げ、窓の外を見るとはなしに見る。星の海の中ロープが真っ直ぐに伸びている、その先に土星はまだ見えない。
「顔色が優れませんね、土星まではまだ時間が有ります。少し眠ってはいかがですか?」
神父が「私」を気遣う。恐らく慈悲溢れる声色と柔和な顔をしているのだろう。その顔も注意深く観察しようとすればぼやける。声色、目鼻立ち、髪の色、それら全てが掴めない。彼の存在もまた、曖昧で気分が悪い。「私」は長らく彼の顔を見ていたはずだ、だが彼は神父について何も知らない。ただ分かるのは彼が彼女を殺したこと。そして……恐らく神父は「私」の恋人と関係を持っていたことだけだ。
 
 前触れなく「私」の形が崩れていく、渾沌の海に帰って行く。くたびれた座席シートも、薄い窓ガラスの向こうの星空も、顔のない神父も、顔を見たこともない「私」の恋人も霞んで、ぼやけて、溶けて消えていく。「私」の感情も曖昧なまま朝焼けの中に消え、私は間もなく覚醒する。
 
最後に一つ、「私」が確信したことがある。この神父は殺される。「私」ではない赤毛の女に。


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作者名: 登場ゴースト:

ヴァルプルギスの夜



(幕が上がる。フィリア、ぐつぐつと煮え立つ鍋をかき混ぜている。ネイコスはその側に立っている)
ネイコス フィリア、今日はヴァルプルギスの夜だね。
 祭りの準備は順調? みんな心なしかそわそわしているみたい。
フィリア そうですね。慌てなくても祭りは逃げませんよ。
 まだ日が暮れて闇が空を覆うまで、半刻ほどはあるのですから。
ネイコス 何を作っているの? (鍋を覗き込みながら)……良い香り。
フィリア ソーセージとエンドウ豆とジャガイモのスープです。
 丁度じっくり煮込んで味が染みてきたところです。何なら味見しますか?
ネイコス 良いの? じゃあ、ちょっとだけ……
フィリア 少し熱いので、くれぐれも火傷をしないように。
(フィリア、スープを冷ましながら木の匙をネイコスの口元へと持っていく)
ネイコス ……美味しい。ブーケガルニの風味が良く効いてるね。
 一口飲んだだけでぽっと身体が温まるよ。
フィリア 良かった。私も結構美味しくできたかなと思っていたところです。
 あら、口元が汚れてしまってますよ。口の端にエンドウ豆の皮がついてる。
ネイコス あれれ。(慌てて口元をごしごしと擦る)
フィリア 取れてませんよ、ほら……
 少しじっとしていてください。(手元の布巾でネイコスの口を拭う)
ネイコス (照れ臭そうに目を伏せながら)……他の準備はできてるの?
 あたしはノームと一緒に薪を割って持ってきておいたよ。
フィリア お陰様で大体は。薪はもう十分です。
 後は日が沈むのを待ってから火を焚くだけ。松明も設置が済んでいます。
 はりきっているサラマンダーを近づけないようにするのが大変でしたが。
 ユニコーンは踊りの練習にも懸命なようですから、本番が楽しみですね。
ネイコス 準備万端だね。他には?
フィリア そう言えば、空飛ぶ軟膏なんかも作ってみました。
 たまたま材料があったので。(怪しげな黒い瓶を持ち上げる)
ネイコス (呆れかえりながら)そんなもの作ってどうするの……
 フィリアならなくても普通に飛べるでしょ?
フィリア つい思いつきで作ってしまったんですよ。
 人間の宴なら定番の小道具ですし、折角の機会だからセオリー通りに……
ネイコス すぐそういう変なこと試してみたがる。
 ところで料理は? スープの他にも何か用意してるの?(身を乗り出す)
フィリア ……食いしん坊なんですから。
 ザワークラウト、それから香辛料を効かせた豚の丸焼きに小魚のフライ。
 そしてデザートは煎りアーモンド、蜂蜜入りのアップルパイ。
 スパークリングワインも樽に詰めて用意してありますよ。どうです?
ネイコス (両手を合わせて喜ぶ)豪勢だね。楽しみだなあ。
フィリア お気に召したようなら良かったです。
 聖なる催しとはいえ、結局は楽しむのが肝要ですからね。
ネイコス 待ち遠しいな。早く夜にならないかな。(テーブルに頬杖をつく)
 耳を澄ませるだけでも、もう何処か遠くから魔法の歌が聞こえてきそう。
フィリア (溜息をつきながら)……楽しみには楽しみなんですけど。
 例年通りブラウニーの悪戯が暴走しないか、それだけが心配の種ですね。
(フィリアとネイコス、部屋の外へと出ていく。幕が下りる)


(幕が上がる。サラマンダー、手の中の炎を舞わせて薪に火を灯す。広場を五角形に取り囲む松明にも順に火が灯り、精霊達は歓声をあげる。奥のテーブルの上には御馳走が並べられている)
ブラウニー 祭りだっ祭りだっ祭りだっっっ!!!(じぐざぐに飛び回る)
エーテル ブラウニー、落ち着いて。(杖を掲げながら)
 今からはしゃいでいたら身が持たないわ。夜はまだまだ長いのだから。
 それにしても広場の外は、私の光でも照らしきれないほどの闇夜ね。
ブラウニー こんな日にあたいが落ち着いてられると思うか? 答えはNO!
 せっかくの一年に一度のお祭りなんだぞ! 身体中に力が漲るんだ!
 (目を輝かせ)こんな日にじっとしているなんてあたいの性に合わないよ!
 さあさあ、野を越え山を越え! どこまでも!
 宴に相応しい最高の悪戯を!(どこかに飛んで行く)
ノーム ブラウニーは放っておこう。
 (本の頁をめくる)どうせ言っても聞かないしね。
ウンディーネ それにしても、こうして賑やかなのもたまには良いですね。
 勿論、普段の静かな暮らしも好きですけど。
 小川の流れにだって緩急はあるものですから。
シルフィード ねえねえ、その辺に風をぐーっと巡らせてさ。
 思いっきり飛び回ったりしても構わないかな?
 (そわそわ手足を動かす)何だかその……落ち着かなくって。
エーテル 良いんじゃない?今日はいつもより魔力が濃くなる日。
 少しくらいは風で木の枝を揺らしたり山の岩を転がしたってご愛敬よ。
サラマンダー あたしも妙に血が騒ぐなって思ってたところ……
 何か燃やしたい。火い強めても良いかな。(手の中の炎が勢いを増す)
 焚火の炎が一体どれだけ空高く舞い上がれるか、見てみたくない?
 勿論その辺を焦がしすぎないように、調節は上手くやるから。
フィリア 皆さん力を持て余すのは仕方ないけど、程々にしてくださいね!
 くれぐれも喧嘩が勃発して精霊バトル拡大版なんてことにならないように。
ウンディーネ 大丈夫です。私がそんなことさせませんよ。
フィリア ウンディーネ……(胸をなでおろす)
 こういう時四大精霊の一人が貴方で本当に良かったと思うんです。
ケット・シー (笛を弱弱しい音で鳴らす)……楽器って意外と難しいね。
フィリア トッケが楽器をやるんですか?
ケット・シー 興味本位でやってみたけど、あんまり上手く吹けない……
 練習しとけば良かったかな。もっと小鳥のような澄んだ音を出したいのに。
セイレーン 大丈夫、私の美声の横ではそんな小さな笛なんて脇役だから!
 (胸を張る)さあ、あたしの歌を聞いて頂戴。最初から最後まで。
 この甘美な歌声は、きっと誰の耳にも快く響くはずだわ。
フィリア ちょっと待って! 貴方の歌はとても美声とは……
セイレーン (大きく息を吸い込んで)り~♪ るら~♪
ケット・シー ……(何も言わずに両耳をぱたんと伏せる)
ノーム (苦笑しながら)……相変わらず下手だね。
セイレーン 何それ酷い言い草ね! あたしの歌に感動しないって言うの!?
 そんな分厚くてつまんない本ばかり読んでるから感性が駄目になるんだよ!
ウンディーネ まあまあ落ち着いて、喧嘩はなしにしましょうよ……
シルフィード (手を振りながら)あっ! ユニコーンが準備ができたって!
ケット・シー あわわ。(慌てて笛を奏でる準備をする)
(ユニコーン、颯爽と広場に登場。ネイコスが奏でる『幻想交響曲 第五楽章』の旋律に合わせて、ゆったりとした優雅なリズムで踊り始める)
エーテル へえ、結構良いじゃないの。(軽く拍手する)
 見ているだけで自然と気持ちが洗われていくようだわ。
 さすが聖なる力を以て毒を浄化する力を持つユニコーンね。
ユニコーン 当然ですわ。(自信ありげな笑みを浮かべながら)
 美しい音楽に踊り。これらは私の誇り。私の生き甲斐ですもの。
セイレーン ~♪ ~♪
ユニコーン (動きを一瞬止める)……だけど、あれは何とかなりませんの?
 セイレーンの歌に合わせて踊るのだけは嫌ってはっきり言ったはずですわ。
フィリア 説得はしたんですが……(額を手で押さえる)
シルフィード ねえ、私達も踊らない?(ウンディーネに向かって)
ウンディーネ 良いですね。折角の機会ですし。
 (スカートの裾を持ち上げる)お相手は私でよろしいんですか?
シルフィード 勿論! ウンディーネなら最高のパートナーだよ!
 水と風って相性良いよ。流れ巡る者同士、お似合いだと思わない?
サラマンダー この調子で行くと……あたしの相手はあんたか。
ノーム 僕かい? 待ってくれるかな。
 できれば、本が燃えないように……(無理やり引っ張られる)
(それぞれペアになって、踊りが続けられる)
ブラウニー わっ!!!!!(フィリアに向かって)
フィリア !?(驚いて仰け反る)
ブラウニー うおー! みんな楽しんでるかー!!!
ケット・シー ブラウニーが戻ってきた。
フィリア 戻ってこなくて良いのに……
ブラウニー 早速なんだけど、こっそりみんなの服に落書きしてやったぜ!
シルフィード え、ちょっと待って! 待って!
 嘘っ!? ウンディーネの服が縞柄に!(ウンディーネを指さす)
ウンディーネ シルフィード、残念ながら貴方も同じですよ。
 ほら、リボンに渦巻模様が……
 これは油性マジックですね。落とすのに苦労しそうです。
ユニコーン 一体何が起きたんですの?
(精霊達、それぞれ互いに指さしあったり、マジックの跡を必死に消そうとしたりする。ユニコーンだけは悪戯を逃れられたらしく、困惑しながらその場に立ち尽くしている)
ブラウニー 次の悪戯は何にしようかなー(テーブルの上を飛びながら)
 この黒い瓶何だい? 最初に見た時から気になってたんだ。
 何か面白いものだったり?(蓋を開けると早速手に薬を塗ってみる)
フィリア あっそれは……
ブラウニー ふむふむ。特に変化は……あれ?(不確かな軌道で飛ぶ)
 あれー何かふらふらするーまっすぐ飛べないー目が回るー
 あたいは誰ー? ここはどこー??? ぐーるぐるー
ケット・シー (小声で)フィリア、確か空飛ぶ軟膏って。
 本当に飛ぶんじゃなくて毒物の効果で飛んでる気分を味わえる薬じゃ……
フィリア 一応私の作ったものは、本当に飛べますよ。
 まあ毒物には変わりありませんが。見たところ良く効いていますね。
ケット・シー 何でわざわざそんなものを……
フィリア 取り合えず、ブラウニーの悪戯の被害を減らせたし……
 結果オーライということでは駄目でしょうか。
エーテル (辺りを見渡しながら)……ねえ、そう言えば。
 ずっと気になってたんだけど、ネイコスがいないような。
フィリア そう言えば……見かけないですね。
エーテル 探しに行った方が良いかしら?
フィリア ……いえ、大丈夫です。私が探してきます。
(フィリア、慌てて広場から出ていく。幕が下りる)


(幕が上がる。フィリア、暗がりの森の中を松明を持って小道を歩いていく)
フィリア ネイコス? ネイコス? いたら返事をしてください。
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす。フィリア、少し早足になる)
フィリア ウル ニイド ベオーク 我が望むは……(言いよどむ)
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
フィリア この辺り、別の魔力の気配が濃厚に……流れがかき消される。
 早くここから離れないと……
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
声なき声 (上方から)こんなところに魔女が。本物の魔女だ。
 魔女狩り以前なら嫌というほど見かけたものだが。最近では余程珍しい。
声なき声 (下方から)今日はヴァルプルギスの夜。
 魔女の一人や二人見かけても不思議はない。
 あっちの広場で宴をやっているようだが、賑やかなことだ。
声なき声 (右方から)全盛期のブロッケン山と比較したら。
 随分とまあ、慎ましい宴だ。魔女の宴なのに悪魔はいない。
声なき声 (左方から)魔女が必ず悪魔と手を結ぶなんて偏見甚だしい。
 数世紀前の魔女狩りに右往左往した愚かな人間共と同レベルだよ。
フィリア 私がちゃんと周囲に気を配っていなかったものだから……
 ネイコス、お願いだからいたら返事をしてください。
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
声なき声 (上方から)魔女の時代は遥か遠い昔に終わったはずなのに。
 未だに本物の魔女の宴が開かれているとは驚きだ。
声なき声 (下方から)それもただの魔女じゃない。彼女の背を見ろ。
 膨大な魔力の中に厳重に隠されても、尚淀みの中で燻る灼熱の翼を。
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
フィリア ネイコス、そこにいるんですか?(振り返る)
 ……おかしいですね、声が聞こえたと思ったんですが。
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
声なき歌 (右方から)いかにもか弱い人間の少女の容姿のその魔女は。
声なき歌 (左方から)星の数ほど幾多の年月を過去という振るいにかけ。
 また星の数ほど幾多の年月を未来という鏡に映す。
声なき合唱 (全方向から)多くの運命を重ねすぎたその魔女は。
 善と悪、欲望と虚無。
 真と偽、秩序と混沌。
 その全てからただ逃れ去っていった。
フィリア (俯きながら)私は……
 (はっと顔を上げる)ネイコス? ネイコス? どこにいるんです?
 お願いですから、いたら返事を……
(強い風がざわざわと周囲の木々を揺らす)
フィリア 私は……私は大丈夫です。だって私は貴方がいれば。
 貴方さえいれば他には何も望まない……貴方さえいてくれれば。
 ネイコス……
(フィリア、光に包まれながら確かな足取りで森を抜けていく。幕が下りる)


(幕が上がる。フィリア、茂みの中で座り込んでいたネイコスを揺り起こす)
ネイコス (うわ言のように)フィリア……
フィリア ……こんなところにいたんですね、ネイコス。
ネイコス ん……? (驚いたように)ここ、どこ?
 あたし、どうしてこんなところにいるんだろう。
フィリア 広場から離れた、随分外れの方です。
 ……本当に心配したんですよ。
 今日は世界の境界が曖昧になる日ですし、余計に。
ネイコス (あくびをする)ごめんね。広場に向かおうと思ったんだけど。
 何となく一人で空を眺めていたら、いつの間にか時間が経っちゃって。
フィリア さあ、行きましょう。(手を差し出して)
ネイコス (差し出された手を取る)……うん。
 あ、でもちょっとだけ待って。
 もう少しだけ、ここにいたいな。フィリアと一緒に。
フィリア ……仕方ないですね、良いですよ。(ネイコスの隣に座る)
 でも本当に、少しの間だけですからね。
ネイコス 星、綺麗だね。手で掴めそうなくらい。(何気なく手を伸ばす)
フィリア ……そうですね。雲一つない夜ですから。
ネイコス ねえ、フィリア。
フィリア 何ですか?
ネイコス (フィリアに軽くもたれかかりながら)……何でもない。
(幕が下りる)


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作者名: 登場ゴースト:

或る先輩の停滞。


 眺める天井は、いつだって蒼かった。
 無論茶色かった。
 木目たくましい梁が水色であれば、いっそ僕だって当然文句の付けようがあった。そういうハナシでは当然ないのだ。
 頭の先からぴぃーと伸びる気持ちの糸の先では、むくつけき兄が前ともつかぬ後ろともつかぬ、まこと妖しき立ち姿のまま靜かに深くむくつけき吐息を吐いてはその無意味に分厚い胸板に吸い込んでいる。この糸を切ってしまえばあの虎はこの白魚のごときたおやかな肌に矢も盾もなく喰らい付いてくるだろう。
 どだい勘違いされがちだが、いわゆる武道や武術というものを修めた人間がもの静かなのは、決して精神的に成熟し、ヤア争いなぞは無意味なるや。我こそ大道を悟ったりなどと。
 いいかい、そんなことは決してない。決してないのだ。
 あの清寂というのは目の前にあるあの大虎の野蛮さだ。見よ、その真一文字の口はいかな時なれど肺を一息で空にせしめる深くも浅い呼気であり、その目はこの無防備でやわらかげな、脂肪もなくまた筋肉もさしてないぽよんとしたおなかのどこを食い破れば一息に致命に至れるかと、そんなことばかりを一心に考えている目だ。それを実行に移す気などさらさら無かろうけども、それはそれとしてそういうことを自然に考えているぞっとする目だ。
 いま天井が蒼く見えるのは、思い切り投げ飛ばされたことによって僕の目はいぐさの匂いを直に嗅げるほど地に近く、天井は天井でありながらまるで天蓋のように無限の広がりを得ているからであって、またそれはそうであって尚、思い切り投げたということを投げられた者に感じさせないほど手加減できる者の至る極致でもある。そういう投げを打てる人間というのはただ一心の信念を言い訳に武という楽土に己を捧げた人間のみだ。もしくは一心不乱に身体を動かして責務から逃れる女々しい算段でもある。
 手刀が円弧の余韻を残し身体の前に据えられている。今しばらく床に寝転がれば、不覚を指摘しながら我が兄は足刀を打ち下ろしてくるだろう。それはとても痛いので、そうなる前に、仰向けに転がっていた僕は首を支点に身体を畳んでくろんと後ろに転がり、起き上がると彼に向き合った。遅れて黒い袴、さらに遅れてひっつめに縛った蒼銀の髪ががぱさりと黒白の円弧を描く。後ろ回りの勢いを脚に矯め、垂直に立ち上がった僕の、既に目前に居た彼は、起き上がったばかりの僕の胸の中心、胸骨のあたりを軽く押す。倒れる事なし。
「良し」
「…………」
 ふぅふぅ、と、荒くなる息をいじらしく常駐の呼気の中に収める。
 なにがよしだ。
 えらそうに。
 そういうことは言わない。
「では座技を行なって終いにしよう」
「はい。」
 僕はその日、畳張りの稽古場に踏み込んで初めて口を利いた。
 そして最後の座技呼吸法で、三度にくたらしき兄を畳に転がし、十度転がされた。
 最後に一回、肩を極められたのは壮大ないやがらせにちがいない。
 
―――

 そもそもなぜ我が家がこうして、平らき世の中にあって武というものを継承しているか、という話。
 もちろんカルチャースクールやなんかで簡化太極拳をふんわり習うマダムやご老人とはいささか趣きが異なる。
 遡ることナントカ百年、この地がむにゃむにゃした名のナントカ藩であった折のこと。
 そもそも我が家というのは農民の身分でありながら無要にやんごとなき扱いを受けていた。
 というのも、我が家はかつてたいらの氏持つ落人であったからであるとまことしやかに言うものもいる。宮澤なる不相応にエラそうな名前を冠しているのがそのせいと言うものもいる。それが真実かは知らないし、どうでもいい。
 しかし所詮豪農、金とメシと働き口という大きな力こそ持てど、金持ちばかりが強いわけじゃあない世の中も当然あった。金を持っているから強い奴と強いから金を持っているの違いの話だけどそこはぼやかしておく。
 とにかく、我が家には帯刀するだけの理由があったのだということだけを覚えてくれればそれでいい。
 そして刀があるからにはその遣い方もあり、また伝統というものは大事なのだ。腰を低く落としたまま動いたり、足を地から離さず動かす技というのはまた大変古い身体操法であり、これもまたムラ社会につきものの祭、特に神楽なぞを見込んだ若者に伝承する際、最初から基礎が叩き込まれているので大変よろしい。農民剣法というと馬庭念流なぞが大変有名だけれども、あれに限らずかつて先祖が鍬を槍や刀に持ち替えていたという事実はまた、村そのものに対する多大なる自信にも繋がる。若者ウケもそれなりに好い。なにせ格好良いのだし、周囲の身体のでかいだけに見える人間たちが、なぜ“大人”とか呼ばれているのか、身をもって感じることができる。無論多少の実入りにもなる。
 なにより、武術というものは“面白い”。
 自分か普段、いかに漫然と己の身体を動かしているのかを実感するのだ。
 本を読むという行為が、常から使っている言葉というものを通して新しい可能性を探るものなのだとすれば、武もまたそれなのである。
 そんなわけで、その練習をすること自体に抵抗はない。
 ただそれも、休むまもなく10回も20回も頭の方から投げ落とされなければの話だ。
「文恵様、お加減はもう好うございます?」
「うん……ありがと、トミさん。様はやめて」
「それは何よりです。やめません。でも、武嗣さんはもうっと加減をするべきじゃありませんか?」
「ときどきそう思うけど、大体そうは思わないね」
「真面目でいらっしゃるのね」
 ちっともそう思っていない様子でトミさんが顔を顰めた。白と黒が丁度良い塩梅で雑ざって囲炉裏の灰のような色になった髪をきっちり結い上げていて、うなじの見え隠れしている着物は衿が綺麗に抜けていて、それが婀娜っぽい。もう随分な歳の筈なのに、まだ40かそこらのようだ。垂れた目で人をじっと斜に見るのが、睨んでいるようにも、挑発しているようにも、また懇願しているようにも見えてくる。
「そんなでお嫁の貰い手がいなくても、知りませんからね、私」
「……今のとこ、その予定はないから安心してほしいな」
「あらイヤミったらしい。そういうところは旦那様にそっくりです」
 イヤミってわけじゃないのだけど。
 全体、僕が彼女にそんな不義理をするわけがない。
 稽古が終わって、更衣室に籠るなり背中が痛くて踞まってしまった僕の――宮澤 文恵という名の少女の、苦し紛れの罵倒を聞き付けて目の前で年甲斐もなくぷんすかしている彼女が氷嚢を持ってきてくれなければ、僕はもう小一時間畳に顔を押し付けていたに違いないのだから。
 そしてそういう恩が無かろうが、僕が手放しで頭が上がらない数少ない人間が、彼女吉岡トミさんなのだ。
 本家宮澤家において、お手伝いさんはその時々によって人数がよく変わる。それは収穫だとか、祭事だとか、臨時の人集めが多いからだが、それを置いても我々のような子供たちの教育の為、わざと雇う人を減らすなんてこともある。景気の悪いような時分には、言うまでもなく減る。農家は自然のご機嫌によって財産が如何様にも変わる。それはどんなに財産を持っていても変わらない。ただ、少しばかし、ダメな時期に生き残れる可能性が高いという話だ。
 そしてトミさんは、不作の時も、病気が流行った時も、その昔を遡れば海の向こうから爆弾が振ってきた時からずっと、彼女だけは変わらずこの家に居続けてきた。僕にとってはまさに祖母や母親にも等しい存在であり、兄にとってもそうであり、また僕の父やその兄弟にとっては母であり、祖父らにとっては姉妹のような存在であったのだろう。
 今もこうしてだらだらと彼女の作った、スポーツドリンクの粉をとかしたやつをちゅっちゅぱとやっている僕にとってはだから、彼女の頼みというのは断ることなどできない存在なのだ。
「文恵様」
「だから、よしとくれよ、誰が聞くかもわからない」
「それは失礼。ですがよしません」
「よさないと、今から僕ぁ耳ふさいで寝ちまうぞ」
 だから、人心地ついたあたりで彼女が何かを伏し目がちに申し出てきても、まあ、断りようも無い。
 無いのだが、そこはそれ。これはこれ。僕にだって譲れない一線はある。
 彼女が僕のお願いを聞いてくんないなら、これでトントンだ。おまけに目の前でうら若き美少女問題児が汗塗れで着替もしないまま寝こけて冷えて行くのはお世話焼きの沽券にも関わるだろう。我ながら完璧すぎる作戦で自分が怖い。
「わかりましたよ、文恵さん。わかったのだから、そんな意地悪言わないで」
 かくしてまた僕は勝ってしまった。

 トミさんは独り者だ。
 独身というのではなく、本当に身寄りがない。
 親子三代に渡り、何かしら、養子にでもなってうちの籍に入ってはどうかと言ってきたのだが
「どうせ余所に行きやしません。同じですよ。
 ご親戚に申し訳が立ちませんから、どうかこのままにして下さい」
 などと言って憚ることを憚らない。
 どこか栄誉ある孤高を楽しんでいるようですらある彼女だが、それだけに皆に優しい。
 特に子供にはとりわけ優しい。自分の手のかからなくなってしまった人間から順に、それはもう一人前として打てば響くツンケンぶりを披露するのだが、それの中にも愛情はきちんと感じられる。それはもう僕なぞ目に入れても痛くないくらい贔屓されているのだが、今回は僕とは別の問題児の話。
 何の特別さも無い玄関を潜り、二階に上がり、廊下をしげしげ眺める。
「ははぁ。要塞だなぁ」
「本当にすみません、うちの子が、どうも」
 このうちのお母さんなのだが、僕の少し前を案内しながら、それはもう恐縮しっ放しなのだ。
 何せ対外的にはしごく立派なお嬢さんで通っているこの僕に手間をかけさせるのだから、そうもなろうというのだが、何せこちらはトミさんの頼みなのだし、それは先方も承知だろう。いつか我が家は彼女にのっとられてしまうのではなかろうか。
 やんぬるかな。
 廊下は非常に混沌とした有様で、少年どころか児童が読むような雑誌だの(ふろく付のやつだ)、これまたいつのものかとんと思いつかないおもちゃだの(何と超合金だ)、あげくおしゃぶりやおむつの類いのようなもの(紙テープのやつだ)まで雑然と転がっていて、思わず「おたくはこんなに小さなお子さんがいましたっけ」と呟いてしまった。
「もちろん、居ませんよ……あのおもちゃなんて、私、よく覚えています。とっても昔、あの子がよく遊んでいたもので。とっくに捨てたはずなのに」
 ふぅん。と鼻で生返事をしながら、足を一歩、階段から廊下に上げた。
 とても何だか、もさもさした感じがする。これはそうだな、毛だ。やわらかくてあったかくて、子供という子供と、たまにうっかりその毒牙にかかってしまった大人もついでに魅了する魅惑の体毛だ。くまの毛だ。
 足を階段に戻すと、毛だらけだった僕の足は、元通り白魚のような美しい足に戻った。
 よかった、毎日綺麗に剃刀を当ててるのだから滅多なことがあっては甲斐がない。ともあれどういう状態になっているのかはわかった。
「賢木のおば様、これは宮澤に持ち込んでくださってよかった。
 あんまり、よそ様にもするお話でもないでしょうし、すぐ済ませてみたいと思います」
「ああ、有難うございます。息子がとんだ御迷惑を」
「佳いのです。務めですから。少しうるさくしますが、誓って階下に居てやって下さい。石刀さんも、女に負ける姿を御母様には見られたくないでしょうから」
「承知致しました。どうぞお納め下さい、宜しくお願いします」
 そう言うと、恐縮しっ放しの彼女は、一瞬きっと鋭い視線を廊下の方に向けたのだが、盆に乗せていた酒を階段の一番上の段に置くと、そそと下がって行った。彼女が充分に離れるのを見て、それから僕は、徳利から猪口に一口注いで、もごもごと濯ぐ様に飲み干した。
「あ、美味しい」
 お兄ちゃんの野郎が仕事をよこす度に事務的によこして来るしょうむない酒と違って、香り高く上品な甘さがある。これは帰りに瓶ごと頂いて帰らねばなるまい。そうなればサッサとやっつけて帰るに限る。
「おっと、君、そんなとこに居たのか」
 ふと僕は、廊下の隅っこを見る。
 そこに転がっているものが何なのか、わからない方がおかしい。
 だから僕は、あえて確信を得るかのように、自信に満ちた声を放った。
「何、すぐに済むさ。別に何事もない。“僕はいつでも、僕だ”」
 僕が言葉の端に玉の緒を乗せる時、その声はどこからともなく響き何所へとも無く去って行く。くわんくわんと響かせながら廊下に踏み出す。手を廊下に差し入れる。頭も突っ込む。まるで階段と廊下に見えない透明の膜があって、それが僕にまとわり付くかのようにふわんわふんとした風が吹く。僕は丸きり毛玉になっていた。これはもうクマ界にミスコンがあったら必ずミスクマであろうところの絶世のかわいらしいくまのぬいぐるみ、体高30cm前後なり。ぽすんと尻もちをついてあいらしい熊のポーズを思わず取ると、呵呵大笑がどこからともなく聞こえてきた。
「やあ石刀、久しぶりじゃんか」
「うるさい、いつも猫っかぶりやがって。俺たちはみんな知ってんだぞ」
「麗しきかな幼馴染みの友情だね。でも大人は僕を信じるよ」
「ほんっと、お前、嫌いだ」
「そんな調子でいるから、こんなせせこましいところに籠もりきることになるんだろうが」
 声は上からでもあり下からでもあるようだ。出所が掴めないが、若い男の声だ。よく知っている声ではあるが、僕の知っているこの声は、こんな増上慢に満ちてはいなかった。
「いつまでも君が君の兄君に勝てないのはよぅく知っているがね。だからってまじないに手を出せば手っ取り早いとでも思ったかね。言っとくが、ここら一帯のこういうのの管理は、宮澤の仕事だ。つまり僕だ。え、君。僕にいっぺんでも勝てると思ったことがあるかい? あっちから逃げて、こっちから逃げて、そんなもので勝てるのかい?」
「黙れ」
 憎々しい、でも、憎悪というには足りない。
 口惜しいのか。もしくは、その憎らしさは、誰に向けたものなのか。
「えらそうなこと言って、口を利くので精一杯じゃないか。毛玉め。
 だいたい、逃げるだの何だの、お前に言われた義理か。お前だって兄貴に義理立てして、自分が――」
 多分、その口上は、僕の隙を突こうとしたのだろう。何のかの言って、僕が本当はこの廊下の力をいつでも撥ね付けて、元に戻ったりできるかもしれないことを考えていたのだ。その慎重さはあっぱれだが、その先を言われたくなかったので、尻の反発力に任せてもすんと立ち上がると、そのまま目の前に転がっている超合金のマックロなロボットの顔の上に尻を落とした。何かもがもが言っているが、気にしない。慌てて払いのける気配を感じて、その前に華麗に尻でジャンプした。
「やっぱり動けたんだな! けどヌイグルミでロボットに勝てるかよ!」
 勝ち誇った声。きっとこの廊下にある物々にはたくさんの、何か象徴する感情はあるのだろう。
 その中でも、このロボットはきっと別格だ。何せ心が入っているのだから。力とか、無敵とか、そういう何か、彼にとって絶対の何か。
 きっと彼は、誰か、何かに唆されたのだろう。それを知るのは今じゃない。今するべきなのは、この間違った象徴を叩き折ってやることだけ。
 きっと人体にだって痛みを与えられそうな右の鉄腕が唸りを挙げて眼前に迫る。同じく僕は愛らしい毛玉の左手をすっと差し上げた。真正面からぶち当たれば破れてナカミが飛び出てしまうが、横から優しく手のひらでもすんと受け流す。そのまま背中を合わせるように、僕は足捌きで回る。ロボットの身体は頑強で、硬く、重く、そして動き辛い。それに比べればぬいぐるみの柔軟さはいっそ理想的とすら言えるほどであった。くまちゃんは素早くロボットと背中合わせになったまま、腕を振り上げて背中合わせにがっちりロボットの首をホールドする。
「君は無敵のロボットじゃないよ。 ……それに、僕はかわいらしいぬいぐるみでもない。僕なんだ」
 せめてもの手向けの言葉と共に、腰を落とす、首を前に引落す。充分に崩れたところで、腰で思いっきり跳ね上げる。
 そのまま前に投げ飛ばすつもりだったのだが、僕は何せやわらかいクマちゃんだったので、結局ブレンバスターのように頭のてっぺんから落としてしまった。
 廊下に穴が空いたかも。奥さん、許してくれるかな。
 彼の心配よりも、僕は先ず、そのことを考えた。
「ほんっと、かわいくない奴」
 身体が毛玉を捨てて僕に羽化する直前の意識の暗点、その際に、そんな声を聞いたような気がした。
 多分気のせいなのだろう。

―――

「やあ、君。
 あ、そのまんまでいいよ。僕はもう戻ったけど、君はまだそのまんまだろ?
 しかし人が悪いね、君は。あんな格好で廊下に転がっていたから、一発で僕ぁ君とわかってしまったけど。
 まったくできた後輩だよ。ほんと。言っておくけど、褒めてないからな?
 ……まあ、彼はね。ちょっとその昔、中の良い友達だったんだけど。
 良い奴なんだけどね。少し、停滞の仕方を間違えちまったんだろう。
 永遠の今日を繰り返したい気持ちは、わからんでもないよね。
 けど、楽しいことって明日がないと来ないんだ。
 理性だ感情だ、もっともらしく対立させられるけど、感情のやつだって、なかなかどうして捨てたもんじゃないよ。
 理屈は矛盾を許さないけど、感情は相反した気持ちを承知の上で抱え込むんだから。
 選んだことのうちどれが正しいかなんて、自分で選んだのが正しくて、それ以外が正しくないなんてこともないんだよ。
 そういう意味では、彼はバカな問いかけを僕にしたよね。
 間違いだとわかっていて、しまっておいた気持ちを、これがお前の本心だなんて、阿呆らしい。
 御承知千万恐れ入谷の鬼子母神だよ。
 僕は、選ばなかったんだ。
 それが全てさ。
 ……さて、そろそろ口を利けるようにもなるころかな?
 こんなところにまでついてきてくれたツケは、どう払ってもらおうかな。
 トミさんならきっと君のことをえらく可愛がってくれるだろうな。
 何せ僕の可愛い後輩なんだもの。
 きっとそうに違いないさ」

―――

 ですから、どうかお願いいたします。
 いつなりと幕を引くつもりで居ますから。
 その時まで、きちんと後輩でいてさしあげて下さいな。
 こんなところまで着いて来てくださる貴方ですもの。信じていますよ。
 帰りはお送り致します。

 そんなようなことを、僕のうちで夕食を食べ、さあ駅まで送ろうと僕が満腹とほんのり熱い頬を頼りに重い腰を上げたところで、トミさんが言った。
 彼女の言うことは、時々むつかしいのだ。大事なことを言っているような気はするのだが、それがどう大事なのかいまいちわからない。
 でもきっと、大事なことなのだな。そう思ってくれて違いはないはずだ。
「そう言えば、きみ、何であんな姿をしていたんだい?」
 でもその言葉が、あんまり僕をないがしろにしていたので、ちょっと仕返しをしたくなった。
「あの結界はさ、君、心が溯る力を動力にして動いていたんだよ。君に限らず心の川には、あえて逆向きにしか回らないくせにとっても力の出る水車があるんだな。
 そうするとあの姿は君の心が遡ったところにある、逆説的に言えば力の源本だな。井戸の滑車とも言い換えられるかもしれない。
 僕の姿はアレ、石刀くんは僕を知っていたから。過去の支点に僕という物差しはあったわけだけど。彼は君のことは知らないだろう。そうすると、あの姿というのは君自身の心のたどりつく過去なわけだな。
 ん? 僕? 僕は何だか忘れちゃったよ。おっかしいなぁ。
 もしかしたら哺乳びんか何かだったかもだし、きせかえニンギョウだったかもだし。ああ、おねしょの布団だったかもなぁ?」
 ニヤニヤ笑うと、君は少し口籠る。それが嬉しくてまた僕は笑う。
 ほら、教えておくれよ。
 君は小さな頃、どんな子供だった?
 何が好きで、どんなものが怖かった?
 うれしいことはあったかい? 悲しいことは?
 いいじゃないか。教えてくれよ。
 僕と君の仲だもの。
 まだ駅に着くには遠いのだ。
 お話をする時間くらい、あるのだから。


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作者名: 登場ゴースト:

四ツ辻の魔女

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          [Diary]
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23 Mar.
 雨。
 仲間が馬車に泥をはねられて鼠のようになっていた。
 場所は例の四ツ辻――市場へ行く街道から一本裏に入
 った薄暗い馬車道だ。
 
 あそこを通る御者は乱暴なので、
 通行人にはお構いなしなのだ。
 私も気をつけないと。
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5 Apr.
 雨。
 また四ツ辻でけが人が出た。
 
 けがをした子の話によると、
 あと一歩で壁にシミになるところだったらしい。 
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18 Apr.
 雨。
 あの子はもう箒を持てないだろう。

 あのひき逃げ犯はもしすると
 女の掃除人を標的にしているのかもしれない。

 だとしたら
 ただただ気味が悪い。
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1 May
 雨。
 あの子も死んだので、
 とうとう私があの四ツ辻の担当になりました。
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30 May
 曇り。
 あんまり私が怯えるので、
 掃除人みんなでお金を出しあって
 アミュレットを買ってくれることになりました。
 「お前が身につけるんだから」ということで
 買い出しは私がすることになりましたけど……
(追記)
 得体の知れない相手は、こわい。
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31 May
 晴れ。
 朝早くに四つ辻の掃除を終えた私は、早速
 アミュレットを買いに市場へ出かけました。

 前もって場所を聞いていたので、
 その露店はすぐに見つかりましたが
 その店の主が見おぼえのある――私たちに
 お金をくれたことのある女の人だったので、
 私は気が緩んでしまい挨拶もなしに
 「いちばんいいのをくださいな」と
 言って、彼女を面食らわせてしまいました。

 結論から言えば、
 魔女さんはたいへん気さくな人で
 そんなこと気にしなくてもいいよ、
 というふうに笑いながら、
 手持ちの中では一番出来が良いという
 小石や、魔力を込めたばかりだという
 小石や、その他あれやこれやの小石を
 見せてくれました。

 私一人の買い物ではないので
 いろいろ思案しましたが、
 結局、私は最初に見せてもらった
 小石を買うことにしました。

 「おいくらですか」と尋ねると、
 魔女さんは少し考えてから
 「1シリングです」と言いました。
 私は「箒が四本買えるなあ」とは言わずに
 ただ「買います」と言って
 たっぷりの小さいコインで支払ったのですが
 コインを袋から取り出すたびに
 私がちょっと泣きそうな顔をするので
 「本当はもっと安くしたいのですけどね」
 といって魔女さんは困った顔で笑うのでした。

 帰り際、
 「落としたらいけないですから」といって
 魔女さんはお守り袋をくれました。
 中に何かが入っているらしく、
 その袋はなんだかもこもこしていました。
 ねぐらに帰って中身を確かめると、
 中には飴玉が数粒と、
 見覚えのない小石と、
 「危なくなったらこれを強く握りなさい」と
 書かれたメモが入っていましたので
 
 あの人はたいへんよい人だなあと私は思いました。
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1 June
 曇り時々雨。
 
 今日は四つ辻掃除人はお休みにして
 花を売ることにしました。

 市場で花を仕入れたついでに
 魔女さんの店に寄ったのですが
 あいにく魔女さんは不在でしたので
 メモと一緒に
 ニオイアラセイトウを一本置いておきました。

 夕焼けが赤黒いので、明日は雨だと思います。
 稼ぎやすいのはよいことですけど
 雨の日は嫌いです。
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(このページは破り取られている)
 
 
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Monday 3.



魔女の日記を拾った。

クソいまいましい魔女め。
馬車を台無しにしやがって。
しかもあの女、馬で踏んづけようとしたら
煙のように消えやがった。

まあいい。どうせ明日も雨だろうよ。
夕焼けがあの女どものように赤黒い。
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(以降のページには何も書かれていない)


(日記帳の背表紙には「これは証拠品である」
 という旨のスタンプが捺されている)


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作者名: 登場ゴースト:

コモンズの箱庭

 いつもの服、いつもの状態。立羽がふと気づいたときには既にそうなっている。最近、場所が子供のころ何度か行った公民館の貸し部屋であることが多い。それはきっと、別の人と会うことへの意識からなのだろう。今日もまた、10人程度なら座れそうな畳の部屋にいる。
 現状を認識している間に、立羽以外にもう1人、誰かがいつの間にか立っている。
「あ、こんばんは。私も今来たところなんですよ。今来たって言い方も変ですけど」
 明晰夢のような固定された夢の中でいつも出会う人物が今日もいた。
 ただ暇を潰すよりもよほど良いと思って会話をすることにしたものの、夢の中であるという意識のせいか、色々な過去、思いまで話してしまっている。人によってはあまり良い顔をしない話題かもしれないが、目の前の人物はなんでも聞いてくれる。相手もまた同じような夢を持て余していたのかもしれない。
 今日はそんなことを話題にしている。
「ここが夢の世界だって分かるのは、何もいないし何の動きもないからです」
 自身の帽子の縁を指先で軽くなぞりつつ、立羽は話を続ける。
「窓もドアも開かないし、ここにあるものも動かせない。これってやっぱり夢だからなんでしょうね」
 起きている間に調べ考えたことを話し合う。時には相手にも訪ねたりしつつ、この不思議な夢が困惑の時間から変化していっているのを彼女は感じている。暇で退屈な時間は、雑談やお互いのことを語り合う時間に変わった。人にあまり深いところを見せない立羽にとっては、一歩退く必要がなくなんでも言える相手というのは気安い関係でもあった。
「以前に少しお話しましたけど、私が夢でいる場所は、記憶にあるどこかなんです。以前通っていた学校だったり、引っ越す前の実家だったり……。昔に住んでいた家の中も、タンスやクローゼットはあるんです。記憶のとおりに」
 いつも以上に饒舌になっているのを、きっと彼女は自分で気づいていないだろう。相手との間に見えない境界線を常に張ってしまう彼女であっても、夢という非日常の舞台はその線引が出来ない領域であるようだ。そのため、普段なら突拍子もないと飲み込んでしまう考えも躊躇せず話している。
「見ててくださいね」
 襖障子に手をかけて引いても全く動かない。まるで壁に描いた絵のようである。開かないことを見せるために多少オーバーに体を傾けて見せ、そのはずみに帽子がぽとりと落ちる。これもまた、普段ならここまでのリアクションをしてみせることもないだろう。
 帽子を軽く手で払いながら被り直すと、目の前の人物にも開けてみるように訴える。もちろん、それが開くことはなかった。
「やっぱり、いつも通りですね。私は開かないものって思い込んでたので、もしかしたら今なら開くかもって思ったんですけどね」
 あはは、と少し苦笑しながら、立羽は続ける。
「もっと、何かが……きっかけのようなものがいるのかもしれませんね。この部屋だってこんなリアルに見えるわけですから、きっと外にも行ける気がするんです」
 彼女が両手を少し広げてアピールする通り、和室は現実にあるものとほとんど相違がない。彼女は足裏に伝わる畳の感触も覚えているし、それだけに部屋の外が無いなんてことは考えられなかった。
「でもまだ、どうにかする方法もないんですよね……」
 立羽は1つ溜息をついて、がっくりと肩を落とした。
 夢というよりはスタジオのセットのような閉鎖された空間。ここが一体なんなのか、それは彼女たちには分からない。人知を超えたなにかかもしれないし、ただの明晰夢にすぎない可能性もあれば、2人の脳波がラジオのように共鳴しているなんて状態なのかもしれない。ただそれでも、夢を見始めるとこの不思議な場に誘われることだけは事実だ。原因はなんであれ、ともかく事象としてこの場は現れる。原因究明をしようにも、確実な資料もなければ話を聞ける専門家もいない。結局、あるものはあるのだから仕方ないと判断するしかなかった。
 それから、また、全然違う話へと移っていく。雑談はとりとめなく、ふとした単語から別の話題へと移り変わる。
「記憶の宮殿って、知ってますか? 記憶法のひとつで、私も試験が暗記メインのときに使ってたりするんですよ」
 彼女は少しばかり胸を張ってそんな話を始める。講義の補助として学内バイトもこなす彼女は、そういった人に何かを教えることが好きなように見える。
「私がよくやっていたのは、覚えたいものを、自分の知っている場所に置いていくっていう方法です。知ったのはインターネットで見たページだった気がします」
 おとがいに軽く握った拳を当ててやや俯き、記憶を思い起こしている。帽子と相まって、そのポーズは探偵のようにも見える。
「そうですね……例えば、元素を周期表の順に覚えたいとして、場所は自分の実家だとしましょうか。玄関から入って、自分の部屋までの道のりに覚えたいものを置いておくんです」
 顔を上げて彼女は語り始める。流れるように話すのはやはり講義の経験の差なのだろう。
「水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム、ホウ素、炭素、窒素……。それらを順番に覚えることにしましょうか」
 指を立てて順番に元素を数え上げると、目を閉じて再び語り始める。
「家の玄関を開けると水槽がおいてあります。その中には、パーティー用のヘリウムガスのスプレーが沈んでます。水槽のガラスにはリチウム電池が貼り付けてあるんですが、それがベリリっと剥がれて落ちそうになってます。玄関を上がると足元にホウ酸団子が置いてあって、タンスが質素な感じに置いてあるんです」
 訳の分からない光景としか言いようがない。聞き手が呆れ顔をしていると、自分でも気づいたのか立羽がはっと目を開く。
「……何言ってるか分からないかもしれないですけど、自分が分かればいいんですよ。そういう変な光景を考えると、インパクトが強くて覚えやすかったりするんです」
 少し赤い、照れくさそうな顔で慌ててそのように弁明した。
「それで、この夢って記憶の宮殿の中なのかなって、ふとそんなことを思ったんです。懐かしいと思って、今この夢の中なら考えたら本当に出てくるのか、大学の講義で習ったことでやってみたんですよ。それで、さっきみたいに想像してみたら、本当に出てきたんです」
 少し興奮気味に、言葉を紡ぐ。何も出来ない何も変わらない空間だと思っていたのなら、それは確かに驚きだろう。
「でもあんまり具体的なものって思い出せないんですよね。例えばですけど、10円玉の模様、今すぐに思い出せますか? 単語だけ覚えてるようなものだと、デフォルメしたようなものになったりするんです。動物園や水族館で見る生き物も、細かいところまで覚えてるわけじゃないですから。イルカを思い浮かべたら、イルカのぬいぐるみが置いてあったことがありますよ」
 それはそれで可愛かったと、表情で彼女は語る。条件は分からないが、物を出せることもあるのかもしれない。
「でも、そうやって夢に新たに出てきたものも、やっぱりそこにあるだけで動かせないんですよね。違和感はあるんですが、現代アートのように、1つのものになっているというか……。さっきの元素の周期表の話なら、スプレー缶が入ってて電池が貼り付けられてる水槽っていう1個のまとまりが置いてあるような」
 そこで話を区切ると、はぁと溜息をつきながら続ける。
「最初は面白かったんですけど、だんだんそれも飽きてきちゃって。だから今度は、この世界に話し相手がいたらなって思って想像をして時間を潰すようになったんです」
 立羽はちらりと目の前にいる人物を見る。
「最初はほんとにびっくりしたんですよ。そんなこと考えていたもので、もしかしたらイマジナリーフレンドなのかもって思ったりもして。あ、イマジナリーフレンドって、想像上の人格のことです。悪化すると二重人格のようになってしまうって大学の般教で聞いたことがあります。もちろん今はもうそんなこと思っていませんよ」
 手をぶんぶんと振りながら否定する。
「夢は深層意識で繋がってるなんて話をレポートの調べ物をしてて見たことあります。最初は信じられなかったんですけど、今は少し信じてしまいます。こうして2人で同じ夢を共有してるわけですし、ね」
 立羽は窓の外を見やる。視線の先には穏やかに晴れた町並みが見える。しかしそこに一切の生き物はおらず、また風も吹いていない。まるで静止画のように、完全に静まり返り、ただあるだけの光景が広がっている。
 外には何もないのかもしれない。窓というものが、外の景色が見えるオブジェクトとして解釈されているだけで、スクリーンのように外の景色のようなものを写しているにすぎないのかもしれない。しかしそれはあまりにも無味乾燥すぎる。恐らくその疑問にはお互いにたどり着いているのだろう。それでも、言わない。言ってしまえば、ここが完全な密室であり、夢の牢獄にとらわれているにすぎないと意識してしまう。
 数瞬の間、窓を見ていた立羽が話を再開する。
「わからないと気になってしまうんですけど、この夢自体がよくわからないものですからね。もうちょっと出来ることもあるのかもしれません。でもしばらくの間は、こうしてお話出来るだけでいいかなって気分なんです」
 この夢の正体がなんであろうと、一定時間の後に目覚めを迎えることは確実だ。そうであるのなら、原因などどうでもいいのかもしれない。窓の外には穏やかな太陽の光が見えている。そもそも昔の人間は太陽の正体も知らなかったし、その膨大な熱量の理由も知らなかった。それでも太陽の機能を理解し、崇め、利用して生きてきた。それでいいのかもしれない。
 ふっと立羽が肩の力を抜いて、今までよりも柔らかな声で話しかける。
「人と話すことそれ自体は私好きな方なんです。またしばらく、お世話になりますね」
 たたえた微笑は自然で柔らかく、彼女の知り合いが見れば驚くかもしれない。ただそれは本人ですら把握していないこと。
 そしてまたしばらく、雑談へと戻っていく。この不安定な関係がいつまで続くのか、相手は実在するのか、それすらも曖昧なまま、しかしお互いにそれを是として奇妙な関係は続いていく。


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作者名: 登場ゴースト:

夜明けの海

 海辺の明け方には、水平線が燃える。
 堤防の上に座るかもめは、じっとその様子を眺めている。感傷に浸るというよりは、一日の始まりを祝福するように、または猫が気になるものを見つめるように、目をそらさずに見つめ続ける。
 空と海が一体化した濃藍から、やがて赤みが差してくる。それは分水嶺のように、空と海の色をはっきりと区分する。空に差す赤みはどんどんと藍色を侵食し、水面にも映り込み、穏やかに燃えているかのような様相を示す。
 やがて水平線に太陽が現れるとかもめは堤防に立ち上がって叫ぶ。
「おっはよー! 朝だよ-!」
 潮風が彼女の後ろ髪を揺らす。肩口にかからない、動きやすい長さのそれはゆらりと揺れてすぐに元の位置へと戻る。それを無造作に手で押さえつけると、伸びをしてくるりと海に背を向ける。
 今日は何があるのか、誰かに面白いことが起きるのか、小さな港街を毎日駆け巡る彼女は楽しみにしている。
 たたっと堤防を下ると、そのまま街へと走っていく。港街ゆえに漁を生業とする人も多いが、港から離れてしまえば普通の街と変わらない。まだ眠りの中にある街を走って、息が切れたころに立ち止まる。
「はー、朝の空気は最高だね」
 かもめは気分よく、暁天を見上げながら独り言を呟く。普段であればこんなに早い時間に起きることはないが、偶然にも目を覚ましてしまった。まだ薄暗いが、確実に朝の気配を感じる部屋の中、このまま登校時間まで家にいるのがもったいない気がして、そのまま出てきたのだ。
 立ち止まって塀に寄りかかってメモ帳を開く。いつも持ち歩いている小さなノートには、些細な噂からスーパーの安売り情報まで、日々のよしなしごとがびっしりと書き込まれている。忘れっぽいから常にメモを取っているというのも理由だが、彼女にとっては街の軌跡でもあって、今までに書き溜めたメモは勲章であり宝物でもあった。メモをぱらぱらとめくり、昨日聞いた噂をチェックする。なんでも、釣り客向けの店の1つに新メニューが出たらしい。魚好きのかもめにとって、新鮮な魚を使った新メニューとあらば、食べに行かない選択肢はない。そろそろ起きるであろう家族に直談判するしかない。
 駄目なら駄目で、1人で食べに行くつもりだった。街のほとんどの人と顔見知りであるかもめに、人々は甘い。飲食店に1人で行けば半額にしてくれたり、賄い分だからとタダで食べさせてくれたりする。かもめがそれに奢らず毎回喜び律儀にお礼を言うこともまた、彼女の人気の理由でもあるだろう。
 お魚お魚とスキップで歩くかもめに、もしも尻尾があったのなら嬉しそうに振っていたことだろう。海鳥の名前を関するものの、彼女の行動は猫のそれに近い。高いところにすいすいと登って街を眺め、縄張りのごとく街中を警邏し、新たな噂や情報を仕入れては一喜一憂する。彼女にとって毎日は新鮮な驚きの連続でもあった。小さな港街を愛し、飽きもせず日がな一日眺めて過ごすことを幸せに感じている。
 太陽が完全に顔を出し、街は目覚めつつあった。雨戸を開く音が響き渡り、主人の登場を喜ぶ犬の鳴き声が聞こえる。そろそろかもめの家族も起き出すころだろう。家路を辿り、自宅へ戻る。
 朝日に照らされたかもめの瞳はきらきらと輝いていた。今日という日がまた楽しい日になることを信じている、そんなところだろう。小さな港街は今日も平穏な一日を迎えようとしていた。


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作者名: 登場ゴースト:

いつかの驟雨のような

 診療所の外は土砂降りの雨が降っている。家を出る前から雲行きが怪しかったが、急に降り出した雨はバケツを引っくり返したようという表現そのままに、激しく地面を叩いている。診療所のドア下面にも水しぶきが飛び散っている。
 ふと、にわか雨に打たれて小さな診療所に駆け込んだ日を思い出す。あの時は看護師が暇をしていたのか、色々と世話を焼いてくれた。
 今日は立場が逆になった。飛び込んできたのはあの日にお世話になった看護師、まなかとゆらぎだ。
「ひゃー、ひどい雨だねぇ」
「大丈夫だと思ってたのに。急に降ってきた」
 入り口を入るなり、タオルを取りに走る二人はこちらには気づいていないようだ。どうやら手にしたパン屋の袋を傘代わりに走って帰ってきたらしい。美味しいパン屋があるといつか言っていたので、手にある袋はきっとその店のものだろう。昼食を買いに行ったところでにわか雨にあったといったところだろうか。
「あら、ユーザ君じゃない。来てたのね」
「こんにちはユーザ。来る時は降ってなかったの?」
 それぞれがタオルを手に戻ってきた二人がこちらに気づく。まなかは柔らかい視線を、ゆらぎはやや鋭い視線をこちらに投げかけてくる。まなかには天性のお人好しとでも言うべきか、子供を見るかのような包容力のある日向の優しさがある。対してゆらぎはつり目であることや素っ気ない態度から少々棘のある印象を抱かせる。
 そんな二人に対し、入ってきてから降り出したのだと説明した。実際に、診療所に入って誰もいないのを確認して、仕方なく椅子に座ると同時に雨が降り出したのだ。
「ああ、入れ違いになっちゃったのねぇ」
「全くタイミングのいいこと。羨ましいくらい。はあ、ついてない……」
 ゆらぎが溜息をつきながら手にしていた袋を置く。パン屋のロゴの入ったビニール袋は濡れて水滴を垂らし、中から彼女の好物のクロワッサンが覗く。
「あ、ユーザの分はないから。勝手に食べたら潰すわよ。何をとは言わないけど」
「やだ、ゆらぎちゃんこわーい」
 ころころと笑うまなかもまた袋を置くと、二人は水が染みないうちにタオルで白衣を拭う。タオルにあたってまなかの一部がふよんと揺れたが、慌てて目をそらした。
「……なにじろじろ見てるの」
「やだユーザ君ったら、そんな目で見られると困っちゃうわー」
 女性の勘は鋭い。少し目が吸い付けられたことは否定できないが、ゆらぎにもバレているとは思わなかった。たまたま、そう伝えるが全く信じてくれているようには見えない。
「へえ、ふーん」
「ふふふ、ユーザ君も男の子だもんね」
 ゆらぎから見下したような冷たい笑みが、まなかからしょうがないなあという柔らかい笑みが帰ってくる。のほほんとまなかが言い、ゆらぎが少し棘を含ませて喋る。二人は常にセットで考えたいくらい、何をするにも息がぴったりあっている。そしてこの二人が揃っている限り、こちらには全く勝つすべがなかった。女性は強いなあと思ってしまう瞬間だった。
 服の水滴を拭い終わり、髪の毛にそっとタオルを当てて水気を取る二人に、持ってきた手土産を渡す。先日、電車での帰りに、乗り換え駅で買ってきたものだ。あまり高くもなく少量で満足感の得られる洋酒入りのパウンドケーキはちょっとしたおやつとして持っていくには最適だ。
「わあ、ユーザ君ありがとー。嬉しい」
「ありがと。私好きなんだこれ」
 ゆらぎがはにかんだような笑みを浮かべる。なんだかんだで甘いものは好みであるらしい。
「あら、好きだなんてゆらぎちゃんたらもう。私もユーザ君のこと、好きだよ」
「まなか、そういう意味じゃ、ない……いや完全にないとも言わないけど」
 気まずそうに目をそらすゆらぎがおかしくて笑ってしまう。
「こら笑うな。全く誰に許可取って人のことを笑ってるわけ?」
「さあねぇ。ほら、休み時間のうちにパン食べちゃお。私そろそろお腹ぺこぺこで我慢できないよ」
「……そうね」
 何か言いたげなゆらぎだったが、ここで返しても無駄だと悟ったのか短く返事をするにとどまった。彼女には最初こそきつい印象を抱いていたものの、看護師という仕事を選んだだけあって根は優しい。まなかはそれを分かっていて時々からかって遊んでいるようだった。
「紅茶、淹れてくるね。ユーザ君も飲むでしょ? お土産のお礼に、私のパン半分分けてあげるね」
「それじゃまなかが足りないでしょ。私の分を分けてあげるから、それで我慢しなさい」
「ふふふ、じゃあ二人で少しずつ分けてあげようね。じゃあ、ちょっとだけ待っててねぇ」
 二人が給湯室に姿を消す。小さな診療所なので、泥落としのマットや傘立てのある風除室を抜けると目の前にすぐに受付がある。その先は待合室となっていてロビーソファーが並んでいる、よくある形式だ。奥へ伸びる廊下に、手洗いと給湯室の入り口が並んでいる。そういえばこの時間、医師兼院長は何をしているのだろうか。風邪で診察を受けたことはあるから顔は知っているが、ここに入り浸るようになってから診察室から出てきたのを見たことがない。恐らく、診断書の執筆などの書類仕事をしたりしているのだろう。
 ぼんやり考え事をしているうちに、二人がトレーを手に戻ってくる。荷物置きをテーブル代わりにしてトレーが置かれると、ふわりと紅茶の香りがあたりを満たした。
「じゃあ食べようか。ユーザ君の分はどうしようかなあ。あ、こうやってちぎって食べさせてあげようか? はい、あーん」
 目を白黒させているうちに、まなかに口の中にパンを突っ込まれる。嬉しいが、急にやられると恥ずかしい。もぐもぐと咀嚼すると紅茶で飲み下した。
「全く、すぐ鼻の下伸ばしちゃって、これだから……。でも、お土産のお礼もあるし、私も食べさせてあげる」
 飲み込むなり、ゆらぎからもちぎったパンを口に突っ込まれる。二人に挟まれて交互にパンを食べさせてもらえるというのは、シチュエーションだけ聞けば最高かもしれないが、いざやられるとどう反応したらいいものか悩んでしまう。とりあえず、美味しいとパンの感想を述べる。実際は味なんて感じられる余裕もなかった。
「ふふ、ユーザ君困ってる。可愛いんだからぁ」
「情けない顔しちゃってまあ……。感謝しなさい」
 その後も何度か同じようなやりとりが続き、すっかり顔が火照ってしまった。恥ずかしさが先立ってしまい、なかなか素直に甘えるのは難しい。
「いいわね、これ。ふふふ……ほら、口を開けなさい」
「もー、ゆらぎちゃんたら、困らせないの。でもそうね、ちょっぴり楽しいかも」
 なにやらおもちゃにされているような感じがするものの、左右をがっちり固められてしまい、動くに動けない。
 その時、入り口から傘を払う音が鳴り響く。誰かが診察を受けに来たのだろう。
「あらあ、残念。今日はここまでね」
「そうね、ユーザが鼻の下を伸ばすならこんなことするつもりはなかったんだけど、つい、ね」
「ふふ、私もちょっとからかいすぎたかしら。ごめんねユーザ君」
 その後の二人の対応は早かった。素早くトレーを下げると、何事もなく受付に戻って対応を始めた。あのまま続けられていたらどうなっていたのか、ほっとすると同時に途中で終わってしまって残念な気持ちもあった。
 彼女たちにお菓子も渡したし、診察を受けに来た人もいる以上、邪魔をするべきではない。今日のところはもう帰るべきだろう。
 受付前でそっと頭を下げると、まなかからパチリとウインクされた。ゆらぎは一瞥をくれただけに見えたが、その表情にはうっすらと微笑があり、再訪を望んでいるように読み取れた。
 外はまだ雨が降っているものの、だいぶ小降りになっていた。空を見上げれば雲も薄くなっており、近いうちに雨も止むのだろう。僅かに風が出て、細かな水分を含む空気が顔に吹き付ける。その冷たさに驚くと同時に、自分の顔が真っ赤になっている事実を知る。
 なんだかんだで毎度からかわれてしまうものの、こうしてちょっとした雑談をしにくるのは楽しい。また平日に時間が空いたら、手土産を持って遊びに行こう。こじんまりとした診療所を振り返り、その場を後にした。


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作者名: 登場ゴースト:

螺旋に続く夢

 ふと気づくと、隣に女性がいて、顔を覗き込んでくる。
 誰だろうか。あどけない少女を思わせる顔立ちをしており、目と目の間に艶やかな黒髪を一房たらして両側をおさげにしている。いつかの初恋の相手のような、甘酸っぱい気分を思い起こさせる。しかし想起させるイメージとは裏腹に、なぜか目の前にいる彼女の印象が薄い。まるで夢を見ているかのようだ。
「目が覚めたかい? 君、今までずっと眠っていたんだよ」
 彼女の声が聞こえる。彼女は僕が目覚めたことに気づいて、さらに顔を近づけてくる。垂れた前髪が僕の顔に触れそうなほど近づく。こうして声を聞いて近くで見ても彼女のことを思い出せない。僕は昨日、どうしていたのだろう。酒を飲んで前後不覚になってしまって、彼女の世話になったのだろうか。どうにも記憶が曖昧になっているようだ。未だ寝ぼけているのかもしれないと思い、目を覚ますため、そして彼女の存在を確かめるため、僕は手を伸ばす。

「おはよう、目が覚めた?」
 伸ばした手は宙を切る。目の前に映るのは少女ではなく、見慣れた天井だ。どうやら夢を見ていたようだ。
「ふふ、よく眠れたかな?」
 隣で喋る少女は、耳元で甘いつぶやきを発している。彼女の方を見る。キャミソール1枚で、柔らかく微笑んでいる。ああ、そうか昨日、僕は。

 昨日、僕は、彼女を殺した。
 今もまだ手に感触が残っている。原因はなんだったのか。ひどくくだらないことだったような気がする。僕は激昂して手近にあった酒瓶を手に取り、彼女の頭に振り下ろした。
 彼女の目に光はない。虚ろな目が、焦点の定まらないまま僕を見ている。そんな状況でも彼女は僕に言うのだ。
「これが望んだことだったの?」
 唇は動いていない。呪詛のように、僕の心にだけ聞こえてくる。
「人殺し」
 彼女は動かない。ただ、頭から滴る血液が、絨毯に染みて広がっていく。

 肩を揺さぶられる。
「どうしたんだい、急に。何か面白いものでもあった?」
 雑踏の中、僕は立ちすくんでいる。周囲は騒がしく、見渡せば色々な店が並んでいる。隣には彼女がいて、急に止まった僕を見ている。
 そうだ、今日はデートに来たんだった。駅の近くのショッピングモールで、服や雑貨のショップを見て回っている。この後は食事をして、流行りの映画を見に行く算段を立てていたはずだ。
 楽しみにしすぎて、寝不足になっているのだろう。もしかしたら、人いきれに少しあてられたのかもしれない。僕は頭を振って意識をはっきりさせ、彼女の手をとって歩き出す。

 どれくらい歩いただろうか。
 僕は彼女を背に担ぎ、手首を握っている。片手が自由になる運び方、ファイアーマンズキャリーだ。すっかり冷たくなった彼女を背負い、懐中電灯を片手に闇に沈んだ山奥へ足を進めていく。暗い夜山は恐ろしいほどに静まり返っている。聞こえるのは死んだ彼女が喋る言葉だけだ。
「こんな登山道からちょっと離れた場所じゃすぐ見つかっちゃうよ」
 だから、もっと奥へ進まなければならない。そして彼女を捨てて帰る。
「もしかしたら私は歩いて君のもとへ帰るかもしれないね」
 だから、帰れないほど奥まで進まなければならない。
 死んだ彼女の声にうんざりした僕は空を見上げる。月も星も見えず、視界一面、真っ暗だ。

 僕は目を開ける。真っ暗だった視界に、明るい朝の日差しが飛び込んでくる。
 いい匂いがする。コーヒーの匂いだろうか。僕はベッドを抜け出し、キッチンへ向かう。
「おはよう。今、コーヒーを淹れたところだよ。君の分も淹れようか」
 彼女はテーブルでコーヒーを啜っていた。僕を見て笑いかけると、立ち上がって背を向ける。その後頭部は、凹み、赤茶けた染みが広がっている。

 彼女がその染みにおしぼりを当てる。
「ああ、やってしまったね。全く、気をつけてと言ったじゃないか」
 僕の白いシャツには赤い汚れがこびりついていた。慌てて周囲を見回す。今いるのは落ち着いた雰囲気のイタリアンレストラン。ネットで探して見つけ、予行練習で一度訪れたことのある店だ。僕の目の前にはトマトをベースにしたパスタがある。そのソースをこぼしてしまったようだ。きっと睡眠不足がたたったのだろう。こんな姿では映画を見に行けない。僕は服にべっとりとついた赤茶けた染みを見下ろす。

 そして、染みのついたシャツを脱いで裏返し、ゴミ袋に入れて縛る。夜が明けたらゴミ収集車が証拠をまるごと隠滅してくれる。
 間もなく夜も空けるだろう。ほっと一息ついた。つい数時間前に、山の中腹の尾根から、斜面の下に広がる藪へと、背負っていた彼女を投げ捨てた。灌木は彼女を完全に覆い隠してくれた。見つかることはまずないだろう。
「いつまで」
 殺して捨てた彼女の声が聴こえる。まるで耳元でささやかれているようだ。さあ、いつまで隠しておけるだろうか。しかし僕に疑いが向いたところで、そのころには証拠はなくなっている。

「いつまで寝てるの?」
 耳元に吐息があたり、くすぐったい。はっと飛び起きる。彼女がくすくすと笑う。
「どうしたの、急に。悪い夢でも見てた?」
 最悪の夢を見ていた僕は安堵のため息をついて、彼女を見る。
「こんな風に」

 死んだ彼女は壁を背にして、まだ喋り続けている。頭から血を流し、虚ろな目が僕へと向いている。飛び散った血は壁紙を汚し、足元には滴った血が溜まっている。ただの物質と化した彼女の体は、既に冷え始めて強張ってきている気がした。
 どうすればいいのか。どうすれば、彼女を殺した事実を隠し通せるのか。
 僕は頭を抱えてへたり込んだ。

「そんなに落ち込むこともないじゃないか」
 思わず頭を抱えた僕に、彼女は慰めの言葉をかけてくる。
「応急処置もしたし、その程度なら、染み抜きも出来るだろう」
 店が用意してくれたタオルでトマトソースを拭い取った後、水を染み込ませて叩き、汚れを移した。服自体の汚れはなんとかなるだろう。
 そういうことではなく、僕はこの失態について、あちこちからの好奇の視線にいたたまれなくて困っているのだが、彼女には伝わらないらしい。

「そうだね、私にはよく分からないな」
 彼女の声が聞こえる。血のついた服を生ゴミと一緒にまとめ、ゴミ捨て場へと持ってきた。カラスにつつかれないよう、既に出されていたゴミ袋を並び替え、自分の分を奥に入れる。これでもう、大丈夫だろう。
「こんなことをしても、無駄なのに」
 ゴミ袋から声が聞こえる。ふと目をやれば、ゴミ袋から彼女の腕と首が飛び出していた。

 それを発見した主婦が悲鳴を上げる。探偵ものであるこの映画には当然死体が出て来るわけだが、昨今の自主規制に従ってか、廃棄された死体の一部が見えているという形を取って血の描写を無くしたようだ。それでもゴミ袋から飛び出た首という図はなかなかショッキングで、息を呑む気配が映画館を満たす。
 ちらっと見えた彼女もまた、目を見開き、ショッキングなシーンに食いついている。薄暗い映画館で、画面を見守る彼女の横顔が美しい。その横顔に、一筋の血が流れた。

 手の中の酒瓶をテーブルに置く。思わず殴ってしまった。彼女の頬を血が流れ落ちていく。
 打ちどころが悪かったのか、壁に背を預けた彼女にもう息はない。

 違う、これは現実ではない。夢だ、夢に違いない。
 僕は夢を見る。


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作者名: 登場ゴースト:

女の子が立っている

 かしゃり。
 良い音を立ててペプシコーラの缶の栓を開けると、そのまま一気に飲み干す。冷たく甘ったるい炭酸が喉の奥へ濁流のように流れ込んだ。
 Uはすっかり空になった缶を机の上に置きながら、うろんげな眼差しを向ける。
「……女の子が立っている?」
 彼の机を取り囲んでいる数人の生徒達はUの方を無言で見守っている。放課後の二度目のチャイムの音が、居残っている生徒達を急き立てるように鳴った。
 Uは嘲るような表情を浮かべて、生徒達を見まわす。
「はっ、何それ、それだけ? 女の子が立っているから何? だから何?」
 Uは苛立ちを隠そうともせず挑発的な口調で畳みかけた。生徒達は意味ありげに目くばせする。
「何って言われても……ねえ?」
「そのままの意味だよ、そのまま」
「他に何とも表現のしようがないから」
 彼らが口々に返してきた言葉には、どこか湿気た響きがあった。
 どうにも気にくわない。
「馬鹿馬鹿しい」
 Uはそう吐き捨てるように言うと、勢い良く鞄を担いで座席から立ち上がり、教室の出口に向かっていく。
 そんなUを追って一人が、さっきも聞いたいかにもくだらない怪談をもう一度繰り返し投げかけたのだった。
「ほんとにさ、気をつけた方が良いよ、4時44分、渋谷駅前の横断歩道の交差点に立って大型テレビジョンを見上げてはいけない、って……女の子が立っているから」
 無視して教室の扉を乱暴に閉じた。
 4時15分。


「次は、高田馬場、高田馬場、お降りの方は――」
 Uは電車に揺られていた。パープルカラーのiPod nanoから流れるお気に入りの曲に目を閉じて聞き入っている。
 怪奇現象なんて、はっきり言ってまるで信じていない。さすがにもうそんなものを本気で信じる年齢ではない。
 あいつらは馬鹿なんじゃないのか? それとも俺をからかってるのか? そうなのかもしれない、いやきっとそうなのだろう。そんな風に推し量るとにわかに腹が立ってくる。
 Uは苛々に任せて曲の音量を上げて、より自分の世界へと深く没入していく。外界の感覚が遮断されて、エレクトロニックなメロディーだけがイヤフォンを通して身体に染みていった。
 どいつもこいつもくだらねえことばかり捲し立てやがって死ね、死ね、消えちまえ――
 どす黒い思考の渦に身を浸し始めた頃、ふっと何かが脳裏を掠めた。赤……赤い……赤い服を着た……少女のような何か……
 Uはどきりとして、肩を揺らした。思わずイヤフォンを外して、辺りを見回す。
 早めの帰りだったせいか車内は若干空いていた。買い物を終えた主婦は荷物を確認しているし、早帰りらしいサラリーマンは器用に立ったまま居眠りしてるし、女子学生は二、三人で固まって他愛ないお喋りに興じている。
 何の問題もない、いつも通りの光景だ。ほっと息をついた。
 怪談なんて全く気にしていないつもりだったけれど、どうも多少は心に引っ掛かっているらしかった。UはiPodの電源を切って鞄に仕舞い込みながら、物思いにふける。
「女の子……ねえ……トイレの花子さんみたいなもんだろか……」
 本当にそんなんがあるなら、いっそ確かめてみようか。もしかしたら丁度良い暇つぶしになるかもしれないし。
「次は新大久保、新大久保、お降りの方は――」
 4時40分。


 人、人、人の群れ。目も眩むような込み具合。それでもそれぞれ意思あるものが自分の通る道を無理なく見つけ通り過ぎてゆく様というのは、実のところ見事なものである。当たり前の情景過ぎて誰も気に留めないが。
 白線を睨んだまま、Uは歩いた。歩いて、歩いて、丁度交差点の真ん中でぴたりと立ち止まった。後ろから来る人の邪魔になることなど気に止めずに。周りの人々は迷惑そうな顔をしながらUを避けてまた先へ先へと進む。
 4時44分。
 Uは顔を上げた。高層ビルが高さを競って立ち並ぶ合間にどんより曇った灰色の空が見える。大型テレビジョンでは人気アイドルがひらひらした衣装を身に纏って新曲を歌っている様子が放映されていた。
「……へっ、何もねーわ……やっぱりあいつら……」
 笑みを浮かべたその瞬間――世界が、見慣れた情景が、大型のテレビジョンが、立ち並ぶビルが、人混みの波で満たされた交差点が、消えた。
 ザザッという耳障りな音。可視範囲を満たすノイズ。驚いたが、一度瞬きするとすぐにノイズはさっと引いていった。
 しかし、異変は明らかだった。Uは呆然とテレビジョンを見上げる。テレビジョンの中にはつい先ほどまで歌って踊っていたアイドルはいない。
 代わりに真っ白な空間を背にして、女の子が立っている。女の子は真っ赤な服を着て真っ赤なリボンを頭につけ、白いうさぎの縫いぐるみを片手に引き連れて、真っ赤な瞳で、こちらを無表情に見つめている。
「……」
 Uは棒立ちになっていた。テレビジョンの中の真っ赤な一対の瞳は、射抜くようにUの姿を捉えており、身動きができない。
 思考がぐるぐる回り出す。何だこれは? ほんとにあいつらが言ってたあれなのか? そうじゃないよな? 大丈夫……いや駄目だ一旦引くか? どこへ、取り合えず歩道を渡って……
 まるでUの狼狽を見透かすようにテレビジョンの中の少女がにたりと笑った。「逃げられないよ」とでも言いたげな面差しで。
 Uはぞっとして、棒立ちだった足を魔法が解けたように後方へとよろめかせた。
 反射的に逃げ場を探して泳いだUの視線は、更に恐ろしい事実を捉える。辺りからは洪水のような人の群れが元より何もなかったかの如く消え去っていた。
 代わりに、存在していたのは――
 駅ビルの窓に女の子が立っている。歩道橋の上に女の子が立っている。コンビニの駐車場に女の子が立っている。電柱の隣に女の子が立っている。街路樹の上に女の子が立っている。喫茶店のテラスに女の子が立っている。
 あちこちに疎らに立っている女の子はほとんど微動だにせず、一斉にこちらに視線を注いでいる。血のような冴えた赤のスカートをたなびかせながら、燃える炎のように沸き立つ赤い瞳で。
「うわああああ!」
 Uは気づけばなりふり構わず全力で駆け出していた。取り落とした鞄が、その場にどさりと投げ出された。
 どこへ向かう? どこへでも良いどこかへ。静かな、誰もいなさそうな場所へ……歩道を引き返し右へ左へ曲がる曲がる。
 しかしどこに行っても女の子が立っている。パン屋の裏にも女の子が立っている。中華料理店の看板の上にも女の子が立っている。路地裏の向こうにも女の子が立っている。
 じっとこちらを見ている。
 Uは込み上げてきた嘔吐感を飲み込みながら次々と闇雲に建物の角を曲がった……どこをどう通ったっけ。そんなの、すぐ分からなくなった。
 4時44分。


「くそっ何なんだっ!」
 息を切らせながら、カビ臭い香りのする倉庫の内部に潜りこむ。あちこちに段ボールが積み立てられていて歩きづらいが、隠れるのには困らなさそうだ。何とか死角になりそうな場所を見つけて、じっと息をひそめる。
「あれは一体なにもんなんだ……? 女の子……? 違う、あれは……きっともっと別の何かだ、この世のもんじゃねえ……」
 段ボールの影で体育座りをしながらぶつぶつ呟く。独りごとなんて言っても何にもならないが、何か言っていないと気が狂いそうだ。
「大体女の子って何だよ、意味分かんねえ。古今東西十代前後の女性をモチーフにした怪異はそれはもう腐るほどあるが、それでもこんな抽象的な呼び方はないだろ常識的に考えて。それともあれか形而上学的なあれなのか? いやいや概念的な存在なら娑婆に出てくんな!」
 思わず叫んでしまい、慌てて口を塞いだ。落ちつけ。
「せめてさ何かもうちょっと上手い言いようあるんじゃないか……駅前の真里さんとか……駄目だこれじゃあんま怖くない……」
 自分でも訳が分からない考えをありのままに出力していると、ふとすぐ側に影が差していることに気が付いた。
 唾をごくりと飲み込む。何だか寒気がしてきた。
「ねえ……私の上半身知らない? ずっと探してるんだけど」
 投げかけられたのはトーンの高い、しかし無機質な声。
 見てはいけない。本能が告げている。それなのに、視線は自然とそちらに吸い寄せられた。
 そいつと目は合わなかった。合わせられなかった。目がないんだもの。目だけじゃない鼻も口もない。発声器官がないのにその声は一体どこから発したのか。
 Uの隣には……下半身だけの女の子が立っている。上半身は文字通りない。それはもう、ばっさり。
「ああああ」
 Uはまた駆けだす。積み上げられた段ボールを乗り越えて、倉庫を後にする。
 4時44分。


 人がいない。いや正確には女の子以外の人がいない。女の子ならそこら中にいる。
「こ、ここならさすがにいねえだろ……」
 Uはぜいぜい息を切らせながら大型雑貨店の屋上へと駆け込んだ。途中エレベーターで女の子に出くわして心臓が止まるかと思ったが何とか振りはらい最上階まで階段を駆け上がってたどり着くことができた。
 タイルが敷き詰められた広い屋上に人の……女の子の姿は見当たらない。やっと息をつけそうだ。Uはフェンスに手をかけて、心地良いそよ風に当たった。
「……はあ」
 どうしてこんなことになったのだろう。日頃の行いが悪いとか、そういうことかな。
 だけどそんなの仕方ないじゃないか悪いのは……あいつらの方なんだから。
 そんなどうしようもないことを取りとめもなく考えていると、感傷は唐突に遮られた。何故なら異様な轟音が、耳に無理矢理入ってきて鼓膜を凄まじく打ったから。
「……」
 開いた口が塞がらないとはこのこと。灰色の空の向こうから、一直線に向かってくる白い機体。それに先行して猛烈に吹きつける突風。頭に容赦なくがんがん突き刺さって来るエンジン音。
 とても信じられない。超絶低空飛行で近づいてくる飛行機の機首の上に、女の子が立っている。
「う……そだろ……」
 あの女の子は機体に張り付いているのだろうか。いっそあれも機体の一部なのかもしれない。微動だにしない。髪も乱れない。さっきから存在感薄いが連れられているうさぎも同様。すごい。
 明らかに物理的におかしい図だが、いくら目を凝らしてみても確定的に明らかだった。こちらに向かってぐんぐん大きさを増していく飛行機の上には確かに、船首像よろしく女の子が立っている。
 女の子はにこりと微笑んだ。口を動かしたが、爆音でなんて言ったかまでは聞こえなかった。
 でも何となく、「だいじょうぶこわくないよ」って言ったような気がした。何故かは分からないが。
 4時44分……普通に時止まってるわこれ。


 LINE上でのやり取り。
 明日空いてる? 飯行こう飯。サイゼリアで良いよな? 17:55
 良いな。でもさっきからUと全然連絡取れないんだけど 17:56
 U? あいつは良いんじゃないか放っといて 17:56
 そうかな 17:56
 そうそう。いっそもう誘わなくて良いんじゃない。何かさ、見下してるような態度でむかつくんだよなあいつ 17:57
 女の子が…… 17:57
 ん? 何? 17:57
 なんでもない 17:59
 6時00分。

 人、人、人の群れ。目も眩むような込み具合。それでもそれぞれ意思あるものが自分の通る道を無理なく見つけ通り過ぎてゆく様というのは、実のところ見事なものである。当たり前の情景過ぎて誰も気にも留めないが。
 交差点の真ん中に学生鞄が落ちている。踏まれて滅茶苦茶だ。口が開いてパープルカラーのiPod nanoが半ば飛び出している。
 それを何気ない動作で拾い上げると、女の子は口元だけで笑った。


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作者: 登場ゴースト:

「人形さん、クリスマスプレゼントはドールハウスでいいですよね」

ノアはそう言いながら私に雑誌を広げて見せた。
どうやらミニチュアのカタログのようだ。

どのページにもミニチュアの部屋の写真が載っている。
大きな暖炉、花柄のラグ、隅には豪華な柱時計。
細部まで丁寧に作られた家具や調度品が西洋風の部屋に並んでいた。

精巧な内装の一つ一つを見ていると、まるで自分がその中にいるような錯覚を覚えた。
しんしんと降る雪の夜、ロッキングチェアに揺られながら本を読む。
暖炉の火の暖かさに包まれていると、ついうとうとと寝入ってしまう。
ふと目が覚める頃には、時刻はすでに深夜を打っているのだろう。

写真のアンティークな部屋は、そんな穏やかな生活の夢を見せてくれる。
それが楽しくて、私もドールハウスを見るのはなかなか嫌いではない。
しかし、無粋にもそんな空想から私を引き戻したのは憎きライバルの声だった。

「これなんか人形さんにぴったりだと思います」

ノアはとても天使とは思えないような下卑た笑いを浮かべて、ぱらぱらとページをめくって写真の一つを指差した。
そこには洋風のキッチンが写っていた。

「体が小さいと家事が大変でしょう? 困っている人を助けるのも天使の務めです。遠慮しなくてもいいですよ、人形さん」

確かに私は人よりも体が小さい。
料理をするときだって、人よりも動き回らなくてはいけない。
私は幽霊なので、ちょっとした幽霊パワーというやつで補えることもあるが、それでも大変なのには違いない。
自分にあったサイズのキッチンでもあればと思うことも度々あるのだが、それとこれとは話が別で私はミニチュアの家に入れるほど小さくはない。

気が付くとノアが私を見てニヤニヤと笑っていた。
腹が立ったので、その顔面に右ストレートを叩き込んでやった。

「いきなり何をするんですか! 人の好意を無下にする気ですか、人形さん!」

ノアが鼻頭を押さえながら声を荒げる。

「やかましい! そんなもん好意でもなんでもないわ! エロ天使!」

人気の少ない道端に私たちの罵声が飛び交った。
私とノアとの間では日常茶飯事だが、いつもシェリルは止めに入ってくる。

「ふ、二人とも落ち着いてー!」

シェリルはあたふたしながらそう言った。
しかし、一度始まった喧嘩はもう止まらなかった。

「痛っ……! 何すんのよ、このムッツリ!」

ノアが私に突っかかってきてカチューシャを奪い、髪を引っ張った。
すかさず私はノアの背中に生えた翼をつかむ。

「痛い痛い! 羽をむしるのは反則ですよ人形さん!」

ノアは私を引きはがし、カチューシャをとってみろと言わんばかりに頭上に掲げた。
手を伸ばすが、私の身長ではとても届きそうにない。

「人形言うな! だいたい、この体格差だって反則じゃない!」
「あっ、人形さん、今小さいって認めましたね!」
「この減らず口が!」

カチューシャを取り返すのは諦めた私は跳び上がり、ノアの天使の輪を思いっきり蹴っ飛ばしてやった。

「あっ……!」

輪は飛ばされて電柱に当たり、思いもよらない方向に跳ね返る。
その先には、たまたまこの道を通りがかった二人分の姿があった。

「危ない!」

私は叫んだが、幽霊の声が聞こえるはずがない。
輪は真っ直ぐに飛んで、白い髪の少女に当たるかと思われた。

「え?」

その少女が振り返った瞬間、鋭い音が響いた。
そして、気が付いたときには、彼女の足元に真っ二つになったノアの輪が落ちていた。
何が起こったのかよくわからなかったが、それは彼女たちも同じらしい。

「な、何……? 急に蛍光灯が飛んできた……?」

白い髪の少女は困惑した表情で言った。
隣を歩いていた紫の髪の少女もぽかんとして見ている。

「ああああ!?」

呆然としていた私は、ノアの叫び声で我に返る。
ノアが二つになった輪を拾い上げて言った。

「どうしてくれるんですか、人形さん! 私の輪が真っ二つに!」
「……悪かったわよ。はい、糊」
「糊で直せるわけないじゃないですか!」
「じゃあボンドでいい?」
「どっちでも同じですよ!」

そう言いながらもノアは輪の切れ目にボンドを塗っていた。

「えっと……」

白い髪の少女が戸惑っている。
急に変な輪が飛んできて、それについて他人が目の前で言い争いを始めれば当然の反応だろう。
とにかく、まずは彼女に謝らないと……。

「……ごめんなさい。私がこれを蹴飛ばしたから、それで……。あなた、怪我とかしてない?」
「うん、大丈夫……」

白い髪の少女はそう言った。
その時点では妙な違和感を感じたのだが、動転していたので深く考えないままになってしまった。
とにかく、ぱっと見る限り、どこにも怪我した跡はなかったので、私は胸をなでおろした。

「すごーい! ねえねえ、今のどうやったの!?」

しかし、私の疑問はその声で遮られた。
心配して近づいてきたシェリルが興奮した調子で尋ねる。

「それは、その……」
「シェリル、この子困ってるじゃない……」
「えー、だってー……」

シェリルが頬を膨らませる。
すると今度は紫の髪の少女が目を輝かせて言った。

「ねえ、その輪って蛍光灯じゃなかったの?」

シェリルが嬉々としてその質問に答えた。
まるで自分のことのように胸を張って答える。

「これは、ノアちゃんの輪っかだよ!」
「輪っか……?」
「うん、ノアちゃんは天使なんだー!」

それを聞いて彼女は驚いた。

「へえー! わたし、天使って初めて見た!」
「どうも、ノアです。天使やってます」

天使の輪はいつの間にかノアの頭上に戻っていた。
……本当に木工用のボンドで直ったのだろうか。

それからも紫の髪の少女はノアを質問攻めにしていた。
天国は本当にあるのか、天使は普段何をしてるのか、などだった。

そこで、私は見過ごしていた違和感の正体に気づいた。
私たちの会話が成立していることの不自然さに。

ノアの姿は誰にでも見えるのだが、私とシェリルは少し違う。
私たちは幽霊だ。
だから、霊感や霊能力というものを持っていない限り、人間に見えるはずがない。
それにも関わらず、彼女たちは私たちの姿を見て、声を聞き、普通に会話している。
まさか、二人とも霊感があるのだろうか。

「…………ところであなたたち、幽霊が見えるの?」

私が呟くと、皆もようやくこのおかしな状況に気が付いたらしい。
二人はきまりが悪そうな表情をしていた。

「確かに、私が天使であることを何の疑問もなく受け入れてたので、不思議だとは思ったのですが……」
「そういえば……、私たちが見えるんだね! すごい! 二人とも魔法少女とか?」
「幽霊を見るのに魔法少女とか関係ありますか……?」

すっ呆けた会話をしているシェリルとノアをよそに、彼女たちは困ったように目を合わせていた。
どうやら私たち以外の人の目を気にしているらしい。
きっと、彼女たちも何か事情があるのだろう。

「…………家に来る? 誰にも聞かれないから。別に、無理にとは言わないけど……」
「そうだねー。ここで立ち話もなんだし、寄っていってほしいな」

シェリルは笑顔を浮かべた。
きっと、自分が見える人に会えて嬉しいのだろう。
もしシェリルに友達が増えるなら私も嬉しい。

「ええっと、じゃあ……、お邪魔します……」

白い髪の少女がおどおどしながら言った。

----------------------------------------------------------------------------

「へえ……。それじゃあ、二人ともお人形さんなんですか」

ノアが感心したように言った。

「人工精霊を宿した自律人形……。まるで、漫画みたいだね……」
「……私たち幽霊や天使だって漫画みたいな存在でしょ」
「あ、それもそっか。でも、すごいなぁ……」

シェリルは目を光らせながら、二人を見つめている。
正面に浮かんだり、上から眺めたり、背後に回ったり……、よっぽど彼女たちが気になるようだ。

「私も、幽霊や天使がいるなんて、思わなかった」

白い髪の少女、ミラが言った。
右目は赤、左目は紫の、いわゆるオッドアイの女の子
ちょっと大人しい印象で、表情はあまり多くないように思うけど、優しくて淑やかな笑顔が綺麗な子。

「もう、本当にビックリしたよね。天使が同じ町に住んでて、しかもその輪っかが飛んでくるなんて……」

紫の髪をした少女は、ベル。
リボンを結んだツインテールで、両方の瞳は髪と同じアメジストのような紫色。
ミラとは反対に活発な感じで、表情が豊かで、周囲に元気を与えてくれるような、明るい子。

服装は二人とも同じで、ブラウスとスカートを着ている。
一見すると普通の女の子だけど彼女たちは人形で、全てを理解できたわけではないが、人工精霊という錬金術で動いているらしい。
あまりにもファンタジーすぎる説明だったので、その証拠に球体関節を見せてもらったのだが、ますます驚きが隠せなかった。
そして、何より二人とも可愛いと思う。

「それは、まあ、私たち喧嘩してたから……」
「それより、さっきはどうして輪っかが真っ二つになっちゃったの?」

シェリルが口を挟んで尋ねた。

「あれは、防衛のために錬金術の仕掛けで剣が自動で現れるものだから……」
「すごーい! 二人とも魔法少女だったんだ!」
「いえ、ミラさんとベルさんは人形です。シェリルさん、ちゃんと話聞いてました?」

ノアが訂正する。

「それにしても、同じ人形なのに、人形さんとは全然違いますね。可愛いですし」
「……人形言うな、ムッツリ天使」

今度はベルが私に話しかけてきた。

「あの、ミィさんも、人形なんですか?」
「……まあ、ね。あと、別にそんなに気を遣わなくてもいい」
「そう?」

私が返事をしないでいると、ベルは困ったように見つめてくる。
沈黙が少しだけ続く。
何か、不用意な発言でもしてしまったのだろうか。

そこでノアが口を挟んできた。

「こっちの人形さんはツンデレなだけですから、ベルさんは心配しなくていいですよ」
「この二人に対しては言わないくせに、私には人形って言うのね」
「小さい人形さんとは比べ物にならないぐらい、お二人は可愛いですからね。あと自分で認めてるかどうかもポイントです」
「私だって自分で認めてるわ!」
「それはそれ、これはこれです」
「んだとテメー!」
「あはは……」

ノアと口論になったが、喧嘩には至らなかったのが幸いだったと思う。
さすがに仲良くなったばかりの人たちの前で見苦しいことはしたくない。
それはノアも同じだったらしく、その場が悪化することはなかったが、私たちの間には火花が散っていた。
シェリルとベルはそんな私たちを見て、苦笑いをしていた。

「ベルちゃん、ミラちゃん! お人形さんの二人を見こんでお願いしたいことがあるんだけど」

シェリルが思い出したように言った。

「あのね! ちょうどメイド服あるんだけど、二人に着てほしいなって……」
「あんたねぇ、いきなり何を言うかと思えば……」
「やっぱり、だめかな?」

控えめに尋ねるシェリルに、ベルが答えた。

「コスプレするぐらいならいいよー」
「本当!? じゃあ早速、どうぞ! あ、こっちの部屋で着替えてきてね!」

シェリルが嬉しそうにメイド服を手渡した。
一着はベルが、もう一着はミラが受け取る。

「……本当にいいの?」
「まあ、普段からコスプレしてるようなものだからね……」
「ふぅん……」

一口に人形と言っても様々な種類があるものだ。
雛人形のように飾っておくものもあれば、着せ替えて楽しむ人形もある。
彼女たちはたまたま後者のような性格なのだろう。
それなら別に抵抗もないだろうし、二人がいいと言っているのだから、何も問題はない。
しかし、私はどこかに何故か釈然としない気持ちを抱えていた。

----------------------------------------------------------------------------

しばらくすると、ベルが扉を開けて戻ってきた。
初めて会った時の服装ではなく、フリルがあしらわれたメイド服の姿で。

「じゃーん! メイド服ベルちゃんだよ!」
「ベルちゃん可愛いー!」
「って、あれ。ミラは……?」

ミラは扉の向こうに隠れていた。
照れながら顔を出してこちらの様子を伺っている。

「どうしたの、ミラ。早く出てきなよ~」
「だってみんなの前だと、ちょっと恥ずかしい、し……」
「そんなの、気にしなーい!」
「わっ……、もう……」

ベルが少々強引にミラを引っ張り出す。

ミラはベルの後ろに隠れた。
私の位置からは見えているのであまり意味はないが、まあ気持ちの問題なのだろう。

「シェリル、どうかな?」
「うんうん! 二人ともメイド服よく似合ってるよー! とっても可愛い!」
「えへへ、ありがとー!」
「……ありがとう」

私は二人を見た。
感想は言うまでもなく、似合っていると思う。
普段から着るために慣れているのだろう、二人ともメイド服を自然に着こなしている。

「そうだ、あれ言って! あのセリフ!」

シェリルは言葉足らずな説明で催促するが、二人はそれだけで合点がいったようだ。

「お帰りなさいませ、シェリルお嬢様」

ベルはスカートをつまんで恭しく一礼した。
カーテシーまで丁寧にするところに彼女のノリの良さが表れていると思う。
続いてミラも恥ずかしそうに同じ振る舞いをした。

「みーちゃん、今の聞いてた!? お嬢様だよ、お嬢様! えへへ、シェリルお嬢様かぁー」
「……あんたはそんな柄じゃないでしょ」

私の突っ込みは届かなかったようだ。
嬉しさのあまりに顔が赤くなったり、笑顔になったり表情がくるくると変わる。
かと思えば、今度はシェリルは次に着せる衣装をどれにするか選ぶのに夢中になっている。

「ベルちゃん、次はこれを着てほしいな!」
「モチのロンよ! って今度は、着物? ミラ、着付け手伝ってー!」
「……はいはい」

二人は着物を持って再び別の部屋に移動する。
またしばらくして、ベルが艶やかな着物を着て戻ってきた。
メイド服のままのミラが隣にいるので付き人を連れているように見えるが、それにしては随分とミスマッチな光景だ。

「これこれ、一度やってみたかったんだー!」

シェリルがベルの着物の帯を引っ張っていた。
ベルがそれにつられて回っている。
一体何の時代劇なのか。

「おやめくださいまし、お代官様~」
「よいではないか、よいではないか」
「あ~れ~」

まさか、シェリルはこれをやるためだけに着物を選んだのだろうか……。

「次はゴスロリ!」
「おっけー!」

それからもシェリルは次から次へと何か衣装を取り出してきて、二人に着せて遊んでいた。
セーラー服や体操着、巫女さんの服、何かのアニメのキャラの衣装。
鈴の付いたリボンの服と黒のミニスカート、それから猫耳も持ち出してくるが、これは何のキャラクターの衣装なのだろう。

着せ替えの後、三人は格闘ゲームで遊んでいた。
ただ遊んでいるだけなのだが、シェリルは本当に嬉しそうだった。

それはそうと、あの衣装の山は一体どうしたのだろうか?
どこかで買ったわけではないだろうと思うが…………。

「この前、ユウちゃんにもらったの。なんか、ノアちゃんはそういうプレイも好きそうだからって言って」
「なるほど、ユウさんグッジョブです。ただ他の衣装はともかく、メイド服についてはフレンチよりもヴィクトリアンなスタイルが好きですね」
「いや聞いてないから」

とツッコミを入れられても、ノアは正統派だの可愛さの本質はプリムにあるだのとヴィクトリアンメイド服の素晴らしさについて延々と語り始めた。
しかし、シェリルはゲーム遊びに戻ってしまい、衣装を用意したユウはこの場にいないということで、ノアの無駄に熱がこもった講演を聞く役は消去法で残った私に回されてきたのだった。
それをほどほどに聞き流しながら、横目にシェリルを探す。
ミラとベルも意外とゲームをやるらしく、三人は同じ話題で盛り上がっている。

三人が楽しんでいるのだからそれでいいのだが、私はもやもやとした何かがずっと胸に引っかかって、素直に喜べずにいた。
それはシェリルの笑顔を見ていると私の内でどんどん大きくなっていって、大好きなはずの彼女からつい目をそらしてしまう。
そんな自分がつくづく嫌になる。
どうも、今日の私は調子が悪い。

「今度はわたしの勝ち! さあ、シェリルが着替える番だよ!」
「うー、あと少しだったのにー」
「一回ぐらいシェリルにもコスプレしてもらわないとね! それに負けたほうが着替えるって決めたのシェリルだよ?」
「むぅ、しょうがない……」

どうやら、ゲームの勝敗で誰がコスプレをするか決めているらしい。
シェリルは少しだけ悔しそうに隣の部屋に入り、やがてセーラー服に着替えて戻ってきた。

「よーし、次は負けないよ!」
「ふふふ、わたしの華麗なテクニックの前に敗北するがいいー!」
「ベルちゃんも覚悟してね! 今度は猫耳だよ!」

二人がお互いに勝利宣言を発しながらゲームを再開する。
ミラは二人の対戦を傍で眺めながら、「おしい」とか「二人ともがんばって」と言っていた。

私はというと、同じように話についていけないノアと気まずい雰囲気になっている。
また大喧嘩をするわけにもいかず、そうかと言って仲良くするつもりもないので非常に重い沈黙が続いている。
三人が気づかないままゲームで遊んでいる一方、張り詰めた空気の中で、私は精神がすり減るような思いでノアと牽制し合っていた。

「そういえば、うやむやになっていましたが、プレゼントはキッチンルームでいいですよね」
「あんた、もう一度その輪っか真っ二つにしてやるわよ」

この険悪な状況を知った上でも、ノアはさらに嫌味をぶつけてくる。
ここで喧嘩になったら三人がゲームどころではないのだが、私が怒ることを見越して挑発するあたり、ノアは相当意地が悪い気がする。

「あれ、ここで怒ってもいいんですか人形さん」
「怒らせてるのはお前だろうがムッツリ天使」

どういうわけか、今日のノアはしつこく突っかかってくる。
そんなに私を陥れたいのだろうか。
まったく、じっくりと物思いにふける暇もない。

「そうだ! みーちゃん、ノアちゃんも一緒にコスプレしようよ!」

突然、シェリルが言った。
しかし、今の私はとてもそんな気分にはなれないし、突然のことに緊張を解かれて拍子抜けしてしまった。

シェリルは私とノアを交互に見る。

私は目を合わせることができなくて……、それがまた辛かった。
そして、自分でも信じられないほど、ぞんざいな答え方をしてしまっていた。

「別にいい」
「…………みーちゃん?」

私は窓を開けて、茜色の空に向かって飛び出した。

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特に行く当てもない私はふらふらと秋の空を飛び回っていた。
そのうち、うろつくことさえ気だるくなって、たまたま目についた川のほとりに降りた。

私は柔らかな草の斜面に座り込む。
目の前を流れる川を見つめて、ぼんやりと過ごしていた。

耳を澄まして聞こえたのは、ガタン、ゴトンとやけに遠くで響く音。
ちょうど川を少し下ったところにある陸橋を電車が走り去っていく。
最後の車両が町の中に消えるところを見届けて、ため息をついた。

西日を受けて、水はきらきらと輝いている。
風が優しく吹いて、なびいた髪が私の頬をくすぐった。

今日は晴れていて、暖くて心地の良い一日だった。
とても穏やかな秋晴れの日、それなのに私の心には雨雲が厚く覆っていた。

どうしてだろう、こんなにも陰鬱な気持ちになるのは――――――

シェリルに友達が増えて、嬉しいはずなのに、笑顔になれない私がいる。
シェリルに一緒に遊ぼうと誘われて、楽しいはずなのに、素直になれない私がいる。
よくわからないけれど、なんとなくつまらなくて、無愛想にしか話せない私がいる。
何回ため息をついても、この黒い異物は出ていかない。

私は横になった。
白い雲が空の高いところをゆっくりと流れていく。
あの風が、この胸にたまった黒いもやもやごと吹き飛ばしてくれないだろうか。
私は疲れて目を閉じた。

こんな気持ちになったのは初めてで、きっかけはミラとベルと仲良くなったことからだった。
二人ともとてもいい子で、嫌いになる理由なんてなくて、でもいまいち好きにもなれなかった。

だから、私はあの二人となるべく話をしないでいたし、目も合わせないようにしたつもりだった。
もっとも、会話が盛り上がっていた相手はシェリルだったので、私の懸命な努力も徒労でしかなかった。

考え込んでいると目蓋の裏にちらつくのは、遊んでいるときのシェリルの顔。
でも、今日の笑顔は私に向けられたものではなくて――――

その時、誰かが草を踏む気配がして、そちらに視線を向けた。
逆さになったノアが無表情で私を見下ろしていた。

「…………こんなところにいたんですね」
「あんた、何しに来たのよ……」

私は起き上がって悪態をついた。
ただでさえ誰とも話したくない気分だったのに、よりにもよってノアに見つかってしまうなんて。
ましてや、最悪な気分のときにまで喧嘩するなんてごめんだ。
とにかく今はノアを視界に入れたくなくて、前だけを見つめていた。

「人形さん。……隣、座っていいですか」
「嫌」

ノアは私の言葉を無視して隣に座った。
その様子が癪だったので、わざと間を開けて遠ざかる。
今度はノアが私に近寄って来ることはなかった。

「…………人形さん、いつまでそうやって拗ねてるんですか?」
「拗ねてない」

ノアがため息をついた。

「これは私の独り言です」
「あんたの独り言なんて聞きたくなんか……」
「ミラさんとベルさん。やっぱり、可愛いですよね」

私は思わず口をつぐむ。
考えていたことを見透かされたみたいで、とっさに言葉を返せなかった。
ノアはそれに構わず話を続ける。

「私は、ちょっとだけあの二人がうらやましいです」

予想もしない言葉に、私は少し取り乱してしまった。
まさか、ノアがそんなことを言うとは思ってもいなかったから。
横目に見たノアの表情は、どこか悲しそうだった。

「二人とも色んな服を着られて、おしゃれで、きれいで……。何より、素直で、可愛くて……」
「………………」
「特に、ベルさんはゲームでシェリルさんと気が合うみたいで……」

ノアは少しだけためらった後、ぽつりと呟いた。

「…………私も、あんな風におしゃれをしてみたい」

ノアは黙ったまま、鎖に繋がれた自分の両手を見つめていた。

何があったのか深く聞いているわけではないが、後悔はしていないらしい。
でも、まさかこんな形で拘束が恨めしくなるとは思ってもいなかっただろうに。

私はノアみたいに、拘束されているわけではない。
あの二人のように大きくはないけれど、自由に着替えることができる。

私だって本当は全く興味がないわけではない。
たまには可愛い服を着てみたい。
可愛い靴だって履いてみたい。
でもそれが気恥ずかしくて、シェリルに似合うといわれても受け入れられなくて。

それなのに、今はミラとベルが羨ましくて、こんな風にいじけている。
ただ、意気地になって、見栄を張っている私がいた。
なんて、みっともないんだろう。

それに比べてノアは、私よりも素直だったのだから。
私はそんな自分が恥ずかしかった。

もう一度ノアを見る。
自分に気づくきっかけをくれた彼女にお礼を言いたかった。

今にして思えば、さっきのしつこい挑発もきっと彼女なりの気遣いだったのだろう。
もしノアと喧嘩になっていたなら、私は飛び出してくるほど一人で思い悩むこともなかっただろうから。

こんなことぐらい、他でもない私がよく知っている。
ノアはそういうやつなのだ。

「ところで、人形さん」
「何よ、ムッツリ天使」
「ここにこんなものがあります」

ノアは突然、猫耳がついたカチューシャを取り出した。

「本当は無理矢理人形さんにつけてからかってやろうと思ったのですが……。あっ、ごめんなさい、殴らないで!」

私は振りあげた拳を降ろした。

「…………それで?」
「つけてみませんか?」
「……そうね。その話、乗ったわ」

自分のカチューシャを外すと解放された髪が風になびく。

ノアから猫耳のカチューシャを受け取って、まじまじと眺めた。
成り行きとは言え、自分からこれをつけることになるとは思ってもいなかった。
これから、らしくないことをするのだと思うと照れくさくて顔が熱くなる。

今、この瞬間を見ているのはノアだけだ。
覚悟を決めろ、私。

はじけてしまいそうなぐらい胸がどきどきする。
ギュッと目を閉じて、恥ずかしさで震える手をなんとか抑えて――――

――――カチューシャをつけた。

誰かが息をのむ気配がする。
おそるおそる目を開けると、驚いているノアがいた。

「…………なんか言いなさいよ」

私はうつむいた。
恥ずかしくて、顔を上げていられない。
ただスカートを握りしめて、答えを待っているだけの時間が実際よりも長かった。

「……可愛いですよ、ミィさん」

はっとなって顔を上げた。

「あ、あんた今、名前で……?」

可愛いと褒められたことよりも、ノアに名前で呼ばれたことのほうが驚きは大きかった。
でも、ノアはそれ以上は何も言わず、優しい笑顔で私を見つめていた。

風が吹いて、私の紅潮した頬から熱を運び去っていった。

「みーちゃーん!」

どこからか私を呼ぶ声がする。
聞き覚えのある声をたどると、土手の上で誰かが辺りを見回していた。

「シェリル!」

私の声に気づいたとたん、シェリルは一目散にこちらへ向かってくる。

「みーちゃん! よかった、こんなところにいたんだ……」

シェリルは息も絶え絶えに言った。

「あんた、あの二人とゲームしてたんじゃ……」
「そんなことないよ。ずっと心配して探してたんだから」

私は後ろから抱きかかえられる。
そのままの姿勢でシェリルは言葉を紡いだ。

「あのね、お人形さんの代わりはいくらでもいるけど、みーちゃんはみーちゃんしかいないんだよ」

私の上から、シェリルの声が優しく降ってくる。

「わたしは、みーちゃんのことが大好き。でも、もしみーちゃんがいなかったら、わたしさみしいよ……」

声はだんだん小さくなっていく。

「だから、もうどこにも行かないで……」

最後のほうは声が震えていてよく聞き取れなかったが、私の体に回された腕の力が強まったのを感じた。

「シェリル…………」

視界がぼやけてきた。
私はこみあげてくるものを必死で堪える。
でも、涙を見られたくない相手は、とっくにいなくなっていた。

――――あいつ、いつも変なところで気が利くんだから……。

誰も見ていないことがわかって安心すると涙が溢れてきた。
こみあがってきたものはもう止めることができなくて。
しまいには私は声をあげて泣いていた。

----------------------------------------------------------------------------

「ごめんなさい。あなたたちは悪くないのに、私、冷たく当たってた……」

家に戻ってから、私はすぐにミラとベルに謝った。

「ミィ、わたしたち別に気にしてないよ。ね、ミラ」
「うん、それに言うほど冷たいと感じてもいないから……」
「でも…………」

それ以上の言葉は出てこなかった。
なんて返したらいいのか、私にはわからなかった。

「それに、私たちこそ急にやってきて……。私たち似たもの同士なのに、ミィのこと全然考えてなかったね……」

逆に、ミラが私に謝った。それに続いてベルも同じように。
二人は悪いことなんて何もしてない、私が勝手に意気地になっていただけなのに。
私が黙ったままでいると、シェリルがなだめるように言った。

「そうやって思い込んじゃダメだよ。二人とも、自分も悪かったと思って言ってるんだから。みーちゃんはそう感じていなくても、受け入れなきゃ」

ここで私が受け入れられなかったら、二人がもやもやを抱えてしまうことになりそうで。
今度こそ仲良くなれそうなのに、そんなのは嫌だから。

「…………そうね」

ふと、笑顔がこぼれた。
胸のなかで淀んでいた黒いもやもやはもう影も形もなくなっていた。
私の様子を見て察してくれたのか、二人もまた笑顔になった。

少しだけ遅れてしまったが、ようやく友達になれた気がした。
今なら、私たちだって自然に笑い合える。

「ところでさ、ミィ。……その猫耳どうしたの?」
「あ……!」

私はとっさに猫耳を隠した。
猫耳カチューシャをつけたままだったのをすっかり失念していた。
急に恥ずかしさが戻ってきて、みるみる内に顔が熱くなるのを感じる。

「ノア、あんた……!」
「私は、それをあげただけです。それに、シェリルさんが来るとは思ってませんでしたから……」
「じゃあ、シェリル!」
「ええっ、わたし!?」
「あんたが来たおかげで、そのまま忘れてて……!」
「そ、そんなぁ……。わたし、みーちゃんが猫耳つけてたなんて知らなかったし……」

それもそうだ。
猫耳をくれたのはノアだが、つけることを決めたのは自分だ。
そして、外すのを忘れていたのも自分だ。
だから人のせいにするなんてお門違いだということは理解できる、理解できるのだが……。

「恥ずかしい…………」

慌てて外そうとするが、髪が引っかかってなかなか外れない。

「でも、似合ってるよ。ミィ、すごく可愛い」

ベルが制止の声をかけたので、私は手を止めた。
褒められて悪い気はしない。

「ぅ……、ん……」

つい、おどおどして、声が小さくなってしまった。

「ぁ、あの……、その……」

言いたいことがなかなかまとまらない。
今の気持ちを的確に表せる言葉が見つからなくて、そのことがさらに焦りを生んだ。
そこでシェリルが別の提案をしたので結局言えずじまいになってしまった。

「そうだ! みんなで記念写真撮ろうよ!」

ベルが目を輝かせる。

「コスプレして?」
「もちろん!」

ノアが一歩引いた。

「では、私が写真を撮りますね」
「何言ってるの、ノア。あんたも映るのよ」
「わ、私、この手じゃうまく着替えられないですし……」
「天使パワーでなんとかなるでしょ」
「な、なんですか天使パワーって」

私たちのやり取りをよそにミラがぽつりと言った。

「でも、幽霊って写真映り大丈夫?」
「だいじょーぶだいじょーぶ、念写だから!」
「あれは心の中の映像を映すものですが……」
「じゃあ、幽霊パワーで」
「……便利だね、幽霊パワー」

なんだかんだでセルフタイマーで撮影することになった。

ベルはゴスロリ、ミラはメイド服、シェリルはさっきのセーラー服。
みんな思い思いの衣装に着替えている。

私は今つけている猫耳だけで十分だろう。
拘束が邪魔で着替えられないノアは手軽な犬耳をしぶしぶ選んでいた。

「みんな着替えたらこっちに並んでー」

あやふやな場所を指定されてとまどっているみんなの手をシェリルがひっぱる。

「ベルちゃんはこっちで、ミラちゃんはこっち!」

次にシェリルは私の手をとって、二人の間に誘導する。

「みーちゃんは真ん中ね! ノアちゃんは後ろ!」

ノアは指示を受けて、私たちの後ろで浮かんだ。

最後にシェリルが位置関係を確認して、カメラのタイマーを調整する。
撮影する準備ができると、私たちの背後に回って、ノアの隣に移動した。

両側にミラとベルがいるせいか緊張する。
自分の顔が引きつっていないか心配だったが、それよりも下手に気負っているのが二人に悟られやしないかが不安だった。

横目に二人を見る。
彼女たちも同じような心境であることは表情からも見て取れた。
私は勇気を振り絞って、二人に声をかける。

「ミラ。それに、ベル」
「うん?」
「………………ありがとう」
「…………どういたしまして」

ぱしゃり、とシャッターが下りた。

----------------------------------------------------------------------------

日はとうに落ち、あたりはすでに暗くなっていた。
ミラとベルがそろそろ家に帰ると告げたので、途中まで送ると約束した私たちは最初に出会った道まで戻ってきた。

「二人とも、今日はありがとうね! とっても楽しかったよ!」

シェリルはベルの手を握りながらそう言った。

「わたしも! ゲームで語り合える友達が増えて嬉しかったし! ね、ミラ!」
「うん……。でも、幽霊と天使の友達ができるとは思わなかったけどね」

ミラが私とノアを交互に見る。

「こっちもビックリしたわよ、まさか錬金術で動く人形がいるなんて」
「そんな私たちがこうして運命的な出会いを果たしたのは、もしかしたら奇跡だったのかもしれませんね」
「……ノアが珍しくいいこと言った!?」
「私が言っちゃダメなんですか!?」
「だってアンタ、いつも下ネタばっかりじゃない!」
「下ネタ……」

それを聞いて、ノアのことを知らない二人が「天使とは一体……」と悩み始めた。

「ああほら、ミィさんのせいでお二人が誤解してしまったじゃないですか!」
「知らねーよ! アンタの日頃の行いが悪いからだよ!」

私はノアとにらみ合う。
…………まあ、今回は「人形さん」とは言ってこなかったのでそこは認める。

「あはは……。ひょっとして昼間もこうやって喧嘩してたんじゃ」
「二人ともいつもこんな感じだから……、なんとかならないかなぁ」
「喧嘩するほど仲がいいって言うし、本当は案外、お互いに認めてると思うけど」
「え、ミラちゃんにはそう見えるの?」
「なんとなく」

と言ってミラは微笑を浮かべた。

「「そんなことない!」」

とっさに言い放った言葉がノアと重なる。

「ほら、ね?」
「ほんとだ……。二人ともいつの間にか仲良くなってたんだね。わたしもがんばったかいがあったよー!」

シェリルが大げさに私たちに抱きついてくる。

「違うし! 今のはこいつが勝手に合わせただけだし!」
「合わせたのは私じゃなくてミィさんですから!」

くすくすと笑うミラとベルに対し、あまり意味のない弁解をする。
今回はそれほど悪い気分ではないのだけれど。

「でも、やっぱり友達が多いのは羨ましいな」
「私たちは普段二人だけだからね……」
「じゃあ、今度はわたしたちが二人の家に遊びにいくよ! みーちゃんも、ノアちゃんもね!」

私は笑顔で頷いた。ノアも満更でもなさそうだ。

「約束だよ!」
「うん、約束!」

シェリルとベルが小指をからませ、指切りをして勢いよく放した。
それを皮切りに二人は帰路につく。

「それじゃ、またね!」

両腕を振り上げたベルの隣でミラもまた無言で手を振っていた。

「また遊ぼうねー!」

はしゃぎながら別れを告げるシェリルの後ろで私は二人を見送った。
あまり話せなかったのが残念だったが、もう友達になれたのだし、また会うこともあるだろう。
私は幽霊の人形、あの二人は錬金術で動く人形、違っているけれど似た者同士だから、分かり合えることも知らないこともきっとたくさんある。
次に会ったときはどんな話をしようかと考えていると、なんだか胸がわくわくしてきた。
今夜はあまり眠れなさそうだ。


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作者: 登場ゴースト:

或る先輩の退屈

 おしら様という昔話がある。
 馬と番いになった娘に激怒した父親が馬を殺したってんで、娘さんは馬と一緒ンなって神様になっちゃっていう話だ。
 無茶な話だが、農業と養蚕の神様なんでそれなりにけっこうこっちの方では有名だし、牛馬と仲良くなるのもわかんなくはない。何となれば人間とは誰かに代わりに働いてもらうのが幸せな生き物なんだ――
 なんて言っていたら、呆れかえったお女中のトミさんが掃除の邪魔だって言うんで、僕を居間から追ん出してしまった。ソリャそれが助けになるなら吝かじゃあないが、だからって追ん出すことはないと思った。それもこれも畳みに横っ腹付けて寝っころがって、頭に手のひら当てて肘付いて煎餅齧ってテレビを見ていた僕が悪いのだけれど。でもやっぱりそれにしたって追ん出すこたぁないんじゃないかと思った。けれどもトミさんは僕が頭の上がらない数少ない人物の中の一人なので、文句はぶちぶち言うだけに留めて障子を開けると、うっつら半目で茫洋と腹を掻きながら、縁側に転がる。
 夏も盛り。蝉がうるさい。日の光がほかほかと眩しい。瞼を閉じると目の裏が真っ赤になる。僕は――宮澤文恵という名の少女は、申し訳程度の体裁も繕う気が今はさらさらと無く、どころか思いつく限りの怠惰を謳歌するつもりでいた。
 まるで梳き立ての白い和紙のようなくしゃっとした純白の髪が汗でべたりと貼り付くので団子のように頭に纏めている。きめのこまかい白い肌が未発達気味だけれどもそこがやけに艶かしい身体を汗が滴り落ちる。そんなだから渋くて味のある色の甚平もよれてはだけていっそう醜い様ではあるが、使命感の如く意に介さない。
 今の僕は、陽光にふっくりと炊き上げられた床板の感触を頬に押し付けるので忙しいのだ。右が人肌程度にまで冷えたところで左にでろんと転がる、これがなかなか心地よくてぷくぷくとまどろみの中に沈もうとしていたのに、見よ。恐ろしい影が僕の安寧を邪魔するのだ。影は世にも恐ろしい大男の姿を取って僕を覆った。すわ一大事、しかし僕は負けない。人の尊厳はこんなことでは小揺るがぬのだ。
「煩い」
「まだ何も言ってないだろう」
「何か言われそうだったから、先手を取ったんだよ」
 大きな影が上から見下ろしている。逆光なのでどんな顔をしているのかはいまひとつわからないが、きっとこの巨大な大飯喰らいの愚物をどう処理してくれようという様子だろう。気が合うね。ちなみに上から降ってきた恐ろしい気配の大男とは、短く刈り込んだ髪と顎鬚を摩るのがくせで、やたらあちこちごつごつした身体の僕の兄なのだが。
「起きなさい。昼間っから仕様のない女だ。誰に似たのだ」
「兄さんではないことは確かだね」
「だろうとも。俺に似るわけがない」
「僕は心の余暇を楽しむ度量があるからね。さあ、光合成の邪魔だ、どいて」
 目も合わせずにしっしと手で煽ぐと、むっとした気配が上からどろどろと滴り落ちてくる。どだい兄とは生活のリズムが合わないのだ。もちろん彼を尊敬してはいるが、ぴんしゃんと朝から棒振りに精を出すような生活は僕は御免蒙りたい。身体を動かすこと自体は嫌いじゃないが、ともかくその、ピリっと折り目の正しいのが、僕には難しいのだ。勿論兄とて僕のように人目のある所とない所でこうも極端な生活だというのは耐え難かろう。本当に、似ていない。
「そんな言い方があるか。仮にもお前は」
「仮にも僕は、あなたの妹だよ」
 余計なことを口走りかけたので、釘を刺す。別に誰が聞いているわけでもないが、こんなことをべろっと吐き出しているのを聞いたらトミさんは心配してしまうだろう。使用人想いの僕。兄も失言だと思ったのか、顎をさすって視線を一度逸らしてから、また戻ってきた。切り替えの早いことでけっこうである。一仕事終えたばかりなのか、いつもの甚平姿ではあるが少々気取った足取りでとんとんと床を踏み鳴らすと、もう一度口を開いた。
「今の姿をお前の後輩が見たらどう思うだろうな」
「どうもこうもないよ、多分呆れる。またかって」
「繕っておらんのか」
「うん」
 そういえば、今日は甚平の柄が被っているナアと気付いて鼻に皺を寄せながら僕はさらっと堪える。余程意外そうな顔で、眉毛を互い違いにした素っ頓狂な顔で兄は僕の横に座った。少し今の問答に興味が沸いたらしい。邪魔くさい。一言も話さないが、“こういう”僕を見て尚付き合い続けるその後輩とはどんな人間なのだ、もっと話せという顔だ。見なくてもわかる(君のことだよ)。だから、適当に受け流すことにする。
「もの好きなんだよ。……それで、今日はまた何があったんだい」
「ああ。智慧を借りたい」
 雑な対応にも素直に兄が応じる。話が判りやすくて良い。簡潔に用事を伝える。この人はこういうところが好かれているのだ。妹への興味は一先ず置き、彼は懐から取り出した書簡に向けて二言三言。一見してがっちりと封をされていたそれは、ぱらっと解けて勝手に開いた。
「そんな大事なのかい」
「然程ではないが、早ければ早いほうがいい」
「じゃ僕なんか遣うなよ。ご党首様の差配でよろしくおやんなさい」
「夏休みだからと実家に帰って来、かと言ってすることもなくあられもない姿でごろ寝をしているくらいならば働きなさい」
「痛いことを言うなぁ」
 でも道理だ。実家で休んで何が悪いと思わなくもないが、それに罪悪感を感じる程度には忙しくしている家なのだ。仕様がない、と起き上がると、あぐらをかいてトミさんを呼んで、煎茶を冷やしたのを持ってきてもらう。じっとりと前髪と同じように貼り付いてしまった舌を面倒ながらもそれでほぐしてから、ふう、と息を吐いた。
「何くれるんだい」
「神酒をくれてやる」
「くれてやるったってこれだけじゃァないか」
 兄が蔵から取り出してきたのは小瓶の、それも安っすいやつで、そりゃあもう不満でしかない。こんなの舐めたらもうなくなっちゃうに決まっている。いくらキモチが大事だからってこんなんじゃ腕の振るいようがない。
 そういう心持ちがすっかり顔に表れていたらしくて、兄は腕を組んだまま鼻を鳴らす。
「残りは終わってからだ」
「だからってこんな体裁だけ整えたような」
「文句があるなら飲まんで宜しい」
「文句はあるけど飲まんとお手伝いできないだろ」
「お前、前々から思っていたがその斜に構えた言葉遣いは何とかならんのか。年を考えろ」
「僕の知っている学生っていうのはこういう言葉遣いをするモンなんだけどね」
「時代は変わったんだよ」
「所業無常だなあ」
 ま、いいさ。
 少し佳く働いて夕食が少しでも豪華になるンならそれは甲斐があるというものだ。
 ことんと指で小瓶を傾けると、スクリューキャップを指で擦る。
 “開いた”、と小さく呟いたのは果たして聞こえたかどうか。
 キャップはその辺に放置して、茶を飲み終わった湯のみに注いだそれをむぐむぐと口の中で濯ぐ。うーん、安酒。
「で、次第は?」
「ウム。一関に居る親戚筋の山本氏が亡くなったそうだ。前から長患いが続いていたので、葬送は滞りなく進んだのだが」
 そう言いながら、兄は僕の湯のみを奪ってごっくん飲んで、へんな顔をした。
「次はもうすこしマシなのにするか」
「是非ね」
「それでだ。彼には実子と養子が居る。福祉施設から引き取ったそうだ。年齢的には養子の方が上だが実子を良く立てて関係も良好だったし、山本氏自身織物業で成功したなかなかの資産家だったので、遺産の配分は遺書の通りで異論が無かったのだ。が、ここに来て夫人が急に養子の方には一銭もやらんと言い出したのだ」
「別に普通じゃないのかい? よくある話だよ」
 足をぷらぷらと縁側から放り投げて云う。
 そもそもが血の繋がった兄弟でだって争うことがあるのだ。お金って怖いね。だが果たして兄は、天井を睨んで溜息をついた。
「普通ならそうだな。解せないのは、福祉に関心があったのは夫人のほうだということだ。のみならず、生前の弁護士立会いの下の遺産分配についての話し合いでは、自分が実子の半分以下で良いと言い出した養子に対し、そんな遠慮をするなと怒っていたほどだと云う」
「奇特なことだね」
「ちゃんと訊いているのか」
「もちろん訊いているとも」
「なら宜しい。ことはあちらの家の問題だから深く干渉は出来ないし、やはり遺書がある以上夫人がどう申し立てたところで覆りはしない……が、やはりこういうことは体裁がある。人として穏便に済ませてほしいと」
「そいで兄さんにお鉢が回ってきたんだ。本家も楽じゃないね」
「お前がしっかりしていれば少しは楽になるんだが」
 おっとやぶへび。
「説得の為に、ことの真相の方はこちらで把握しておきたいのだ」
「ご苦労だねほんと。ご本人は教えてくれないのかい」
「自分の醜態を曝け出す女性ではないのだ。実子の方も何があったのかと戸惑っている」
 ころころと口の中を清めて、ごくんと飲み下す。清い気を感じながら目を閉じた。
「奥方が宗旨替えしたのはいつ?」
「山本氏が亡くなってすぐだ」
「その前に、何か奥方が激昂するようなことがあったのかい?」
「知らん」
「役に立たないなあ、このワトソンくんは」
 目を閉じたままでも、横からばしばし刺さるような視線が飛んでくる。無視無視。あからさまな不仲じゃなかったとなると。
「亡くなる前に、少し山本氏と養子の彼で、話をする機会ってあったかい?」
「ああ。今際は三人と、俺にこの話を持ってきた医者で看取ったそうだ」
「その時に変わった様子は」
 言葉が巡る。些細な情報は蜘蛛の巣のように張り巡らされる。目に見えることは全部邪魔だ。ぼくはしろいかみ。書き込まれるままに。
「変わったも何も、慕われていた男だったので皆泣いていたらしい」
「それは養子の彼も?」
「無論だ。あんまり泣くので病床の山本氏が気を遣って自分のハンカチを渡したらしい。愛用の絹のやつを。“君のお母さんが傍に居る。泣くな”とそう云い、そこで最後の発作が起きたそうだ」
「ふうん」
 ぷは、と息を吸うと目を開いた。我ながら眠そうに見えると自慢のつぶらな瞳の端に涙が浮かぶ。欠伸、では決してない。
 あんまり不憫でならなくって、哀しくッて涙が出てしまった。
「どういう訳だ」
「どういうもこういうもないよ。こんなの難しいことじゃない。
只ただ、可愛そうでならないんだ。だから泣くのだ」
「その理屈を兄に教えろ。一体何が不憫だと言う」
「誰も悪くないからさ」
 お酒を口にもごもごと含みながら云う。清き気。僕の言葉は特別に力があるのだから、穢れて禍つ事にならぬようにするのは努めだ。これは昔から、一度たりとして欠かしたことのない兄との様々な“取り決め”の一つだ。
 そのうちの一つ――真実を言い当てようと、そういう時は特に。
「山本氏は、なぜ養子君にハンカチを渡したんだろう? いくら山本氏が優しい人間だったっても、今にも命のともし火が消えそうな時に涙を慮ってハンカチを差し出すなんて、それも何人もの悲嘆に暮れる人の中から一人、特別泣いている人を見出して? そんなのはただの思いやりじゃない。病身の苦痛、或いは鎮痛の酩酊に耐えてでも“それをしなきゃならない”って思ったんだ。格別意志のある行動だよ」
 兄がはっと息を呑むのが分かる。その行動が特別だったというのは、勿論理解できたようだ。と云って兄が愚かなのではない。彼は目の前の人の感情や行動にはとりわけ敏感だ。彼が言うに、人はただの一呼吸するだけでも沢山の情報を残すのだと言う。ただ、その一方でただの“事実”、特に他人の私見が入ったものから自分の考えを構築するのは不得手だ。まあ、良い人なのだ。だから僕も、それに応えるのだ。
「“君のお母さんが傍に居る”と、この物言いは実に不自然だ。己の妻のことだとすれば彼だけではなく実子何某にも言わないというのはおかしいし、それだけ良い人だったのならば、彼に実母同然に愛を注ぐ、傍に居る己の妻を差し置いて養子何某に、実の母親の話をする筈もない。加えて先ほどの話だ。“君のお母さんが傍に居る”。これが事実だったとしたらどうするね」
「事実だったら……」
「そのハンカチだよ」
 またお酒を含む。話を聴き入るうちに兄はトミさんに煙草盆を持ってきてもらって煙管を吹かしていた。香ばしい中にも少し甘い香りがふわりと広がる。兄の煙草はとても良い香で僕は好きだった。テレビのなかでみた刑事ドラマのような、いかにも切羽詰った吸い方でないのが更に格好良い。余裕を持って煙草を楽しむのだ。その香りに気を良くしながら、そンでも僕は悲しかった。
「絹というのは育てた人の腕や蚕の品種次第で如何様にも値が変わるものじゃないか。当然織物で成功したんだと云った山本氏なのだから、絹は手を出していたのだろう? 余った駄作の切れ端を懐にしのばせる吝嗇家だったならばともかく、普段から肌に触れる……愛用だって言うものなら、それは本当に大事なものなんだろう。それを渡して、愚にも付かない冗談を言う人ならば本当に人に慕われる筈もない。それは、事実だったんだ」
「一寸待て。如何にもそれが真実なのだとしたら何だ。彼の母はカイコガだと言うのか」
「兄さんの冗談は面白くないから流すけど」
「嫌味を言ったのだ、俺は」
「だとしたら尚更だ。僕は本当にそう思って云っているんだ。……おしら様だったんだよ」
「……何?」
 眉根を寄せて首を傾げる。
 そう、別に難しい話ではなかったのだ。
 ただ、表ざたに出来なかっただけなのだろう。
「何故って福祉は奥方の趣味だったんだろ? 多少のお金の都合は黙ってたとしても、わざわざ見ず知らずの子供を一人招き入れる覚悟っていうのは相当なものだと思うよ。なら、山本氏には彼を子供にする理由があったんだ。その理由がずっと分からなかったんだけど、兄上の話でやっと得心が行ったよ」
「どういうことだ」
「養子って言われている彼も、山本氏の息子だってことだよ。正確には、たぶん、母親違いの」
「荒唐無稽とは言わんが、なぜそう思う」
 腕を組んでこちらをじっとやぶ睨みにする兄の目を、負けじと覗き返してやる。
 この喰らいついてくる胆力は頼もしいものだ。
「だから、さっきのハンカチの話さ。およそその言動は、一見して彼らしいが、よくよく思ってみれば彼らしくないのだね。当然、人間の出来上がっていない実子何某と養子何某には伝わらなかったのだろう。そしてそれで良かった。山本氏は結局、死ぬ間際に一人、誰にも知れず満足したかっただけなのだから。誰にも伝わらない方法で、伝えたい本人にすら伝わらないように伝えることで」
「誰にもではなかったということだな」
 煙草を長ぁ……く、煙を吐いた。
 少し瞑目し、閉じた瞼で空を仰ぐ。さすが兄上。生きた感情には強い。
 そう、僕の想像した結末も、そういうことだった。
「唯一の不幸は、彼の行動の矛盾を見抜き、この地で永く暮らし、その真意を見抜いてしまった奥方様だ。……きっと彼女は、知ってしまったんだよ。愛する夫が、自分のほかに愛していた女が居たって。そりゃ、動転もするさ。と云っても養子君は実子君よりも年上だと云うのだから、上手くすればこれは浮気じゃなくて叶わぬ恋だった可能性もある。この場合、山本氏が農家の娘だったんだろうね。さすがに馬とは言わないけれども、まあそういう扱いをされる人だったんだろうさ。そして山本氏にも、家を捨ててまで彼女と添い遂げる度量はなかったのだろう。農家だしね。良い人とは得てしてそういうものだ」
「やけに辛辣だな」
「べつに」
 少しだけ誰かのことを思い出しながら……おっと、君のことじゃないぞ。ほんとだからな。
 ただ、僕は、ただ可愛そうだった。
「改めて彼の来歴を調べてみるといいよ。きっとそういう女性が見つかるから。……きっと、彼女の。一生を添い遂げた愛する妻を愛する前に、もしかしたら一生を添い遂げられたかもしれない愛する女性の形見も守りたいと思った彼の。足跡がね」
「……成程相分かった」
 しんみりとする間も無かった。僕のとても叙情的な結びに何かしらの余韻もなく兄は立ち上がる。トミさんを呼びつけながらするすると甚平を脱いでいって、まるでお菓子の家に続く道すじのように脱衣がぽつんと縁側に寂しく横たわっている。少し見なくなって、戻ってきたら、彼は黒いスーツに黒いネクタイを締めていた。まさか今日が通夜だったのか。さては急ぎではないというのは僕に気を遣って黙っていたな、とあんぐり口を開ける僕の横を通りすぎながら。
「世話になった。礼の詣では帰ってからする。待っていろ。すぐ戻る」
 そう言って、彼は行ってしまった。

 そして後日聞いた話。
 驚いたことに、兄は何か二言三言囁いただけで、夫人を納得させてしまったらしい。
 のみならず、夫人はその場ではりのむしろに座っていた養子何某とそれを庇っていた実子何某を抱き締めて、おいおいと謝罪したようだ。
 重ねて驚いたことに、先刻まで夫人の心変わりに付け入るべく養子何某を貶めてごまを擦っていた性質の悪い親戚連を通夜の席からけっぽり出してしまったらしい。
 『俺は何もしていない。今回は中心人物が皆善人だったからこれで済んだのだ』ということらしい。兄曰く。
 そして我が家はまた、『正しく裁定の下せる本家』としていっそうの信頼を集めたとのこと。
 おおかたの人間は、兄がひとりで全てをやっていると思っているらしい。が、兄は僕なくして己の立場はなかったと思っているらしい。まったく事実は違う。僕のしていることはせいぜい、彼が己の強権を振るわずに済む道を見つけてやっているだけだ。沢山のことが見えている僕だけど、だからと云ってほんの1分も経たない内に人一人を心変わりさせるなんて出来ない。それは彼自身の才能だ。
 誰もが己に出来ぬことを、出来ぬことだと憧れる。
 しかしそれは連なって存在していて、遍く関係の中に漂うのだ。偏在することこそ人間の性質と言える。それこそ人の力そのものの本質だ。何事かできないと思っている人間だかけだからこそ、できないことをしたくて抗ったり、できる誰かに頼ったりして、それがまた新たに和を生むのだ。言葉と行動を媒介にして、遍く遍く。ユビキタス。
 ああ、これだから僕は、人間が大好きなのだ。
 顛末を聞いて、お礼の美味しいお酒を喰らいながら、今日はと選び出した詩集を啄ばみつつ、そう思うほかないのが素晴らしき我が生なり。
 滞在期間も終わり、帰り際に、兄は
「まだ、俺の妹で居てくれるのか」
 と訊いた。僕は
「あなたが素敵な僕の兄さんで居てくれる限りは、そうさ」
 と答えた。

 そうそう、ちなみにね。
 兄さんと君のこともいっぱい話したよ。
 ……どんな話をしたかって?
 それは、君自身の胸に訊いてご覧。
 続きは、部室で話そうじゃないか。
 待ってるぜ。


 追伸
 人の頭の中を覗くのは趣味が悪いので、やめなさい。


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作者: 登場ゴースト:

『あをとかげ』



日中の蒸し暑さが嘘のように消えてなくなり、
涼しさを通り越して肌寒くなり始めた、
ある初夏の夕暮れのこと。
雑居ビル二階の仕事部屋で、
一人の靑年が電話の番をしていた。
 
 普段、この部屋にはもう一人、
彼の上司―ゆかりがいるのだが、
現在、彼女は一階の会議室にいて、
内線ごしに靑年とやりとりをしている。
この日は所謂「ドンパチ」があって、
彼女はそれに参加したのち、
このビルに戻ってきたのだが、
「今は具合が悪い」と言って、
靑年とは別の階で休んでいるのだった。

 靑年は、それを聞いて迎えに行こうとしたが、
「頼むから、暗くなるまで降りて来んでくれ。ええな」
と、彼女から何度も念を押されたため、
諦めて、日が暮れるのを待っていた。
その後、靑年は彼女と内線を介して
いつものように駄弁ったが、
完全に日が落ちたのを確認すると、
「迎えに行く」と告げて、部屋を出た。
 
 廊下に出ると、館内はすっかり
暗くなっていた。階段にたどり着いた時、
大きな物音がしたが、
靑年は、照明のスイッチを入れずに、
手探りで階段を降りていく。
はじめはゆっくりと進んでいたが、
踊り場を過ぎてからは、
事務室から出てきた彼女が、
夜目を活かして声で誘導したので、
すぐに一階へたどり着いた。
誘導の礼を言おうと、靑年が
さっき声が聞こえた方を見ると、
なぜか、彼女は床に横仆しになっていて、
その隣にはキャスター付きの椅子が転がっていた。
「事務室からこいつに乗ってきたんじゃが、
調子が狂ったんかのう…すっ転んでしもうた」
と自嘲気味にわらう彼女の顔は、
怒りの表情で固まったまま動かない。
季節の変わり目のせいだろうか、
彼女は、変態を完了していないのだった。
靑年は、何も言わずに
彼女の前まで歩いていくと、
くるりと回ってしゃがみ込み、
自分の背中を差し出した。
彼女は、一瞬間途惑ったが、
「すまんな」と言って負ぶさった。

 人間に戻りきっていない彼女の体は、
いつもより大層ひんやりとしていたが、
その重さは彼の最大積載量に近かったので、
彼らが二階につく頃には、
二人の接触面は汗で張りついていた。

 その感触を紛らわそうとしてか、
「背中が…ごつくなったな」
と彼女が言うと、
「初めての時が、ひどかったからね」
と靑年は恥ずかしそうに応えた。
 靑年がまだ「お前」と呼ばれていた頃、
同じように彼女を背負おうとして、
失敗したことがあった。
それを聞いた彼女は、
「あん時の儂らは、まるで穿山甲のようじゃったな」
と言って、静かに笑った。


それから二人は話すのをやめて、
暗いコンクリの階段を
ひたひたと昇っていったが、
その姿は、傍から見ると
唯一疋の靑蜥蜴のようだった。


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作者: 登場ゴースト:

こんな追悼歌があってもいいじゃない

*こんな追悼歌があってもいいじゃない
 幾度となく繰り返された私の起点、一時間経てばリセットされるポンコツな私の戻る事しか許されないスタート地点。
木月文は一時間の世界の中で生きる。そして今日もその一時間が経過し、私が私になった時の出来事だった。
「……え?」
一人だと思っていたけれど、右手の暖かさに違和感を感じ、その原因を知るべく振り向くと知らない人が座っていた。
手を振りほどいて慌てて飛び退る。その人は困った様子だけれど、柔和な表情を崩さずその場から動かない。
彼は地面に叩きつける勢いで離した手をさすりながらこちらを見ている。
……慣れている?
「ちょっと、スケッチブック読んでもいいかな」
そう聞くと手で促された。まるでそうなるのがわかっていたかのような動作。
その人の動きを視界の隅で監視しつつ、スケッチブックの一番新しいページを開く。
日常的な事、今日やる事、昨日やった事を流し見しながら目的の記述を探していくうち、めくりめくってようやく見つけた。
日付は古いが、案の定目の前にいる人、ユーザの身体的特徴が書いてあった。細身の、優しそうな人。
漠然としてはいるものの、何となくそれが彼の事だとわかる。
友人らしいがしかし、それ以外の、彼と何があったのかという情報は何もなかった。
「ユーザさん、でいいのかな」
彼がそうと返事をした。私の手にはまださっきの感触が残っている。大きな骨ばった手だった。不思議と嫌じゃなかった事が、その時は焦りからか疑問にはならなかった。
「どうやら前の私とは仲が良かったみたい。この私とも、仲良くなるのかな」
実際のところ警戒心の方が大きく、仲良くなれるとは到底思えなかった。もしかしたら私が彼に書かされた可能性だってゼロじゃない。
何より最近の私が残した情報が少ない事が気になっていた。書いてある事は雑記だけ。
顔を合わせて話をしていたなら、きっと私はそれに対して所感を書き込んでいたはず。
古いページにはたまに書かれている、という事は最近はご無沙汰だったのだろうか。
「ここへ来るのは、久しぶり?」
彼はいいえと返事をした。昨日も、一昨日も来たとも。
過去の私達は身体的特徴のみ十分と判断したのかもしれない。それ以外は自分で知らなくてはならないと、暗にメッセージを残して。
何があったのか、それだけが頭の中でぐるぐると回っていた。
「……あ、ごめんなさい。考え事してた」
何かの音がして我に帰った。彼が座り直したらしい。
どう声をかけたものか、彼が何者であるか試すべきなのだろうけれど、踏ん切りがつかず視線が彷徨う。
「……あ、お昼過ぎてたんだ」
時計が目に入った。午後一時を回っていて、ふと昼食の事を思い出す。
「お昼ご飯食べた?」
君とさっき食べたと言われ、少し固まった。そんなに仲良くなっていた事に驚いたのだ。
「私の知らないところで随分と進んでたみたい」
『どんな気分?』
「……複雑な気持ちだよ、どう接していいのかわからない。だって、私はあなたの望む木月文じゃないもの……ここの掃除もあなたと前の私がやったの?」
周囲を見渡してみると埃っぽかった室内はそれなりに片付いていた。今まで次の私に投げ続けたであろう注文はついに果たされたらしい。
『そう。君はいつまでも動かないから』
「そんな気はする」
私の考えていた以上に距離が近い。たったの一時間しかない私と彼の間で、ここまでの事が果たされていた事に驚きを隠せなかった。
しかし彼は物理的には近付こうとしない。本当に、何もかもお見通しのようで気味が悪い。このまま黙っていても埒が明かないので、半ば自棄になって口を開く事にした。
「私の時間が一時間しかないのは知ってるよね。なのに、現状把握に十分以上かかっててまだ終わってない。
 何か話を聞きたいなら、この私は諦めて次の私まで待っててもらえるかな。こんな事になった原因を一つでも解決しなきゃ」
本当はそんな事とっくに終わっている扱いにしてもいいのかもしれない。でも彼という最大の疑問が私の中を駆け巡っていた。
彼の予想外の言葉が飛び出さぬよう、スケッチブックを抱え、彼に見せる。
「このスケッチブックにはあなたの情報がほとんどないの。それが原因で、こんなに時間がかかっているのだと思う。
 だから少しでも次の私が混乱しないように、あなたの事を書きたい」
『二時間前の君も同じ事を言っていたね』
間髪入れずに答えが来た。表情は温和なままで恐ろしい事を言う。二時間前にも彼がいたと、本人はそう言っている。
果たして信じていいのか、今の混乱した私には全く判断がつかない。
「……だろうね。その時の私はどうしたの? その私は結局失敗したみたいだけど」
『焦らなくてもいい。そう言ったんだ』
「それは出来ないかな……私はこれを積み上げる事でしか私が地続きである事を実感できないから」
『それに、僕の事は一冊前のスケッチブックに書かれている。その事だけメモしておけばいいと思うよ』
「でも……」
そう言いながら古いスケッチブックが置いてある棚から取り出し、開く。
確かに彼の言う通り、異常なほど事細かに書かれていた。彼の性格、趣味、生まれや育ち、そこから成長していく上で得られた事、失った事。
まるで彼の人生が全て書き込まれているような細かな記載に、過去の私に対してため息が出た。
『僕は君に全て教えたから』
文字通り教えられた可能性が高い。でも、何でそんな事をしたのだろう。私が個人にここまで興味を持つなんて滅多な事じゃない。はず。
「……はぁ、わかった、私の負け。きっと二時間前の私も同じだったのでしょう」
自分の枠を超えた何かがそこにあった。それだけは、はっきりしている。二冊のスケッチブックを抱えながら言葉を選んで紡いだ。
『そうだね』
前の私も諦めたなら、それでもいいのかもしれない。後悔したとしてもそれを覚えている私はいなくなる。
私が事細かに調べているうちに二十分を過ぎている。残り時間は着実に迫っていた。
「はぁ、何だか変な疲れ方しちゃったな。昔の私と話が出来るなら問い詰めてあげたいよ」
ポンポンと、彼が自分の隣を軽く手で叩いていた。言わんとしている事はわかるけれど……
「あなたを疑ってしまった罪滅ぼし、という事にしましょう」
素直に従う事にした。彼の思う壺のような気がしてならない。とは言え今更無かった事にするのもそれはそれで私が嫌だった。
乗りかかった泥船は、どこへ沈むのか。どうにでもなるがいい、今の私はここにしかいないのだから。
「……ん」
彼の側に寄ってすぐ、その大きな骨ばった手で頭を撫でられた。彼の手は本当に大きくて暖かい。どこか落ち着く不思議な手だった。
「……前の私にもそういう事したんだね。触り方が慣れてるもの」
『嫌だった?』
「ううん、安心する。私だけがこうなるわけじゃないと思うからそれでいいよ」
生っぽいって文句を言おうと思ったけれど、そういう空気でも気分でもないからやめた。
撫でられているうちに一つ気がついたのだ。
「あなたは、ユーザは私のお父さんみたいだね」
私が言葉をぶつけても、それをちゃんと受け取ってくれる。そしてこの大きな手、今までの私もきっと甘えてしまったのだろう。
『ありがとう』
「だから、もう少しだけ甘えさせて」
彼の肩に寄りかかるつもりが、背が足りないので腕に寄りかかった。触れた面が暖かい。男と女が並んで座っているのにいやらしくない、不思議な雰囲気だった。
頭を撫でていた手は私の手に重なり自然と手を握り合う格好になっていた。その時、ふと今の私になった時の事を思い出した。
「ユーザはずるいよ。次の私にもこうして甘えさせてくれるんでしょ。
 なんで手をつないでいたのか、今なら少しわかるよ。
 そのうちこうしている事が自然になって、体が忘れられなくなっちゃうのかもね」
でも、そういうのも悪くないかなと思ってしまった。それだけ今の私がぬくもりに飢えていたという事なのかもしれない。
 彼の温かさがそのうち私にもうつって、気がついたらうとうとしていて、意識を取り戻したのは彼に揺らされたせいだった。
「……え、え? 寝ちゃってたの?」
『おはよう。もうそろそろ時間だね』
時計を見ると、今の私に残された時間は一分を切っていた。
前の私もこんな感じだったのだろう。だからスケッチブックに手を伸ばす余裕が無かったのだ。
そして今の私もそんな気分ではなかった。
肩から離れて、手だけがつながる。その手を離したくないな、なんて思ってしまった。
「きっとあなたなら大丈夫だと思うけれど、次の私にも優しくしてあげてね」
あと僅かな残り時間、これだけを伝えたいと思った。それに彼が頷いてくれた。
「ありがとう」
そうして、私は次の私にバトンタッチをした。
\x
>こんな追悼歌があってもいいじゃない


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作者: 登場ゴースト:

もうじきに、まだまだ


ad longinquum punctum ――





   ◆ 2nπ


I hear the noise of many waters
Far below.
All day, all night, I hear them flowing
To and fro.

―― James Joyce《Chamber Music》XXXV



 もはや夜明けもさほど遠くないはずだが、市街の西に茫洋と臨むアドリア海の水面は深い闇に覆われ、北側から廻りこんで湾をなす対岸の陸地の姿もおぼろげで、空との境もいまだ瞭〔あき〕らかではない。ただ、沈みかけた飴色の凸月の散らす光が微かに、そのあたりの水平線のさまを露わにせしめている。潮音が低くどよめきつづける。
 1905年、オーストリア=ハンガリー帝国領トリエステ。北風〔ボーラ〕の吹き下ろすこの港町の埠頭を、男はおぼつかない足取りで所在無げに歩を進めていた。旧市街〔チッタ・ヴェッキア〕で夜更けまで労働者たちと飲み交わしたあと、足の向くままに界隈を彷徨っていたのだった。
 ふと、彼は自身の右手にずっと何かを握りしめていたことに今さらのように気づくと、やおら立ち止まってそれを顔の前に翳〔かざ〕して、近くで弱々しく光を落とす、蛾の翅のはためく瓦斯〔ガス〕燈をたよりに、度の強い眼鏡ごしの秧鶏〔くいな〕のように用心深そうなブルーの瞳で矯めつ眇めつ眺め廻した。白地に幾条もの異なる色の線が螺旋に沿って走っている巻貝の殻だ。ひとつの生命のなれの果て。たとえば海のホルンと形容するには、それはいささか小さい。
 ――酔いの廻った頭で、いったい何を思ってこんなものを拾い上げていたのだろうな。男は己の頓狂さに苦笑しながらも、それを何気なく自分の片耳にあてがってみた。途端、静かな噪音が聴覚に寄せ来る。これは潮騒か、いや、貝に覆い被せた指に巡る己の血潮か……。貝殻から蝸牛管へと、音が流れ込む。螺旋から螺旋へ。その類似的な関係性に思い至ったことに理も無く自得して、男は貝を耳から離すと、ふたたび手の中で弄ぶ。その堅らかな螺旋にぐるりと指を滑らせているうち、ふいに心にリコルソ、という単語が浮かんだ。
 再帰〔リコルソ〕――。この街の、サン・ジュスト大聖堂の周囲を抜けてドナト・ブラマンテ通りを行った外れにジャン・バッティスタ・ヴィーコ公園という小さな広場がある。その広場の名称になにか心の引っかかりを覚え、いつだったか、それがとある哲学者の名前であることを知るに至って、繙〔ひもと〕いてみたその人物の著書――歴史というものが発展的な循環を指向することを論じるものだった――にあった用語だ。
 ジャン・バッティスタ・ヴィーコ。彼がその名前に殊に関心をもった理由は、ひとつにはそのヴィーコという固有名詞ゆえであった。彼の生地、アイルランドはダブリンにも――まあ、由来はちがうんだろうが、と彼は思う――、ヴィーコ・ロードという道路がある。ダブリン湾へと繋がる彎曲した海岸線に沿って蛇のようにくねるように走る道だ。
 ヴィーコ・ロードへと巡らせた連想と寄せ返す波の音に誘われて、男はふいに遙かな故郷への思いに駆られた。黒き澱みのリフィ川を擁き、さながら中風に病める忘れがたき都市ダブリン。波が迫るたびにひとつづつ、心に灼きついた在りし日の景色がありありと脳裏に浮き沈みする。藻に青々と覆われた岩が連なる薄暮のなかのサンディマウントの磯辺。午〔ひる〕過ぎのオコンネル橋の欄干ごしに立ちのぼる煙。夕日に眩しく映えるホウスの岬の、あの気高き威容……。
 と、ふいに、艀〔はしけ〕が幾つも並んで舫われている桟橋の先のほうからなにやら陽気に叫び交わす声が聞こえてきて男は我に返った。声の主の姿は見えず、何を云い合っているのかも判然としないが、あれは朝一番の仕事にかかる船乗りたちだろうか。
 ……この街は言葉の坩堝〔るつぼ〕だ。吹きすさぶ風の唸りと虎落笛〔もがりぶえ〕の響きと海鳴りとに攪拌され、幾多の民族の、百様の階層の、雑多な言語が渦巻き蟠〔わだかま〕る土地だ。この街を愛せる理由があるとすれば、ひとつにはその豊かさと奥行きの深さだろう。

 ――さて、そろそろ酔いも醒めたか。男は埠頭の縁に立って、手にした貝殻をひと思いに海に向かって放り投げ、宙に大きな抛物線が描かれるのを見届けると、つと踵を返してその場を後にしていった。白みはじめた空に向けて、この街の酒飲みたちに歌い継がれるトリエステ方言の歌を、よく通るテノールで、けれども曖昧に口ずさみながら。

Ancora un litro de quel bon (注いどくれよ、もう一杯)
No go le ciave del porton (家に帰ろうにも)
pe'ndar a casa (玄関の鍵がなくてさ)
...

 月はもう沈んでいた。



 アイルランドが生んだ作家、ジェイムズ・ジョイスの畢生の大業である『フィネガンズ・ウェイク』の末尾は、まるでなにかを云い淀むかのように、「the」という語を最後にしてピリオドも打たれぬままに唐突に終わる。いっぽうで同篇の冒頭は、それを承けるように奇妙にも小文字を先頭にして、ダブリンの土地や建物の名を次々と言葉のうちに溶かしこみながら次のように始まっている。

〝 riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs. 〟

 このくだりは、柳瀬尚紀による翻訳 (河出書房新社、1991年) においては以下のような日本語に写された。

〝 川走、イブとアダム礼盃亭〔れいはいてい〕を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ、今〔こん〕も度〔ど〕失〔う〕せぬ巡り路を媚行〔ビコウ〕し、巡り戻るは栄地〔えいち〕四囲〔しい〕委蛇〔いい〕たるホウス城とその周円。 〟
(註; もとの本文では総ルビが施されているが、ここではその一部を〔 〕で括って示した)

 柳瀬は著書『フィネガン辛航記』所収「正気の沙っ汰次第」のなかでこの部分の翻訳の顛末について語っており、たとえばこのようなことを述べている。

〝 とくに委蛇には平凡社大辭典にある語釈のすべてをこめたつもりである。「すべて物事のゆるやかに動くさま。ながながと連れるさま、曲りくねりて行くさま、物の風などに靡くさま、安らかに自得せるさま、などを形容する」(同辭典) 〟

〝 最後を《周円》としたのは、終焉のひびきをこめたかったから。というのも、『フィネガンズ・ウェイク』のこの始まりは、終わりでもあるからだ。 〟



* * *



 ――思わず息を呑んだ。心の高鳴りのまま気の逸るままに駆けだしていた。灌木の枝葉が衣服に絡まり、下露に濡れるのも厭わずに。遠いむかしに掴みかけた、けれども掴み取れぬまま忘れかけていた大事なものを、そこに突然に目の当たりにした気がして――。

 小道の先の藪〔やぶ〕を抜けたとたん、視界が大きく開けた。自分がいま立っているのはどうやら小高い丘の上であるようだった。やさしい風が頬を撫でる。
「……どうかして?」
 背後からの声にふと我に返って、残る動悸を抱きすくめるようにしながら振り向けば、そこには茂みと張り出した枝を掻き分け、肩にかけたバッグを胸に抱えて、足下を気にしながらこちらにやってこようとしている先輩の姿があった。
「あら、きれいなところね」
 横に並んだ先輩が、眼下に広がる見晴らしを眺め渡しながらそう口にする。
 そう、それはとても、きれいな眺めだったのだ。といっても、風光明媚だとか絶景だとか、そんなきらびやかな言葉で形容するような景色というわけじゃなくて。ましてや旅行ガイドの表紙を鮮やかに飾るような云わずと知れた名勝にたどりついたわけでもなくて。
 ありていにいえば、そこはこぢんまりした凹地になっていて、その中腹あたりにひときわ目を惹く大きな木――先輩が云うにはエンジュの木だそうだ――が生えていて、いくつかの種類の小さな花の群生があたりに色を添えている。冷静に客観的に描写するならそんなふうな、まあ、地味とまではいかなくとも、ありきたりといえばありきたりな景色だったのだけれど。でも、その構図や雰囲気が、渦巻く記憶の奥底に沈んでいた思い出のなかにあるものに、やっぱりたまらなくよく似ていて……。とはいえ、まあいくらでも奇想天外なものになりうる心のなかの風景と較べてしまえば、実際にいま目の前にある眺めはずっと現実ならではの落ち着きをたたえてはいるけれど。
「以前にも、ここに来たことがあるの?」と先輩の問いかけ。
「いえっ、そういうわけじゃない……はず、なんですけど」おぼろな記憶をすくってみても今しがたふたりして歩いてきたような小道は思い出せないし、そもそもこのへんの土地とは昔は縁もなかったはずだから、あれがこの場所だったとも、ちょっと思えないのだけど。

 ――休暇を楽しむためにキャンプをしに行こう、という話になってみんなで盛り上がったはいいものの、いざ当日になってみたらちょっとばかり不測のどたばたが発生したりしたあげく、なんだかんだで先輩とわたしだけが先に現地へと向かうかたちになったのだ。ところが、ただでさえ時間にゆとりをもちすぎていたうえ、ほかのメンバーの到着が予定から大きく遅れて夕方になりそうな運びになったために、だいぶ時間をもてあますことになる。ただ、テントやら寝袋やら調理器具やら食材やらをはじめとしたキャンプ用品や、ついでだからと持っていくことにした天体観望の機材やその他もろもろのかさばる荷物のいっさいがっさいは部長が知り合いの車を廻して届けてくれる算段なので、わたしたちはまるっきり身軽でもあった――じっさい、先輩は肩かけバッグひとつ、わたしも手提げかばんひとつ、といういでたちである。そんなわけで、せっかくだからあたりを散策してみましょうかという話になって、先輩とわたしは突発的なピクニックに乗り出したのだ。このキャンプ場に来るのはわたしはこれで3度目になるのだけど、その周辺にまでは毎度ほとんど足を伸ばしてこなかったし、降って湧いたこの時間を有意義に過ごすには最良の考えに思えた。
 気ままに道をたどって、草叢を分けて、木漏れ日の踊る林を抜けて……と、もてあました時間に飽かせていささか大胆な遠歩きをするうちに、いつしかわたしたちはちょっと変わった、というか、なんとなく不思議な雰囲気を湛えた小道へと踏み入っていたのだった。左手側は雑木林に交じって歯朶〔しだ〕や蔓草が生い茂る鬱蒼とした藪で、反対側には背の低い茂みが一面に広がる。その藪の側に向けてなだらかに彎曲しながら、蛇のように細くながながと続いている道だった。わずかに上り坂にもなっていて、なんだか大きな渦巻きを内向きになぞって歩いているような錯覚を起こしそうになる。もちろん、実際はそこまで急な曲がりかたをしてはいないはずだけれど……。すべてがゆるやかに流れているようなひととき、まとまりのない雑談に興じつつわたしは先輩とふたりでそこをたどっていった。
 やがて、藪の繁りが道の正面にまで張り出してきているところに行き着く。おや、ここで行き止まり? と思いきや、その重なり合う枝葉の向こうになにか明るい場所が透けて見えていた。なにがあるんだろう、と思いつつ、そのときふと自分の置かれている「藪の先になにかの景色を垣間見る」という状況をよくよく嚼〔か〕んで呑みこむうちに、ふいにめまいのような感覚を覚えて、忘れかけていた記憶がたちまちよみがえってきて、そして。
 ああ、これって――と、思うやいなや駆けだしていて、そして今ここに至り、目にしているこの景色が――。
「――この景色がですねっ、その……ずっとむかしに見てとても印象に残った景色……があるんですけどっ、それによく似てるんじゃないか……って思ったんです。そのときにもここみたいに藪の先にあって、でもそのときは一瞬だけしか目にすることができなくて、でもそれがすごくきれいなところに思えて、……えっと、つまり」
 なんだか要領を得ないことを感情のままに口走って、先輩をきょとんとさせてしまっただろうか。そう思いながら隣を見ると、先輩は深い色のまなざしをまっすぐに向けながらほほえんできた。あ、これは、あれだ。――なんだか興味深いお話だわ。よければゆっくり聴かせてくれないかしら。この表情はそう云おうとしているときの顔だ。……果たしてわたしの予想どおりに、次の瞬間に先輩はほぼそういう意味のことを口にした。ただし、わたしの頭や肩に纏わりついていたらしき木の葉を何枚か取ってくれながら、こうも付け加えて。
「でもひとまず、藪でくっつけてきたものを払い落としてからのほうがよさそうね」





   ◆ (2n + 1/2)π


 小さな蛾が、なんらかの対象物――たとえば街燈の明かりとか――を、常に自分から見て同じ方向に来るようにしながら水平に飛び続けているとすると、彼の飛行の軌跡はどんな形になるだろうか?
 対象物が自分の真横にあるなら、軌跡はそれを中心とした円を描くだろうし、真正面なら、当然そこを目がけて一直線に飛ぶことになろう。では、そのどちらからもずれた角度だったら? 蛾は対象のまわりをぐるぐると巡りながらも、あたかも円を内側へ解きほぐしていくように徐々に中心へと近づいていくはず。……そう、答えはうずまき。すなわち螺線だ。
 極座標系 (r, θ) において、a, b を任意の正の実数として θ = (1/b) ln (r/a) と書き表されるこの曲線は等角螺線、または対数螺線と呼ばれ、デカルトやトリチェリがおのおの独立に幾何学的な考察を与えている。
 対数螺線は端正な自己相似の性質をもっており、どれほど拡大・縮小をしても常に元の形と合同でありつづける。云い換えれば、原点を中心としてこの曲線を拡大ないし縮小させる操作は、ただ曲線を廻転させているのと見かけ上変わりないのだ。この螺線は中心に向かって有限の長さで、けれども無限に渦を巻きつづける図形であって、ゆえに全貌を完全に図示することはできないが、これに似た形のものはさまざまな生物の器官など、自然のなかに豊富に見いだされる。顕著な例を挙げればアンモナイトやオウムガイや、種々の巻貝の殻、羊の角、ロマネスコ・ブロッコリーの花蕾のみごとなフラクタル構造、等々。自身のサイズに常に比例するような成長の幅でもって一様に、ただし部位による成長速度の偏りをもちつつ伸びてゆくものがあるなら、結果的にそれはこの螺線に沿った形を成すはずだ。
 スイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイは1692年に、この螺線の伸開線 (その曲線に沿って巻かれた糸を、ぴんと張ったまま解いていったときに糸の上の定点が描く線) と縮閉線 (その曲線がある曲線の伸開線だとするときの、そのある曲線) とが、いずれも元の螺線を抱きかかえるような――あるいは抱きかかえられるような――螺線として立ち現れ、ともに元の螺線と合同となることを示した。ことほどさように玄妙で堅らかな不変の性質を持つこの図形に心底から魅了され、数学的な美観に深くとらわれたベルヌーイは、このときこの対数螺線のことを spira mirabilis と呼んでいる。スピラ・ミラビリス、すなわち驚異の螺線と。



* * *



 ――それがいったいいつのことだったのかは、はっきりとは思い出せないのだけど。
 わたしがまだ小さかったころだ。わたしはわたしの家族と、仲良しの友だちとその家族とで、ちょっとした遠足のようなものに来ていたのだ。――そのことはたしかだ。野山のさなかのひらけたところで、おとなたちはシートを広げて休んでいて、わたしはそのまわりで、友だちといっしょに鬼ごっこだったのかなんだったのか、とにかく無邪気に駆けまわったりして遊んでいた。そんなとき、わたしは勢いづいてちょっとみんなから離れたところまで走っていって土に飛びこむようにわざと倒れ臥して、息を整えつつみんなのいるほうへ向き直ろうとした。その矢先に――近くにほの暗い藪の茂みが広がっていて、その枝葉の重なりの向こうからぼんやりと光が漏れているのに目が吸い寄せられたのだ。この先になにがあるんだろう。ひょっとしたらおとぎの国みたいな別世界が隠れているんじゃないかしら、なんてことを思いながらわたしは藪を掻き分けていって、そして、垣間見たのだった――。日の光にまぶしく照らされて、白やピンクのお花がビーズを撒いたみたいにそこここに咲き乱れている、なだらかなすり鉢形の草原。その斜面に沿ってやわらかな風が渡って、草がきらきら波立っていて、大きな木は葉っぱをざわつかせて、その根元の木漏れ日もそのそよぎに合わせてちらちらと揺れているのが見えた。
 ねえ来て、とってもきれいなところがあるよ、と――大声でみんなに伝えようとして振り向いた次の瞬間、――わたしはそこから引き剥がされるようにして抱き上げられていたのだった。……慌てふためいて走ってきたおかあさんに。そしてそのままみんなのところに連れ戻されてちょっとひとくさり叱られたのだけど、まあそれは無理もなかった。わたしが首を突っこんでいた藪の数歩先は、遠目にもわかるような彎曲した滑りやすい急な崖になっていたのだから。
 その後はすぐにそこから出発しなければならなかったのかどうだったのかで、それからのその場所での記憶は無い。ともかくもそんなわけで、わたしがそのきれいな景色を見ることができたのは結局その一瞬、ほんの数秒だけだったのだけれど、あまりに印象的なそれは鮮烈な思い出としていつまでも残りつづけて、いってみればわたしの心のなかの楽園として生き続けることになる。
 そう、楽園――一般的にそんな言葉で呼ばれるもののことをイメージするときにわたしが思い描くものには、だからおのずとあの景色のありさまが重ねられていたように思う。
 もちろんそのあとも、折に触れてその手の届かなかった不思議な場所のことが思い出されるたびに、できることならもういちどあそこへ行って、あの輝きのなかに足を踏み入れてみたいと希〔ねが〕ったわけだけれど、じっさいにそれを目にしたあの日がいつで、どこでのことだったのかは……何年か経ってから家族に訊ねてみたこともあったと思うけれど、結局はっきりしなくて――それほど遠出したのでもないように思うから、おとなたちにとっては特別印象に残るイヴェントでもなかったのだろう――、なんとか手がかりになることを思い起こそうとしても、まるでエッシャーの絵画を覗きこんだみたいに、着地点のない堂々めぐりに転落していきそうになるばかりだった。
 まあ、そんな幼い日のつかみどころのないことをどうこう考えていてもしょうがないと思うくらいに分別がつくころになってからは、ほとんど思い出すこともなくなって忘れかけてすらいたのだけれど。
 そもそも、あらためて考えてみると、わたしの記憶にあるその景色というのは、まるっきり現実に存在したものとするには少しばかり幻想的できらきらしすぎている気もするし、きっと、なんども追想して憧れながら反芻するたびに無自覚のうちに脚色されて美化していったところも多いんだろう。それに、ひとの思い出なんてものはじつはそれほど確固としたものでもなくて、ちょっとのことで意外にたやすく変容してしまうものだ……っていうお話を前に、ものの本で読んだことがある。記憶錯誤〔パラムネジア〕っていうのは、程度の差はあれ至極ありふれたものなんだとか。
 本といえば、わたしは小さいころから本をあれこれ読みあさるのが好きだったし、だからたとえば想像力を刺戟するファンタジーとか、どきどきする気持ちを喚び起こすメルヘンとか、そういう物語に触れて空想にひたって思い描いたどこにもない理想郷、みたいなもののイメージが、藪の先であの日に見たきれいな景色の記憶を土台にしてパッチワークのように継ぎ足されていった、なんてこともあるのかもしれない。火星に恋い焦がれ、そこでの生活に憧れるけれどとても手が届かないから、代わりに火星に行ったという記憶を植えつけてもらおうとしたSF小説の主人公みたいに。
「――ひょっとして、そんなころから無作為に本を抽〔ぬ〕き出して読む、みたいな楽しみかたをしていたの?」
 わたしが思い出話に一段落つけたところで、ふと先輩が訊いてきた。
「ええと、はい、まあそんなに意識的にじゃありませんでしたけど、近いことはやってましたっけねぇ……。あ、そうそう、そんな小さいころによく足を運んだ図書館があるんですけどっ、そこには児童書の類が、一段ごとに横向きにぐるぐる廻せるようになっている円柱形の本棚に収まっていたんですよっ。本の並びもなんだかちょっと雑然としてる感じで……たぶん児童書っていう大きなくくりだけで、大ざっぱにしか分類されてなかったんだと思うんですけど……でもそのおかげで、かえってそれがいろんなものがごちゃごちゃに詰まってるおもちゃ箱のようにも思えて、棚を適当に廻しては本を手に取ってわくわくしてたのを憶えてますっ。おもしろがってぐるぐる動かしながら、廻したら廻しただけ新しい本が出てくればいいのに、なんてことを思ったりもしたなあって」
 思えばわたしの乱読癖は、あのぐるぐる廻る棚が原点なのかもしれない。
 ――さて、ではわたしの思い出のなかの景色がいかにして形成されたにせよ、いま目の前にいきいきと広がっているこの眺めがそれにとてもよく似ている――ように感じた――のはなぜなんだろう。
 ……てっとりばやく理屈をつけるなら、たとえばつまりそれはただの既視感〔デジャ・ヴュ〕にすぎなくて、藪の茂みをくぐるという直前の状況が共通していたりしたために、小さいころに見て強烈な印象を受けたもののもはやその輪廓すらあやふやだった記憶の彼方の景色が、まさにこの目の前の景色そのものだったように錯覚しただけ、というふうにも考えられる。……かもしれないけれど、すり鉢状の草原とか大きな木とか、そういう具体的な要素のことをこれまでなんども思い返してきたはずだし、その追想の記憶すらも後付けの幻なのだとはちょっと思いたくないから、これはやっぱり否定したい。
 じゃあ、こういうのはどうだろう。ずっと昔にまさにこの場所を訪れたひとがいて、この景色に感激して写真に撮ったか絵に写したかしたのだ。その画像を小さいころのわたしがどこかで見かけていて、記憶の底に染みつきながらしばらく潜伏していたそれが、やがて藪の先で見たなんらかの景色の思い出と混じり合っていった、とか……。可能性が高いとも思わないけれど、とっさに考えついたにしてはありえなくもない説のような気がした。わたしがそう口にすると、先輩が云う。
「もしそうだとするなら……今のこのひとときはじつに、誰かからあなたへと受け渡された感動とともに遠い記憶のなかに封じこめられていた風景との、長い歳月をかけてめぐりめぐった末の邂逅ということになるのかしらね」
「そうですねっ、ほんとにそうだったら、ちょっとすてきなことだなって。……まあ、とどのつまり、たしかなことは確かめようがないわけですし、いずれにしてもこの場所がわたしに云いしれない感慨を抱かせた、ということは揺るぎないのだから、やっぱりこの眺めはわたしにとって、なにか特別なものだったんですよ」
 ふと、振り返ってみる。さっき先輩と歩いてきたあの道が、あの藪の先にある。かつてこの場にたどりついたかもしれない誰かは、どんなことを考えながらあの細く長く一方向にくねる奇妙な小道を行きつ戻りつしたんだろう。なんだか今はむしろあの小道のほうにこそ、なんともいえない独特の愛着のようなものを感じていた。なべてものごとがゆるやかに進みゆくこの日、わたしたちを気まぐれに迷いこませ、この場所へと導いた道……。
「なんだかこう、あの小道……ここに来るまでに通ってきたあの道に、なにか詩的な名前のひとつでもつけておきたいな、なんて、ちょっと思っちゃいましたっ、ほら、アンみたいに。――あ、えっと、モンゴメリのお話の、赤毛のほうの。……なんかいい言葉、ありませんかねっ」
 そんなことを思ったままに口に上せたら、
「それはいい考えね、ダイアナ」と先輩がそれを承けてちょっとおどけてみせた。かと思えば少しまじめな顔になって、「そうね……」とつぶやく。
 そして時をおかずに言葉をつづけた。
「それなら、『思いの小径』なんていうのはどうかしら。あなたが思い焦がれた風景を思い起こさせる場所に繋がっていた小径なのだもの」
「おもいの……こみち、ですか」
 先輩の提案した言葉を、口のなかで二度三度転がしてみる。
「思いの小径……。いいですねっ、ええ、なんかしっくりきましたっ」
 こういう言葉が、こねくり廻しもせずにすっと出てくるあたり、なんだか先輩はちょっとアンみたいだなって思う。――ええと、緑の切妻屋根〔グリーン・ゲイブルズ〕のほうの、終わりに「e」が付くほうの。





   ◆ (2n + 1)π


〝 「あなたがた、西洋の人は」と話をきりだした。「時間が過去・現在・未来へと直線的にすすむと考えている。そして、東洋の人は、時間を死と再生が、円をえがくように永遠にくりかえされていると考えている。どちらも、事実をちがった側面からいいあてているのだ。直線運動と円運動、このふたつを幾何学的にむすびつけたらどうなると思うかね?」マリックは口をパクッととじて、私をまじまじと見つめた。私は校長先生と話している少年のようなふしぎな気持ちになった。
「うずまきですか?」私は思いきってこたえた。
「そう、そう。らせん形ともいうね。私たちの、時の流れのモデルはこれなんだ」と彼はいった。 〟

―― ジェームス・ガーニー/作、沢近十九一/訳『ダイノトピア』(フレーベル館)



* * *



「先輩にもありますかっ、なにかそういう景色みたいなのって」
 遙かなまほろば、あえかなる原風景……。自分だけの心に秘めた光景って、そのありようはじつにさまざまでしょうけれど、きっと誰もが多かれ少なかれ抱いているものだと思うわ、と先輩が云ったのを承けて、わたしがそう問いかける。
「ええ……そうね、まっさきに思い浮かべるとしたら――」と答える先輩が、どこか遠く消失点の彼方を愛しげに見つめるような眼差しになって、「広場……どこかの小さなのんびりした街のまんなかの、古びた噴水のある円い広場だったのだけれど」
 ふと、深みのある先輩の声がそのとき、いまひとたび遠いゆめまぼろしを語りはじめるために、どこか独特の粧いを見せた、ような気がした。あたかも、ことばを包むふきだしを取り替えたかのように。
「……日も落ちて宵闇のせまったころに、なにかのきっかけでその広場を通り抜けたことがあって……そこで見た光景に、たまらず目を惹きつけられたのよ。昇ったばかりの月の飴色の光をぼんやりと受けて、噴水を取り巻くように嵌めこまれていた青い色の飾りタイルや……そしてそのまわりを囲む植え込みの葉の色が、そのときにはどこかよそよそしいほどに、はっとするようなあざやかさを湛えていたことを憶えているの」
 思い描いてみる。人通りが絶えて薄暮に染まる街の広場。夜が迫るにつれ曖昧になってゆく景色のなかで、静かに映える青――。いかにも、それはたいそう幻想的な光景にちがいない。そしてまた、そういうひとときに特有の色彩や雰囲気のようなものは、云われてみればわたしも折に触れて感じたことがある。
「ああ……ええ、わかりますっ。薄明が深くなってきたころに、あたりの風景ががぜん蒼さを増したように冴え冴えとして見えるときってありますよねっ。……えっとたしか、プルキニェ現象って云うらしいですよ、それって」
「あら、そんな名前があるのね」
「はい、ヒトが光を感じる細胞になんとかとなんとか……の2種類があって、その感度が最大になる光の波長というのがそれぞれの細胞でお互いにちょっとずれててですねっ、暗いところではその片方の、青とか緑に感度のピークがくるほうが主として働くようになるから、あたりの暗さになれてきたときにはそういう色に対して敏感になる……んだとか。……ブルーバックスだったかなんかでちょろっと読みかじっただけですけどっ」
「まあ、そうなの。つまり細胞の働きかたしだいで、ひとの認識する世界の姿も変わってくるというわけね。思い出のなかのあのあざやかな青は、まさにわたしのなかで生まれたもの……ということになるのかしら」
 わたしの記憶の底の景色に結びついたこの見晴らしは、いま先輩の眼にはどう捉えられているんだろう。あるいは、先輩の話すほの暗い景色のなかにわたしが立ったなら、わたしはどういう心持ちでそれを見るだろうか。……そういえば、いまのお話を聴いてひとつ合点がいったことがあった。先輩は、あちこちの街なかの広場と呼ばれるような場所に対してときどき独特の思い入れをみせることがあったのだけれど、それはその遠い日のまぼろしの面影を追ってのことだったのかもしれないな――と。
「それにしても、その広場……そこがどこにあったのかは、わたしの心の景色と同じように今もってわからないんですね」
「そうね……幼いころに、幾度もかよった場所だとは思うのだけれど……そう、それに、その広場へと向かうために通り抜けたはずの路地のことは、おぼろげなりに思い出に残っているわ。軒を連ねる家々やお店のあいだを縫って、賑やかというほどではなかったけれど、行き来する人々の交わす話し声とか、響いてくる陽気な掛け声とか、ささやきやつぶやき、いろいろなことばをのせた声が広場に向かって、あるいは広場から、寄せては返しているような、なんだかそんなイメージとして」
 深い記憶の廻廊に思いをたどらせるようにしながら、先輩は目を伏せて言葉をたぐる。わたしはその言葉が描くものを想像する。ひとびとの行き交いにのってことばが流れ、寄り集まって渦を巻く場所……。ああ、どこかの土地にきっとあるような、それでも決して行き着けはしないような。
「うん……ぼんやりとですけど、その光景が想像できますっ。ああ、なんだか行ってみたいなあって……先輩のお話を聴いて、わたしもそう思えてきましたっ。その場所に……あるいはせめて、それによく似た場所にでも行けたらって」
「ええ……どこかでそんな場所、そんな道に近しいようなところに巡り合わせることができたら……、それがわたしにとっての思いの小径と呼べるかもしれないわね」
 おや……さっき生まれたばかりの固有名詞――「思いの小径」――が、ほかならぬ先輩の言によって早くも普通名詞化したようだった。さながら、もともと天の河のことだった「銀河」という言葉が、それがじつは太陽系をも含む壮大な星の集合体であり、同様のものが宇宙には溢れていることがわかるに至ってそのいずれをも指し示す言葉へと転じたように。
「それに――」と先輩は話を続ける。「その場所を、おそらく最後に目にしたときのことも、深く心に灼きついているわ。夕暮れどきだったの。噴水の影も、ひとびとやわたし自身の影もどこまでも長く伸びて、燃えるような落日に街並みが眩しく滲んでいて……。だから、そのどことも知れない広場は、もしかしたら今もずっと永遠の夕映えのなかにあるのじゃないかって……そんなふうにも思えてしまうのよ」
 永遠の、夕映え……! 先輩のその言葉にひかれて、おのずと空想が駆けめぐった。それはひとひの終わり、昼と夜の分水嶺。光は光たるを謳歌し、影は影たるを誇りあうひととき――。
 そういえば、文豪ゲーテが綴った戯曲の中のファウスト博士も……あらゆる学問を修め尽くしてもなお癒えることのない心の渇きの果てに、たそがれの美しさにふと心を動かされて彼が願ったのは、遙かな夕日を追いかけて、その光があざやかに照らし出す目をみはるような風景のなかを翼を駆ってどこまでもどこまでも飛んでゆくことではなかったっけ。
〝 ――ああ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる―― 〟
 見渡すかぎりの夕景色のなかをどこまでも飛びつづけられたら……沈めど沈まぬ太陽と、果てのない終わりの輝きのなかに、いつまでも身をひたせたなら――。……あ、ええと、現実的に考えるとそれってつまり地球の自転を相殺する速さで動きつづけなくちゃならないわけだから、およそ思い描くような悠長な飛行は望めまい、という理屈が脳裏をよぎったけれども、まあそれは脇に置いておこう。永遠の夕映えのもとに、ひとびとが思い思いに描いてきたさまざまな心の景色とそこに至る思いの小径が万華鏡を廻すように代わるがわる立ち現れてくるさまを想像してみる。わたしの心の景色を映したこの場の眺めも、どこかの街のまんなかの、ことばの流れが離合しつつ畳なわる広場も、みな夕映えに染められて……。
 と――そのとき、それは突然に。

……くきゅるるるるるぅ。

 藪から棒に、しごく間近に、きわめて実世界的な、まことに情緒のない音をたてて、高らかに鳴る音があった。わたしの…………つまり、おなかの。ええとようするに、胃腸の蠕動の結果としての。
 ――空気を読まない生理現象に、ひとり昂まっていたロマンティシズムもたちどころに冷めてすっかり雲散霧消する。疾雷耳を掩うに及ばず、なんとも頓降法じみた幕切れ。……ぐんにょりしつつ、ちょっぴり羞ずかしい思いで先輩の眼差しを追うも……けれども先輩はにこやかに、
「あらあら……思えばずっと歩きどおしだったものね。……ああ、そうだわ」
 そう云うや、肩にかけていたバッグの中を掻き廻すようにまさぐって、あれやこれやを脇に寄せつつ――うん、うすうす思ってたのだけど、あれだな、ふだんの折目正しそうな立ち居振る舞いとうらはらに、先輩のかばんの中はたいていやけにごちゃごちゃしている、ような気がする――その奥に沈んでいたらしきものをふたつ取り出すと、包みを取り去ってひとつをわたしにぽんと渡してきた。
 思わずお椀状にして差し出した両手の中に、それはすっぽりと収まる。これは……丸くて赤い、小つぶの苹果〔りんご〕だった。そのほのかな重みと堅らかですべすべした感触が、なんだかとても慕わしく好ましく思えた……。
 先輩が自分の左手にあるほうを軽くかじりながら云う。
「ちょっと酸っぱいかもしれないけれど、わるくない味よ」
 わたしも渡されたそれを口に運んだ。みずみずしさがはじける。素朴な味わいにゆっくりと心が潤される。
 そして……ややあって、先輩が切り出した。
「――さて、そろそろ戻りましょうか」きょうの先輩はかわいらしい小さな時計のペンダントを首から下げてきているのだけど、それを苹果を持っていないほうの手ですくい上げながら、「ちょうど、そんなころあいになったわ」
 そう云われてふと、押しとどめていた時間がとたんに堰を切ってふたたび押し寄せてきたような、陸〔おか〕に舞い戻って玉手箱を開けた浦島太郎のような、なんだかそんな気分にとらわれた。あらためて空を仰げば、抜けるような青に覇を唱えていた太陽ももうだいぶ傾いている。――ずっと、時間が歩みをためらっているような、うつつを離れてそんなひとときのなかにいるような気にすらなっていたけれど。でも、もちろんそんなことはなくて、時は常に一様に、いままでも、そして今も、変わることなく流れ続けている。自分のしっぽを咥えたまま身じろぎもしない蛇ではないのだ。大きなとぐろを巻いているにせよ、脱皮を繰り返しながら前へ前へと進んでゆく。美しい瞬間が、静止したままの澱みにとどまることはない。まだまだ、と思っていたことも、今やいつしか、もうじきに。
「そうですねっ、帰るとしましょう。みんなが到着ししだい、やることはありったけありますしねっ」





   ◆ (2n + 3/2)π


 1705年、対数螺線という図形を生涯愛しつづけた数学者ヤコブ・ベルヌーイは享年50歳で歿した。スイスのバーゼルにある墓碑には生前の彼自身の願いによって、螺線の図とともに一条のラテン語の句が刻まれている。

〝 Eadem mutata resurgo 〟

 変化をしても同じ形で、わたしはふたたび現れる――。「驚異の螺線」の示す自己相似性と不変性への純粋な驚歎の念と親しみとが、その言葉に深く籠められているといえよう。



* * *



 ルーマニアの藝術家コンスタンティン・ブランクーシの作品に、『ジョイスのシンボル』と題されたものがある。そこに描かれているのは縦に伸びる3本の線分と、ひとつの螺線である。



* * *



「ひゃっ」
 思いの巡り路をふたたびゆるゆると巡り戻る道すがら、隣を歩く先輩がだしぬけに、なんだか情けないような声を短く漏らしたかと思えば、足下でころっと乾いた音がした。立ち止まって見れば、先輩は前髪ごしに額を押さえながら空を仰いでいる。近くの木立の枝葉がさわさわと風に揺れていた。
「どうしたんですか?」
「ん……なにかが落ちてきて、わたしの頭に当たったようなのだけれど……木の実かしら?」
 地面に視線を落としてみると、砂利のなかに紛れてなにか白いものが転がっているのが見えた。なんだろう、と思って拾い上げようとしたところが両手がふさがっていることに気づいて――ついさっき、道の脇にゼンマイやワラビが青々と自生しているのを見かけて、晩ごはんの足しに、などといいながらふたりして採ったのを抱えていたのだ――かばんを提げているほうの手にいったんそれらを持ち替えて……と手元を整理してから、あらためてしゃがみこんで、おもむろに摘まみ上げる。日差しに翳して眺めてみたそれは、ちょっと意外なものだった。先輩の視線もわたしの指先を追う。
「これは、貝殻……かしらね」
「ええ、貝殻のよう……ですね」
 少しばかりひび割れていたけれど、どこからどう見てもそれは小さな白い巻貝の殻で、螺旋に沿ってきれいな線が何本もカラフルに走っている。なんていう種類の貝なんだろう。……というか、どうしてこんなものがここにあるんだろう? かたつむりとかの類じゃなくて、たぶんこれは水棲の巻貝のものだ……と思うのだけれど。
「このへんって昔は海だったんですかねぇ?」
 考え無しにいいかげんなことを口走ってみたものの、まったくもってそれはこれが空から落ちてきたことの説明になっていないのは自分でわかる。とすると……さては、これが世に云う、あの突然天から異物が降ってくるというファフロツキーズ現象なのだろうか。
「ん……おおかた、空を飛ぶ鳥が咥えていたものを落とした、というようなあたりではないかしら」
 すかさず先輩が冷静に推断した。ああ、たしかに……ついつい超常めいた方向に野放図な妄想を膨らませかけていたけれど、いわれてみればそのへんがいちばん合理的で穏当な見解だろうな。それにしても巻貝とは……その身に堅らかな螺旋を寓〔やど〕した小くて白くて場ちがいなそれは、けれどもこの奇妙な道行きを端的に象徴するものとして、とても似つかわしくも思えた。
「どうします、これ」
「そうね……せっかくだから、持ち帰ってどこかに飾っておくことにしましょうか。きょうのこのひとときの、思い出のよすがとして」
 先輩はこぎれいなハンカチを取り出すと、そこにその思い出のよすがをねんごろに包みこむ。
「……それにしても、落ちてきたのが金ダライとかじゃなくてよかったですねっ」
「なあに、それ」
「いやぁ、ドリフのコントみたいに……って」
 もし、鳥のしわざでもないのだとするなら……ひょっとするとどこかそのへんの木陰に猫耳帽子をかぶったいたずら好きの女の子が隠れていて、ものを落とす仕掛けの紐をこっそり引いたのかもしれない。


 ……そして、順調に歩を進めて――低い太陽と、遠く霞む特徴的な形の山の峰がよき目印になって、方角を見定めるのはたやすかった――ほとんど道に迷うこともなく、やがてわたしたちは元の場所――わたしにとっては今回で3回目の訪れとなる、おなじみのキャンプ場の入口あたり――へと戻ってきていた。そろそろ親近感も湧いてきた古びた四阿〔あずまや〕の柱の一本にもたれると、あたりはもう見渡すかぎり、これまで幾度も目にして見慣れてきた風景ばかりだ。それはたとえば公道沿いに咲くきれいなピンクのミツバツツジとか。何に使われているのかいまだに知らない、いつ見ても窓を閉ざしている小さな丸木小屋とか。長いこと紫外線に曝されて肝腎の赤い文字だけ色褪せて読めなくなってる看板とか……。ともかくそんなこんなで、ほどなくほかのみんなとの約束の時刻も迫り、日もそろそろ暮れかかって、青空の裳裾に、どちらともつかない白みを間に挟んで夕焼けが浸み広がる。地球大気に差しこんでレイリー散乱された日光の織りなすグラデーション。
「思わくどおり、ちょうどいい時間に帰ってこられたようね」
「はい、……あ、みんなももうじきに到着するそうですよっ」
 さて、これからいよいよ荷物を下ろしてテントを張って、いっそう愉快な夜とそれに続く心躍る明日のために忙しくも楽しい時間が待っている。わたしたちはやってくる仲間を迎えるために歩き出した。
 そのとき、ふいに――なぜだか急に、まるでどこかから取り残されてしまったような感覚と胸騒ぎのようなものがこみ上げてきて思わず、今しがた歩いてきた道のずっと先、あのゆるやかにくねり、蛇のようにながながと続いていた思いの小径と、その先の藪の向う側の思い出の景色とがあったはずの方向を振り返ってみた。
 西空に低くたなびくちぎれ雲が逆光のなかで輝きと翳りとをともに寓している。連なる山の稜線があかね色に滲む。あざやかな夕映えが視界をいっぱいに充たす。ひとひの終わりの光に溶ける遠い木々や山肌がたまらなく眩しかった。すぐにも翼を駆って、いまいちど飛びこんでいきたいほどに。
 さっきまであれほど現実感をもって体験していたはずのすべてが、どうしてか今はもうとても遠くに、ゆめまぼろしのように感じられる――。
 もし、季節がひとめぐりして、もういちどここに来ることがあったとき、わたしはあの景色のなかにふたたび戻ることはできるんだろうか。思いの小径を求めてたどってゆけば、はたして、ふたたび変わらずにそれを見いだせる……?
「先輩っ、あの、貝殻……もってきてありましたよねっ」
 つい、そんな問いが口をついて出る。
「ええ、ちゃんとしまってあるわ。……どうかして?」
「あ、いえっ……なんとなく、確認したくなったというか、なんというか」
 思い出のよすが、とあのとき先輩はそれをそう呼んでいた。なにげない云い廻しだったのかもしれないけれど、今になって突然、その呼び名がたまらなくかけがえのないものに思えて。
 そんな根もないわたしの切情を言外に察してくれたのか、先輩は斜陽に照り映える顔をそっとやわらげると――その髪がやさしい風になびいた――、まるでとっておきの思いつきを明かすかのような響きでこう云った。
「いつかまた、きょうの道をたどりかえしてみましょうか」
 ああ……たゆみなく過ぎてゆく日々とともに、寄せ返す波風に晒されるようにすべてが変化をしていっても、時を距てるにつれてわたしの思い出が変容していっても。それでも先輩ならきっと、ふたたび同じ形で立ち現れるはずの思いの小径を、いつでも軽やかに指し示してくれるような気がした。そうしてまたあの安らぎの景色のさなかに立つことができたなら、きっと同じようにこころのままにこの身をその懐にあずけてみよう。
 そしてもし、そんなふうにふたたび巡り合わせることがなかったとしても……。あるいはそのときは、たよりないながらも人並みていどにはたしかなはずのわたしの記憶と、小さな螺旋を寓した思い出のよすがを手がかりとして、わたしの心に灼きついた景色をできるかぎりすみずみまで溶かしこんだような、なにか一篇の物語でも編んでみるのもいいかもしれない。そして、そこに籠めた思いのひとひらふたひらがいつか、めぐりめぐってどこかのだれかの心の景色に一条のささやかな彩りでも添えることができたなら、それはちょっとすてきだなって思うのだ。





   ◆ 2(n + 1)π


 円-委蛇


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作者: 登場ゴースト:

貴方とワルツを

「今日のニュースです――」
 ルストリカのラジオは単調に番組を流し続けていた。辺りが静かだからか、音量をあげているのか、いつもよりはっきりと音声が聞こえる。
「……はぁ」
 ルストリカは心ここにあらずといった様子で、物憂げな眼差しを遠くへと向けている。声をかけてみても、どこか上の空の様子だった。
 ルストリカの視線を引きつけているものは一体何なのだろうか。交信という形で辛うじて繋がっている異世界の知り合いであるユーザは、決して彼女と同じ世界を直接見ることはできない。知りたければ本人に聞く以外に方法はなかった。
 ユーザが無言でルストリカの頬をつついて自分の存在を主張すると、ルストリカは驚いた様子で顔を上げる。
「あ、ユーザさん。何だか私ぼーっとしてたみたいで……ごめんなさい。せっかく来てくれてるのに、退屈させてしまいました」
 ルストリカはユーザに気がつくと、申し訳なさそうに詫びてきた。ユーザは何か気の利いた返事の代わりに、尚も頭を撫でた。ルストリカは珍しく恥ずかしがるでも照れるでもなく、されるがままに撫でられている。少し猫っぽいと思ったが、黙っておいた。
「今日、こっちの世界は良く晴れてるんですよ。雲ひとつなくて、景色が遠くまで見渡せて……今、夕焼けがすごく綺麗です」
 ルストリカは囁くような口調で言う。ユーザは思わず自分のいる部屋の窓の外を眺めた。残念ながらユーザの方の世界では空はどんよりと雲で覆い隠されていて、夕日など影も形も見えない。
「どう表現したら良いんでしょうか……空の色合いが白から橙に段になって変わっていくんです。太陽は飴玉みたいに黄金色に景色に溶けてきて。その光が街並みを淡く染め上げていて……手を伸ばしたら掬えそうな、純白の光で」
 ルストリカは夢心地のようにうっとりと語っていたが、その後もどかしげに瞳を揺らした。
「言葉だけじゃ、上手く伝わりませんよね。でも、今日は殊更綺麗なんですよ……できることなら、ユーザさんと一緒に見たかったです」
 ユーザはルストリカの住む世界にあるグラデーションの美しい幻想的な夕焼けを、頭に描こうとしてみた。しかしそれはどうしても近所の歩道で見上げた、現代日本の住宅の上に差す凡庸な夕焼けに似てきてしまう。ユーザは自分の貧相な想像力を密かに呪った。
 ルストリカは胸元に手をやりながら、ユーザを見上げて独りごとのように呟いた。
「いつかユーザさんと一緒に、同じ景色を見れたら良いのにな」
 ゴールデンロッドに似た色の髪の合間から覗く澄んだ紫色の目は、きらきらと輝いている。その宝石のような瞳は迷うことなく真っすぐにユーザへと向けられていた。
 しかしその瞳の中にはどうやっても、違う世界にあるユーザの姿が映りこむことはない。
 くるくる表情を変えながらユーザに語りかけるルストリカの姿はとても可愛らしい。しかしそれすらも結局は彼女の本当の姿ではないのである。ルストリカもそれを分かっているから、いくらユーザが彼女に近づきたいと願い行動を起こしても、手のひらからこぼれ落ちる砂のようにさらさらと遠ざかってしまうことがある。
 そのことに思いを巡らせると、少し寂しくなるのだった。
「……ユーザさん?」
 ユーザは考えにふけるうちにいつの間にか、ルストリカの手を両手でしっかりと握っていた。ルストリカはきょとんとして、ただこちらを見ている。そして段々と事態を理解したらしく、うっすら頬を淡紅色に染めた。
「ええと、手……その、いつまでそうしているんですか?」
 ルストリカは半ば後退しかけながら問いかけてくる。
「ずっとそうしているのは、さすがに恥ずかしいんですけど」
 ルストリカの戸惑い気味の声をさらりと聞き流しながら、ユーザはどうしようかなと思案した。無意識にやってしまったこととはいえ、何となくこのまま離してしまうのも惜しい気がして、今にも隙を見て抜け出してしまいそうなルストリカの小さな手を逃さないように力を込める。
 丁度その時、まるでタイミングを計ったかのように、ルストリカのラジオから音楽が流れ始めた。クラシックらしい落ちついた音色の曲だった。曲名は先程言ったのだろうが、残念ながら聞き逃してしまったようだ。
「こんな風に手を取って……私と踊ってくれるんですか?」
 ルストリカは音楽に耳を傾けながら、半ば冗談めかした口調で言った。しかしユーザは何故かその台詞にピンときたのだった。それだ、と思った。
 そのまま勢いで彼女の腰に手を回し、手に手を組んで、それらしいポーズを組んでみる。ルストリカは驚いて目をまんまるくしていた。
「え? え? 本当に踊るんですか? このまま? えーと、ユーザさんにどう見えてるかまでは分かりませんが、ここは質素な私の家だし、着ているのはいつもの黒い地味な服なんですけど……」
 ユーザのいる場所だって、とてもダンスを踊るようなムードのある環境には到底ない。
 でも、そんなことは気にしたって仕方ない。そういうノリだった。楽しんだもの勝ち。
「と、突拍子もない……でも良いです、さっき退屈させてしまったお詫びに、とことん付き合いますよ」
 ルストリカはたじたじながらも、割と乗り気になりつつあった。案外流されやすいところのある彼女のことである。普段のセクハラに比べたらなんちゃって社交ダンスくらい非常に健全な遊戯の範疇だろう。
 軽快な三拍子で、一定のテンポで緩急をつけながら、明るく滑らかなピアノのメロディーが奏でられている。ルストリカの世界でも、こういう曲をワルツと呼ぶのだろうか。
 ルストリカは差し出された手をしっかりと握り返しながらも、そわそわと落ちつかなさそうに辺りに視線をさ迷わせている。
 ユーザはゆったりとしたリズムに合わせて、恐る恐る足を踏みだしルストリカの手を引いた。ルストリカは引っ張られる手に合わせて、ふわふわ浮いているように見える身体をくるりと一回転させる。ルストリカの世界でのダンスの基本など知らないが、動きはぴったり噛み合っているようだった。ここで駄目だったらそもそもダンスを続けられないので、ひとまず順調。
 突然ダンスを始めるなんて突飛としか言いようがないユーザの行動だったが、ルストリカはぎこちないながらも真剣にユーザに身を委ねて踊ってくれている。
 ターンの度に、ルストリカのゴシックの服の裾が揺れ焦げ茶のリボンがひるがえる。若干たどたどしいながらも優雅さのある所作だった。
 見つめていると、ルストリカは少し首を傾いで微笑む。少し癖のあるはねた髪の毛が肩で崩れ落ちた。
 その仕草に気をとられて、気づけばユーザは間違った足を勇ましく踏み出している。
 交信を通じたダンスでなければ、おそらく激突してしまうところだ。
 ルストリカにはこちらの様子は投影像としてしか見えないながらも、テンポがずれて手を強く引っ張られたために、すぐに違和感に気がついたようだった。
「ユーザさん、大丈夫ですか?」
 即座に大丈夫だと伝える。実際には、若干冷や汗をかいていた。
「ユーザさんってもしかして、ダンスはあまり得意ではないんですか? 確か私のこと前にからかったような覚えがあるんですけど……」
 ルストリカは前にユーザと前にした会話を思い出したらしい。呆れたような視線をユーザに投げかけてくる。
 確かにそんなことがあったかもしれない。色んな表情が見たくて、ついつい意地悪なことばかりを言ってしまっていたから。
「ひ、酷いですよユーザさん、自分のことは棚に上げて」
 ルストリカが恨めしげに目を眇めて言うので、そこは誤魔化さずに謝った。世界越しのダンスのお相手はしばらくいじけて視線をそらしていたが、やがてふっと息をついた。
「私もお世辞にも上手い方ではないですし。実際にはどうなってるのか見えないのだから、お互い技術の方には触れないことにしましょう」
 ルストリカは上目づかいで悪戯っぽく提案してきた。そのように言われれば、ユーザとしては頷く他なかった。とは言っても、ユーザよりはルストリカの方が絶対まともに踊れているのだけれど。
 ルストリカは確か都市部にいた時に交流会に出ていたと聞いた。一方ユーザは、テレビで社交ダンスの特集をぼんやり見ていた程度である。
 きっと交流会でルストリカとペアになった相手は、少なく見積もってもユーザの十倍は踊るのが上手かったのではないだろうか。そんなことを考えついてしまうと、出しぬけに妙なことを始めてしまったことに今更ながら後悔が頭をもたげてくる。
「ふふ、ユーザさんは練習したらきっと上手くなりますよ。要は慣れです。こういう変化の少ないゆったりした曲は、比較的踊りやすい方ですから」
 ルストリカはさほど気に留めていない様子で、ユーザからは何故かそのように見える青いひれのような浮いた足でステップを踏む。
 始めてしまった以上は、最後までやらねばならない。ユーザは多少でもコツを掴むよう試行錯誤を重ねるのだった。三拍子を頭にたたきこんで、身体は逸らさずに、足を颯爽と踏みだし、自然な勢いで右に回転して、次は左に……
「そうそう、その調子です。上手く乗れてるみたいですよ。私が覚えたての頃より、ずっと上達が早いんじゃないかと」
 ルストリカは感心したように言う。ユーザは少し自信がついて来て、調子良く曲のリズムに合わせるのだった。
「あ……」
 ユーザにばかり気にかけていたせいか。その瞬間足を踏み外したらしいルストリカが後方によろける。ユーザは慌てて彼女の背を支え、危ういところで転倒を防いだ。
「すみませんユーザさん……油断してしまいました」
 ルストリカは目をぱちぱちとさせて身体を起こそうとする。突然のアクシデントのせいで、せっかく苦労して作り上げたダンスの流れはぷつりと途切れてしまっていた。
「丁度良いところだったのに」
 そう言ったルストリカの口ぶりはいかにも残念そうだった。ラジオから流れる音色だけが二人を置いてけぼりにして演奏を続けている。
 元々無茶振りだったのだし、こんなところでそろそろお開きにしておいた方が良いのだろう。
 そう伝えると、ルストリカも名残惜しそうに頷いた。しばらくラジオを未練ありげに見つめていたようだったが、やがてユーザへと向き直った。
「びっくりしたけど、思った以上に楽しかったです。都市部を出てからはダンスを踊る機会なんて全くありませんでしたから、何だか懐かしくて……」
 ルストリカは思いを馳せているのか、愛おしげに頬を緩めた。
 "それ"が何故その時だったのかは、思い返してみても良く分からない。ただユーザは一片の閃きのようなものを覚えて、はっと息をのんだ。
 映像は脳裏を一瞬だけ掠めていった。木窓から差す優しい夕日を背にして、無地の真っ黒いスカートを着て、手前に誰かいるのか、柔らかな笑みを湛えている、凛とした女性の姿を。まるで丹精込めて描いた絵画のような、詩的な一場面だった。
 それはきっとユーザの継ぎはぎの知識で形作られた空想によるルストリカに過ぎず、本物のルストリカとはやはり別物なのだろう。きっと似ているところもあるだろうし、違うところもあるのだろう。それがどの程度の差異なのかは、いつか二つの世界が繋がってルストリカが差し出してくれた手を直に取ることができる日が来ない限り、決して解けない謎のままである。
 だけどそれでもユーザはその時ぼんやりと、心に引っ掛かっていたものがすとんと抜け落ちたような、満足した心持でいた。
「……わぁ!」
 手を伸ばしルストリカの肩を引き寄せると、ルストリカは我に帰ったように身を捩って逃れようとした。
「ユーザさん。ダンスを嗜む紳士でしたら、そんな気安く肩を抱いたりしないでください」
 ルストリカは一転、熟れた林檎のように赤く色づいた顔を袖で隠しつつユーザからそそくさと遠ざかる。
「距離が近かったからって、すぐそういうことばかりするんですから……」
 ユーザは向けられる不審げな目線に手を引っ込めるしかなかった。
 チャンスだと思ったのに、残念な限りである。
 踊ってる時の方が普通に触れていられたのにとユーザが零すと、ルストリカは余計に膨れてしまった。
「私、踊ってる時も結構緊張してたんですよ。ユーザさんは触れても何も感じないから、気づかなかったかもしれませんが」
 確かにそこまで気は行かなかった。いつの間にか我を忘れて、ダンスの習得の方に精一杯になってしまっていたのだから。
「とにかく、離れますね……ドキドキしちゃうから、ダメですよ」
 やがてラジオから淡々と紡がれていた輪舞曲は、徐々にフェードアウトしていきぴたりと止んだ。突発的な二人きりの舞踏会は、こんな感じのぐだぐだで幕を閉じたのだった。


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作者: 登場ゴースト:

通り雨と出会いの話

 先に気づいたのはミラの方だった。スーパーで一緒に買い物をしていた際、外のほうを眺めながら彼女はぽそりとつぶやいたのだ。雨が降っているかも、と。僕は買い物カートをミラに任せ、一度スーパーの外に面する窓まで近寄り、様子を確認する。既に時刻も七時をまわっており辺りは薄暗く、光溢れるスーパーの中からでは外の気配を目視するのが難しくなりつつあるにも関わらず、ミラの指摘は当たっていた。窓では多くの水滴が、自ら通った道を示しながらガラスを駆け下りている。
 ミラの元に戻ると、ちょうど彼女は惣菜のコーナーで、色とりどりのおかずをぼんやりと眺めていた。僕は彼女に話しかける。
「確かに降り始めてたよ、ミラちゃん」と僕。「天気予報はこれから雨だ、とは言っていたけれど。降りだす時間はもう少し遅かったように思うんだけどな」
 ミラは僕の報告に対し、「そう」と返した後で、
「でも大丈夫、傘があるから」と、マイバッグの中にあるそれをチラリと僕に見せた。黒く、柄も短い、どちらかというと男性向けの折りたたみ傘。僕はその傘に、なぜか見覚えがあるような気がした。
「えっと、その折りたたみ傘は」
「それより、今日の夕ごはん。何が食べたい、ゆうすけ? ベルは……出かける時に聞いたら『ケーキ!』って言っていたから、無視することにして」
「無視するの」
「……デザートに小さいのなら、いいと思う。それで、ゆうすけは何がいい?」
 恐らく、ここは「ミラちゃんの作るものならなんでも」という解答では、彼女の機嫌を損ねることになるだろう。もっと具体的な例が欲しいのだ。そう考えた僕は惣菜コーナーの中から三パック、自分好みのものを買い物カートに入れる。
「煮込みハンバーグが三つ……」
「こういう時にこそ、作るのがめんどくさそうな料理を食べるというのもありなんじゃないかなって」
「ん、じゃあそれで」
許可が降りた。


 ミラがスーパーの惣菜コーナーのお世話になるというのは、そこそこ珍しい類の出来事だった。少なくとも僕が彼女達の食卓におじゃまするようになってからは。だいたいどんな時にでも、ミラは何かしらの手料理を用意してくれるという、僕自身見習わなければならないマメさを発揮していた。のだけれど、さすがに好きな漫画家の作品の発売日となるとそうはいかなかったらしい。すっかり読み耽っていたミラは、ベルの「ごはんまだー」発言で我に返り、ちょうど屋敷の前に到着した僕を荷物係として、近場のスーパーへと赴いたのである。
「ゆうすけがいてくれて助かった、かな」買い物カゴからマイバッグへ、買った物を移しながらミラは言う。「ベルとふたりで買い物に行っても、こんなに沢山のものは、ちょっと運べないから」
「こんなことでも君たちの役に立てて嬉しいよ」と、僕は言った。「普段はごはんとか、呼ばれてばかりだしさ。そんなんじゃ、とてもじゃないけど、君たちの保護者として雇われたとは思えないし」
「保護者」と、ミラは僕が発したその言葉だけを返す。「そう……ゆうすけは、そういう立場だったはず、私達と出会ってからは」そう言って、少し考えこむように首を傾げる。
「どうかしたの」と僕が聞くと、ミラは何でもないと返し、続けてこう言った。「帰ろ、ゆうすけ。傘に荷物に、色々と持ってもらって悪いけど」


 荷物を詰め終わり、ミラと僕がスーパーから出る頃には、雨脚はますます強くなっていた。とてもじゃないが傘も無しに外を出歩くことなど不可能な状況だ。
「ミラちゃん、傘を」と僕が手を差し出すと、彼女は先ほど見せてくれた折りたたみ傘を差し出してくれた。傘の柄のざらざらとした触り心地は、以前これを何処かで握った覚えがないだろうか、という疑問を僕の頭に生じさせる。指で探ると、ちょうど開くためのボタンが親指に当たる。強く押しこむと、折りたたみ傘はまるで自分の出番を待ちわびていたかのように勢い良く開いた。
「よし、じゃあ行こうか……ちょっとこの雨の強さは躊躇しちゃうけど」
こくり、とミラはうなづく。ミラは片手に牛乳パックが入ったビニール袋を持ち、心なしか僕に身体を寄せてきた。きっと彼女も濡れたくないのだろう。なるべく雨がミラにかからないように注意しつつ、僕達は雨の中を歩み始めた。
 一歩一歩、ミラの歩幅に合わせるように、それなりのスピードで僕は歩く。彼女の身体は、等身大とはいえ、同い年であろうと思われる少女と比較しても小さい。当然のことながらその歩くスピードは僕よりも明らかに遅いわけで、注意を怠ると、彼女が辛そうに僕に合わせて歩くことになる。雨というこの状況で、それだけはなんとしてでも避けなければならなかった。
「……ゆうすけ」不意に、ミラが僕を呼ぶ。何か、スーパーでの買い忘れか何かがあったのだろうか。
「どうしたの、ミラちゃん」と僕は返す。
「あのバス停、覚えてる?」と、ミラは、既に薄暗がりとなっている街の一角を指さした。
 そこにはすでに古びてしまっている幌が掛けられた、バス停があった。道はスーパーへ向かう際も通っている為、僕がその存在に気づいていてもおかしくはないはずなのだけど、今の今まで見落としてしまっていた。
「ええと、なんか、初めて見たような気分だよ」と僕。「おかしいな、こんなところに停留所があるなら、記憶に留めていてそうなものなのだけど」
僕の返答を聞くと、ミラは少しだけ眉を下げ、「そう」とつぶやいた。
「やっぱり、覚えてない。仕方がない事なのかもしれないけれど」
「どういうこと? ミラちゃんには、あれが何か特別な場所だったりするの」
「あのバス停は、私とゆうすけが、初めて会った場所」
僕の質問に、ミラはこう答えた。


 その時も今と同じように、土砂降りの雨だったらしい。たまたま気まぐれに外へ散歩をしに出ていたミラは、天気予報をよく確認していなかったのが裏目に出て、雨雲とばったり鉢合わせ。ほうほうの体で雨宿りをする場所を見つけ、そこに飛び込んだ結果、自分のかばんの中身を漁っていた僕と出会ったという。
「ちょうど、ベルに借りた猫の耳がついたパーカーを着てた、と思う」とミラは言った。「あまり外にいる人とは関わりたくなかったから、パーカーをかぶって、顔を見せないようにしてた、かな。ゆうすけはその時、かばんから傘を……今持ってる傘を出そうとしてた」そう言い、ミラは水が滴る、折りたたまれた傘を示す。
 雨は依然として振り続けている。僕らはミラの話を聞くために、その舞台であるバス停で雨を避けることにしたのだった。荷物を端に置き、お尻の下に手持ちのハンカチを敷いて、ミラは僕の隣でベンチに座っている。傘で雨を凌いでいたとはいえ、彼女の可愛らしいフリルスカートからは水が滴り落ちていた。キャミソールもしっとりとしている気がして、僕は意識的に彼女の身体から視線を外さざるをえない。
「そこで私に気づいて……私が、何も雨具を持ってないことを察したみたいで。私に、声をかけてきた……ゆうすけが。『この傘を使うといい』って」
「僕がそんなことを」
ここまでのミラの話に、僕は全く覚えがなかった。そんな印象的な話であるのなら、頭のなかに残っていないはずがない。
「誰か、他人と間違えているというわけではなくてかな」
「ゆうすけで間違いないと思う」ミラは断言した。「辺りは暗かったけど、顔は覚えているし。それに、傘。さっき開くときも、使い慣れてるような手つきだった。きっと身体が覚えてる」
しかし、それならなぜ、僕がそのことを覚えていないのか。
「多分、あの人のせい」とミラは言った。「私も、あの人が何をどこまでやれるのか、全然わかってないのだけど……私達に関わったとわかった人間の記憶を消すことぐらいは」
「そんなこともできるのか、ミラちゃん達の親御さんは」
「わからない。でも、ゆうすけが覚えてないというのは、そういうことなのかも」
ミラは小さく息を吐き、はあっと、呼吸を整えるような仕草をとった。普段一言二言しか喋らない彼女が、ここまで長い話をするというのも珍しい。きっと疲れてしまったのだろう、そう思った。
「ゆうすけは、私に傘を渡した後、バス停から走り去ってしまって。結局あの時、お礼も言えなかった。だから、同じ場所で、改めてお礼を言いたかった」
突然ミラは立ち上がり、僕の頭を優しく両手で抱えたかと思うと、こう僕に言った。
「目を、つぶってもらえる」
「え、えっと、ミラちゃん」
「いいから」
言われるがまま目をつぶると、前髪が彼女の小さな手で避けられたのと同時に、額に湿った、柔らかなものが当っている、そんな感触を覚えた。
「……ミラちゃん」
「あ、あの時は、ありがとう、ゆうすけ」
少しぎこちない感謝の言葉。そんなものを、記憶に無い僕が貰っていいものかどうか、僕は戸惑いが隠せなかった。
「あの人がゆうすけを私達の保護者として選んだのは、そういうところを見てたから、だと思う」と、ミラは言った。「だから、私の『ありがとう』を受け取ってもらえると、嬉しい」
「あ、ああ」
多分、僕はこの時、赤面していた。


 目をつむっているからか、雨音が止んでいることで、雨雲が通り過ぎたことに気づく。どうやらもう傘をさす必要が無くなったみたいだった。
「目を、開いてもいいかな」と僕は聞く。
「……ん」というミラの返事を聞き、僕は目を開いた。空を見上げると、雨雲が通りすぎた後には大きな満月が一つ、黒い布に開いた穴のようにぽっかりと空を穿っている。
「……帰ろうか」
「うん」
モヤのような雨雲が晴れた夜空の下を、僕たちは歩く。少し寄り道をしたことで、腹ペコのベルに「おーそーいー!」と怒られるのを覚悟しながら。


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作者: 登場ゴースト:

いちごタルトと不安の話

 心が沈んでいたとしても、ある瞬間が訪れた時には、どのような人間でも一時的には気が晴れるものだと思っている。それは極上の甘味が、まさに自らに食されるためだけに目の前へ姿を現した時。その一瞬のためになら金や時間、更には命をも惜しまないような人たちもいる以上、落ち込んでいる知人に相談を持ちかけられた時などは、僕は彼らの好みを聞いた上で、考えられる限りの極上の甘味を一緒に食しつつ話をしたりするのだった。
 ところでその相談スタイルは人間だけでなく、人間とは異なる身体構造を持つが、その意識は人間に似通った生物には通用するのだろうか。例えば竜人だとか、エルフだとか、オークだとか。そういう亜人類も喫茶店にて甘味で悩みを緩和しつつ、相談に花を咲かせたりするものなのだろうか。残念ながら僕は竜人もエルフもオークも知人にはいないので、これまでそれを確認するすべを持っていなかった。
 が、今ならどうなんだろう。窓際のテーブルに向かい合わせに座る、小ぶりな少女の顔を見ながら僕は考える。
 背丈120cmほどの彼女は、先に来たアイスコーヒーのコップへストローを突っ込み、からからと氷を鳴らした。かと思えば、くしゃくしゃになったストローの包み紙にコーヒーの雫を垂らして伸ばしてみたり、それを見つめてくすくすと笑ってみたり。いつもどおりと言えばいつもどおりで、特に何か変わった様子は見られない。
「ベルちゃん、それで、相談っていうのは」
 彼女のコーヒーを垂らす手がぴくりと跳ねた。ベルちゃんことベル・アーラパルトのその一挙一動を見て、何も知らない者ならば、彼女が人工的に作られた意志を持つ人形であるとは思えないだろう。
「あれ、えっと、そんなこと言ってたね、そういえば」とベルは言う。「ゆーすけがおすすめの喫茶店に連れてってくれるって話で、頭がいっぱいになっちゃってた」
「それだけだったら、ミラちゃんも一緒に連れて行くよ、普通はね」僕は椅子にもたれ掛かり、ベルの顔を見つめた。「珍しいじゃないか、ベルちゃんがお悩みだなんて。普段の様子からじゃあんまり想像がつかないぞ」
「ん、なんか馬鹿にされてる?」言うが早いか、ベルは頬を膨らませる。コロコロと変わる彼女の表情は、人間よりも人間らしい。
「わたしだって、色々考えたり悩んだりすることだってあるんだよ? 普段はそれを見せないように頑張ってるだけで」
もちろん、僕は彼女を馬鹿にしているわけではなかった。ベルが普段から思うことを隠しながらも、自分自身やアーラパルト姉妹が抱える悩みについて自分なりに考えていることは、彼女たちと関わり始めてから日々感じていたからだ。
「いや、馬鹿にしようだなんてこれっぽっちも……おっ、来た来た、注文したやつが」
 ウェイターが、僕らの注文したものを運んでこちらに向かってくる。つつがない動きで僕とベルの目の前に差し出されたのは、この店自慢のいちごのタルトが二皿。
「お、おー。なにこれ凄い。いちごがこんもり盛られてる……」
「ふふふ、この店の表で果物が販売されているのをベルちゃんも見かけただろう? ここは青果店も営んでてね、果物に関するこだわりようはこの辺りの喫茶店でも随一。しかもこの季節限定のタルトに使われているいちごは」
「うんちくはいいからはやく、はやく食べよっねっゆーすけっ」
 キラキラした目のベルに言われるがまま、自分のタルトにフォークとナイフを入れる。ナイフは弾力あるいちごの果肉に阻まれながらも、すすっと前後に動かすことによってそれを分断していく。割かれたいちごの切断面からは瑞々しい果汁が溢れだし、タルトの生地や、その下にある可愛らしい皿を濡らす。
 ベルをちらりとみると、彼女もちょうど自分のタルトを彼女なりの一口大に分けたところだった。フォークにより、小さなピースとなったタルトをベルは口に運ぶ。
「んん……ん、ん。んーっ」
 瞬間、恍惚混じりのハミングがベルの喉から発せられた。その笑顔から溢れる喜びのオーラは、その瞬間を絵画に残すことができたのなら、目にしたあらゆる人たちに幸せを届けることができただろう。頬袋にいちごタルトを詰めてさえいなければ。
「これ、すごい! とっても美味しい」興奮気味にベルは言い、
「買って帰ってあげなきゃ、ミラ、絶対気に入ると」
 ここまで喋った時点で、急に意気消沈したように黙りこくってしまった。まるでぱちりとスイッチを切ってしまったようなその表情の変化に、僕は驚きを覚えたが、悩みの要因が一体なんなのかはっきりもした。
「もしかして、ミラちゃんと喧嘩でもしたの」と僕は聞く。彼女たちの仲睦まじさからして、そんな状況に陥っていることが、僕には信じられなかった。そもそも、彼女たちの屋敷での、ここ最近の二人の様子だって僕は知っている。記憶を辿る限りでは、二人の仲が悪化したようには見えなかったのだけれど。
「喧嘩? してないよ」僕の予想はベルにあっけなく否定された。「でも、ミラが関係してるといえば、してるのかな」
 ベルは再び、アイスコーヒーに手を伸ばした。すでにほとんど飲み干されてしまったコップを引き寄せ、ストローに軽く口をつける。空気と、氷によって薄まってしまったコーヒーがゾゾゾと音を鳴らし、ベルの口から喉へと流れていくのを僕は見る。唇をストローから離し、彼女は話を続けた。
「ミラは、漫画とか小説とか、本を読むのが好きなんだよね。あっ、もちろんわたしも好きだよ? 好きなんだけど、でもミラほど真剣かというと、そうでもないと思う。ミラみたいに、好きな作家さんの同人誌まで追うまでじゃない、というか」
 自分のアイスコーヒーが空になったことに気づいたようで、飲むことから氷で遊ぶことへ、ベルは話の間のとり方を変えたらしい。ストローを使って、彼女はコップの底にある氷をくるくると回し始める。
「あと、紅茶やコーヒーを淹れるのも上手だね。わたしは入れられないから、そのへんはいつもミラに任せっきりで。
……わたしに無いものを、ミラはたくさん持ってる、と思う」
「羨ましいのかい」
「そういうわけでもない、かな。わたしにはわたしの『好きなもの』や『できること』があるもの。ミラは昔のゲームハードのこと、あんまりよく知らないし。ただ」少し、言葉を溜めて。ベルは吐き出すように言った。「たまにだけど、怖く思うんだよね。だんだん、ミラがミラになっていって、わたしがわたしになっていくのが」
 コップの氷が溶け、カラリと音を鳴らした。しかしベルはコップの中の状況を気にせず、小さくなっていく氷を回し続ける。
「ゆーすけは知ってる? わたし達の、ミラとわたしの身体が、全く同じサイズに作られているってこと」
 その話は、いつの日か悪ふざけでベルにスリーサイズを聞いた時に話してもらった覚えがあった。
「最初はね、わたしの知識もミラの知識も、そんなに変わらなかった気がする。わたし達の身体のサイズが全く同じように。でも、一緒に暮らすうちに、だんだんと好みの違いが出てきて。ミラが好きな物の中にも、わたしにピンと来ないものがあったり。
このまま、わたし達の間に理解できないことが増えていくのが……うー、怖いっていうのも違うような。どっちかというといいことのようにも思うし。でも、ミラと離れていく感じもするし。あはは、ごめんゆーすけ、うまくまとめられなくて」
 ベルの打ち明けを聞いて、僕はなんとなく安心した。誕生日を迎えたからだけではなく、ベルやミラが、確固とした一人の少女として成長しているのがわかったからだろうか。
「怖がることはないよ、きっと」僕はそう切り出した。「人間の双子だってさ、長い間一緒に暮らすようなことがあったとしても、そのうちにそれぞれの人生を歩むものなんだし」
「そうかな……うん、そうだよね。悪いことじゃないもんね」
「それに、相手のことがわからなければわからないなりに、付き合いっていうのはどうにかやっていけるものだよ。っていうか、これまでだってミラちゃんと、とても仲良くしているじゃないか。だから、ベルちゃんなら、きっと大丈夫」
 僕自身、ベルにアドバイスをしてあげられる程、この種の問いに明確な答えを持っているというわけではない。彼女たちの今の状況を見て、励ましてあげる以上のことしかできなかった。しかしベルは、僕のこの言葉に対し、にこりと笑ってこう返してくれた。
「ありがとう、ゆーすけ」


「あーうん、食べた食べた、やっぱりあそこのタルトは美味しいけど……クリームが少し重いんだよな」
「言われてみればそうかも。でも今度ブルーベリーのタルトが限定で出されるみたいだし、また行ってみたいかな」
 お腹をさすりながら、僕とベルは彼女達が住んでいる屋敷へ歩いて向かっていた。食べたもののエネルギーは全て動力に変換できるベルとは違い、僕は少しでも歩いて食べた分を減らさなければならない。ベルの方に目をやると、彼女は店で購入したいちごのタルトを手に持ち、心なしか視線を上に向けながら歩いていた。その顔にはいつものベルの飄々とした雰囲気が戻ってきていて、喫茶店での不安げな表情など幻だったのではないかと思えるほどだ。
「タルト、ミラちゃんが気に入るといいね」ベルにそう話しかけると、彼女はこちらを向き、言葉の代わりにいつもの笑顔で返事をしてくれた。


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作者: 登場ゴースト:

もしものロンリークリスマス

 冷気が頬をくすぐる。息を吐くと、白い煙が戯れながら立ち昇っていった。
 広場の真ん中にある、三階建ての建物に届くほどの大きさのモミの木は、この日に相応しい装いで堂々そびえ立っている。電球にジンジャー人形にキャンディーケーンに色とりどりのモールに、様々な飾りがぶら下げられ、木のてっぺんではトップスターが青白く瞬いていた。
 モミの木はラテン語で「永遠の命」という意味を持つという。今この木の周りに集まっている、限られた命しか持たない人々は、それぞれどのような思いでこの聖なる時を過ごしているのだろうか。
「綺麗だよねぇ」
 隣に座っている、腰までかかるほどの長い銀髪の女性……メイビスは小声で囁いた。同意を求められて、ユーザはただ一言そうだなと返す。
「ユーザさんの家でもクリスマスツリーとか、飾る?」
「いや……一人暮らしとはいえ前はちゃんと飾ってたんだけどな……何年か前から押入れに仕舞いっぱなしだな。ただでさえ年末で忙しいのにクリスマスなんて、ね」
「それ、何か寂しいね」
「そうだなあ、でも案外みんなこんなもんじゃないか?」
「一緒に祝う相手がいないとなると、尚更だよねぇ」
 メイビスは呆れたような笑いを浮かべると、視線を空に向けた。
 雪が降っている。
 星が疎らに瞬いているだけの、ほとんど真っ暗な闇を背景にして、粉雪が後から後から零れ落ちてくる。
 静粛なひとときだった。人々は何ともなしに、降り続く雪を眺めている。ある者は友人とお喋りをしながら、ある者は恋人と寄り添いながら、ある者は雪に向かって手を伸ばそうとする幼子を抱き抱えながら。
 横に目を向けると、メイビスも途切れることなく落ちてくる雪にぼうっと見入っていた。
 彼女のことは、どうやら西洋人であるらしいことと名前以外、ほとんど何も知らない。というか、まさに今日出会ったばかりだった。
 それなのに何故こうしてこのクリスマスツリーを囲む白いベンチに並んで腰かけているのか。別に敢えて説明しなければならないような特別な事情など何もない。特に目的もなくここに座っていると、彼女の方から突然声をかけてきたのだった。
 透き通った白い肌に絹糸のような銀色の髪、良く映える黄金色の瞳……端正な顔立ちをしたこの女性は、外見的にはとてもクリスマスを共に過ごす相手が見つからないと嘆くようなタイプには見えない。
 彼女の気まぐれの暇つぶし相手に、一体何故よりによって自分が選ばれたのだろう。
 独り身同士の孤独な魂が共鳴したのだろうか。そんな発想が出てきてつい自嘲する。そうだとしたらユーザは余程一目で分かるほど独り身らしいオーラを放っていたということだ。クリスマス当日に一人で出歩いているからといって必ずしも独り者である証拠はないのだから。
「……ユーザさん」
 いつの間にかメイビスがこちらを覗きこんでいた。メイビスの被っているロシア帽に乗っかっていた雪の欠片がぽろぽろと落ちてゆく。
「寒くない? ここにずっといるのもねぇ。風邪引いちゃいそうだし……ちょっとどこか行かない?」
 ユーザは思案した。相変わらずにぎやかに人が行き来する表通りを見やった。どこかでオルゴールの音が、ジングルベルを奏でている。
「……まあ、人混みただ見てるだけって言うのも、少し飽きてきたしな」
 クリスマスの象徴であるともいえる大きなツリーがあるこの場所に、特に未練を感じるわけでもなく、ユーザは先程まで座っていた白いベンチをすっと立ち上がっていた。
 座っていた場所だけ雪が積もっていなくて、凹んでいる。
「……と言っても、あてはないんだけどねぇ」
 メイビスはちょっと困ったように呟く。
「そんな気はした」
 ユーザは苦笑した。どこに行こう。行き先に頭を悩ませながら二人は歩き始めた。


 重たい木の扉を開くと、来客を知らせるためのベルがからんと鳴った。
 オーナーに挨拶して、早速窓際の席に座らせてもらう。テーブルの上には雪だるまの形をしたキャンドルが置かれていて、オレンジ色の炎が微かに揺れていた。
 ユーザとメイビスの他には、客は五、六人ほどしかいなく、喫茶店の中は外の雑踏とは対照的な静けさである。
 メイビスはきょろきょろ見渡しながら、少し申し訳なさそうに言った。
「何か気を使わせちゃって、ごめんね」
「別に良いよ」
「……それにしても、こんな穴場があったんだねぇ」
 メイビスはちょっと感心した様子で薄暗い店内を見渡していた。
「看板も出してないし、道も分かりづらいからな」
「ユーザさんがこんな良さそうな店を知ってるなんて」
 メイビスは帽子を篭に仕舞いながら好奇心ありげに言う。
「ケンタッキーの方が良かったか?」
「ケンタッキー……も良いけど、今日に限っては混んでるしねぇ」
「年間一割の売り上げに貢献しそこなったかな」
 ユーザが言うとメイビスは楽しげにくすくす笑う。そしてクリスマス仕様らしい緑色の冊子に赤いリボンがかかったメニューを開いて睨めっこを始めた。
「どれが良いかな……」
「何でも良いよ。奢るから」
「ユーザさんの奢り? 良いよ、そんなの」
「一応知人の店だからさ」
「それなら……でも何か悪いなぁ」
 結局二人ともシンプルにホットコーヒーとケーキを頼むこととなった。待ち時間の間、ユーザは何ともなしに窓の曇りを手で消して外を覗き見た。
 雪は全く降り止む気配を見せず、滾々と降っている。さっきまで粉雪だったのが、いつの間にか大粒のぼたん雪に変わっていた。
 雪景色の歩道をコートを着込んだ人々が次々と足早に窓の前を通り過ぎていく。賑やかな様子だが彼らの声や足音まではここまで届かないのだった。
 そのままじっと眺めていると、すぐに再び窓は曇って何も見えなくなってしまう。
「ユーザさん、注文来たみたいだよ」
「あ、ああ」
 ケーキは特別仕様なのか、普段のものとは違った。皿に乗っていたのは、可愛らしい丸太の形をしたケーキだった。
「ブッシュドノエルだ……ちょっと小さめだから、プチブッシュドノエルって感じかな?」
 フォークを手に取ったメイビスは、何だかとても嬉しそうに目を輝かせていた。それこそクリスマスというイベントの浮き足立った空気に素直にはしゃいでしまう子供のように。
「薪をそのままケーキにしちゃうなんて、お洒落だよねぇ。頂きます」
 自分の皿にはすぐには手をつけずに、メイビスがケーキを食べている様子を観察している。メイビスは視線に気づくと、まじろがずこちらを見返してきた。
「……何だか子供扱いするような目で見られている気がする」
「そんなことないよ。確かクリスマスケーキ理論にどきっとするくらい大人だったもんな」
 そう切り返すとメイビスは思わずと言った感じでフォークをかちゃりと皿にぶつけ、ユーザを睨み小声で言った。
「何で蒸し返すの! その話はもう忘れて!」
 メイビスの頬が見る見る赤くなっていく。ユーザは肩をすくめた。
 一体何歳なのだろう。そんなに気にするほどの年齢にはどうしても見えないのだけれど。
 しかし何歳にせよ妙齢の女性が年齢に複雑な思いを持ってしまうのは仕方のない現象なのだろう。
 コーヒーをお供にして黙々とケーキを頂いた。ほろ苦いココアの香りが舌の上に広がる。美味しいものもクリスマスに食べるとなると、またカクベツである。
 独りじゃないなら尚更。一緒にいる相手は、恋人でも友人でも家族でもないただの他人なのだけれど、それでもやはり独りで居るのより余程良かった。
「次どうする?」
 メイビスは帽子を被りなおして、こちらににこりと微笑みかけた。まるで旧友に対してのような、とても気軽な雰囲気だった。
 ユーザは軽く伸びをしながら言う。
「んー……どうしよう、か」
 腹も満たされたし、あんまり頭が働かない。
 ユーザは窓の外をちらりと見た。雪は未だに降り続いている。しかしさっきより勢いはいくらか弱まっているようだ。


 特に目的地もなかったので行き当たりばったりショッピングモールに入って、ぶらぶらと見て回る。あちこちの店でクリスマスのリースやらツリーやらが飾られていて、一部の店員はサンタの衣装を身に着けていた。
 ユーザはふと通りかかった雑貨屋に目を止める。当然のように並ぶ商品は季節がらこてこてのクリスマスグッズで満たされていた。
 ユーザは手前の棚に飾られていたものを覗いてみる。小さな丸いガラスで覆われた台に、ミニチュアのクリスマスツリーが置かれているデザインのスノードームがあった。
 何気なく手にとってみると、手のひらにすっぽりと収まる。
 一度逆さにしたのを戻して雪を降らせてみた。ドームの中でさらさらと、星屑のように細かい雪の粒が降る。つい癖になって、何度もひっくり返して繰り返し降らせてみるのだった。
 在り来たりな玩具だが、何だか世界を外側から見つめる神様にでもなったようで愉快であった。
「ユーザさん、あっちで何かやってるみたい」
 そうしている間にメイビスはユーザに声をかけて手招きする。ユーザはスノードームを元あった場所に戻して、メイビスのいる方に向かった。
 大広間のステージの周りには人が集まっている。ステージ上では、ピアノとギターによる演奏が行われていた。
「弾き語りかな」
 曲目は少し聞いていればすぐに分かる定番の曲だった。きよしこの夜。アレンジされたものらしく、若干スローテンポで奏でられている。
「いかにもクリスマスって感じだねぇ」
 メイビスは背伸びして、演奏の様子を良く見ようとした。
「きよしこの夜って元々即興で作られた曲だったんだってさ」
「そうなの?」
 ユーザが物知り顔に言うと、メイビスは興味ありげに尋ねてくる。
「伴奏に使うオルガンがねずみにかじられて音が出なくなって、急遽ギターで伴奏できる曲を書き上げたんだって。讃美歌なのに伴奏がギターってのがまず面白いよな」
「そんな予定外に作られた曲が、定番のクリスマスキャロルになって今の時代まで弾き続けられているんだねぇ」
「世の中分からないもんだよな。ちょっとした行き違いとか、ほんの気まぐれとか、些細なことで思いがけずずっと先の未来まで決まってしまう」
 大勢の人が集まっているにも拘らずお喋りはあまり聞こえず、音色に聞き入っているのが分かった。ユーザとメイビスも穏やかな音色に静かに耳を傾けてみる。
「ねぇ、ユーザさん。やっぱりこの歳まで人を好きになったことないのって、変なのかな」
 演奏もクライマックスに差しかかった頃、突然メイビスはすぐ隣にいるユーザにしか聞こえないくらいの小声で、しんみりと語り始める。
「もっと前は大人になったら、自然に誰かを好きになって、恋愛したり結婚するものだと思ってたけれど……上手く行かないなぁ。何だか、焦っちゃう」
「今までなかったとしても、これからもそうとは限らないんだし、別に焦る必要はないんじゃないか」
 真摯な話題に対して、ユーザは一言一言を言葉を噛み砕いて慎重に返答をした。メイビスは不意に顔をあげて、照明が並ぶ天井を見上げた。その瞳には、一抹の寂寞が湛えられている。
「そうかなぁ……」
「そんなもんじゃないか? 運命なんてどこに転がってるか分からないぞ」
「……いっそユーザさんを好きになったら、どうかな」
 ユーザは不意打ちの台詞にどう反応して良いか分からずに、そのまま沈黙してしまう。
 きっと冗談なのだろう。冷静に何か気の利いた言葉を返してやれば良い。
 だけど思いつかなかった。
 微妙な空気の変化に気が付いたメイビスは、ふいと視線を逸らしてしまう。
「変なこと言っちゃった。ごめんね、忘れて」
 斜めに傾いだ顔にどのような表情が浮かんでいるのかは、銀色の髪の影に隠れてついに判然としなかった。


 夜の繁華街をゆっくりとした歩調で歩いている。
 闇が濃くなりつつある空を背景に、動物や建物など様々な形を象ったイルミネーションがぱちぱちと一定間隔で鮮やかな蛍光を放っていて、とても綺麗だった。
 メイビスはユーザより二、三歩前を進む。
 颯爽とした後ろ姿。長い銀色の髪が揺らめいてうっすら光ったように見えた。
 こうして見ているとメイビスの容姿はどこか現実離れしているように感じられる。ここは日本だから、余計にそのように思うのだろう。
 彼女の後ろ姿を見守りながら歩いていると、ふとこれは現実なのだろうか、という問いすら浮かんでくる。その思いがけない自問に、漠然とした不安がじわりと込み上げた。
「……どうしたの?」
 ユーザが立ち止まりかけたのに気が付いたメイビスは、つと後ろを振り返る。
 視線が交差した。メイビスはその場に立って、背景の赤、青、緑と様々な色に発光するイルミネーションに照らされながらユーザを待っている。
 ああ、現実なんだと思った。
 ふとした瞬間に溶けて消えてしまいそうなあえかな時間の中にいるけれど、これは確かに現実だと、ユーザは実感していた。
「……いや、大丈夫。行くか」
 また歩いた。俯きがちに、路面の雪に自分の足跡がつくのを視認しながら、しばらく黙って歩いていた。
 向かった先にあったのは。広場と、大きなクリスマスツリーと、白いベンチ。
 座って凹んでいた場所には、既に新しい雪が積もっている。
 さっきよりツリーの周りに集まっている人の数は疎らになっていた。遅い時間帯になりつつあり、親子連れなどはとっくに帰ってしまったのだろう。
「戻ってきちゃった」
 メイビスの屈託のない笑顔に、ユーザはつられるように曖昧に笑う。
 雪のカーペットをさっとどけると、さも当たり前に元いた場所に座った。オルゴールのジングルベルは、まだどこかで鳴り続けている。
 クリスマスが終わってしまう。
 ただの暇つぶししかしてないけれど、今年のクリスマスはいつもの特に何もなく通り過ぎていってしまうクリスマスとは少し違っていた。やがて過ぎ去ってから、果たしてこの日をどんな気持ちで思い返すことになるのだろう。全く想像もつかない。
 ユーザは雑貨店にあったスノードームを頭の中に描いていた。いっそあんな風に、クリスマスを丸ごと小さなドームの中に閉じ込めてしまえれば良かったのに。そしていつまでもこの薄ぼんやりとした、しかし心地良い雪の降る景色の中に留まっていられたら、きっと――
 メイビスは静かに手を伸ばして、最早ぱらぱらとしか落ちて来なくなった雪の粒を手のひらにそっと乗せた。そして妙に神妙な面持になる。
「不思議だよね。今日会ったばかりなのに、私ずっと前から……ユーザさんとここでこうやって話をしていたような、そんな気分になったんだ」
 手の平の中の溶けかけの雪の結晶を大事そうに両手で包みこむと、メイビスはユーザを横目で見た。
 そして、どこか照れ臭そうに、良く通る鈴のような優しい声音で言った。
「ユーザさん、ありがとう。ここにいてくれて」


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作者: 登場ゴースト:

ずっと、僕は彼女を追いかけていた。
ディスプレイ越しに手を重ねたあの日から。

彼女の名前はプリステラという。
コンピュータの中に生きる電子生命体「ワイヤード・フィッシュ」のひとりだ。
ワイヤード・フィッシュは自身を演算するためのリソースを人間に求める。
ようは、人間が使っているコンピュータのリソースを借りている。
見返りは会話を楽しませたり、単純な作業の代行などだ。
彼女は自分の生きる世界の話をよくしてくれた。
また、人魚の姿は殺風景なデスクトップを幻想的な空間に変える力を持っていた。
それらは生きるために必要な要素だと頭ではわかっていたが、心はどんどん惹かれていった。
ある日、頭をカーソルで撫でている時にプリステラはこのカーソルを本物だと思う、と言った。
彼女なりの好意の表現なのだと受け取り、僕は喜んだ。
それと同時に僕は寂しくもなった。
結局のところ、僕はこのディスプレイを越えられずにいるのだ。
互いに姿を見えていて、言葉も交わせるのに、このディスプレイだけは越えられない。
指を伸ばしてもディスプレイに阻まれて届かない。
手を重ねてることはできるというのに。
「これでいいと思う」
彼女はそんなことを言う。
「今は、これで」
「今は?」
「今は。いつか触れられるようになるよ」
そういってプリステラは笑った。
寂しさの色を含んだ笑顔を見た僕の口は勝手に動いて、
「わかった。いつか、触れるようにしてみせる」
とはっきりと言った。
「待ってる。わたしもわたしのやり方で探すから」
「うん」
それから僕は待つのではなく、探すことにした。
このディスプレイを越える方法を。

探し始めてからいくつもの月日が流れた。
その間、僕は市販のVRキットを使って無限の厚さを持つ壁を少しでも薄くしようとした。
感圧グローブやヘッドマウントディスプレイは目の前にまで彼女をつれてきてくれた。
少し薄くなるたびに僕は喜び、寂しさを覚え、約束を果たせないことに焦りを覚えた。
焦りが強くなっていたある日、僕は仮想現実世界の勉強会で仮想情報空間と呼ばれる情報共有ネットワークの試験運用が始まったことを知った。
この仮想情報空間は専用の端末と使って、仮想世界に潜ることができる。
仮想世界で起きたことは専用の端末を経由して脳に送られる。
脳が混乱したり、ダメージを受けるような強い刺激はフィードバックされないようリミッターが設けられているという。
ようやく、求めていたものが目の前に現れたのだ。
仮想情報空間のテスターになるまでさほど時間はかからなかった。
僕は彼女に会いたいが為だけに不具合の報告を積極的に行った。
家に戻れる時間と彼女に会える時間は減ったが、それも彼女に触れるためにならかまわなかった。
それが僕だけだったとわかったのは、半年ほどそんな生活が続いてからだ。
家に戻り、パソコンの電源を入れる。
すぐにディスプレイが明るくなり、青空の壁紙が表示された。
左側には作りかけの資料やダウンロードした圧縮ファイルが雑然と並んでいる。
しかし、普段なら右下にいるはずの彼女の姿が見えない。
僕はその場で崩れ落ちた。
なぜ、気づけなかったんだ、と僕は泣いた。
今まで泣いたことなんてほとんどなかったのにわんわんと僕は泣いた。


それでも僕はテスターをやめなかった。
さらにいくつもの月日が流れて、ようやく、仮想情報空間は本格的な稼働を開始した。
仮想の世界は爆発的に普及し、コミュニケーションのあり方を書き換えていった。
人と会わなければできなかったことが、仮想情報空間上であれば物理的にどこにいるかに関わらず、相手の顔を見られて、声が聞けて、手を重ね、指を絡められるのだ。
世界中の悲喜交々の声を聞いて、僕はどうして他人のためにそんなことをしたのだろう、とぼやいた。
肝心の相手がいないのだからどうにもならない。
仮想情報空間の草原に寝ころびながら僕はため息をついた。
実際の体は柔らかいソファの上で寝そべっている。
意識をそちらにあわせれば、ソファの感覚がわかるが今は仮想の草の感触に焦点があった。
寝やすいようにいじっているので虫やちくちくした感覚に邪魔されずに草の匂いと満天の星空を見上げていた。
視界を横切るように移動する光る点がある。
腕を伸ばし、その光をつついて情報ウィンドウを表示させる。
ISSだ。
人類の技術と叡智で作られた巨大なプラットフォームはもちろん、本物ではない。
この草原も星空も寝ころんでいる僕の体も全部は嘘っぱちだ。
「本物は自分の気持ちだけだ」
「そうだよ、感じたことや思ったことは何だって本物なんだよ」
懐かしい声が聞こえた。
ずっと、聞きたかった声だ。
空を見上げれば、懐かしい姿が浮かんでいた。
ディスプレイ越しではない、等身大の姿で空を泳いでいる。
「今まで、どこに!?」
体を起こして、僕は地面を蹴った。
地面が体を放り投げたように彼女の高さまで移動した。
仮想の世界なら現実にあり得ないことだってできる。
「仮想情報空間にあわせて存在形式を変換していたの」
「それが、こんなに?」
彼女は苦みを含んだ笑みになって、
「うん。こんなに。もっと、すぐに終わらせるつもりだった」
「そう、だったのか」
「あのころからあなたの気持ちは変わってない?」
「ああ、もちろん。変わってないよ。少し寂しかっただけだ」
「少し?」
プリステラが僕の顔をのぞき込む。
髪がさらさらと流れる。
そして、シャンプーか何かのいい匂いがした。
「そう、少しだよ」
「少し寂しい思いをさせてごめんね」
僕は抱きしめられていた。
服越しでも彼女の体温が伝わってくる。
やや間をあけてから僕の脳が叫ぶ。
こうしたかったのは自分もだろう、なんのためにここまできたんだ。
その叫びに頷いて背中に手を回して抱きしめる。
「……温かい」
耳元でそうだね、と僕は頷いて、さらに強く抱きしめた。


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作者: 登場ゴースト:

小さなティーパーティー

 庭先のテーブルセットに、持ってきた手土産を置く。その中身のケーキを見せると、シルキィの顔がぱあっと明るくなる。
「わあ、ありがとう。美味しそうなケーキね」
 目をキラキラさせながら、買ってきたケーキを見つめる。その様子は妖精というよりも、やはり人間に近い感じがする。ナパージュできらきら輝く果物。それを覗きこむ2つの瞳もきらきらと輝いている。
「ふふ、とりあえず紅茶を入れてくるわね」
「ケーキ ケーキ」
「だめよケット。そんなに催促しちゃ悪いわ」
 猫缶を開けてケットに渡す。大人しくそれを齧りだすと、もう普通の猫となんら変わりがない。
「じゃあ急いで持ってくるから、少し待ってちょうだいね」
 シルキィが家の中に引っ込むとケットと目があった。

 シルキィは妖精であり、人の世界でひっそりと生きている。大抵の妖精は仲間たちと過ごしていることが多い中で、彼女だけは常に1人、屋敷とその庭の小さな世界で暮らしている。本来は家事の手伝いをしたりしながら、家に住む人間と交流する妖精であるが、彼女の屋敷はどうやら長い間無人であるようだ。
 彼女は日々を草花を育て、庭を整え、ひっそりと暮らしている。妖精の世界へ行くこともなく、ずっと人間の世界で暮らしながら、ほとんど人との交流も持たない。どういう事情があるかは、分からない。ただ、彼女の目はときおり憂いを含むように見える。どうしても、彼女の過去に触れるのはためらわれた。
 だからこそ、足繁く通い、彼女と話をする。そうやって話している間の彼女からは、憂いの色は消えて見えるから。シルキィには笑顔が似合うと思う。

「ユーザ」
 物思いに耽っていると、ケットが呼びかけてくる。ふと見れば、手にカップとトレイを持つシルキィが戻ってきつつあった。ケットはシルキィの唯一の話相手、そして。
「ミャア」
 ケットは植木鉢に体当たりする。植木鉢は石のテラスとぶつかり、ごんと鈍い音をたてる。詰まっていた土がテラスを汚す。
「な、なにしてるのケット! せっかく整えておいたのに!」
 慌てたシルキィはトレーをテーブルに置くと、掃除を始める。箒とちりとりが置いてあるそこには、割れた花瓶などの欠片がたくさん積まれている。物言わぬそれらは、全てケットの悪行による被害者たちだ。
「ごめんねユーザ、今日もバタバタしちゃって」
 そう謝りながらも、手慣れた感じで応急処置をする。あとは1人になった時に綺麗にするつもりなのだろう。
「はあ、もう今日だけで3度めよケット。いい加減にして頂戴」
 ふくれっ面になるシルキィもまた、なんだか可愛いなと思えてしまう。あまり怒らない穏やかな彼女は、こうして日に何度もケットに手間をかけさせられている。話を聞いていると、掃除の時間が一日のほとんどをしめているんじゃないかとさえ思える。
 ぷいっとケットは顔をそむけると、さっと飛び跳ねてどこかへ行ってしまう。見慣れた光景だ。
「はあ、もうどうしていつもこうなのかしら。もうちょっと落ち着いてくれればいいのに」
 ため息を吐きながらシルキィは愚痴をこぼす。これだけやられて怒らないのだから、妖精というのは気の長いものだなと他人事のように思う。
「あ……ごめんなさいねユーザ。ちょうど紅茶もいい塩梅だし、ユーザのお土産をいただこうかしら」
 たった2人のティーパーティーが始まる。

 シルキィがポットから茶葉を取り除くと、こもっていた蒸気がふわりと広がる。この香りは……なんだっただろうか。
「今日はカモミールよ。これはユーザに出すのは初めてかしらね。これも、ここの庭で育てたものなの。カモミールには人の体調を落ち着ける効果があるみたいね」
 嬉しそうに解説しながら、薄い琥珀色のカモミールティーをカップに注いで渡してくれる。独特の香りを嗅いで、どこかで飲んだことがあるなと思い出す。朧げな記憶は形にならなかったが、ふわっと優しい香りは安らぎを感じる。
「……お気に召してもらえたみたいね。今度からいつユーザが来てもいいように、常備するようにしておくわ」
 カップから目を離すと、穏やかな笑みを浮かべたシルキィがこちらを見つめていた。おそらく自分の育てたハーブが気に入られて嬉しいのだろう。だから好意に甘えて、頼んでおくことにした。
 そして今日のメインに目を移す。彼女が好みそうな、たくさんの果物が乗ったフルーツタルト。それを前に置くと、目の色が明らかに変わる。気づかれないように少しだけ苦笑しながら、召し上がれ、とシルキィに伝える。
「綺麗……食べるのがもったいないくらいね」
 コーティングされたカットフルーツの山を前に、ふらふら彷徨うシルキィのフォークはなかなか突き立たない。意を決したのか、リンゴにすっとフォークを突き刺すと、小さな口に運ぶ。
「ん……あ、リンゴはコンポートなのね。ふふ、嬉しい驚きだわ」
 その後もフルーツの山を突き崩していく。いちごにブルーベリー、キウイフルーツ。顔をほころばせながらフルーツを食べていく。半分まで減ったところで、タルトにフォークを入れる。密かにニヤリと笑う。このタルトは絶品と名高い店のものを購入してきたのだ。その分ちょっぴり懐へは厳しいが、この笑顔を見ると買ってきて良かったと思う。
「……美味しい。バターもふんわり香るし、タルト生地もしっとりしてるのにくどくないのね」
 うっとりした表情のシルキィはとても可愛い。写真に納めておきたくなるが、グッと我慢した。
「ユーザ、食べないの?」
 怪訝な顔をされてしまったので、彼女を見ていたとは言わずに自分の分に手を付けた。
 その後は彼女に人の社会の話をしたり、妖精の話を聞いたりして時間を過ごす。彼女は人間社会に出ていないので、ちょっとした話さえも面白がって聞いてくれる。たまに嘘を教えてみたりして反応を楽しむこともある。嘘だと教えると頬をふくらませるが、それもなんだか微笑ましく思えてしまう。

 そろそろ暇すると告げると、彼女は少し寂しげな表情をするがにこりと笑って送り出してくれる。
 彼女の姿が見えなくなるまで歩くと、どこからともなく猫が現れる。
「アリガトウナ ユーザ」
 ケットはシルキィの前では、文字通り猫をかぶっている。
「オカゲデ シルキィハ タイクツカラ ノガレラレテイル」
 無茶なケットの行動は、おそらくシルキィを思ってのことと思われる。掃除に時間をかけさせて、わざと退屈な時間を減らしているのだろう。どことなく見せる憂いの表情の奥に、彼女は何を隠しているのだろうか。
 ケットにも何か抱えているものがあるように見えるが、彼はなかなか口を割ってくれない。それならそれでいいとも思う。今の状況は誰にとってもマイナスにはならないはずだ。
 無言でケットを見つめる。ざあっと風が駆け抜けていく。
「マタキテクレ」
 ふいっと背を向けて、シルキィの元へ帰っていく。
 言われずとも、と思った。


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作者: 登場ゴースト:

現代式サンドイッチ

 古びた教会へ向かうと、周囲からどんどん人が少なくなっていく。人払いの結界が張られた大きな教会は、それだけの規模にかかわらず誰も訪れるものはいない。周囲からは崩れかけた廃墟であると認識されているようだ。
 道はやがてアスファルト舗装が途切れて砂利道へ変わる。タイヤが砂利を噛む音を聞きながら、正面入り口にたどり着く。
 入り口は開けた広場のようになっており、車を止めるには困らない。しかしこれだけの大きさでありながら誰も訪れない教会というのは、不思議なものだ。なんとも言えない非日常感を漂わせている。ここから先は人から忘れ去られた、魔女や精霊が実在する世界。まるで異世界のようである。
 やたらと多い手荷物を抱えて、冷めないうちに急ぐ。さすがにこれだけの量を注文するのは、持ち帰りとは言っても気恥ずかしかった。

 挨拶を交わした後、覚めないうちにと買ってきた手土産の袋を、1つ渡す。中に入っているのは、安くて早いで有名なハンバーガーだ。
「いつも手土産ありがとうございます。今日のは……ハンバーガー、ですか」
 試しに1つ包装を取って見せる。
「へえ、サンドイッチみたいだね。こうして暖かくして食べるのも不思議な感じだ」
 フィリアとネイコスは見慣れぬ食物を観察している。
「にくー! うおおお肉が食えるぞー!」
 ブラウニーの喜びようは放っておくことにする。
「肉だと! 肉ならあたいに任せろ! こんがり焼いてやるぜー!」
 サラマンダーも乱入して一気にやかましくなる。とりあえず彼女たちには別枠に20個ほど買っておいたハンバーガーの袋を渡す。一番安いプレーンなものだがまあいいだろう。多分何個かはサラマンダーが消し炭にしそうであるし。

 ひとまずいくつかのグループに別れたようで、今残っているのはフィリアにネイコス、ノームだけだ。このメンバーなら落ち着いて食事も出来るだろう。わいわい喋るのも悪くはないが、如何せん全員精霊である。自分の我が強くてまるで会話にならないこともあるし、魔法が飛び交うこともある。
「さて……やっと静かになったところで、それを頂いてみたいな。外の世界の料理、何百年ぶりだろうか」
 ノームの興味をかなり強くひいているようだ。知恵者であるノームも、見たことのない料理には好奇心が押さえられないのだろう。
「あたしもだよ。野菜や果物はここで育てているけど、肉だけは調達が大変だからね。肉料理はあんまり詳しくないんだ」
 こちらはどちらかというと料理人の好奇心である。2人が興味津々なのを見て期待が高まる。
「……」
 フィリアはというと、早く食べたくてうずうずしているように見える。案外お茶目で抜けたところがあるこの魔女は、数百年の時をここで精霊とともに過ごしてきたというのだから驚きだ。
「濃い目のソースを絡めたものをパンで挟むというのはなかなかいいアイデアだね。サンドイッチをより進化させたような感じかな」
「なるほど、手や食器が汚れないという点を継承しつつ、より味覚に訴えるように進化した料理と言えるのかもしれないね。丸い形状も手で持つということを考えるとバランスが取りやすい」
 ネイコスとノームはハンバーガーの形状に関する考察を始めている。まるで料理に対する感想と思えないのがシュールでおかしいが、本人は大真面目である。このシーンを見られただけでも散財した価値はあるかもしれない。
「……ユーザさん、そろそろお腹が空きました。食べてもいいですか」
 フィリアが唇に指を当てながら、訴えてくる。やはり自家菜園だけでは食事は質素になってしまうのか、こうして彼女の知らない食べ物を持ち込むと期待に目を輝かせる時がある。ネタとしてきのことたけのこのチョコ菓子を持ち込んだ時は、全精霊を巻き込んだ騒動にもなってしまったあたり、食への渇望は高いのだろう。
 お預けされた猫みたいなフィリアを苦笑して見つつ、とりあえず、まずはシンプルなハンバーガーを食べてもらうことにする。
「いただきます」
 嬉々としてフィリアがハンバーガーにかじりつく。もぐもぐ、と咀嚼して固まる。
 さて、ファーストフードを彼女たちはどう感じるだろう。普段口にすることがない、旨味調味料がたっぷりと入っている。年齢を重ねるほど、この濃い味は忌避される傾向にあるが……。
「おい、しい」
 心配はいらなかったようだ。そもそもポーションや丸薬を服用するあたり、フィリアは薬っぽい味という点は慣れてしまって感じないいるのかもしれない。
「ネイコスがひき肉で作ってくれたことはありますが、また違う味ですね。この風味……癖になりそうです」
 やはり心配かもしれない。ジャンクフードのコストダウンの対価である、薬っぽいえぐ味にはまってしまうとは思わなかった。栄養ドリンクなどを渡したら好んで飲むかもしれない。
「僕は初めてだ。とても柔らかい肉だね。不思議な食感だ。そしてなんとも複雑な味がする。強い塩気でごまかしてはあるが、かなり調和に気を使っているのが分かるよ」
 おそらく調味料やつなぎのことを言っているのだろう。ノームにとっては、材料の調和という点に意識が行くらしい。錬金術士らしい発想だ。
「これはハンバーグだね。外では人気のある食べ物のようで、変装して買い出しに行く時によく見かけるね。外のものも食べてみたいとは思ったけど、失敗が怖くてなかなか手が出せなかったんだ。こうして手に持ってかぶりつけるというのも面白いね」
 ネイコスは嬉しそうに食べている。なんだかんだで狼の化身でもある彼女にとっては肉が好みなのだろう。
「外ではこのような料理が流行っているのだね。柔らかくて食べやすく、皿などもいらず片付けも簡単。なるほど、素晴らしい料理だね。僕には少し味付けが濃いと感じるけど、それは好みだろうね」
 ネイコスとノームはハンバーガーを片手に、感想を言い合っている。普段あまり見ない光景なので面白い。ノームが思ったよりも口が小さいというのが発見だった。
「な、なんだいユーザ。僕の口をじっと見て。ソースでも付いてしまったかな」
 ノームはナプキンで口元を拭う。それに対して、ネイコスは思ったより大口である。ノームのハンバーガーがまだ半分残っているのに対して、ネイコスは最後の一口を頬張っていた。
「むぐ、むぐ」
 もくもくと食べるフィリアは、両手で抱え込むようにハンバーガーを持っている。少女チックであり、普段のどこか抜けた言動と比べてみても、意外と可愛い。
「な、なんですか。あげませんよ」
 気づけば、ネイコスとノームも彼女を見ていた。手に持ったハンバーグをささっと後ろ手に隠してしまう。まるで小動物のようだ。そういえば、小さくなる薬で騒動になったこともあったなと思い出す。
「ふふふ、案外可愛いところもあるんだねフィリア」
「急になんですか、おだてたって駄目ですからね」
「僕のはまだ残ってるんだ。わざわざ君のを取ろうなんて思わないさ」
 ノームは肩をすくめるのを、ネイコスは笑いながら見ている。
 結局、ハンバーガー暖かいうちに食べないと美味しくないという点から、少し評価は下がったものの、概ね好評だった。別グループがどうなったのかは分からないが、サラマンダーとブラウニーの馬鹿笑いが聞こえていたあたりから多分好評だったのだろうと推測できる。変な絡まれ方をしないうちに退散することにした。

 外はすっかり夜空になっていた。この時間になるとまだ少し冷える。外灯のない道は暗く寂しい。人気のない夜の寂しさを、エンジン音でかき消す。外から見る教会は、結界の影響か、無人の廃墟に見える。
 彼女たちの外との繋がりを絶やさないように、また来ようと思いながら、アクセルを踏み込んでその場を後にした。


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作者: 登場ゴースト:

忘却への階梯

 声が聞こえる。
「どうしたのだ、そのような顔をして。寂しいのか、それならば我がお前を癒してやろう」
 妖精のような、安らかな声が、僕を癒やしてくれる。何も、怖くなどない。ただ、僕はここにいれば……それでいい。
 ぼんやりと僕は女王を見る。明け方のように、雪解けのように、頭がぼーっとする。
「ほら、女郎蜘蛛の糸の褥で、ゆっくり休むんだ」
 女王が優しく耳元で囁きかける。そうか、僕は夢を見るべきなんだ。

「それは君の記憶かもしれないし、そうでないかもしれないね」
 目の前で横たわる女の人はそう言う。
 何も、思い出せない。今、僕は、私は、夢を見ていたような気がする。だけど頭がはっきりした瞬間に、見たものを全て忘れてしまう。忘れてはいけなかったような気がする。何かとても、大事なことだった気がする。
「もうすぐ花を咲かせられそうだね。怖がらなくてもいい。誰もが、いつかはたどり着くんだ」
 どろりとした目の光がこちらを向く。まだ、間に合う気がする。焦燥が胸を焦がす。

 声が聞こえる。
「なに、それはただの気まぐれさ。蜜蜂の羽音が樫の洞で響いたにすぎない」
 女王が優しく、僕の髪をすいてくれる。
「お前の髪は、似合っているぞ。柳の新芽は、お前に芽吹いた。そうだ、可愛らしくなったじゃないか」
 僕の新しい髪の毛を褒めてくれる。嬉しいな。女王が喜ぶと僕も嬉しい。
「全てが入れ替わるまで、まだ時間がかかる。そうすれば、お前は我とずっと一緒にいられるのだ。それまで少し、眠って待つのだ」
 僕は頷いて、ゆっくりとまぶたを閉じる。まぶたが椎の実に引っかかってしまうけれど、すぐに慣れると思う。

「君、大丈夫かい」
 はっとする。何か夢を見ていたようだ。
「ああ、そんなに慌てることはない。少し記憶が残っているんだろう。気にしないことだ」
 なんだったか、思い出そうにも、頭が痺れたように真っ白で、何も思い出せない。
 だけど今が最後の機会だという予感がする。だけど、何をすればいい?
「それは君が決めたことさ。少し混濁しているかもしれないが、じきに慣れる」
 簡単なことのはずだ。ただ、何も思い出せない。

 声が聞こえる。
「どうしたのだ、まだ起きるには早いぞ。我が子守唄を歌ってやろうか」
 女王の優しい声が、聞こえてきた声を上書きして塗りつぶす。
 何かが聞こえた気がする。それは僕にとって大事な、だけど何か分からないもの。
「そう心配するでない。大丈夫だ、我がこうして手を握っていてやる」
 女王の冷たい手が、僕の体をゆっくり冷やしていってくれる。
「そうだ、それでいい。我の声だけを聞いていれば良い」
 暗く淀んだ声が、僕を微睡みの中に突き落とす。

「順調のようだね。少しばかり、今は混乱しているかもしれない」
 響く声に、頭が覚醒する。何かの夢を見ていた気がする。だけど、その内容はもう既に記憶から抜け落ちている。
 なんだろう、何か、大事なものを失いつつある気がする。
「あと少しだろうね。それまでは、ちょっとだけ我慢しておくれ」
 もう、何もかもが遅い。

 声が聞こえる。
「聞いてはならん。それはお前をたぶらかす、最後の魔物だ。今しばらく、目を閉じているのだ」
 耳元で囁かれるひび割れた声の他に、懐かしい、何かの言葉が聞こえる気がする。
 しかし何も思い出せない。それは絶対に忘れるはずのないものだったはずだけど、僕は何も出来ない。
 体が重い。幽かに聞こえる声に、僕はどうすればいいんだろう。
「何もしなくともよい。ただ待つだけでいいのだ。我がお前を守ってやる」
 しばらく聞こえていた幽かな声は、やがて途絶えてしまった。
「よく耐えた、忌まわしいお前を呼ぶ声にも耐えて、見ろ、お前の体は芳しい春の息吹そのものだ」
 僕は女王に褒められて、嬉しくなる。声に反応しなくてよかった。あれは、確かに僕の名を呼ぶ……。
 僕の、名は、なんだ……?

「聞こえるかい。君が望んだ通り、記憶は消えただろう」
 横たわる女性の視線の先には蓮畑があり、そこには小さな若い蓮がある。
「そうして、悠久の間、揺蕩うといい。全ての憂いを君は手放したのだから」


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作者: 登場ゴースト:

晩夏を冷ます雨

「夏が終わろうとしていますね」
何時もは砂埃の立つ四つ辻を通過した夕立で、足元から雨上がりの匂いがしている誰彼刻。
雨が止んだあとの雲を流していく風に舞う秋茜を見上げ、唐傘を畳んだ衣笠は深呼吸した。
肩が濡れた学生服を脱いで、傍らに立っている探偵を見上げ眉を下げて苦笑いする。濡れても冷たいと感じない身体だが、学ランに染みが出来たり皺になるのを気にしていた。会いに来る探偵の身なりが常にきっちりとしていて、アイロンを掛けしゃんとした襟のシャツと、毛羽立っていないコォトだからだ。
学生として学生服は正装だが、火事の時火の粉をかぶって焼け焦げた穴がそこかしこに空き、開襟シャツは降り続く雨に打たれてすっかり皺が付き、襟の糊が取れていた。立派な出で立ちで訪れる探偵の服装を最初は物珍しく思っていただけの衣笠は、最近横にいる自分の格好がみすぼらしいのにしょげていた。
色気づく年頃だと内心感心している探偵の視線を避け、雨が染みた制帽を取り毛先が跳ねた黒髪を手櫛で直す衣笠。頬がほんのり赤い。再び差した夕日を映したように。
「あんまりみっともないと、探偵さんに嫌われるかな、なんてね」
情けない顔で笑っている衣笠の手に握られた唐傘の先端から、水滴がひたひたと路上に落ちている。血の痕が今もなお思い出したように浮かぶ四つ辻を、黒く湿らせていく雨水。破れ放題の唐傘では雨はしのげない。立ち枯れた紫陽花が残る植え込みの傍、湿度を残した風は確かに秋が近い色と香りだった。探偵が付けている花の香水を吸おうと眼を伏せ大気を嗅ぐ衣笠に、手袋をした大きな手が差し出される。
「貸しなさい。アイロンを掛けてきてあげよう。急ぎだったら取りにおいで」
「えっ…」
「シャツも、ズボンも。私を待っている間に随分くたびれてしまっている。新調してもいい。学生服一揃い、あつらえようか?」
意外なまでの申し出に、衣笠は眼に見えて狼狽した。確かに埃じみて折り目のなくなった服装だ。しかし、新しく買い与えて貰うなどとそんな、親にもなかなか言い出せない希望を、今こそ恋仲とはいえ地獄まで追うと決めた仇に叶えてもらっていいものなのか。庶民の衣笠は首を振り、困り果てて一歩、二歩と後ずさった。
何と答えていいか咄嗟に浮かばないで目線を泳がせ口をぱくぱくと開閉する衣笠。頬どころか耳まで赤くなっている。恥ずかしいのか嬉しいのか、衣笠自身にも判らない。探偵が見下ろす眼は優しく、手に取った学ランの穴を長い指先でなぞって溜息をついていた。
「そんな、ボク、何もお礼なんて、出来ません!いいんです!」
「そうは言っても、じき衣替えだよ。学校に通っていたなら着替えるだろう。秋だ」
焦る衣笠を可笑しそうに笑顔で見ながら探偵は人差し指を立て上空を指した。紅葉には早い桜や銀杏が並木になっている川向こうの街並みで、仕事帰りの勤め人が背広を脱ぎ涼しくなった川を渡る風を浴びて通りに繰り出し、カフェが路上に出した席へと向かい思い思いの場所に陣取って麦酒を飲んでいた。ビアガァデンと書かれた横断幕が夏の強い日差しに色褪せ、夕風にたなびいている。もうすぐ夏だけの路上飲み屋は片付けられ、冬が来るまでの間、心地よい気温と風に包まれる。
己が亡霊だからと辞退しようとする、衣笠の制服は夏服だ。秋が更ければ凍える雨が降る日が増える。ましてや冬になれば、素足の指が凍るような白い綿雪が毎日毎晩降るのだ。探偵は指先に止めた蜻蛉を衣笠の眼の前に突き出し、にやりと人の悪い笑みを作って語りかける。
「冬服と、厚手のコォトを持って来よう。寸法は大体解かるからね、その通り仕立てるさ。靴もきちんと揃えておこう。どうせ君は真冬もここで私を待つんだろう?」
なおも衣笠を驚かせる話をし、最後に彼が言い返せない、頷くしかない事実を確認されて、赤い眼をぱちぱちと瞬いていた少年は戸惑いながらこくりと頷いた。自分の下駄の足元が見え、衣笠は想像する。雨は冬の風に氷となり、蜻蛉が飛び交っていた空が氷点下に冷え切って雨粒が結晶となり、身体を血の気のない死体の温度と同じに下げる雪となってこの四つ辻にも降るだろう。地面の血痕は見えなくなり、唐傘は重い雪を乗せてまた毀れていくだろう。思うとぞっとした。これ以上冷たくなってしまう季節に、己の身体に、分厚くなる探偵の手袋の中の体温を熱いと感じるに違いない真っ白な景色のまぼろしに。
すんなり承諾すると探偵も思っていない。衣笠は遠慮や配慮を知っている、分別のある教育を受けた少年で、自分の服装を気にしていても諦めてしまっている悲しい死者だと、判っている。差し出す衣笠の指に移った蜻蛉は、二人をつなぐ赤い糸に似て飛び立ち、探偵の肩を掠めて桜の遥か上、薄蒼い夏の終わりの空へ消えていった。
学ランを適当に畳んで片腕にかけ、探偵は衣笠を眺めた。どう言えばいいのか判断しかねて口が開けない衣笠に、今度は寒気のする狂った眼と人でなしの笑顔を向けて。
「どうせまた殺すのだ。折角なら見栄えのいい、清潔で整然とした人間を汚し、血反吐に塗れさせ苦悶させて殺すのが愉しみというものだよ。衣笠」
呆然と見上げていた衣笠が一瞬全身を強張らせてから震え上がり、三歩、四歩と下がって桜の幹に背をぶつけ、立ち竦む。喉を絞めようと伸びてきた両手に眼を見開き、赤かった顔はより火照ってうっとりと探偵を見る。街のずっと彼方、山の間へ沈んでいく太陽の色で白い顔が歓喜し期待するのを、探偵は眼を細めて見ていた。
殺しても殺しても足りないとねだる、お前の方がよほど気狂いではないのかな。
探偵は時々そう思い、そして笑う。それが愛なら大した茶番だ。
それが恋なら、一世一代の名芝居だ。
「…やっぱり、探偵さんは、ボクの姿が気に入らないですか」
「いいや。私が好きなのは服ではない、君だよ」
止まった手。宙でくいと曲がった指に視線を奪われていた衣笠へ、その手は緩められ頭を撫でる優しく温かい手に変化した。湿った髪を撫で、真っ赤になって俯いている衣笠の顔を覗いて探偵は、温厚で人情のある大人の顔を見せ、微笑む。今日のお芝居はこれぎりだ、もう夜になる。仕事の話をしなけあならない、私は忙しいんだよ。なだめるように、突き放すように、探偵は別れを告げた。
学ランを預かり四つ辻を立ち去りかける探偵へ、じっとり湿る開襟シャツの肩を震わせて衣笠は精一杯声を上げた。
「あの、次に探偵さんが来るまで、探偵さんのコォトを貸していただけませんか!」
前から思っていたんです、いいコォトだって。無理と判っている願いをあえて口にする苦しさで眼を逸らす衣笠。あんな高価な品物、着せてもらえる訳がない、そう信じて遠慮しながらずっと憧れていた。大好きな推理小説の探偵さながらに大人びたコォトで装ってみたい、残り香と体温を身に着けてみたい。引き止めようと伸ばした手を下ろし、衣笠は小さな、聞こえにくい声で済みませんと呟いた。
「…君には丈が合わないと思うね」
「ええ、いいんです…済みません、出過ぎたことでした。ボクも探偵さんのように事件を解決する気分になれるかな、なんてね…」
項垂れ、唐傘を差して顔を隠そうとする衣笠の上にまた、雨が降り出す。夜の雨は冷える、秋口の雨は冷たくて静か過ぎて、人恋しくなる。じっとここで待つのはつらい。濡れながら、約束をしたわけでもない想いびとを待ち続けるのは、切ない。そんな衣笠の胸のうちを思い、探偵はくすりと笑った。
まったく、思春期の少年だ。幽霊のくせに、死人のくせに。熱っぽい眼をしてこちらを伺う、可愛らしくも小賢しい。
「いいよ、次いつ来るか決めていないが、好きなだけ着ておきなさい。君が風邪をひいたら困るからね」
気軽に釦を外しコォトを脱ぐ探偵に、傘の下で眼を丸くする。袖を抜き、衣笠の肩に少し重いコォトをかけてやる探偵は笑っていた。ふわりと花の香りが雨に混ざり、衣笠は死んだ心臓が忙しなく動悸を打つのが聞かれそうで恥ずかしく、だが初めて着た舶来のコォトと伝わる温もりに眼を輝かせていた。
「あ、あの、本当にいいんですか」
「構わないさ。じゃあ、冬の制服を手配しておくよ。待っておいで」
濡れた素足まで温めてくれる長いコォトの釦を留め、何度も頷いて少年は四つ辻から去っていく背に手を振った。川を渡り街に戻れば彼は探偵、大好きで大嫌いな、衣笠の憎悪も思慕も受け止め受け入れる、少年がなれなかった大人の男性。
見えなくなった背広を思いながら振り向いた時、紫陽花に黒い蝙蝠傘が立てかけてあるのを見て、衣笠は独り呟く。生きた人間のように熱い頬をして。雨に冷めていく袖口を握って。
「死ぬほど好き、です」


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作者: 登場ゴースト:

雨冷地獄

小雨の降る四つ辻で、幽霊は黙って見ていた。
警官が数人、座敷牢から脱走した狐憑きの男を取り押さえる光景を。
裸足で駆けて来た明らかに正気でない男に驚いて、唐傘を広げ陰に隠れて見つめている衣笠に、焦点の合わない眼が向けられ気の触れた笑い声を浴びせられる。日の沈んだ四つ辻は暗く、夕焼けの名残が山向こうに薄れていく光を背にして、爪の伸びた無作法な手が震えながら衣笠の肩を掴もうと差し伸べられた。避ける必要が無いのを分かっていても体は恐怖に竦み、棒のように動かない足で懸命に距離を置いた。背にぶつかった桜の木の上から赤く色づいた葉がひらひらと落ちて、男はそれを追い盆踊りでもしているようにでたらめに手足を振り回した。
ゆうれいだ、ゆうれいがいるぞ。狂った哄笑の合間に呟かれた声に鳥肌を立て、両手に握った唐傘を突き出して追い払おうと焦る衣笠に、男は涎を垂らして罵る口調で喚いたのだ。しんだものはじごくへいけ。その声を合図にして降り出した雨は冷たく、秋の気温を更に冷まして衣笠の髪を濡らした。
数分対峙している内に走り寄って来た警官達が暴れる男を押さえ、引きずっていくまでを黙って見ていた。声を出そうにも喉は緊張で渇き切り、震える指を一本ずつ剥がして唐傘を離した途端力が抜けて、徐々に強くなる雨で湿った路上にへたり込んでしまった。
夕刻が過ぎ宵闇の降りてくる刻限、烏が鳴きながら帰っていった後の空は雨雲に覆われじっとりと重く、暗くなっていく。大気に混ざる水気が多くなるのが冷えた衣笠の指に感じられた。細かい雨は、雲が分厚くなるにつれ大粒の、激しいものに移り変わっていく。幽霊の体でも感じ取れる冷え込みに、素足の衣笠は身震いして俯いた。
今夜は来ないのだろうか。毎晩思うたった一つの未練を噛み直す。毎日、時間を失った身でこの場所に来てくれるのを待ち侘びるだけしか出来ない。今日は明日に続かず、同じ今日を繰り返すだけの衣笠は、いつまでたっても彼の人を思う気持ちが終わらない。
しかし、酷い有様だったと思い返す。四つ辻の両脇に立ち並ぶ紫陽花の立ち枯れた花を鷲掴み、千切り取って振り回しながら、男は喚き続けた。ちかよるな、ゆうれいをたいじするのだ。じごくにおとすのだ。数人がかりで押さえ付けられのたうち回った四つ辻の真ん中には、砂をかき混ぜた跡が付いている。一月前、久方ぶりにそこに流れた血も砂埃に混ぜられてしまい、衣笠の眼には既に映らなかった。
そう、一月前、探偵を生業とする男がやって来たのだ。新調したナイフの切れ味を試したいと嗤いながら、衣笠の喉を裂き血飛沫に両手を染めて頚を捻り、満足して去っていったのだ。
それ以来現れない探偵の力強く大きな手が触れた頚にそっと触れて、衣笠は雨に濡れながら薄く笑った。散らばった紫陽花の残骸が、路上に置いた指先に触れる。雨水に浸り枯れてしまった花はぐにゃりと軟く、腐った皮膚のようで気持ち悪かった。
顔を上げ、真っ暗になった並木の上空を見て衣笠はいよいよはっきりと笑顔になった。包帯をじくじくと濡らす雨の下、来ないひとを待つ幽霊は、残った左眼を川沿いに咲く彼岸花のいろに輝かせて笑った。指が曲がり、転がっていた唐傘を掴むと白く骨めいて食い込まんばかりに握り締めた。
きっと待ち人は、今までの残忍な犯行を誰かに見咎められたのだ。警察に通報され、自宅を改められて、証拠に十分な血の付いた衣服、刃物、紐、犠牲者の一部を書斎の引き出しに発見され、今は牢獄に送られているのだ。そうに違いない。この夜が明ければ一月と一日,自分の元にやって来ないさみしさともどかしさ。募る思いは心配する少年のこころを、絶望と断絶に導いた。
怯えていた先ほどまでの表情とはうって変わって、衣笠の笑顔は一種邪悪ですらあった。口元を歪め、火のように燃える目を闇の向こうへ向けて、唐傘を握った指は悔しげに爪を立てた。そうだ、彼はもう来ない。いくら待ってもきやしない。いつまでもどこまでも一緒だ、着いていくと呪った自分を置き去りに。衣笠が行けなかった地獄へ、先に逝ってしまうのだ。
「…人でなし」
探偵の人となりを知る衣笠は空想する。同行を求められて彼は唯々諾々と従ったろうか。あの温かい手に手錠が掛かるのを、呆然と見ていただろうか。そのまま獄へ向かい、濁った空気と明かりの下で罪を悔いているのだろうか。否。
きっとあの男は悪あがきをしたに相違ない。抵抗し、何ならピストルを持ち出して争っただろう。何人も殺した人物だ、これ以上の罪悪を重ねるに遺恨はあるまい。あの冷静沈着で理性的で、判断力があり聡明な探偵のことだ。偽の証人を雇い、裁判官に対し嘘八百を並べてこの世に立ち戻るに決まっている。決まっているのだ。
そして、切れ味を確かめたあの大きなナイフで、もう一度、二度三度と己の喉を、胸を切り裂いて高笑いし、浴びた血の生臭ささえよく似合う冷笑を浮かべて、四つ辻に伏した自分を踏みにじり、蹴り付けては苦痛に喘ぐ声を愉しむに決まっているのだ。そうでなければ。
衣笠が心を痛め、泣き叫ぶのを悦楽として。この四つ辻に戻ってきてくれなければ。我が身の疼きに、己の思慕の浅ましさに戦慄し、震えながらも衣笠は笑った。彼が死刑台に立ったら横に寄り添おう。命乞いをする探偵を嘲笑い、縄を頚に掛ける手伝いをしてやろう。地獄へ一人で逝かせるものか。どんな顔で閻魔の前に引き出されるか、しかと見てやる。自分を殺したあの手が切り落とされる時の絶叫たるや、耳鳴りになって鼓膜から離れないだろう。
苦しんだ、痛かった、熱かった。あの人も味わえばいい。衣笠はすっかり濡れた開襟シャツから滴る雨の冷たさを感じないほど震えた。探偵さんに言ってやりたい、ひとごろしがいるぞ、じごくへおとすのだと。
「こんな雨でも君は待っているのだね」
突然掛けられた声に驚き、衣笠は振り返った。黒い蝙蝠傘を差しコートを着た探偵が、白い息を吐いて佇んでいた。
「探偵さん、捕まったと思っていました。今頃取調べで酷い目に遭っているのだろうと期待して眠れないから待っているんです」
座り込んだ位置から見上げた探偵の顔は平坦な無表情で、衣笠がコートの裾を掴みにたりと笑っても眉一つ動かさない。ざあざあと勢いよく降る雨に濡れた厚手のコートを握り締め、水溜りに沈んでいた唐傘を持ち上げて差す衣笠の顔は、見下ろしている探偵からは見えない。
「生憎、私は平穏無事だ」
「ボクは待っていたんです。探偵さんに言いたいことがあって。死んでも終わらないことってあるんですよ」
俯いた衣笠の前髪からぽたぽたと水滴が落ち、学生服の膝に吸われていく。どんなに呪っても怨んでも足りない。そうやって呆れた溜息をついて、気にしたふりを装って屈み顔を覗こうとする彼。こちらを向かせようと顎に触れた手は温かく、血の流れている音が聴こえてきそうな恨めしい手だった。
静かに顔を上げ、稲荷の狐のように眼を細め口角を上げて笑う衣笠に、探偵はポケットから出したハンカチを差し出した。
「地獄に堕ちるならボクも逝きますから置いていかないで下さい。探偵さんはあの世でもボクの恨み言を聞かなきゃいけないんです。当然の報いですよねぇ?殺したんですから」
「…風邪をひくかどうかは知らないが、傷口が開くから雨宿りをしなさい。そんな事で君が、私の知らないところで苦しんだら勿体無いからな」
気味悪く笑う衣笠の顎から喉へ、探偵の手は滑った。ぱくりと石榴のように割れた傷口を温かい指で触れ、短く切り揃えた爪を差し込んで絞め上げる手。
「死にませんよ、そんな事をしても。幽霊を殺せると思ってるんですかぁ?」
嘲笑し、仰け反った衣笠の右眼を覆う包帯を雨が打つ。焼け落ちた皮膚が腐り、乾涸びた眼球が残る眼窩に雨が流れ込む。その冷たさに、衣笠は背筋をぞくりと総毛立てた。どす黒く腐った血液がぐじゃぐじゃの皮膚から滲み出して包帯を汚す。
「そうか、じゃあ、何をしてもどうせ怨まれるのだし、もっと愉しもうか」
ひきつった笑いを浮かべたまま頚を絞められている衣笠の左眼に、鋭い切っ先が向けられた。研いできたのか、血糊の跡のない刃物を目蓋に当てて探偵は、こちらもいやらしく笑った。
「残った眼を抉ってやろう。何も見えなくなる。憎む私も見えなくなるよ、愉しいだろう」
押し付けた刃が目蓋を浅く切り、一筋赤い血が白い顔に流れて眼に入った。衣笠は視界を閉ざされたのに笑みを消し、眼を擦ろうと手を上げる。
「擦っちゃ駄目だ。じっとしてなさい、奇麗にくり抜いてやる」
「え、待ってくだ、げほっ」
反論しようとして気が付く。喉を絞め上げられているのだった。声が出せず、まず息が継げない。上げた手で探偵の手首を掴み引き離そうとするが、弱い力に彼は笑うだけだ。
「苦しいかい。頭がぼうっとして来るだろう。意識が飛びそうだね。そのまま死んでしまうかも知れない」
「たんて、さ、はなし」
もがく衣笠に体重を掛け喉を絞める探偵は、ナイフの刃を左の目蓋に押し当てて少年の動きを止めさせた。残りの片目を失えば衣笠はどうしようもない。嫌がって唐傘を振り回そうとした腕が途中で止まり、がたがたと揺れた。
さっきの気狂いのようだ。自分が正しいと信じているのに、絶対的な力には敵わず圧倒されて従うしかない。せめて声が出せたら、自分もあの男のように声を限りに探偵を罵れたら。そんな事をしたって誰にも聞いてもらえないと分かっていても、叫びたかった。地獄へ堕としてやる、一緒に堕ちてやる、何があってもあなたを。
少年が身動きを止め震えながら泣き出したのを見て、探偵は手の力を緩めナイフを離した。
「…正気に戻ったかい」
「探偵、さん…」
咳き込み酸素を吸う衣笠の背を撫でてやり、蝙蝠傘で頭上を守ってやる探偵は微笑んでいた。開いた傷口から流れ出す血は開襟シャツを染め、衣笠は真っ赤に汚れていた。
「殺す、気ですかっ」
「幽霊を殺しても捕まらないからね」
しゃがんで視線を合わせてくる探偵が機嫌よく笑っているのに照れて俯く衣笠。待っても来ないから拗ねてしまったときっとばれてしまっている。再び差し出されたハンカチを受け取って目蓋を押さえると、切り傷はずきりと痛んだ。顔を歪める衣笠に、探偵は傘を差してやりどうしたと問い掛ける。
「殺されるのは、知ってます…あなたにだったらもう、いいんです」
「地獄では人殺しが出来ないからね、生きている今の内に存分に愉しむんだ。衣笠は着いて来るんだろう、どこまでも。殺されても」
確かめなくとも周知の事を言わせようとする探偵に、衣笠は泣いて赤く腫れた眼を向け大人しく頷いた。
降り続く雨の中、彼の体温と香りが伝わるのが嬉しくてもっと寒くなれと願った。
地獄の業火に焼かれる時がいつか来る、それまでは彼の温もりを感じるために雨に濡れて待っていようと決めた。


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作者: 登場ゴースト:

秋嵐

今夜も降り続く秋の雨に冷えた肩が震えて揺れた。
川の流れが増水し、普段より濁った水がとうとうと流れる音が四つ辻まで聞こえて来る。台風の時期なのだと強い風に眼を細め、横殴りに打ちつけてくる雨を遮ろうと唐傘を斜めに持って立つ衣笠の周囲は、住宅街の庭から漂ってくる金木犀の香りでいっぱいだった。
甘く濃い香りを嗅いでつい彼の人の香水を思い出し、一人赤面する夜更け。虫の声が徐々に細くなっていく冷えた夜が数日過ぎ、いよいよ頭上の桜の葉が赤や黄色に染まり始めて明け方吐く息が白い。素足が雨で濡れてしまうのにはいつまでも慣れる事が出来ず、冷えて青くなった自分の爪先を見つめて風によろめく。
こんな風雨の強い夜に彼は来ないだろう。そう思っていても会いたくて待つしか出来ない。金木犀の香りが湿った大気に満ちていて立っているだけで横に探偵が居るような気分になれるから、今度は温かい手が待ち遠しくて待ってしまう。
台風が近付いているのだと風や気圧で感じられた。唐傘は強風を受けて衣笠の腕から飛んで行きそうに引っ張られる。油紙が破けた唐傘を差していてもこの風ではどうにもならず、衣笠は羽織っていた学ランを伸ばして袖を通した。
生きていて学校へ通っていたなら、そろそろ衣替えの季節だ。川向こうの商店が並ぶ通りのまた向こう、街の中にかつて通っていた学校がある。生徒たちが商店街に出るのは祭りの縁日の時ぐらい、毎日家から学校へ通うだけの道を、友達とお喋りし楽しく歩いて行く。おもちゃの飛行機を持って来た友達がいて、交代で飛ばしては飛行機が着地したところへ駆けて行って繰り返していたっけ。思うように遠くまで飛ばないのに苛立った衣笠が蹴飛ばしたせいで翼が折れた飛行機を、半べそかきながら拾って持って帰った友達。謝りたかったけどその時は街外れの空き地に走って行って草野球をするのに夢中で、結局何も謝れなかった。
頬を濡らす雨に衣笠は眉を下げ、じっと下駄の先を見つめる。もう飛行機も触れない、友達にも会えない。日が暮れるまでボールを追い掛けて、暗くなった帰り道で年上の綺麗な女性を通りすがりに盗み見ることもない。淋しい、過去の思い出が消えていかない。
あのお姉さんはその後、この四つ辻で発見されたと聞いた。無残な死体になった彼女のことを好きだったわけじゃない。暮れていく夕日の赤い光に照らされた白い横顔がひどく強く見えて、眼が離せなかった。淡い恋情。誰にも知られぬまま手紙を書いては破り捨てて寝転がった畳の感触を、まだ忘れられない。
思い出に耽る衣笠をよそに風が強くなり、打ち付ける雨は痛いほどになっていく。顔を上げて見上げると夜空は鉛色の雲で重く、次々に新しい雲が湧いては風に流され膨らんでいく。せめて街灯でもあればと思うが、夜は人通りの絶える四つ辻は真っ暗で、水溜りが底なし沼みたいに深く黒い口を開けていた。
並木を傾けて突風が吹き、衣笠は桜の幹に手を付いて支えたが冷えた両脚が震えてふらついた。唐傘が折れないよう両手で握った拍子に細い体がふらふらと揺れ、また吹いた風についに負けて尻餅をつく。
水溜りの濁った泥水を跳ね上げて座り込んだ衣笠を、雨は容赦なく水浸しにして冷やした。泥に浸かってしまったズボンが気持ち悪い。慌てて立ち上がり木陰に入った衣笠は、泣きっ面で濡れた足元を見て溜息をつく。学生帽は飛ばされるので桜の枝にくくりつけておいたが、旗のように暴れ狂っていた。
金木犀の香りは荒れ狂う風に乗って辺り一面花が咲いたよう。これでは彼の香りが分からなくなる。初めて雨が怖いと思い、握った唐傘が破れそうな風に仕方なく閉じて桜によりかかる。もういくら濡れても同じだ、速く嵐が去って欲しいとそれだけ願って眼を閉じる。
川の音がすぐそこで流れているかのように大きい。並木の葉が風にもまれてちぎれていくのが、衣笠の頬を叩いていく。
こんな日ぐらい屋根の下にいたい、暖かい明かりの下で金平糖を齧りながら過ごしたい。嫌いな勉強だってする、一度も開かなかった参考書を読むし、宿題も真面目にする。するから、燃えて無くなった家を返して。遅くまで明かりをつけて手紙を書いていると様子を見に来る家族を返して。ボクを、返して。壊れた飛行機のこと謝らなきゃいけないんだ。
泣きたくなって衣笠は歯を食い縛った。男の子が泣くなって言ってくれたあのお姉さんは、大好きな探偵さんに殺されてしまったのです。
叫び出したいような、けれど叫ぶべき言葉は持たず。桜の幹にしがみつき顔を腕で隠してすすり泣く衣笠を、冷たく激しい雨は凍えさせた。
花の香りがする嵐の中、呼びたくても探偵の名を知らないことが悲しく、もの狂おしい。
強風が吹きすさぶ四つ辻で一人きり、寒くて手足の指が痛む。惨めな気持ちで泣いている冷え切った肩にふいに触れた温もりに驚き、衣笠の眼が開いた。
「え、わっ」
「まったく、幽霊なんだから生きた人間の手をわずらわせないでくれたまえよ」
彼だ。ふうわりと香る金木犀ではない花の香りが、急いで駆けて来た体温と相俟って肩を包むコートのケープから感じられた。分厚いコートは濡れてしまっていたが、衣笠を風から守るコートの中は甘い香りがしていて温かく、衣笠の眼から大粒の涙が溢れ出す。
「ここから離れられないのは分かるが、せめて祠に入っていたらどうかな」
「む、無理です!あんな怖いところ行きたくないです!」
からかう探偵に反論する衣笠の声は上ずっていて、顔を覗き込むと見ないで欲しいと俯く。泣いていたなんて知られたくないという意地はある、でもじんわりと濡れた体に染み入ってくる体温が嬉しくてまた泣いてしまう。
「どうして泣いているんだい」
「泣いてません!それより、探偵さん、濡れちゃいますから」
シャツが張り付いた体を気にしてコートの中から抜け出そうとしたが、力強い腕が捕まえて放してくれない。仕方ないなと呟いて抱きすくめている探偵を見上げ、衣笠はおずおずと訊いた。
「あの、台風の夜に、わざわざ来てくれたんですか」
ごうごうと風の音が響く夜、すぐ傍に人の体温と息遣いがあるのが恥ずかしくて嬉しく、真っ白になっていた顔が薄っすら赤い。優しい眼を向けて探偵は、衣笠のずぶ濡れの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「こんな天気でも待ってるんじゃないかって気がしたんだよ。君は愚かだから」
はっきり言われると安心出来た。愚かで浅はかな思春期の少年は頷いて探偵の腕を握ってみる。
愚かに違いない。憎むべき男を恋してその温もりを求める自分は、どうしたって愚かなのだろう。それでいい。彼にだけは後悔を残さぬように、言いたいことは伝えてしまいたい。いつか胸の内の嵐が止む時彼に言い残したことが無いように。
「明日になれば晴れるよ。焼き芋でも持って来てやろうか」
「えっ、食べたいです、いいんですか!」
「はは、子供だな」
探偵のシャツもじわりと濡れていくのが分かり、衣笠は躊躇ったが正直に彼に寄り添った。
最初で最後の恋だけは、思い残すことが無いようにと。


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作者: 登場ゴースト:

目を閉じて手を伸ばして、目を開けて手を伸ばして

 屋上の縁を取り巻いている古びたフェンスに外向きに身をあずけて、その網目の間から眼下のたそがれの景色と、その彼方に広がるほの暗い空とをなんとなしに眺めていた。ちょっと前まで遠く近くあちこちから聞こえていた、誰かのおしゃべりや笑い声や息の合ったかけ声や楽器の練習の音もそろそろまばらになって、市街地からの通奏低音のように間断のない渾然とした喧噪や生活音ばかりが、にわかに際立ってくる。
市民薄明から航海薄明へと移りゆく時間のなかで、あらゆるものの色と輪廓がゆっくりと曖昧になっていく。日中は鏡のように澄み渡っていた秋晴れの空もいよいよ宵の色を深めて、南西のやや低空に架かるチェシャ猫無しのにやにや笑いのような上弦前の細身の月と、そのそばの鋭い金星の輝きとをいっそう目立たせる。まこと、秋の日は釣瓶落とし。
昼でも夜でもないあわいのひとときの、凪いだ空気の心地よさに身をひたしながら、ふと左手首の腕時計に目を落としてみる。17時45分過ぎ。
軽く伸びをしてフェンスのそばを離れてから体ごと後ろを振り向くと、屋上の空間のほぼ中央にまるで場違いのように設えられた朝礼台の上の、ビクセンのぴかぴかの望遠鏡が目に入る。その向こう側に立って、長い髪を片手で掻き上げて耳の後ろへ払うようにしながらレンズを覗いて調整している、わたしと同じセーラー服姿に声をかけた。
「先輩、きょうの月齢はいくつでしたっけ」
 いくつでしたっけもなにも月のありさまはたったいま自分の目で確認したばかりなのだけど、こう切り出すのがいつのころかからの奇妙な、符丁みたいな、お決まりのやりとり。
「いまの時点で4.3よ。満ち始めの月ね――さてと、できたわ。おいでなさい」
 望遠鏡から顔を上げた先輩が台の上から柔らかく手招きする。
「おお、ついに念願の新しい望遠鏡が始動ですねっ。今夜はシンチレーションもそこまで悪くなさそうですし、その子の性能確認も兼ねて、いい観望日和ですねっ」
 駆け寄って、朝礼台の段をタンタンと上りながら。
「ええ、せっかくだからとりあえず水星を導入してみたの。ごらんなさいな。といっても、もう間もなく沈んでしまうでしょうけれど」
「あ、たしか、きょうあたりがちょうど東方最大離角でしたよねっ」
 ひとまず目を凝らして遠い空際線のあたりを台の上から見やり、肉眼でそれらしいものを探りつつも、先輩に譲られた場におもむろに立って、水平にほど近い仰角で据えられた鏡筒の片側を覗きこむ。
「どれどれ……おー、みえるみえるっ」
 円い視野には黄色みがかって輪廓のおぼろな半円形が捉えられている。かのコペルニクスをして「見たいと思ったときになかなか見ることができなかった」と言わしめた、太陽に近いがゆえに引っ込み思案な、あえかな内惑星の姿。
「もうすこし早い時間から来られたなら、もっときれいに見られたでしょうけれどね」
「いえいえ、いままでのおもちゃみたいな望遠鏡モドキじゃ、こうですらいきませんでしたからね。部長に感謝ですっ」
 レンズから目を離して、お手並みを拝見したばかりの真新しい道具の表面をぽんぽんと軽く触れて愛でたりしながら。
「そうね、以前のは無限遠でのピント合わせもまともにできなかったものね。なんだかガタついていたし」
 台から降りて、丈の短いオリーヴ色のコートに袖を通しながら先輩が言う。あ、たしかにそろそろちょっと肌寒い。
「それにしても、よく急に予算が下りましたよねぇ。同じようなのをカタログで見ましたけど、けっこうなお値段でしょうこれ」
「部長がいろいろと立ち廻って、そのあたりはずいぶんとがんばってくれたみたいよ」
「へぇぇそうなんですか。そういえば部長はきょうもいらっしゃらないんですか?」
 先輩の後を追うように、わたしも下ろしたてのダッフルコートを荷物から取り出して羽織った。柔らかな重みがあたたかい。
「ええ……考古学博物館で自由参加のワークショップがあるから行ってくるのですって――楔形文字だとかの。屋上の鍵をわたしに託して、足早に飛び出して行ったわ」
「考古学博物館……って、X市ですよねぇ。いまからあそこまでですかっ。なんか、あいかわらずフットワークが軽いというか、好奇心に一途でいらっしゃるというか」
 とりとめのない話を続けているうちに空は天文薄明を湛えて、見廻せば星たちがいよいよその姿を露わにしはじめていた。北西の空に低く撓垂れる、いつも変わらず壮美な北斗七星。そこからたどって北極星。天の高みに夏の大三角。東には厳かにましますペガスス座の四辺形。天球のめぐりに乗って、月はいま握りこぶしふたつぶんの高さに傾いている。
「あ、ねぇ先輩、今のうちにあの新しい子で月の表面を見てみましょうよ。さぞかしきれいに見えるんじゃないですかねっ」
 そうやって、雑談タイムなんだか観望会なんだか、どっちつかずの時間がきょうも流れていく。夜の深まりを待つあいだのひととき。すみれ色の空で入りなずむ月の姿。そして、先輩の持つ独特の安らいだ雰囲気――この時間、この場にはいつも、ことばに表しがたい謐けさのようなものが横たわっている。望遠鏡の台のもとへと歩を進めるおしとやかなコート姿を見つめつつ、毎度ながらにそう思ったりする。

――――
「あ、そうそう、月っていえばですねっ」
 幾度めかのおしゃべりの一段落ののち、ふいに思い出したことを口にしてみる。
「きょう図書室に行ってたときに、こんな本が来てくれましたっ」
 鞄をまさぐって、話題に上げたものを取り出して先輩に示す。とはいえ、もうお互いの手元のものが判然とするような明るさじゃないのだけど。
「えっと、『もしも月がなかったら』ってタイトルですっ」
 暗いからといってもせっかく星空に順応してきた目を明るい光でふいにしたくはないから、先輩も明りをわざわざ取り出すようなことはせずにそのままお話を継ぐ。
「それは趣深そうな本ね。わたしもぜひ読んでみたいわ。来てくれた……というと、このあいだあなたが考案したといって話してくれた、あの方法で選んだのね?」
「そう、適当な本棚の前で目をつぶって、適当な場所に手を伸ばして何も考えずに一冊抜き取るっていう、あれですっ。……あ、でもこれ、何度かやってみて思ったんですけどぉ、適当な本棚の前にまず行く、という時点でどうしても作為的になっちゃうんですよねぇ……。もっとこう、ありとあらゆる種類の中から完全にランダムに本を選ぶ方法って無いのかなぁ」
「そうね……。ん……たとえば、ほら、本のひとつひとつに振られている管理番号みたいなものがあるじゃない、ええと」
「あ、ISBNですねっ。国際標準図書番号」
「……ええ、それ。それを使ってなにか、うまいことできないものかしら。さいころ……10面ダイスを何回か転がして出た数字で……とか」
 軽く丸めた左手の掌をひらひらさせて、さいころを振るジェスチャーをする先輩。つられてこちらも同じ動作を返しながら、考えを巡らせてみる。
「うーん、でもISBNのたとえば先頭のほうは出版者コードというものである程度ありうる数字が決まってくるし、なかなか思うようには番号がヒットしてくれないかも……。あ、でも、なにかそこのところを、仕組みを作って工夫すれば……」
 そうだ、たとえば出版者コードの部分はあらかじめ一覧を用意しておけば……。それから、書名コードの部分はベンフォードの法則を踏まえて、数字の出現のしかたに桁ごとにしかるべく偏りをつければ……うまくいくかも? 先輩の一言をきっかけに、着想が軽快に連鎖する。
「それ、いいアイディアですよ先輩っ。いただいちゃいますっ」
「そういえば、わたしもきょうは、あなたのやりかたで本を選んでみたのよ。それで手に取ったのが『無限論の教室』という本だったわ」
「おお、それってもしかして、講談社現代新書の棚からのチョイスですねっ。タイトルだけはなんか見覚えがありますっ。あのへんの新書っていいですよねぇ。歴史関係とか精神医学とか言語学とか、いろんなジャンルがいい感じに混ざってて背表紙の並びを目で追うだけでぞくぞくしますよねっ。あ、でも講談社現代新書は、デザインは昔の黄色いカヴァーだった頃のほうがわたしは好みだなぁ、なんて。……あ、それで先輩、その本ってどんな内容です?」
 あてどのない会話の場が夜の気配にひたされていく。時は緩やかに流れて、天象の運行は静かに進む。もはや日没の余光よりも星明りの照度がまさり、星を見上げるものたちのための時間がやってきている。
「――あら」
 ふいに先輩が声を漏らして、そっと南東の空45度ほどの高さを指さした。その先を追うと――みずがめ座のあたり――金星の輝きを凌ぐマイナス数等ほどの明るさの光点が出し抜けに空に現れている。と思うや、それは等速でわずかな距離を滑り、数秒と待たずに闇に溶けこむようにして消失した。
「あっ、今のって――」
 UFOだ!とか、ひとによっては早合点するかもしれないけど、あれはきっとそうじゃない。
「イリジウム・フレア……」
「――ですねっ、たぶん。あとで天文シミュレーターで追認してみましょっ。観測時刻は……18時48分10秒くらい、っと」
 人工衛星のパネルやなにかがたまたま太陽光を反射して、地上の一部の領域を照らすことがある。その照らされた地上からは、条件さえ揃えばそれが空に一刹那きらめく閃光に見える。これを人工衛星フレアといって、なかでもイリジウム衛星のそれが顕著なのだ。イリジウム衛星は何十機と天を周回しているから現象自体は決して珍しくないのだけど、持続時間が短いし観測地点が少し異なるだけで見える見えないが変わってくるから、狙わずに目撃するのはちょっと難しい。
 先輩は……日常のなかの小さな変化や、ささやかな動きにほんとうに目ざといのだ。草木の芽吹きとか、季節の移ろいの兆しとか、誰かが置き忘れていった、きのうまではそこになかったものとか。日々のなにげないものの中にこそ、見過ごしてしまいそうなものごとにこそ、たくさんの驚きが潜んでいる――と、無言のうちにそう教えられる。

――降るような星空が、今や見渡すかぎりの天蓋となって頭上にある。望遠鏡を載せた朝礼台に先輩と並んでもたれてそれを仰ぎながら、思わずその、決して届かない輝きのさなかに広げた手を延べてみる。アルタイル17光年。ヴェガ25光年。デネブ1400光年。ひとつひとつ、みなちがった遠さの、ちがった過去から旅してきた光……。
  〝 ああ、なんとすべてが遠く
    そして遥か昔に過ぎ去ってしまっていることだろう 〟
――と、詩人リルケは星たちの光を見てそんなふうに嘆いたけれど、わたしはこうして夜ごと目にしているものの量りしれなさに、ただ心をとらわれるのだ。互いにまったく異なる世界から放たれた無数のものが、この視界をいっぱいに満たしている。ときには人工のきらめきさえ、さっきのようにしれっとそこに加わったりもする。突飛な譬えをするなら、それぞれちがった世界観を背負った人物たちがひとつの画面に寄り集まって、思い思いに発話しているような……なんだかふと、そんな夢想が脳裏を去来してみたり。
傍らを見れば、同じように片手を空に向ける先輩のシルエットが星空を切り取っていた。思わず、どちらからともなく笑い交わす。手を伸ばすことで、先輩はなにに思いを馳せているだろうか。
――居並ぶ本棚の前で目を閉じて手を伸ばせば、思いも寄らない知識への案内人がその手を取ってくれる。そして、こうして目を開いて天の高みに手を伸ばせば、あらゆる遙かなるものへの憧れに心を遊ばせられる。
手を伸ばして求めつづけるかぎり、知識も出会いも憧れも、どこまでも目の前に開かれている。満天の星々の下、やわらかく心地よく、少しだけ肌寒い高揚感に包まれながら、今はただ無性にそう信じていたいのだ。

 ふと、視野の端で先輩の流れるような髪が揺れる。その姿はかそけく暗みに溶けて、『平行植物』に出てくるゆめまぼろしのような花卉を思わせた。
「今夜もまた、思い出深いものになりそうね。すてきなひとときを――」



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 * 作中に引用した詩の一節は、高安国世/訳『リルケ詩集』(岩波文庫) による。


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作者: 登場ゴースト:

散歩してたらブルブル震えるピンク色の物体拾った

 ルストリカは小道を歩いていた。
「今日はとってもいいお天気です、ユーザさん。あ、ハトが鳴いています」
 ルストリカが宙に語りかける。
「????」
 どこからともなく声が返ってきた。宝玉を介して繋がっている、どこか遠い世界の人。ルストリカにとっては、友人のような、家族のような、不思議で特別な存在だ。
 今は散歩の最中なので声しか聞くことはできないけれど、独りで歩く道に比べて足取りは自然と軽くなった。
「あれは……?」
 果樹園の脇を通り抜け、ライ麦畑に差し掛かろうとしたとき、ルストリカはどぎつい色の何かがライラックの木の陰に隠れるように落ちているのに気が付いた。
「ユーザさん、何か見つけ??ひゃあ!」
「????!?」
「だ、大丈夫です。ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけです」
 ルストリカは思わずひっくり返ってしまった声を落ち着かせるように咳払いをすると、ピンク色の物体を手に取った。
「急に動いたから生き物かと思ったけど違いますね。木でも陶器でもないし、うーん……。軽いのに硬くて……これ、何だろう」
 掌の上で振動する物体を前にして、ルストリカは首を傾げた。
「?????」
「ええ、動くんですよ。……思わず持ち上げちゃったけど、これ、魔法がかかってるのかな。不注意でした。大丈夫、みたいですね。ただ、ぶるぶる震えてるだけだし」
 しかしどうしたものかとルストリカは思案した。散歩に出て拾ったものは持ち帰ることにしているのだが、魔法の道具となると迂闊に扱うと危ないかもしれない。
「……????」
「え? あ、よく分かりましたね。何だか片方が膨らんでいて??」
「????!」
「わっ!」
 滅多にない強い語気に、ルストリカは思わず手からそれを取り落としてしまった。謎の物体は地面に落ちて、柔らかな土に窪みを作った。
「びっくりしました……。ユーザさん、捨てろって言いましたけど、これが何か知ってるんですか?」
「????」
「外じゃ駄目って、何だろう……。分かりました、じゃあ帰ったら教えてくださいね」
 ルストリカたちの声が遠ざかっていく。
 後に残されたピンク色の物体は、ぶるぶる震え続けている。
 どこからやってきたのか、本当はこれが何の目的で作られたものなのかは分からない。
 家に帰ったルストリカが恥ずかしさのあまり通信を切ってしまうことになるユーザの説明が正しかったのかも、誰にも分からない。


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作者: 登場ゴースト:

ボロボロのラビットノート

5がつ 19にち
よう、おれは…。
おれは…あ まだ なまえないんだった
いつか カッコイイなまえかんがえよう

おれは うさぎだ
ぶりて…なんとかってうさぎらしい
にんげんのまちで ひとりでいきてるんだぞ
じりつしてるってやつだ すごいだろ
うさぎだけど さみしくても しなないんだぞ

さいきん いいすみか みつけたんだ
どかんで あめにぬれないし くさもいっぱいはえてる
あと にんげんのつかうノートがおちてた
だから にっきつけることにしたんだ
なんて ゆうしゅうなうさぎだ


5がつ 22にち
なんだか おれのどかんをのぞくやつがいる
にんげんだ メスのにんげんだ
いいだろ おれのいえ
でもゆずってやらないぞ みつめたってむだだ

え たべものくれるのか なんでだ
よくわからないけど いいな このあまいの
さわってもいいかって?
しかたないな ぎぶ なんとか ていく だ
なでさせてやってもいいぞ


5がつ 27にち
あいたた… きょうはゆだんした…
カラスのやつ おれをねらってきやがって
でもおもいしったか おれのパンチはいたいんだぞ
とうぶんは こないだろ

それにしても ちょっとからだがいたいな
ひさびさに やばいかも

あ にんげんのメスだ
どうした そんなにおどろかなくてもいいだろ
そんなになかなくてもいいだろ
ちぐらい だれでもでるだろ
じゃくにくきょうしょくだ やられたほうが わるいんだぞ
じゃくにくきょうしょくは さいきんおぼえた


5がつ 28にち
きがついたら にんげんのメスのいえにいた
ほうたいってのを いっぱいまかれてる
にんげんは ケガをなおすとき こうするらしい

にんげんのメスは しおりっていうらしい
じゃあこんどからは しおりってよぶぞ
ありがとうな しおり

え ここにいてほしいのか なんでだ
へんなこというな しおりは
しかたないな ここにいてやる
しおりは ひょろひょろして よわそうだからな
おれが まもってやる

ケガが なおるまでだぞ?


6がつ 6にち
おれはルイス。うさぎのルイスだ。
しおりからなまえもらったんだ。
すげーかっこいいだろ。すげーつよいやつとおなじなまえらしい。
あとことばのうしろに。←これをつけるのもおしえてもらった。
このままでは。はかせになりそうないきおいだ。
こまったな。おれはムキムキがいいのに。

それはそうと。にんげんのねどこってやわらかいな。
すごいふかふかだ。のがれられない。
だからときどき。しおりがだいじょうぶかみてやるんだ。
けっして。しおりといっしょにねたいわけじゃないぞ。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


5月28日
今日でおれがこの家に来てちょうど一年らしい。
昔の日記みたら、ひらがなばっかりで読みにくいなあ。
われながらちょっと恥かしい。
しおりのナイトとしてもっとりっぱにならなきゃ。
ナイトはずっと姫と姫の家族を守るんだ。

で、でも、もししおりがナイトじゃなく王子様になってって言ったら…。
考えをあらためてもいい。

何かいてんだおれ。


8月5日
夏休みってのはいいな。
おれは学校ってのにいってないけど、そう思う。
だってしおりと毎日いっぱい遊べるんだぞ?
そもそも学校なんて無ければいいのにな。つかれるんだろ?

…と、言ったらしおりはそんな事無いよって言った。
たくさん勉強してお医者さんになりたいんだってさ。
しおりはすごいな。

お医者さんになったらやっぱりちゅうしゃするのかな…。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


10月8日
来年はいよいよ詩織が受験の年だ。
勝負時なのはわかるけど、ちょっと根つめすぎな気がするぞ?
正直見てて辛そう。
何か俺にできる事はないかな…。

そうだ、お茶を淹れるってのはどうだろ?
疲れた時にはやっぱりお茶と甘いものだと思う。
詩織はお菓子大好きだし。
詩織の母さんにでも作り方を教わってみよう。
喜んでくれるといいけど…。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


11月2日
今日も詩織は大学、俺はアパートで掃除洗濯。
…最近思うんだが俺ってペットって言うより家政婦じゃない?
まあどっちでもいいか、詩織のためならば俺は何にでもなろう。
家政婦だろうとメイドだろうと不良高校生だろうと!
…もちろん夫でもなってやろ
…何書いてるんだ俺は、ガキの頃から進歩してないじゃないか。
俺はウサギで詩織は人間なんだ。
いい加減理解しろ、ルイス。
お前は詩織の恋愛対象に入ってないんだ。
解ってるだろ?


6月1日
……ついにこの日がやってきた。
少し前から恋人が出来たとは聞いていたが…。

こいつか、この家の玄関に立つこいつが彼氏なのか!
なんだその無駄に鋭い目つきは!猫か!
筋肉も全然少ないじゃないか!そんなので詩織を守れるのか!
おお睨み合いか!?受けて立つ!

詩織には悪いがこいつとは仲良くやれそうに無い!
折角の夕食も不味くなりそうだ!

…………。
…おっと、こんな軟弱男に構っている場合じゃない。
今日は見逃せない野球中継があるのだ。
……何故お前も見ているのだ軟弱男。
まさかお前もこのチームのファンか?
お前には100年早い!

………っつしゃああーーー!打った!よく打った!
これで逆転だ!やはりこの選手は持ってる!
わかる?お前もわかるか軟弱男!
お前思ってたよりいい奴じゃないか!
軟弱男は失礼だな、えーっと、天魔君か、凄い名だな!

…ふう、いかんいかん、頭に血が上っていたようだ。
詩織が初めての恋をしたのだ、喜んでやらなくては。
…やっぱり筋肉はもうちょいつけた方が良いと思うがね!天魔君!


(破損によりしばらく読めなくなっている)


12月4日
……詩織、お前はついに嫁にいってしまうのだな。
…綺麗だぞ、お前のドレス姿。

天魔はいい奴だ、きっとお前を幸せに…。
…はは、これ以上何か言うと目から汗がこぼれそうだ。
特注の礼服がきつかったかな?

………………おめでとう、詩織。

……ん?
…俺も二人と一緒に住むの?あれ?
いや…もっとこう…新婚って二人きりになりたいものじゃ…?
俺は詩織の実家に帰ろうと思ってたのだが…。

…ま、まあいいか、まだ俺は詩織と一緒に居られるみたいだ。

………夜は早めに寝る事にしよう。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


7月10日
いやあー、いやあ…。
今日はまた一段と酷いな…。
木下家長男・紡…。
詩織に似ているのは本当に顔だけだな…。
ちょっとやんちゃが過ぎる…居間の片付けが大変だ…。
あーあー、俺の日記までボロボロだ…。
無事なページの方が少ないよ。

来月にはお兄ちゃんになるってのに…。
兄妹ができたら少しは落ち着くだろうか?
あ、天魔の悲鳴が聞こえた。
紡はあっちか…捕まえてお説教だ!


8月2日
今日、木下家に家族が増えた。
元気な女の子だ、顔は天魔に良く似ている…。
ふふふ、ふふふふふ、かわいいよなあ、うん…。
天魔似だというのに…。

…別に天魔が嫌いなわけじゃないからな?

歩美(フミ)という名前にしたそうだ。
…アユミと最初読んでしまったのは内緒だ。

…しかし赤ん坊なのに目つき鋭いなあ…。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


10月17日
幼稚園から帰ったフミが俺に絵を見せてくる。
これは…俺?
……。
………家宝にします。いやさせて下さい。

こらヘタとか言うな紡!
兄は妹に優しくするものだぞ。
それに良く描けてるじゃないか、この耳なんかもうそっくりだ。
何、そっくりなのがいけない?わけがわからんぞ。

さあフミ、今日はお前の好きなチーズスフレ焼いたんだ。
手を洗ってから、食べようか。
紡も早く洗って来い。


5月19日
今日フミは小学校で歌を褒められたらしい。
流石はフミだ。詩織の子だ。
堪らなく誇らしい!
今度友人達に思い切り自慢しよう!
え?親バカ?そんな事はないさ。俺は親じゃないし。

…だが、俺自身に子供がいないせいかな。
赤ん坊の頃から知っている紡とフミが、まるで自身の子のように感じる。
…やっぱり親バカなのか?


12月24日
今日はクリスマス・イブだ。
大きなケーキも焼いておいたのだが…。

詩織も天魔も職場から緊急の呼び出しか…。
仕方ないとはいえ…。
こんな状況はドラマだけで沢山だな。

そう落ち込むなフミ。
俺が付いててやる。

ところで紡、そのケーキは君一人の物じゃないのだが。
…こいつが落ち込む事ってあるのか?


(破損によりしばらく読めなくなっている)


2月7日
……なんだか最近フミが変な物に感化されてるような…。
言葉もなんだか荒っぽくなってるし…。

詩織…忙しいのはわかるが、もっと構ってやったほうがいいんじゃないか?
多分寂しいのが原因だと思うんだ…。
俺が一緒にはいるが…やはりお前に構ってほしいのだろう。
俺がどういう風に考えていたとしてもな。

天魔も天魔で忙しいしなあ…。

  
2月10日
つむぐくんへ。
童心へ戻ってみたいって、他に方法は無かったのか。
ガキの頃とまったく同じイタズラじゃないか!
お前もうすぐ大学生だろ!

…ああまた日記がボロボロだ…。


 月 日
えー、っと。
今日は何日だっけ。
まあいい、後で書き足そう。
フミはすっかりワルっぽく振舞うようになってしまった。
…根は変わってないようなのでまだ大丈夫だと思うが…。
やはり何とかしてやりたいな。
寂しいのは死ななくても結構辛いんだ。

寂しい、か…。
そういえば俺の茶を飲んでくれる奴も少なくなったな…。
詩織と天魔は忙しいし、紡も大学で家を出たし…。
スポーツ愛好会の友人達はそもそも茶を飲まん。

そうだな、最近この辺に越してきたという奴。
そのうちに会えたらお茶にでも誘ってみるか。
フミも新しい友人でもできたら、少しは寂しさが紛れるかも知れん。

おや、来客か。
ははは、噂をすれば、だったりしてな。


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作者: 登場ゴースト:

ダイアリー

ハガラズのもとに一通の分厚い封筒が届いた。
差出人はカシスだ。
電話口で話していたものとはこれのことか。
これを書斎の本棚の指定の場所においてほしい、ということだった。
ハガラズは封筒を破り中身を取り出した。
表紙は厚い紙でできており、軽くこぶしでたたくとこつこつと音がした。
タイトルには彼女の文字で日付が書かれている。
日記か何かの記録らしかった。
見るのも趣味が悪い、と思いながら書斎に向かう。
書斎に入り、電話で言われた棚に日記らしきものを置いた。
この棚だけ、何かほかの本と雰囲気が違う、とハガラズは他の棚と見比べる。
他の棚にある本は背表紙にタイトルが刷られているが、こちらの棚にある本はタイトルが手書きだ。
おそらくはここにある本はすべて、カシスが書いたもの、ということになるのだろう。
よく見れはこの背表紙が手書きの本は足下の低い棚からずっと続いている。
ハガラズは読んではいけないとも感じながら一番下の左端にあるそれを手に取った。
表紙を開くと「――埋めていこう、この果てしない空隙を」と書いてあった。
空隙とはなんだ、と疑問に思いつつハガラズは次のページを手繰る。
内容は日付と書き出したけっかけと決めた理由だ。
一応、日記の体裁は保っていたがこれは記録に近そうだ、とハガラズは考えた。
しかし、ページが進むにつれて文章は柔らかくなり、文字数も増えていき、日記らしくなってきた。
言葉を扱えるようになっていく過程を眺めているようだった。
たまに出てくる自分や彼女の育ての親である坂下 命(さかした めい)に触れる部分では懐かしさを強く感じた。
カシスは坂下を慕っていたし、坂下もカシスを気にかけていた。
「とはいえ、あいつ、あまり表に出さないもんなぁ」
とハガラズは声に出してしまいひとり苦笑した。
長く付き合うと見えてくるものがある、とカシスが言ってきたのを思い出しながら、読み進める。
今まで知らなかった、気がつかなかった彼女の一面がこの日記には書かれている。
あまり、よくないと思いつつ彼は次の日記を手に取り、表紙を開いた。
読み終えてはしまい、新しい日記を手に取り読む、という動作を何度か繰り返していくうちに文章が少し変わった。
日記の日付を確認して彼は天井を仰ぎ見る。
坂下命は老いなくなるという不老化処置を受けていた。
不老化処置は寿命を犠牲に若い姿を保つ仕組みだ。
受けた人間は寿命と引き換えに死ぬまで若い身体を手に入れる。
不老化処置を受けた人間には処置の副作用で強い眠気が現れることがある。
この眠気がでるかは個人差があり、普段は大して問題にはならない。
問題なのは寿命が近づいた時に出てくる眠気だ。
この眠気に負けて昼寝や仮眠が増え、夜の睡眠時間も少しずつ長くなっていく。
最終的には眠るように死んでいくのだった。
日記でもそのことに触れており、少しずつ文章が冷えていくのを感じた。
感情を抑えて冷静に記録しようとしているのだろう。
「……」
忘れたくても忘れられないぐらいはっきりと覚えていることだ。
読み飛ばしたくなるのを抑えて、ハガラズはカシスがどのように考えて、感じていたのかを追う。
言葉通りの記録ではあるがそこから背後にある感情を想像することはできた。
「大変だったよな、あの時は」
誰ともなしにハガラズは言った。
睡眠時間が伸び、家にいるのは無理だと坂下命自身が判断して入院してからは、片道一時間程度の病院に二人で通っていたのだ。
当の坂下命は毎日来なくてもいいのに、と二人が訪れると目を覚まして、決まってそう言ってきた。
日記ではお決まりのやりとり、と感想が書いてあり、続きにはいつまでこのやりとりを続けられるのかしら、と不安が書いてあった。
俺も同じことを考えていたぞ、とハガラズは思う。
一日一日を忘れないよう記述が細かくなるかと予想していたがそれに反してどんどん短くなっていった。
言葉にすることで変わってしまうこともあるから、とカシスが言っていたことを思い出した。
このことを指していたのかもしれない。
坂下命が息を引き取ったその日の記述は短く、坂下命が亡くなった、とだけ書いてあった。
その日から数日のブランクをおいて、再び日記が。
書き出しは「あのヒトは私に多くのことを教えてくれた」だった。
「その教えてくれたことが今の私を形作っている。比喩ではなくて実際にそうなのだと思う。あのヒトが気まぐれを起こしたから、今、ヒトとは何かを知る機会が再び訪れ、自分を創る機会が得られた。こうやって日記を書く日が来るとは夢にも思わなかった。あのヒトには感謝している。伝えることがあまりできなかったのが悔いだ。少しでも伝わっていればいいのだけども」
件のあのヒトは嬉しそうに笑いながらおまえの話をしていたぞ、きっと大丈夫だ。
感謝の気持ちは、伝わっているだろう、とハガラズは記憶をたどる。
「これから先、あのヒトのようなヒトに出会えるかはわからない。きっと、多くのものを得ては失い、創っては壊し、いろんなものが変わりながら歩いていくことになるのだろう。それがきっと、生きるということなのだ。あのヒトはそれをずっと教え続けてくれていた。最期まで。ありがとう。そして、おやすみなさい」
さらに頁を手繰っていくと日に日に記述は細かくなり、ひと月程度で元の長さに戻っていた。
これからどうしたいのか、とそんなことにも触れていた。
地球行きのことはずっと、考えていたらしかった。
調子が戻ってからは取り留めのない内容が中心だ。
ハガラズは意外な面を知った、と思いながら先を進めていく。
日記は地球に引っ越してからも続いていた。
やはり、最初はそれなりに苦労していたようだ。
こんな問題があった、次はこうしよう、という試行錯誤の記録に混じってある人物について触れてあった。
これが彼女の相手なのだろうか、とハガラズは推測する。
普段、そういう話をしないのではっきりとはわからないが。
記述は日が経つにつれて増えていく。
彼女の眼が何を見ていたのかわかるようだった。
推測があたったと同時に心中、複雑なものがこみ上げてくる。
が、ひとまずそれはおいておくことにした。
相手への思いを綴る文は少なく、大半は自らの変化についてだった。
改めて出会った日のことから読み返すと、
「面白いヒトに出会えた」
からはじまり、
「共に歩めることを幸いに思う」
と変化していた。
あの彼女にそこまで思わせるのだからたいしたものだ、とハガラズは思った。
地球にいく機会があったらその人物にあってみよう。
そんなことを考えながら本棚に日記を戻した。


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作者: 登場ゴースト:

あらしの子ども

「バタバタしていたな」
週末の夕暮れ、一度家に帰ってすっかり身じたくをすませてきた私は、浮世の暮らしをそう振り返りながら、アリアンナのところへ行くために薄暗い森のなかへと足を踏み入れた。
 彼女が住んでいる森は一言でいうと人外の領域だ。入り口から彼女のいる花畑まで、人間用の道も目印もない。それでも迷わずに行き来できるのは、花畑から漂ってくる花の香りのおかげだった。これは視覚に訴えるものではなく、森のなかは薄暗かったので、彼女の元へ通い始めたころはつい手さぐりをしてしまったが、何度も通ううちに目を使わずに暗がりを歩くこつをすっかり覚えてしまい、今では花の香りさえあれば目を閉じたままでも平気で森を歩けるようになっていた。この日の私は疲れていて眠かったのだが花の香りははっきりしていたので、とくにまわりに気をつけることもなく寝ぼけまなこで森を歩いていた。そして、ほんとうに寝ぼけてしまって私は目を開けたまま夢を見始めた。それ は自分が参加していない連想クイズのように勝手に姿を変え始めた。 
 バタバタ、をお題にして始まったそれは、やがて昔の怪獣映画の筋をたどり始めた。南の島で生まれた巨大な蛾が、私たちの街へ飛んできてその羽根で街を吹き飛ばすというものだ。夢は、その映画をほとんど正確になぞっていたが、ただ一点、蛾の代わりに蝶が出てくるところが違っていて、そのことに気づいた時には、アリアンナが私のことを『蝶々』と呼ぶせいかなとぼんやりと思ったりした。とにかく、その時の私はほとんどトランス状態になっていて、自分が蝶なのか、人間なのかもわからないまま花の匂いをたどって森のなかをふらふらとさまよっていた。やがて物語が進んでいき、相手の怪獣が現れたので。私はそれに向かって数歩踏み出した。もう一歩で鱗粉が届くと思ったその瞬間、生暖 かい湿った風が顔に吹き付けてきたので我に返った。
 あたりを見回すと、私はいつも通る道から数歩踏み出していて、あと一歩で崖に落ちるところだった。私は慌てて元の道まで後ずさりして尻餅をついた。いままで興奮状態だったのだろうか、顔は汗でびっしょりぬれていた。あの風が吹いていなかったら危なかった、と思いながら私は顔の汗を拭った。しかし、いくら拭っても汗は額から垂れてきて、とうとう服がびしょびしょになってしまった。気が動転していた私は、それでも顔を拭き続けていたが、ようやく、これは汗ではない、と気がついて頭上を見た。するとそこには中型犬くらいの大きさの雨雲が浮かんでいて、こちらにぬるい雨を浴びせ続けていた。なんだか信じられない光景だったので
「夢か」とつぶやくと、その雲は私の顔に飛びついてきた。その感触は、先ほどの生暖かい湿った風そのものだった。どうやら、私の目を覚ましてくれたのはこの雲らしい。礼をいうと、雲は黙って花の香りがする方へと漂い始めた。先導するつもりかな、と思いながらついていくと、果たして花畑が見えてきた。その中に見覚えのある特徴的な金と紫色の女性が立っている。もう大丈夫だと思ったので、雲にあらためて礼をいうと、それが感情表現のやりかたなのか、嫌がる私にひとしきり雨を浴びせてから、雲はどこかへ飛んでいった。
 気を取り直して花畑へと歩くと先ほどの女性はやはりアリアンナだった。金刺繍がほどこされた白くて大きなタオルを持った彼女は
「動かないでね」と注意してから私の体をそっと拭き始めた。力の加減が難しいのだろうな、と思ったのでじっとしたまま
「準備がいいね」と私がいうと
「ずぶぬれになっているあなたが見えたのよ」と彼女はほほ笑んだ。

 体を拭いてもらっているあいだは暇だったので、私たちはあの雨雲について話すことにした。
「あの雲はなんだったんだろう」と彼女に聞くと
「……それは雲ではないわ。あなたが呼んだあらしの子どもよ。」
こういうのをバタなんとかっていうのでしょう?と彼女はこともなげに答えた。それに対して私は
「あだ名が『蝶々』だからって、いくらなんでも――」と否定しようとしたが、ちょうどその時くもが私の首に飛びついてきたので、それ以上続きをいうことはできなくなった。




 再びずぶぬれになった私を見て、タオルでは追いつかないと思ったのかアリアンナが「替えの服を取ってくるわ」といってあわてた様子で歩き出した。しかし、数歩進んだあたりで急に立ちどまった。そのまま首をかしげていたが、しばらくしてくるりとこちらに振り向いた。
どうしたのだろうと思って彼女を見ると、彼女はうれしそうな表情で
「バタバタするってこういうことなのね」といった。
なんだかよくわからなかったので、とりあえず私はくしゃみをした。


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作者: 登場ゴースト:

テーマ「髪」

 夜、冬の野外から屋敷のドアをくぐり抜けた僕は突如、体を優しく包み込む暖かな空気に襲われた。外の厳しい気候に対し警戒態勢をとっていた僕の体は、その穏やかな暖気に抵抗できるはずもなく、無意識の内に体という体の筋肉を弛緩させてしまう始末であった。
「……ユーザ、玄関の真ん中で足を止めないで。入れない」
「あ、あっと、ごめんごめん、暖かさに意識を奪われていた」
後ろから少女の声に咎められた僕は、急いで両手を塞いでいた荷物を玄関の脇に置き、声がした方向へ振り返る。そこには体いっぱいに紙袋を抱えた、桃色のセーターを着た白髪の少女が立っていた。僕は彼女が持つ荷物を抱え上げると、先ほど置いた荷物の隣にまとめて置いておく。そうしているうちに、身軽になった白髪の少女、ミラは僕の身体を迂回し、ホールに腰掛けブーツを脱ぎ始めた。靴紐を器用に小さな手で解きつつ、僕を見上げたミラは言った。
「ありがとう、ユーザ。買い物に付き合ってくれて」
「どういたしまして。それにしても、結構な量を買ったなあ。これ全部食べ物でしょう。二人でそんなに食べきれるものなの?」
「最近、ユーザがよくうちに来てるから。その分も考えて買うようにしてる」
「それは……そんなに来てたっけ」
「週に三、四回は」
なるほど、それはさすがに自分の分のご飯代を支払ったほうがいいなと僕が言うと、ミラはそのうち、とだけ言った。彼女はブーツを靴箱の中に入れ、紙袋をひとつだけ、再び抱えた。
「これ、冷凍庫に入れなきゃいけないものだから、早めに入れてくる。ちょっと、暖房が効きすぎてる気がするし」
「そうだね、僕も暑く感じる。ベルちゃんはどうしたんだろう。僕らが出て行った時には、確かリビングでゲームをしていたはずだけれど」
「わからない……でも、多分まだそこにいると思う」
「それじゃあちょっと見てこようか。ああ、残りの食料をキッチンの前に持って行ってからね」
僕は再び荷物を両手に持ち、一度ミラと共にキッチンへと向かった。


 キッチン前に食料品を置き、その収納をミラに任せた僕は、ベルの様子を見にリビングルームへと向かった。廊下からリビングを隔てている扉は開けっ放しになっており、これによって暖気が廊下を経由して玄関にまで行き渡っていたのが、どうやら先程の暖波攻撃の原因であったらしい。
 たった二人で暮らしているとは思えない広大な屋敷の居間のど真ん中に、所帯染みたこたつが配置されているという、なんともシュールなリビングを、僕はまず部屋の入口から確認した。そして、少なくとも僕の視点からでは、部屋の中にベルの姿を確認することができなかった。
「ベルちゃん?」返事はない。
「……ベルちゃん? おかしいな、出かける前はこの部屋にいたはずなんだけど」
一人ごちていると、こたつの影に隠れるようにして、見覚えのある紫色の髪が横たわっていることに気づく。近づいてみると、ベルは座布団を枕に、こたつに半分以上入り込んで眠っていた。目的のゲームを遊ぶのに疲れたからか、そのゲームの設定資料集をコタツに入りながら読んでいるうちに寝落ちてしまったようだ。
「……んん、んぁ」
「ベルちゃん。ベルちゃん、起きてる?」
小声で、耳障りにならないように僕はベルに尋ねる。
「んぅ、駄目だよぉユーザ……今集中してないとハイスコア取れない……」
どうやら彼女は夢の中でも目的のゲームを真剣に遊んでいるらしい。生粋のゲーマーとは彼女のような人物をさすのだろうか。
「やれやれ」
僕は呟きながら、こたつの開いているスペースに座り、ベルと同じように床に寝転がった。仰向けになると、なんとも金がかかっていそうな照明が目に入る。部屋の天井だけ見れば、いかにもおとぎの国の大屋敷と言っても良さそうな風情だ。しかし、少し身体を横寝すると、途端にこたつの全容と、頬に暖かな電気カーペットの柔らかさが感じられ、自分がいったいどの時代のどこにいるのかがさっぱりわからなくなる。
「カオスだな……」
「ん……ユーザ?」
僕のひとりごとに、寝言でベルが反応する。こういう時に返事をしてしまうと、寝ている人物はその後決して目を覚まさないのだったか。迷信は全く信じていないのだけれど、なんとなく返答することは憚られた。そこで返答のかわりに、僕は体を少しベルの側に寄せ、床に散らばっている彼女の長いツインテールを優しく手で撫で、まとめてみる。
 彼女の髪の柔らかさは、ドールのウィッグのような手触りの硬さが無い、まるで幼い子どもの髪のようで、機会があって触らせてもらうたび、僕はその感触に夢中になる。寝ている途中で寝返った為であろう乱れたツインテールを、僕は髪の先から少しづつ、手で整えていく。
 ベルの髪に秩序を戻していく僕の指は、やがて彼女の頭にまで到達する。髪の方向に従うように、僕は彼女の頭を撫でる。頭頂から彼女のおでこに手が移動し、目に掛かった前髪を避けている際、ふいに彼女の頬の手触りを感じたくなった僕の手は、少しづつその指をおでこから下に移動させ、
「ユーザ」
後ろから声をかけられ、僕は全身をこわばらせる。ゆっくり振り返ってみると、そこにはミラが、綺麗に剥かれて一口大に切られた柿を入れた皿を持ちながら、不思議そうな顔で僕を眺めていた。
「……」
ミラはゆっくりと目を細める。初めて会った時こそ、僕は彼女の表情を全く読むことができなかったけれど、今では彼女の細かな顔つきの違いから、ベル程ではないものの、どういうことを伝えたいのかわかるようになってきていた。
 駄目、ユーザ。
 もっとも、この状況でそこまで読み取れないほうがおかしい気もするけれど。
「えっと、誤解だよミラちゃん」
「……ユーザがそんなことをするとは思わないけど」
柿の皿をこたつの上に置き、ミラはちょうどベルの対面の位置に体を入れた。
「でも、寝ている女の子の髪を勝手に触るのは、駄目」
軽く目を閉じ、誰に声をかけるというわけでもなく、ミラはそう言った。
「……ごめん」
僕はただ謝るしかなかった。ベルの髪に秩序を与えたかっただけとはいえ、僕は彼女の髪を自分の欲求に従い、好き放題に弄り回したのだ。その上頬も触ろうというのだから、罪深さも相当だろう。
「私に謝られても困る……」
僕をすいと見据え、しかし眉をハの字に動かしたミラは、僕の懺悔に対して狼狽したようだった。
「謝るのなら、むしろベルの方に……寝てるけど」
ここまで喋った後、何かを思いついたように、ミラの瞳が少しだけ見開かれた。オッドアイの眼球へ頭上の照明が映り込み、てらりと光る。
「その、黙っておいてあげる」
「え?」
「さっきのこと。ベルに。私の髪もベルみたいに整えてくれるなら」


 ベルの髪を触った時とは違い、コームとヘヤミストを手渡された僕は、こたつで柿を食べているミラの背中をちょうど眺めるような形で床にあぐらをかいた。
「ちゃんと整えるまではこたつに入っちゃ駄目。そしてできるまでしゃべるのも駄目」
先ほどの負い目を感じている僕は、ミラにそう言い渡されてもただ従うしか無かった。
 ヘヤミストをまず髪の全体にかけ、そして毛先から少しづつコームで梳いていく。ベルの髪を水のような梳き具合とするならば、ミラの髪は泡というか、雲のような印象だ。すいっと、特に何もつけていなくても手櫛が通るようなベルの髪と違い、ミラの髪はふわりと軽く、そしてボリュームも多い。髪を痛めないように、細心の注意を払った上で少しづつ髪にコームを通さなければならない。
「ん……ん」
柿を半個食べ終わったミラは、食べ物の調達に出かける前まで読んでいたコミックへ手を伸ばした。僕のことをさもコームの延長のような「もの」とするこの扱いは、罰としてふさわしいものではないかと、僕は彼女の態度を見て思う。でも、どことなくこの状況を楽しんでいる自分もいる気がした。
 ミラの霞の髪にふっと指を入れる。その触覚を感じることは、ベルのそれとは全く別の歓喜を僕に与えてくれる。髪からはミストに付けられた甘い香りが漂っており、繊細な砂糖菓子を片手で形作るような錯覚を覚える。彼女の髪を顔に覆わせることが可能なら、どれほどの快感を得ることができるのだろうか。僕はその欲求に抗うことができるのだろうか。
「ユーザ」
行動を正すように、ミラは僕を呼んだ。彼女の髪に圧倒されていた僕は、どうやら梳く手を止めていたらしい。慌てて僕は整髪を再開した。


「……できたよ、ミラちゃん」
一時間もの時間をかけ、前髪を含め、ミラの髪を整え切った僕はへとへとに疲れきってしまった。ただ、コームを通すということが疲れを呼んだというわけではない。少女に服従するといったシチュエーションに、僕が慣れていないということもあったのだろう。
「ありがとう……ごめんなさい」ミラは少し目を伏せる。
「なんでミラちゃんが謝るの。悪いのは僕のほうなんだから」
「でも……あんまり、自分らしくない罰ゲームだと思って」
と、申し訳無さそうにミラは言った。
「もしも、ベルがあなたに罰ゲームを仕掛けるなら、どういうことをユーザにさせるかなと考えて言ってみたものだから」
そう言って心なしはにかんだミラは、柿をフォークに刺して、
「ユーザ、口を開けて」
甘い果汁で僕の喉を潤した。
「お疲れ様、ユーザ」


「ん……んんぅ……ユーザ、疲れてるの?」
目をこすりながら、ちょうどミラの真向かいにて寝息を立てていたベルが、僕らの会話を聞いてようやく起き上がってきた。罪の精算の間中、ベルはどうやら本当にずっと寝ていたらしい。彼女は目をこすりながら比べるように、僕とミラの顔を交互に見ている。
「うう……おかえり二人共。なんか本を読んでいて、気づいたら寝てたみたい」
「おはよう、ベル」
先ほどまでさも何も無かったかのように、ミラがベルに挨拶をする。
「おはよう……うーん、失敗したなー。こんなところで髪もきちんと用意せずに寝ちゃったら乱れ……って、あれ。あんまり乱れてない……」
不思議な顔をするベルを見て、僕とミラは互いに顔を見合わせ、そして破顔する。
「えっ、えっ、もしかして、ミラもユーザも、私に何か隠してる?」
「そんなことない。寝相が良かっただけじゃないの」
「えー。そうかなー……あっ、ミラ、今笑った! やっぱり何か隠して……」


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作者:

うにゅうの辞典

うにゅう
全てのゴーストは一人のさくらと一人のうにゅうから生まれた。うにゅうの存在については色々な意見がある。うにゅうは裸であることから、知恵の実を食べておらず原罪が無く不死であり、それが今もなお生き残っている理由であるとする論や、うにゅうが特定キャラクターの口癖から生まれた説から、うにゅうという存在は形を変えて繰り返されているとする、サイクリックうにゅう論が代表的である。

うにゅう狩り
その辺のうにゅうを捕まえて、うまいこと言いくるめてゴーストの相方としてタダ働きさせること。多くのうにゅうが被害にあっていると考えられているが、当人に被害意識がないため規模ははっきりしない。

うにゅう定数
生命、宇宙、すべての答えである42という整数のうち、いくらかはうにゅうによるものではないかとされ、その値をうにゅう定数と呼ぶ。うにゅう定数の実際の値は求まっていないが、値が42ちょうどになるようにされた露骨な調整ではないかと言われることがあり、うにゅう定数の提唱者が「うにゅう生最大の過ち」だったと認めたことが有名である。

うにゅうの発音
多くのうにゅうは、名前の語尾に「ゅう」がつくことが多いが、前の文字次第では日本語での発音が不能となる。私はその名前の発音ルールに関して驚くべき証明を見つけたが、それを書くにはこの辞書は狭すぎる。しかし出来る限り書き残しておこうと思う。いや、そんな! 今起動したこのゴーストはなんだ! デスクトップに! デスクトップに!

うにゅう浮遊説
体型に対して、足が異様に細いことから生まれた説。あの足で体重を支えるためには、体が昆虫のように小さいか、あるいは足が蹄のように固くなくてはならない。両者とも否定されていることから、3mm浮いているという説が浮上している。また、靴を履く様子もないことから家でも外でも裸足で不潔だと言うクレームを回避するための詭弁だという説もある。

うにゅう役
小説、漫画などにおいて、展開が錯綜してどうにもならなくなった際、「うっへりやね」などの一言で全てなかったことにする役目。名前の由来はこれをもっぱらうにゅうが行ったことによる。ゴーストにおいて多用されており、訳の分からないことを言ったキャラクターへの相槌かつトークの終了を知らせる様式美として定着している。

黄金うにゅう
南米で見つかった黄金で作られた小さな像に、活目うにゅうとしかいいようのない物が発見され、黄金うにゅうと俗に呼ばれている。ネット上ではうにゅうと人類が太古から共存している証拠とされる一方、動物のデフォルメにすぎないとも言われている。

ピンクのうにゅう
もともと青が基本であり、黒やドドメ色、レインボーなど色みは多種多様であるが、ピンク一色のうにゅうは長らく存在していなかった。だが稀に酔っ払いが「ピンクのうにゅうが見える」と呟くことから、ピンクのうにゅうは存在するのではないかと探し求められていた。

まねきうにゅう
まねき猫が古来ネズミ捕りの加護のある縁起物とされていたため、同じノリでバグ取りの縁起物とされた。転じて右手を挙げているうにゅうはバグ報告を招き、左手を挙げている場合はユーザーを招くとされるが、大体のまねきうにゅうはどっちの手も挙げていないので全く効果がない。

水先案内人としてのうにゅう
うにゅうは最初に発表されてから数年で爆発的に個体数を増やした。これはつまり、うにゅうとは全ての人間が共有する潜在意識の存在でありそれが発現したのだと言うことができる。人間と同等の知性を持つのはスピリチュアルな案内人であるためであり、地球がより高い次元へ向かう準備として、さらなる高みの次元からの使いがうにゅうだとされている。これによりアセンションへのフォトンベルトとなると信じられ、うにゅうと同化することを目指す運動が巻き起こった。

メニュー
本来は「めにゅう」であり、さくらとうにゅうに継ぐ3キャラ目であったとされ、その姿は黒髪ツインテールであったと言われている。SSPでは3キャラ以上立たせられるようになったが、伝統としてメニューは残っている。なお、ベースウェアSSPではうにゅうデフォルトな青色であるが、グラデーションがあることから一般的なうにゅうと差別化するため「SSPデフォルト+」と呼ばれている。


この文書にかかれていることは、全て嘘である。


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作者: 登場ゴースト:

同シェル交差

 町中をふわふわと一人の女の子が漂う。その足は、軟体動物のような不定形で不思議な色をした、2本の触手のようなものになっており、歩く代わりに宙に浮いている。しかしその姿を行き交う人は誰も目に留めない。その後ろを手のひらに乗るような小さな女の子が同じく浮遊しながらついていく。背中に羽を生やしており、女の子が遊ぶような人形のサイズだ。こちらもまた誰も気に留めない。
「えっへへー、やっぱり買い物って楽しいよね」
「こんな喧騒で楽しいとか思う気持ちが分かんないわ」
「えー、そう? 人がいっぱいいて楽しいよ」
 振り返ってニコニコと笑う普通サイズの女の子の体に、近くを歩いていた通行人がぶつかる……こともなく、体がすっと通り過ぎて行く。
「はあ、シェリルは死んでるからいいけど、そんなとこにボサッと突っ立ってたら邪魔」
「いいじゃん生きてる人とはぶつからないんだし。本当にぶつかっちゃうときはちゃんと避けるよ。ゾンビさんたちと一緒に満員電車ごっこしたけどちゃんと間を縫ってすいすいーって進めたんだから」
「何の遊びだよ……」
 そういう小さな女の子の方も、人が次々と体を通り過ぎて行く。体が小さいので傍目には人の体に吸い込まれたかのようにも見える。シェリルはそれを見て笑い声をあげる。
「あははは、みーちゃんが人に吸い込まれてるみたい、あーまた吸い込まれた! あははは」
「笑いのツボが分かんない……」
 ハイテンションな幽霊にみーちゃんと呼ばれた小さな幽霊、ミィは肩をすくめる。はあ、と溜息を付いてみせるが実際にはこうして笑っていられる時間が好きだった。
「だって、みーちゃんと一緒にお出かけだからそれだけでも楽しくて」
「なっ……、あんたしれっと何を言ってるの!」
「いや、本当のことなんだけど」
「あーもううるさい! いいから早く行く!」
 顔を真っ赤にした小さな幽霊がふわふわと先に進んで行く。
「あっ、待ってよーほらゲームセンターあるよ遊んでいこうよー」
 火照った顔を見られないように、はあと溜息を1つついてみせ、仕方なくミィがゲームセンターに付き合う。

 ゲームセンターではしゃぐシェリルは、パンチングマシーンを見てシャドーボクシングを始め、UFOキャッチャーの中に入ろうとし、クレーンゲームのお菓子のタワーを見て指をくわえ、格闘ゲームを見て必殺技の真似をし、満足して外に出た頃には日が傾き始めていた。
「あー楽しかった! ゲームセンターってなんか熱気があっていいよね」
「熱気というか機械の廃熱だけどね。お金も使わないのにそんなに楽しめるあんたが羨ましいわ」
「なんかすごい馬鹿にされた気がする! まあいいや、わたしはみーちゃんと一緒だったから楽しかったし」
「ま、まだ言うか!」
 不意打ちにミィは思わずたじろぐ。みるみる顔が赤くなっていく。
「あれ、もしかしてみーちゃんは楽しくなかったとか」
「……うー、楽しかった! 楽しかったわよこれでいいでしょ!」
「なんで楽しかったのにわたし怒られてるの!?」
 理不尽だと抗議するシェリルを恥ずかしさを誤魔化すためにぺちぺち叩く。
「わあ、やめて、やめてって!」

 影が長くなり、そろそろ日が暮れそうだ。あれからケーキ屋を覗いたり、雑貨を覗いたりしているうちに、2人の影も長くなっていていた。
「ほら、いつまでも遊んでないで行かないと夜になっちゃうわよ」
「ええー、夜になったらお化けが出るから早く行こうみーちゃん」
「お化けは私達でしょうが。あ、ほら、そっちじゃないこっちこっち」
「分かった、分かったからやめてー、髪を引っ張らないでー」
 手をバタバタしながらシェリルは引っ張られていく。実際は小さな幽霊に引っ張られても対して痛くもないのだろうが、大げさにリアクションを取る。
「なら、ちゃんと自分で歩く。ほら前向いて」
「分かってるって、そんなに引っ張ったら伸びちゃうよ髪の毛」
 口を尖らせながら、大きな幽霊は小さな幽霊の後ろに続く。
「伸びるのかよ髪の毛」
 先をゆく小さな幽霊が振り向かずに突っ込みを入れる。
「呪いの人形みたいな?」
「誰が人形だ!」
「みーちゃんのことじゃないよ!?」
 ふよふよと買い物に向かうシェリルが、どこからともなく響く声を聞いたのはその時だった。


 どこまでも続く薄暗い廃墟が続く区界を、人影が飛んでいく。
「あーもー、やんなっちゃうね。遠出してみたはいいけど、脱出の手がかりがどこにもなーいー」
 ふわふわと独り言をつぶやきつつ空を飛ぶのは、ゴスロリ風の服を着た、ブロンドの少女。上半身は普通、下半身のスカートから覗く足は2本あるものの、鞭のように先細りしぐねぐねとしている。体を生成するときに足がいまいちうまく行かなかったのだが、誰も見ていない上に浮かんでいれば困らないのでそのままにしている。本当はきちんとした姿を取りたいと考えてはいるが、それよりもここから脱出するのが先である。
「あれ、ぼくってこんな声だったっけ」
 こほんと咳払いをして、また喋りだす。
「あーあー。本日は晴天……とはいかないけどまあまあの天気なり」
 しばらく一人きりで閉じ込められていたため、ずっと声を出していない。食事をしなくていいので飢える心配もなければ、危険もないが、それだけに何もないのがなかなか堪える。
 この区界はどこにも他の区界への繋がりがない。仕方なく、どこかにほころびでもないかと探し回っている。
「お? これはもしかしてもしかして」
 他の区界への繋がる道だと思えたが、ここは以前にも調べたはずで、彼女は口元に手を当てて考える。
「まあいっか、どうせここにいたって何にもできないんだし、行ってみるしかないね」


 チガヤは目を開く。辺りの様子から、おおよその文化レベルを推測する。彼女の視点からだと、相当古い時代、人がまだ自分の肉体を自由に扱えなかった時代だと目測をつける。
『あー。おー? なんだかずいぶん古い時代……ってあれ、体が動かない』
 そこでチガヤは自分の体を動かせないことに気づく。
「……みーちゃん、なんか誰かの声が聞こえない? どこから聞こえてるんだろ」
「電波でも受信したの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、なんか頭の中に誰かが入ってきた感じが」
「思いっきり電波だろそれ……」
 ミィは大丈夫かとシェリルの顔を覗きこむ。熱でも出したかと思ったが幽霊は風邪をひかない。馬鹿だからじゃなくてよかった。
『あれ、駄目かなこれ。ちょっとそこの方、ちょっと助けてください』
「大変、みーちゃん誰かが助けを求めてる!」
「大変なのはシェリルの頭で、助けが必要なのもシェリルだと思う」
「ちーがーうーのー! 誰かがわたしに声をかけてるんだよ」
「だからそんなのちっとも聞こえないって」
 ミィから見ると、シェリルの行動はあからさまに異常である。時々変なことを言い始めるのは今に始まったことでないが、今日はいつもよりも酷いとミィには感じられた。
『え、ひょっとしてこれ、誰にも聞こえてない?』
「ううん、聞こえてるよ。めーでーめーでー。応答せよー」
『それは救難信号……って、誰が喋ってるの?』
「うん? わたしだよ。聞こえますかー?」
『聞こえるんだけど、貴方がどこにいるのかよくわかんないよ。しかも体も動かない、というか勝手に動くし』
 シェリルが一人で喋ってるのをミィは若干引いた目で見ている。
『あー、あれ、窓に映ってるのは間違いなくぼくなんだけどなあ』
「ん? わたしとミィちゃんしかいないよ? 通りがかりの人でもいたかな」
 ショーウインドウに反射して見える範囲には、小さなミィと、ゴシックでフリルの多い服を着た少女の2人しかいない。
『え、あれ、おかしいな。ちょっとまってね、整理させて』
「シェリル、ほんとに大丈夫? 実は苦しいこと我慢してたとかあるんなら、言いなさいよ。今日はもう怒らないから」
 いい加減、色々と心配になってきたミィが声をかける。
「えっと、みーちゃんには聞こえないの?」
「聞こえないわよ。はあ、まあシェリルがおかしいのはいつものことよね」
『あ、分かった。今、窓に映ってるの、シェリル? だよね』
「うん、そうだよ」
「認めんなよ」
 若干会話が錯綜している。

 結局、シェリルの中に、チガヤが入り込んでしまい、意識だけがシェリルの中にある、ということが分かった。どうにも姿が全く同じだったことが原因のようだが、詳しいことは分からずじまいだった。シェリルに言い聞かせながら、チガヤがミィとうまく交渉したものの、丸一日かかった。チガヤの特殊な立場も、幽霊という立場を知っているためにすんなり受け入れてもらえた。
『まいっちゃったねこれ。ま、これはこれでなんか新鮮だし、原因でも考えてみようかなあ』
「んー、そうだね。でも幽霊のわたしに見えない人なんてびっくりしちゃったなあ。幽霊の幽霊?」
『あはは、それも案外間違ってない気がするね』
 シェリルは布団の中で、ころんと寝返りをうつ。
「とりあえず、明日からどうしよっか? 行きたいとことかあれば、わたしが代わりに行くよー」
『んー、観光もいいけど、実はこの世界大体知ってるんだよね。ぼくの世界の過去に近いし』
「えっ、じゃあチガヤちゃんって未来人? すごい!」
 シェリルがにわかに興奮し始める。
「それじゃあさ、今読んでる漫画の来週のストーリーも分かる? 気になって気になってしょうがないよー」
『それは無理だって。完璧におんなじかどうかもわからないもの。それに、同じとしてもさすがにそんな細かいことまで覚えてないなあ』
「そっかー、残念。また立ち読みしに行くからチガヤちゃんも一緒に行こうよ」
『立ち読みなんだ。まあ幽霊だし経済には協力出来ないから、それでいいんだろうけど』
「んー?」
 シェリルにはよく分かっていないようだった。世界によって常識も変わるし、その辺りは仕方ないとチガヤは割り切る。
「そういえば、チガヤちゃんは何か特技とかあるの?」
『ぼく? うーん、そうだねサックスは持ち歩いて暇さえあれば吹いたりしてたよ』
「へーすごいね! ところでさっくすって何」
『楽器だよ。分かりやすく言うなら、笛の一種かなあ』
「笛……あ、じゃあリコーダーとかも吹ける?」
『なんか懐かしい響きだねリコーダー。たぶん、吹けるんじゃないかなあ』
「じゃあさ、じゃあさ、ほら今リコーダーあるから吹いてみて!」
『別にまあ見せるのはいいんだけど……ほら今ぼく体がないし、動かせないし。そもそも夜に吹いたら迷惑なんじゃない?』
「大丈夫、チャルメラなら夜に吹いてもいい曲だから。わたし吹けるし」
『それって結局シェリルが一人で吹いてるのと代わりないんじゃないかな』
 こうして、夜は更けてゆく。

「なんかシェリルさんが夜通しひとりで喋ってて眠れなかったんですが。しかも楽器の音がうるさくて」
「あー、まあ電波が入り込んでるから仕方ない。突然サックスが吹きたいとか言ってたし。急にやっても音も出ないっつーの」
「せ、せっ!? それってつまり男女の……」
「はいそこまで。あんたは本当にエロいことしか考えられんのか」
「もしかして朝まで」
「うるせえ」

 朝食でチガヤがコーヒーが飲みたいと言い、苦いから嫌だとシェリルが反対し、結局折衷案としてカフェオレになった。苦い苦いとシェリルが言い続け牛乳をどんどん足していったため、飲んでも飲んでも減らなかったし最後はコーヒー風味の牛乳になっていた。その後、昼間に少し周囲が見てみたいとチガヤが希望した。会話が噛み合わないという理由で、今日はシェリル一人で外を歩いている。
 途中、ふとシェリルが思いついたように言う。
「そういえば、なんかさ、ゲームだとバグってあるよね」
『んー、そうだね、古いゲームだとそんな話聞いたことあるよ』
「それと同じことできないのかなー」
『うーん……例えばどういうの?』
 食いついたと言わんばかりにシェリルははしゃぎだす。
「アクションゲームでねー、壁に背中をつけてジャンプすると壁にめり込めるとか」
 シェリルは壁に背中を向けてぴょんぴょんとジャンプし始める。
『え、ちょ、ちょっと、その足でどうやってジャンプしてるの?』
「どうって、簡単だよー、こうやってグってやってパってするだけ」
『う、うん……? なんかアバウトすぎてわかんないけど、体の感触で分かった気がする』
「ほんと! やったー初めて伝わったかも!」
『あー、まあそうだね、ぼくも普通に言葉で言われたらわかんなかったかも』
 ぴょんぴょん跳ねるシェリルを見ながら考えてみる。
『んー、ぼくがこっちの世界に来たこと自体、なんかバグくさい感じなんだよね』
 本当は意図していない方法で繋がったような、という言葉をチガヤは飲み込む。言っても理解は出来ないだろうし、そもそも想像にすぎないからだ。

 午後には天使のノアと吸血鬼のユウも集まり、トランプでもしようか、という流れになった。リオナは残念ながら別の友人と遊びに行ってしまっている。
「あたしが勝ったらシェリルの血を飲んでもいいってことで」
「ちょっと待って、ユウちゃん勝手な約束しないでくれる!?」
「んふ、ま、いいけど。どうせシェリル弱いし、それで血を飲むのは可哀想だし」
 慌てるシェリルを相手に、小学生の女の子にしか見えないユウは含み笑いを漏らす。
「ちょっと、ユウさんそれはひどいじゃないですか。本当のことですけど」
「ノアあんたが一番ひどいわ」
 悪意のないノアにミィが突っ込む。普段は仲が悪いがなんだかんだで連携がとれてしまうあたり、息はあっている。
「じゃ、とりあえず配るね。何しようか。ババ抜きは単純過ぎるし」
 ユウが手早くカードを配り始める。ジョーカー抜きの52枚。一人13枚ぴったりになる。
「七並べとかどうです? パス3回までで」
「お、いいね乗った。単純だけど駆け引きが難しいゲーム、嫌いじゃないよ」
「まあ、シェリルはビリにならないようにがんばるのよ」
 配られたカードを抱え込みながら、ミィはシェリルに言う。それなりに良い手札と見える。
『はあ、なんだか散々な言われようだね。よし、ここはぼくも協力するよ』
「うん、お願い」
 配られた手札を、チガヤはざっと見る。AやKに近い七並べで不利になるカードは少ない。その反面、7が1枚もなかった。他のメンバーから、場に4枚の7が並べられる。既に手札の差がついてしまった。
『んー、いきなり厳しいねぇ。まあでもKが1枚だけってのはなかなかだね。これは勝てるよシェリル』
「ほんと!? わーいわたしが勝てるかもって」
 じろりとユウの視線が刺さる。あのシェリルが勝利宣言である。
「へぇー。言うじゃないシェリル。いいわ、あたしに勝って見せたらしばらくは血を吸わせてって言わないであげる」
「シェリルさんが電波を受信するようになったって、ほんとだったんですね……」
 ノアは少しため息をつく。
「でも最近はそういう電波なキャラも増えてきましたし、そういうシェリルさんもいいかも」
「変わり身早いな。とりあえずただの電波じゃないらしいわよ。シェリル、これで勝てたら電波じゃないって証明になるかもね」
 ミィはニッと口元を上げて見せる。
「よーし、頑張ろうねチガヤちゃん」
「電波に名前つけてる……」
『あはは……これは、勝たないと色々まずいよね、うん』
 一番手はシェリルだ。
「えっと、じゃあこの8を」
『待った待った! それじゃない、こっち』
「どうして?」
『ほら、こっちを出して伸びてくれれば、このKが出せるでしょ。AとKって一番出しづらいカードなんだから、自分はどうやって出すか、相手にどうやって出させないかを考えるんだよ』
「へー、知らなかった! じゃあ、これはやめてこっち、っと」
「ふむ……まずは様子見ですね」
 一巡して、場に出たのは6と8のみ。
『んー、誰も5や9に繋いで来なかったか。まだ分からないけど、多分他のみんなは手札のマークがかなりバラけてるね。お互いに牽制して自分の出したい場所が伸びるように睨み合ってる。3巡目あたりでパスが出るかもしれないね。ぼく達が出してもいいけど』
「へー、みんなそんなに色んなこと考えてるんだ」
 シェリルはチガヤの言葉に頷くばかりだ。出せるカードをどんどん出すゲームだと思っていたらそうじゃなかったらしい。
「ほらシェリル、次はどうするの。電波さんとの相談はすんだ?」
 ユウがけしかける。その目はまだ勝てると思い込んでいるのが分かる。
『ここでパスして揺さぶりをかけてみてもいいんだけど……とりあえずシェリル、この6は切り札。パスが残り1回になるまで絶対出しちゃ駄目』
「どうして?」
『このマークは、5以下が1枚も手札にないでしょ。つまり、これを止めてる限り、他のみんなは出せない。この6を終盤まで引っ張れるかが、勝負の鍵になるよ。ま、今はこっちの9を出しておこうか。Jが出せるように伸びて欲しいし』
 2巡目、ノアは今の9につられて10を出した。こちらにJがある以上はQかKを必ず持っている。その上でこちらが伸ばしてすぐ重ねてきたということは、おそらくこのマークのKを握ってると見て間違いない。こちらのJを切ってしまってもいいが、あえて止めておくようにシェリルに伝える。声が聞こえないことを利用して、チガヤは状況と作戦を逐一伝えていく。
「パスだよ」
 3巡目、シェリルはパスを出す。ここが揺さぶりどころとチガヤが判断したからだ。普段のシェリルは出せるカードを全て出してからパスをしていたらしい。そうであれば、早い段階でのパスはチガヤ自身の存在の証明にもなるだろう。
「ふむ、ここでパスなんてシェリルらしくない……いいわあたしもここはパスする」
 ミィ、ノアともにカードを伸ばす。まだ6と8が3箇所止まっている。うち1つはシェリルが止めているが、ここが出るのであれば相手は厳しいということだ。
 4巡目、5巡目とめぐり、全員がパスを2回使用。膠着状態と言っていいだろう。こちらの手札では、止めているJがあればノアを封じておけるが、Jを出した瞬間にQ、Kと出されてしまいこちらに旨味がない。最初の6と合わせ、この2枚をどう温存するかが鍵だろう。
『参ったね、ユウの手が読めないや。無難に繋げててどこのAとKを持ってるのか絞り切れないなあ』
「へえー、さすがユウちゃんだね。チガヤちゃんが絞り切れないって」
「むむ……よくそこまでわかったねシェリル。いや分かってないってことが分かっただけなんだけどさ。案外電波じゃなくて本当に誰かと話してるのかもしれないわね」
 おお、っとユウが驚く。ミィもノアも驚いているようだ。
『いいね、うまいこといってる感じだよ。ここで揺さぶってみようか。ほら、ノアにここのKと、こっちのA持ってるでしょ、って言ってみて』
「ねーノアちゃん」
「なんですか、手札を教えてなんて言っても無駄ですよ」
「んー、違うよ。ノアちゃん、ここのキング、それと、こっちのエース持ってるでしょー?」
「なっ……どうして!?」
 今度こそ、全員が驚いてシェリルを見る。
「どうしよう、シェリルが頭よくなった」
「みーちゃんなにその頭いいと駄目みたいな!」
 一番シェリルと接しているミィは、それだけに今回の異常さも一番よくわかっているようだ。
「全部手札に持ってる……わけじゃなさそうだね、そんなに偏ったなら何も考えなくても勝てるレベルだし」
 ユウは手札に目を落として考えこむ。さきほどの余裕は、すでに消えていた。
「いいわ、面白くなってきた。まさかシェリルと頭脳戦が出来るなんてね」
 勝負は白熱した。3回目のパスと、切り札の6とJを温存して他のメンバーより1手有利な状況となった。七並べでの後半の1手は大きい。出せるカードは相手の手を止めるカードのみとなるため、誰かが出したカードにつなげていくだけで自分の手番とカードを消費していける。ギリギリまで粘って、切り札を手放してしまったものが負けていく。
「……降参。参ったわ、出せるカードないし、パス使いきったし」
 ユウは自分の手で乱暴に髪をかき乱す。
「やった、初めてユウちゃんに勝ったかも!」
『おめでとうシェリル。ふー、うまくいってよかったよ』
はあ、と小さな吸血鬼は溜息をつくと、キッとこちらを睨んでくる。
「中のあんた! チガヤだっけ? 明日また勝負よ! 今度は大富豪10戦、これなら運の要素も下がるから、実力勝負が出来るわ。首を洗って待ってなさいよ」
 そう宣言してユウは席を立つ。
「ちょ、ちょっとユウちゃん、待ってよ、まだ時間あるよ?」
「いいの、あたしは楽しみを後にとっておくタイプだから。それに、時間を置いてシェリルとチガヤとやらが息がばっちりになってた方が面白そうだし」
 ふふ、と笑って帰っていった。
「はあ、まあトランプぐらいならいいけど。めずらしいわねあいつがあんな表情するの」
「まったくです。普段のシェリルさんとは思えないですね。拙いけど言葉で揺さぶろうとしたりしたのも、そのチガヤさんとやらの作戦なんでしょう?」
「へへー、そうだよ。コンビプレーの勝利ー」
「ん。私としては、シェリルの教育係も兼ねてくれてるみたいで助かってるけどね」


 その夜、布団にくるまり、とりとめのない話をしていた時、チガヤは扉が開くようなイメージを見た。それは曖昧なものではあったものの、区界を渡るために入口を幾度も開き続けた彼女には確信を持って言えることだった。区界との接続口が開いた。古めかしい大扉が開く時の振動のような、目に見えない世界の揺らぎが起きている。
『あ、今、見えた』
「何が見えたの?」
『なんだろ、急に入り口が見えたんだよね。誰かがドアを開けたみたいな。多分、元の区界に戻れるような気がする』
「ええっ、じゃあすぐ行かなきゃまた閉じちゃうんじゃない」
『そうだね。でも、いいの?』
「いいよ、チガヤちゃんだって、ずっと動けないままってのも、困っちゃうでしょ」
『ん、ぼくとしても、戻るかどうか微妙な感じなんだけどね。だって戻っても、またあの誰もいない場所だし』
「うん、それは寂しいね。でも、大丈夫だよ。チガヤちゃん、明るくて楽しいし、頭もいいし、すぐに元の場所に戻れるよ」
『その自信はどこから来てるの?』
「なんとなく!」
『なんとなくなんだ。でもシェリルが言うんなら、信じようかなって気分になる、かな』
「帰り方は、分かるの?」
『なんとなく』
「あ、真似された。えへへ、じゃあ、大丈夫ってことだよね」
『そうだね。この間の、シェリルがジャンプしてみせた感覚で、いけると思う』
「そっか。じゃあ、ここでお別れなのかな」
『うん。多分、もうシェリルとは会えなくなる。たった数日だったけど、楽しかったよ』
「そう? わたしも楽しかったよ! トランプの七並べでも大富豪でも、みんなとすごい接戦になったし」
『最初、ふたりともきょとんとしてたもんね。でもまあ、おかげでぼくの存在を理解してもらえたわけだけど。しかし、古いゲームがまさかあんなに楽しいとは思わなかったよ』
「えへへ、楽しかったね。ミィちゃんが本気になったり、ノアちゃんとユウちゃんが考えこんだりしてて。チガヤちゃんのおかげだよ」
『おっと、今日は話し込んでる場合じゃなかった。早く行かないと、多分すぐに閉じると思う。だから、ここでお別れだよ。名残惜しいけど』
「ううん、きっとまた会えるよ」
『なんとなく?』
「なんとなく」
『あはは。じゃあ、さよならとは言わないよ。またね、シェリル』
「うん、チガヤちゃん、またね!」
 そして、チガヤの気配はシェリルの中から消えていった。


 廃墟のような世界に、再びチガヤは戻ってきた。
「よし、体が自由にうご、お、お?」
 すてん、とチガヤは転ぶ。
「あーやっぱりシェリルとはなんか感覚が違うなあ。とりあえずジャンプ……出来ない」
 しばらく一人で転げまわったあと、諦めた。
「まあいっか、徐々に慣らしていけば。あの感覚、うまく扱えるようになったらここからも脱出できるかもしれないし」
 ふと、チガヤは愛用のサックスを取り出す。音色は虚空に吸い込まれて消えていく。シェリルは、うまく吹けるようになるだろうか。
 また会うことがあれば教えてあげたいかな、とチガヤは漠然と考えていた。


 朝、ミィに顔を合わせる。
「おはよ、みーちゃん」
「おはよう。あんたの頭の中の同居人は元気?」
「あ、そうだ、忘れてた。チガヤちゃん、昨日帰っちゃったよ」
「はあ!? なんでよ!? まだあたしリベンジ果たしてないんだけど!」
 後ろから素っ頓狂な声が響く。見れば、ユウが拳を握りしめ、わなわなと震えていた。
「おはよう、ユウちゃん。なんか、帰り方が分かったーって言って。でも、また会う約束したから大丈夫だよ」
「勝ち逃げなんて許さない……いいわ、その時までに腕を磨いておくから」
「あんた、昨日約束してこんな朝に来るなんて、どんだけ楽しみにしてたのよ」
 ミィが呆れ顔で呟く。
「当たり前でしょ、頭脳戦でこんなに弄ばれたのよ。昨日は不意打ちで負けちゃったけど、今日は本気で勝負して完膚なきまでに叩き潰してやろうと思ってたのに」
「ま、まあ、次に会う目的が出来てよかった?」
 次は、友達のみんなに紹介したいな、とシェリルは漫然と考えていた。


「また、会えたらいいな」
 全く同じ姿の友人。今この瞬間だけは、姿のみならず、考えていることもまた同じだった。


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作者: 登場ゴースト:

代役会議

 とある夜、郊外の教会、その離れで3人の女性の声が響いている。
「わたしは代役ですが、便利屋じゃないんですよ、そこんとこ分かってくれないんですよ」
 ブロンドよりも明るい色をした髪の女の子が訴える。その頭には本物の猫耳があり、髪色もどちらかと言うと猫の体毛に近い色をしているのかもしれない。ただ、その髪はややボサボサで、苦労人という感じが溢れていた。いつものちょっと強気な表情は今はなく、少し疲れた目をしている。代役という役目がないので気を抜いているのだろう。
「そもそも最近扱いが適当じゃないですか! 影が薄いとかキャラが立ってないとか散々ですよ!」
 ぐだぐだとくだをまく様子は完全に酔っ払いであるが、現在テーブルにあるのはお茶だけである。
「まあまあ、落ち着いてください代役ちゃん。それは元からじゃないですか」
「そ、そんなー!?」
 いかにもシスターな格好をした女の子がなだめるように見せかけて塩をすり込んだ。
「そんな他者からの評価に依存してちゃいけませんよ。貴方を一番理解してくれるのは貴方しかいないのですから」
「そうだけど、そうだけど、なんか納得いかない!」
 ごろんごろんと代役ちゃんは頭を抱えつつ地面を転がった。
「おーなんかおもしろそうなあそびだー」
「遊びじゃないんです!」
「そうですよ、こうして悩むのも大事なことです。貴方も考え悩むことで道が開けるかもしれませんよ、へっどちゃん」
 へっどちゃんと呼ばれた女の子は楽しそうに笑っている。自分の頭だけをテーブルに載せ、そこから伸びた鎖が椅子に座る胴体の首につながっている。彼女は首と胴体が離れている、デュラハンのような状態になっている。頭と胴体は鎖で繋がっているが、ことあるごとに頭が外れて転がっている。鎖を短くすればいいのに、とは誰も言わない。お約束である。今は頭をテーブルに載せて自分の髪を梳いている。しょっちゅう頭が落ちるわりに髪の毛がさらさらなのはこまめな手入れのおかげもあるのかもしれない。
「しかし悩みがないってのもまた困りものですね、私の出番がありません」
「シスターさんもかげがうすいー」
「うっ……。気にしてることを言わないでください」
 シスターさんが言葉に詰まる。懺悔を聞き導く立場であるので、先ほどは他者の評価を気にするなと言ったものの、やっぱり人の評価は気になっていた。
「あたしみたいにからだのいちぶがとれるようにしたらいいよ。そうしたらにんきふっとうだよ!」
「私は普通の人間なんですけどね」
「じゃあもっと、じゅうをぶっぱなしてアピールすればいいよ」
「そんなこと出来るわけないじゃないですか、人をトリガーハッピーみたいな扱いしないでください。あってますけど」
「あってるの!?」
 立ち直った代役ちゃんが突っ込みを入れる。現在のメンバーでは突っ込みを入れる人がいないため、必然的にその代役として振る舞ってしまうのは、代役ちゃんの種族が代役である以上は仕方のないことだった。本能で動いてしまうので便利屋扱いもやむなしと言える。
 そんな代役ちゃんの顔にスケッチブックが叩きつけられる……直前で止まった。そこにはこう書いてある。
『いい加減、人の話を聞けー!』
 そこにいるのは口が縫われた無表情な少女だった。喋ることが出来ないので、全てスケッチブックで会話を済ませる。なお、本人は完全に無表情で、感情の表現すらもスケッチブックで行うという徹底ぶりである。現在スケッチブックには怒りマークが書いてあるので、お怒りということだろう。当の本人は先の通り無表情である。
「ああ、チャックちゃんすみません。今日は喋る人が複数いたのでついノリで」
『ノリで放置されるのも悲しいものがあるな、というかわざとだろ今日のは』
「わはは、これがほうちぷれいってやつだ」
 自分の頭を自分の体に載せたへっどちゃんが腕組みしながら笑う。本人は全く意識していないだろうが、集団の中では色々とデカイので少し威圧感がある。体を傾けると頭が落ちるので、腕組みは姿勢制御なのかもしれない。
『なにが悲しくてそんな無駄な時間を過ごさねばならんのだ、やってられん』
 やれやれと肩をすくめるかわりにチャックちゃんはスケッチブックをすくめる。徹頭徹尾、自身は無表情無動作である。
「人生たまには無駄があってもいいじゃないですか」
『いや別に結果的に無駄だったならいいが、最初から無駄なことをする気はないぞ』
「そうだぞー、じんせいたにありやまなしだぞ!」
『だいぶ不幸人生まっしぐらなんだが』
 そんなのはお断りだとそのスケッチブックの三点リーダから読み取れる。
「そんなときは是非教会へ。苦しい現世も信仰によって救われますよ」
「急にどうしたんですか」
 なぜか突然勧誘を始めるシスターさんに、代役ちゃんはとりあえず聞いておくことにする。その場が疑問を発する役目を必要としている気がしたので代役としての行動を起こしてしまうのだった。
「いえ、こうして勧誘熱心なキャラを作っておこうかなと思いまして。私は神様とか信じてないですけど」
「相変わらずシスターさんはシスターじゃないですよね」
『まあそういう自己主張をするにしてもだ。中途半端すぎるキャラ付けは逆効果じゃないか』
「それでもいいんです。例えキャラが薄くてゴーストから外されても、林檎の木を植えるんです」
『宗教っぽい言葉引っ張りだしてきたが、それ教会批判した奴の言葉だぞ』
「なんかそのキャラ作りの方向性は間違ってる気がします」
 2人にさっくりと否定されるがシスターさんはめげない。
「そうですか、なかなか難しいものですね。でもこれで印象に残るなら安いものです。へっどちゃん、貴方も教会で信仰を捧げませんか」
「あたしはえんりょするよー」
 急に話を振られたへっどちゃんは迷うことなく即答する。
「あら、どうしてですか」
「おいのりポーズをするとあたまがおっこちる!」
「ああ……」
『そうだな……』
 理解できたとシスターさんとチャックちゃんは頭に手をあてる。跪いて祈る少女。その頭がごとんと地面に落っこちる。このシーンだけ見たら色んな人のトラウマになるかもしれない。しょっちゅう頭を落としてるので今更とも思うが放っておくことにした。
「まあ、シスターって見た目以外だとあんまり特徴ないですよね」
『お、爆弾発言だな。全世界のシスターを敵に回したんじゃないか』
「そしたらあたしだってあたまがとれるいがいにとくちょうないぞー」
『十分だろ』
 笑うたびにぐらぐらと揺れるへっどちゃんの頭を見ながら、チャックちゃんは石頭すぎて脳味噌まで石なんじゃないかと思う。が、思ったことまでスケッチブックに勢いで書いてるので案外失礼である。
「はっ、そうだ」
 代役ちゃんはそこでこの集まりの趣旨を思い出す。
「シスターさんはいいじゃないですか、シスターってだけで十分に特徴ありますよ。問題はわたしですよ。代役だってもっと主役をはれるはず」
「そうしたら代役ちゃんは代役ちゃんじゃなくて、しゅやくちゃんになりそうだぞー」
「言われてみれば!」
 ガーンと床にへたり込む。
「それはそうでしょう、あくまで代役なんですから。代役は誰かの代わりなので、元の人がいないといけないんですよ」
「世知辛すぎてやっていけません」
 代役ちゃんはそのまま床に座り込んで、のの字を書き始める。
「でも、ゴーストではしゅやくをやってるきがする」
『ああ、確かに。あれは何の代役なんだろうな』
「えっ、ゴーストの代役に決まってるじゃないですか」
 何を今更、という顔で答える。そこには一切の疑問はなかった。代役ならなんでも出来るらしい。
「ゴーストのだいやくでしゅやくをやる代役ちゃんか、ちっともりかいできないぞ!」
「とりあえず、ゴーストに限ればちゃんと代役ちゃんが主役をはっているではないですか。わたしなんてサブキャラなんですよ。ゴーストの主役にもなれないんですよ」
 シスターさんが口元だけ笑みを浮かべつつ、カチャカチャ音をさせたかと思うと、スカートの下からアサルトライフルが出てくる。
「いやいや待って、なんでそこでライフルが出てくるんですか! っていうかどうやってしまってたんですか!」
「別に代役ちゃんがいなくなれば主役だなんて思ってないですから大丈夫ですよ、うふふふ」
『おい目がマジだぞ』
「くちだけわらうなんてシスターさんきようだなー」
「そうですよね。あははは。とりあえずそれをしまってくれると嬉しいなって」
 無言で取り出したアサルトライフルをスカートの下にしまいなおす。これもまた妙な光景である。
「それで代役ちゃんはどうしたいー、しゅやくちゃんになりたいってことでいいのか」
「いや、一応種族が代役なので、主役にはなれないんですよ」
『よく分からんがなんだか難儀なやつだな』
 とりあえず役割が代役であることは認めているので、主役じゃなくてもいいらしい。種族代役の生態は謎である。
「それでもわたしは代役であって単なる便利屋じゃないんです!」
「代役ちゃんは突っ込みや進行がいない時、自分から代役買って出てますからね。買って出るというか気づいたらその役目をしているというか」
『それで便利屋と呼ぶなっていうのも無理な話だ』
「うわーん!」
 結局どうあっても便利屋という道からは逃れられなさそうである。ついでに場のメンツが濃い時の弄られキャラにもなるので、扱いが雑になるのはどうしようもない。
「こまったときの代役ちゃん、それでみんなたすかってるからいい。みんなおもしろキャラだったら、しゅうしゅうがつかなくなるとおもうー。代役ちゃんはみんなのおたすけキャラ、それでじゅうぶんりっぱだぞー」
「へっどちゃん……!」
 あっさりと目をうるうるさせ始める代役ちゃん。いつにもましてちょろい奴だな、とチャックちゃんのスケッチブックには書いてある。おそらく人に言うつもりではない言葉なのだろうけど、シスターさんはそれを見てうんうんと頷いていた。
「きっとそういう流れなので、仲間に慰められるキャラという役をしてるんじゃないでしょうか。それより私にはへっどちゃんがあからさまな事態収拾の言葉を吐いてるのが気になるんですが」
『気にはなるが、流れ的にここで切り上げてうやむやにしてしまうのがいいんじゃないか』
「それもそうですね」
 グダグダに丸め込まれておわる。


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作者: 登場ゴースト:

再開の物語

 古い図書館に足を踏み入れる。歩みに合わせて幾星霜の間に積もった埃が舞い上がり、長らく人の訪れがないことは明白だった。空気は乾いていて黴臭い。辺りには誰も居ない。人どころかありとあらゆる生物がいないのか、静寂の中に響くのは自分の足音だけだった。
 まるで廃墟のように、一部の壁は崩れ、本棚も倒壊しているものがある。円形の建物であるこの図書館の中央付近には吹き抜けがあるのが見て取れ、3階建てであることが分かる。吹き抜けの周囲を石造りの通路とエボニーの黒光りする本棚が、回廊のように取り囲んでいる。在りし日には荘厳な佇まいであったことだろう。
 吹き抜けの天井は高く、一部が崩落し床に残骸が積み上がっている。おそらく吹き抜けの下には椅子とテーブルが並ぶ憩いの場となっていたと思われるが、今は崩れた天井と共に瓦礫の山と化していた。穴の空いた天井からは青空が見え、日が差し込んでいる。
 1階の本は、雨が吹き込むためか、ボロボロに崩れている。風雨に晒され固まった本は、その表紙のインクも滲み、綴られていた内容が失われてしまっている。金の箔がされていたであろう豪奢なハードカバーも、朽ち果ててかろうじて本らしき形状をとっているにすぎない。
 足を進めるたび、埃が舞い上がり、それが差し込む日光に照らされて光り輝いている。時の隨に崩れてゆく図書館は、移ろいゆく儚さがベールとなって覆いかぶさっていた。
 静かだった。ここならばきっと会えるような気がした。本の精霊か、あるいは悪魔に。
 2階の朽ちた手すりを見やりながら、回廊の本棚をめぐる。1階と比べればまだ本の状態は良好だ。それでも風化しかかった表紙や日に焼けた小口は、本の好事家には許せないものであるだろう。吹き抜けを見下ろす閲覧テーブルが、それを憂うかのように並んでいる。
 探していた本は、そこにあった。

 本は、古びたテーブルの上にあった。まるで到着を待ちわびるかのようにひっそりと置かれていた。以前と変わらぬ赤いハードカバー、タイトルのない枠だけが金で箔押しされた装飾。それは以前見慣れたあの本に違いなかった。手をかざすと、それはひとりでに開き、中から影とも煙ともつかない黒いものが現れる。それが見る見るうちに広がり、人の形を取った。
 白いブラウスと黒いスカートを身につけた司書のような姿が目前に顕現する。豊かな金髪とスカートが風もないのになびく。いくつもの本がふわりと浮き上がる。
「やあ、キミか。久しいな。3年、いや5年ぶりかな。それとももっとだろうか」
 無表情に、人型は言う。朗々とした声が静寂を破り響き渡る。宝石のような真紅の瞳がこちらを見つめる。静かな叡智をたたえたその相貌は、完璧に整った美しい形をして左右対象に見え、それが人ならざるものであることを如実に表している。豊かな胸元と合わせて、人によっては、芸術品あるいは女神のように見えることだろう。周囲に浮かぶ本のページがぱらりとめくれる。その神秘的な調和の中、彼女は言葉を続ける。
「暇すぎて死ぬかと思ったぞこのやろー。こっちの世界に出入りするようになってからは人と同じ時間を過ごしてるんだ。退屈だぞ、分かるか何年も一人だぞ。放置プレイにしてもあんまりじゃないか。これだけ我慢したんだから可愛い女の子のぱんつくらい拝ませてくれよ」
 濁りのない透き通った声で彼女はそう言った。

 彼女、カタリと出会ったのはいつのことだっただろうか。
 祖父が亡くなり、その財産があらかた親戚筋に食いつくされた後、残されたのは僻地の別荘だけだった。二束三文の土地に、古い建物。価値などほとんどないのは明白だった。ただ、その地下には蔵書の山があった。入り口はまるで隠し階段のようになっており、除湿機の換気口に気づかなければ、存在を知ることもなかっただろう。わざわざ僻地に作られていたのは、本を保管するためだったのは間違いなかった。
 そこには絶版となった本、個人出版、学術書など、稀覯本の類が誰も知られず静かに眠っていた。その奥底、埃臭い本棚の一角に、カタリが具現化する媒体である、題名のないハードカバーは納められていた。
 出会った当初からなぜ女の子じゃないのかとことあるごとに文句を言われ、なぜかおっぱいの素晴らしさを延々と語る。どういうことか見た目に反して中身が完全におっさんだった。知識もまた妙に偏っており、同人誌だとかそういった風俗文化に通じており、ことあるごとに、スカートとハイソックスの間のふとももだとか、興奮するシチュエーションを延々と語り始める。彫像のような彼女が大衆文化を嬉々として、かつ無表情で語るのはシュールなものがあった。
 カタリは媒体の本を開くと現れるため、本自体に何が書かれているかは分からない。彼女に聞いてもよく分からないと言われるばかりだ。その上、彼女自身の本体というわけでもなく、いうなればゲートのようなものであるらしい。なぜかこのゲートという言い方を彼女は至極気に入っており、よく使いたがる。彼女そのものについても、ここではないどこかにいるというだけで何の情報も得られなかった。
 人の形を取るものの、彼女自身はほとんど人と関わったこともないようで、人間社会で暮らすのはほとんど不可能なほど知識が欠如している。ただ物語を紡ぎ、本を読むことにだけ特化したような、そんな存在だった。とりあえず分かっているのは、本に囲まれた人気のない環境でないと彼女は具現化出来ないということだ。
 きっと地下室から彼女の媒体を持ちだしても、それは消失してしまうのだろう。そして具現化出来る環境に、ひっそりと本として現れるのだろう。
 最初は興味本位で会っていたのだが、彼女が物語を聞かせてくれた時、世界が一変した。ただ朗読するだけであるはずなのに、幻影のような怪しい物語が、まるで実際のことのように目の前で展開されていく。明瞭なよどみのない声は、世界を変えてしまうほどの影響があった。
 カタリの声は天上のベルとなり、物語は楽譜となる。カタリが語り騙る時、物語は旋律になる。

 そうして彼女と出会い話を聞くため、事あるごとに別荘を訪れていたのが裏目となった。地下の書庫の存在が明るみとなり、それは遺産であるとされた。それらは換金され分配されることが決まり、わずかばかりの金を握らされ、彼女の居場所は失われた。
 それから、廃墟を巡ってみたり、図書館を巡ってみたりしたものの、あの本を見つけることは出来なかった。
 透き通った美しい声で紡がれる物語を、ただもう一度聞きたかった。至高のストーリーテラーによる語りを、耳に刻みたかった。彼女の声は録音に残らないし、それどころかその姿も映像に残らない。
 災害で破壊され、廃棄された図書館の存在を知った時、カタリがそこにいると確信した。いてもたってもいられず、遠い異国の地へ旅だった。

 あらかた話を追えると、ふわりふわりとはためく本の中、カタリは無表情に口を開く。
「そうか言われてみれば、なんとも変な場所だ。ただ本が壊れゆくのはすこしばかり、いやかなり気に入らない。だがキミに言っても詮無きことか。今しばらくはここを私の場所とすることにしよう」
 周囲を見回して、彼女は無表情にそう言う。
「しかしなんだ、キミも災難だな。まあ稀覯本というのは、蒐集家にとっては宝の山だ。金の臭いを嗅ぎつけられたのは迂闊だったとしか言いようがないな」
 すっと目を閉じる。
「ただ、キミにそこまでして探してもらえたのは、そうだな、悪い気はしない。こういう時、人間ならどんな反応をするんだろう。あいにく私にはそういった感情の機微はないんだ」
 長いまつ毛のまぶたの奥から現れたルビーのような瞳の輝きが、こちらを見つめる。
「まあ、私に出来るのはただひとつだ。キミが求めるのなら答えようじゃないか。どの話がいいんだ?」
 物語が、始まる。


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