伺か一次/二次創作SS企画「SSうか2」

注意事項

作者名: 登場ゴースト:

女の子が立っている

 かしゃり。
 良い音を立ててペプシコーラの缶の栓を開けると、そのまま一気に飲み干す。冷たく甘ったるい炭酸が喉の奥へ濁流のように流れ込んだ。
 Uはすっかり空になった缶を机の上に置きながら、うろんげな眼差しを向ける。
「……女の子が立っている?」
 彼の机を取り囲んでいる数人の生徒達はUの方を無言で見守っている。放課後の二度目のチャイムの音が、居残っている生徒達を急き立てるように鳴った。
 Uは嘲るような表情を浮かべて、生徒達を見まわす。
「はっ、何それ、それだけ? 女の子が立っているから何? だから何?」
 Uは苛立ちを隠そうともせず挑発的な口調で畳みかけた。生徒達は意味ありげに目くばせする。
「何って言われても……ねえ?」
「そのままの意味だよ、そのまま」
「他に何とも表現のしようがないから」
 彼らが口々に返してきた言葉には、どこか湿気た響きがあった。
 どうにも気にくわない。
「馬鹿馬鹿しい」
 Uはそう吐き捨てるように言うと、勢い良く鞄を担いで座席から立ち上がり、教室の出口に向かっていく。
 そんなUを追って一人が、さっきも聞いたいかにもくだらない怪談をもう一度繰り返し投げかけたのだった。
「ほんとにさ、気をつけた方が良いよ、4時44分、渋谷駅前の横断歩道の交差点に立って大型テレビジョンを見上げてはいけない、って……女の子が立っているから」
 無視して教室の扉を乱暴に閉じた。
 4時15分。


「次は、高田馬場、高田馬場、お降りの方は――」
 Uは電車に揺られていた。パープルカラーのiPod nanoから流れるお気に入りの曲に目を閉じて聞き入っている。
 怪奇現象なんて、はっきり言ってまるで信じていない。さすがにもうそんなものを本気で信じる年齢ではない。
 あいつらは馬鹿なんじゃないのか? それとも俺をからかってるのか? そうなのかもしれない、いやきっとそうなのだろう。そんな風に推し量るとにわかに腹が立ってくる。
 Uは苛々に任せて曲の音量を上げて、より自分の世界へと深く没入していく。外界の感覚が遮断されて、エレクトロニックなメロディーだけがイヤフォンを通して身体に染みていった。
 どいつもこいつもくだらねえことばかり捲し立てやがって死ね、死ね、消えちまえ――
 どす黒い思考の渦に身を浸し始めた頃、ふっと何かが脳裏を掠めた。赤……赤い……赤い服を着た……少女のような何か……
 Uはどきりとして、肩を揺らした。思わずイヤフォンを外して、辺りを見回す。
 早めの帰りだったせいか車内は若干空いていた。買い物を終えた主婦は荷物を確認しているし、早帰りらしいサラリーマンは器用に立ったまま居眠りしてるし、女子学生は二、三人で固まって他愛ないお喋りに興じている。
 何の問題もない、いつも通りの光景だ。ほっと息をついた。
 怪談なんて全く気にしていないつもりだったけれど、どうも多少は心に引っ掛かっているらしかった。UはiPodの電源を切って鞄に仕舞い込みながら、物思いにふける。
「女の子……ねえ……トイレの花子さんみたいなもんだろか……」
 本当にそんなんがあるなら、いっそ確かめてみようか。もしかしたら丁度良い暇つぶしになるかもしれないし。
「次は新大久保、新大久保、お降りの方は――」
 4時40分。


 人、人、人の群れ。目も眩むような込み具合。それでもそれぞれ意思あるものが自分の通る道を無理なく見つけ通り過ぎてゆく様というのは、実のところ見事なものである。当たり前の情景過ぎて誰も気に留めないが。
 白線を睨んだまま、Uは歩いた。歩いて、歩いて、丁度交差点の真ん中でぴたりと立ち止まった。後ろから来る人の邪魔になることなど気に止めずに。周りの人々は迷惑そうな顔をしながらUを避けてまた先へ先へと進む。
 4時44分。
 Uは顔を上げた。高層ビルが高さを競って立ち並ぶ合間にどんより曇った灰色の空が見える。大型テレビジョンでは人気アイドルがひらひらした衣装を身に纏って新曲を歌っている様子が放映されていた。
「……へっ、何もねーわ……やっぱりあいつら……」
 笑みを浮かべたその瞬間――世界が、見慣れた情景が、大型のテレビジョンが、立ち並ぶビルが、人混みの波で満たされた交差点が、消えた。
 ザザッという耳障りな音。可視範囲を満たすノイズ。驚いたが、一度瞬きするとすぐにノイズはさっと引いていった。
 しかし、異変は明らかだった。Uは呆然とテレビジョンを見上げる。テレビジョンの中にはつい先ほどまで歌って踊っていたアイドルはいない。
 代わりに真っ白な空間を背にして、女の子が立っている。女の子は真っ赤な服を着て真っ赤なリボンを頭につけ、白いうさぎの縫いぐるみを片手に引き連れて、真っ赤な瞳で、こちらを無表情に見つめている。
「……」
 Uは棒立ちになっていた。テレビジョンの中の真っ赤な一対の瞳は、射抜くようにUの姿を捉えており、身動きができない。
 思考がぐるぐる回り出す。何だこれは? ほんとにあいつらが言ってたあれなのか? そうじゃないよな? 大丈夫……いや駄目だ一旦引くか? どこへ、取り合えず歩道を渡って……
 まるでUの狼狽を見透かすようにテレビジョンの中の少女がにたりと笑った。「逃げられないよ」とでも言いたげな面差しで。
 Uはぞっとして、棒立ちだった足を魔法が解けたように後方へとよろめかせた。
 反射的に逃げ場を探して泳いだUの視線は、更に恐ろしい事実を捉える。辺りからは洪水のような人の群れが元より何もなかったかの如く消え去っていた。
 代わりに、存在していたのは――
 駅ビルの窓に女の子が立っている。歩道橋の上に女の子が立っている。コンビニの駐車場に女の子が立っている。電柱の隣に女の子が立っている。街路樹の上に女の子が立っている。喫茶店のテラスに女の子が立っている。
 あちこちに疎らに立っている女の子はほとんど微動だにせず、一斉にこちらに視線を注いでいる。血のような冴えた赤のスカートをたなびかせながら、燃える炎のように沸き立つ赤い瞳で。
「うわああああ!」
 Uは気づけばなりふり構わず全力で駆け出していた。取り落とした鞄が、その場にどさりと投げ出された。
 どこへ向かう? どこへでも良いどこかへ。静かな、誰もいなさそうな場所へ……歩道を引き返し右へ左へ曲がる曲がる。
 しかしどこに行っても女の子が立っている。パン屋の裏にも女の子が立っている。中華料理店の看板の上にも女の子が立っている。路地裏の向こうにも女の子が立っている。
 じっとこちらを見ている。
 Uは込み上げてきた嘔吐感を飲み込みながら次々と闇雲に建物の角を曲がった……どこをどう通ったっけ。そんなの、すぐ分からなくなった。
 4時44分。


「くそっ何なんだっ!」
 息を切らせながら、カビ臭い香りのする倉庫の内部に潜りこむ。あちこちに段ボールが積み立てられていて歩きづらいが、隠れるのには困らなさそうだ。何とか死角になりそうな場所を見つけて、じっと息をひそめる。
「あれは一体なにもんなんだ……? 女の子……? 違う、あれは……きっともっと別の何かだ、この世のもんじゃねえ……」
 段ボールの影で体育座りをしながらぶつぶつ呟く。独りごとなんて言っても何にもならないが、何か言っていないと気が狂いそうだ。
「大体女の子って何だよ、意味分かんねえ。古今東西十代前後の女性をモチーフにした怪異はそれはもう腐るほどあるが、それでもこんな抽象的な呼び方はないだろ常識的に考えて。それともあれか形而上学的なあれなのか? いやいや概念的な存在なら娑婆に出てくんな!」
 思わず叫んでしまい、慌てて口を塞いだ。落ちつけ。
「せめてさ何かもうちょっと上手い言いようあるんじゃないか……駅前の真里さんとか……駄目だこれじゃあんま怖くない……」
 自分でも訳が分からない考えをありのままに出力していると、ふとすぐ側に影が差していることに気が付いた。
 唾をごくりと飲み込む。何だか寒気がしてきた。
「ねえ……私の上半身知らない? ずっと探してるんだけど」
 投げかけられたのはトーンの高い、しかし無機質な声。
 見てはいけない。本能が告げている。それなのに、視線は自然とそちらに吸い寄せられた。
 そいつと目は合わなかった。合わせられなかった。目がないんだもの。目だけじゃない鼻も口もない。発声器官がないのにその声は一体どこから発したのか。
 Uの隣には……下半身だけの女の子が立っている。上半身は文字通りない。それはもう、ばっさり。
「ああああ」
 Uはまた駆けだす。積み上げられた段ボールを乗り越えて、倉庫を後にする。
 4時44分。


 人がいない。いや正確には女の子以外の人がいない。女の子ならそこら中にいる。
「こ、ここならさすがにいねえだろ……」
 Uはぜいぜい息を切らせながら大型雑貨店の屋上へと駆け込んだ。途中エレベーターで女の子に出くわして心臓が止まるかと思ったが何とか振りはらい最上階まで階段を駆け上がってたどり着くことができた。
 タイルが敷き詰められた広い屋上に人の……女の子の姿は見当たらない。やっと息をつけそうだ。Uはフェンスに手をかけて、心地良いそよ風に当たった。
「……はあ」
 どうしてこんなことになったのだろう。日頃の行いが悪いとか、そういうことかな。
 だけどそんなの仕方ないじゃないか悪いのは……あいつらの方なんだから。
 そんなどうしようもないことを取りとめもなく考えていると、感傷は唐突に遮られた。何故なら異様な轟音が、耳に無理矢理入ってきて鼓膜を凄まじく打ったから。
「……」
 開いた口が塞がらないとはこのこと。灰色の空の向こうから、一直線に向かってくる白い機体。それに先行して猛烈に吹きつける突風。頭に容赦なくがんがん突き刺さって来るエンジン音。
 とても信じられない。超絶低空飛行で近づいてくる飛行機の機首の上に、女の子が立っている。
「う……そだろ……」
 あの女の子は機体に張り付いているのだろうか。いっそあれも機体の一部なのかもしれない。微動だにしない。髪も乱れない。さっきから存在感薄いが連れられているうさぎも同様。すごい。
 明らかに物理的におかしい図だが、いくら目を凝らしてみても確定的に明らかだった。こちらに向かってぐんぐん大きさを増していく飛行機の上には確かに、船首像よろしく女の子が立っている。
 女の子はにこりと微笑んだ。口を動かしたが、爆音でなんて言ったかまでは聞こえなかった。
 でも何となく、「だいじょうぶこわくないよ」って言ったような気がした。何故かは分からないが。
 4時44分……普通に時止まってるわこれ。


 LINE上でのやり取り。
 明日空いてる? 飯行こう飯。サイゼリアで良いよな? 17:55
 良いな。でもさっきからUと全然連絡取れないんだけど 17:56
 U? あいつは良いんじゃないか放っといて 17:56
 そうかな 17:56
 そうそう。いっそもう誘わなくて良いんじゃない。何かさ、見下してるような態度でむかつくんだよなあいつ 17:57
 女の子が…… 17:57
 ん? 何? 17:57
 なんでもない 17:59
 6時00分。

 人、人、人の群れ。目も眩むような込み具合。それでもそれぞれ意思あるものが自分の通る道を無理なく見つけ通り過ぎてゆく様というのは、実のところ見事なものである。当たり前の情景過ぎて誰も気にも留めないが。
 交差点の真ん中に学生鞄が落ちている。踏まれて滅茶苦茶だ。口が開いてパープルカラーのiPod nanoが半ば飛び出している。
 それを何気ない動作で拾い上げると、女の子は口元だけで笑った。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

「人形さん、クリスマスプレゼントはドールハウスでいいですよね」

ノアはそう言いながら私に雑誌を広げて見せた。
どうやらミニチュアのカタログのようだ。

どのページにもミニチュアの部屋の写真が載っている。
大きな暖炉、花柄のラグ、隅には豪華な柱時計。
細部まで丁寧に作られた家具や調度品が西洋風の部屋に並んでいた。

精巧な内装の一つ一つを見ていると、まるで自分がその中にいるような錯覚を覚えた。
しんしんと降る雪の夜、ロッキングチェアに揺られながら本を読む。
暖炉の火の暖かさに包まれていると、ついうとうとと寝入ってしまう。
ふと目が覚める頃には、時刻はすでに深夜を打っているのだろう。

写真のアンティークな部屋は、そんな穏やかな生活の夢を見せてくれる。
それが楽しくて、私もドールハウスを見るのはなかなか嫌いではない。
しかし、無粋にもそんな空想から私を引き戻したのは憎きライバルの声だった。

「これなんか人形さんにぴったりだと思います」

ノアはとても天使とは思えないような下卑た笑いを浮かべて、ぱらぱらとページをめくって写真の一つを指差した。
そこには洋風のキッチンが写っていた。

「体が小さいと家事が大変でしょう? 困っている人を助けるのも天使の務めです。遠慮しなくてもいいですよ、人形さん」

確かに私は人よりも体が小さい。
料理をするときだって、人よりも動き回らなくてはいけない。
私は幽霊なので、ちょっとした幽霊パワーというやつで補えることもあるが、それでも大変なのには違いない。
自分にあったサイズのキッチンでもあればと思うことも度々あるのだが、それとこれとは話が別で私はミニチュアの家に入れるほど小さくはない。

気が付くとノアが私を見てニヤニヤと笑っていた。
腹が立ったので、その顔面に右ストレートを叩き込んでやった。

「いきなり何をするんですか! 人の好意を無下にする気ですか、人形さん!」

ノアが鼻頭を押さえながら声を荒げる。

「やかましい! そんなもん好意でもなんでもないわ! エロ天使!」

人気の少ない道端に私たちの罵声が飛び交った。
私とノアとの間では日常茶飯事だが、いつもシェリルは止めに入ってくる。

「ふ、二人とも落ち着いてー!」

シェリルはあたふたしながらそう言った。
しかし、一度始まった喧嘩はもう止まらなかった。

「痛っ……! 何すんのよ、このムッツリ!」

ノアが私に突っかかってきてカチューシャを奪い、髪を引っ張った。
すかさず私はノアの背中に生えた翼をつかむ。

「痛い痛い! 羽をむしるのは反則ですよ人形さん!」

ノアは私を引きはがし、カチューシャをとってみろと言わんばかりに頭上に掲げた。
手を伸ばすが、私の身長ではとても届きそうにない。

「人形言うな! だいたい、この体格差だって反則じゃない!」
「あっ、人形さん、今小さいって認めましたね!」
「この減らず口が!」

カチューシャを取り返すのは諦めた私は跳び上がり、ノアの天使の輪を思いっきり蹴っ飛ばしてやった。

「あっ……!」

輪は飛ばされて電柱に当たり、思いもよらない方向に跳ね返る。
その先には、たまたまこの道を通りがかった二人分の姿があった。

「危ない!」

私は叫んだが、幽霊の声が聞こえるはずがない。
輪は真っ直ぐに飛んで、白い髪の少女に当たるかと思われた。

「え?」

その少女が振り返った瞬間、鋭い音が響いた。
そして、気が付いたときには、彼女の足元に真っ二つになったノアの輪が落ちていた。
何が起こったのかよくわからなかったが、それは彼女たちも同じらしい。

「な、何……? 急に蛍光灯が飛んできた……?」

白い髪の少女は困惑した表情で言った。
隣を歩いていた紫の髪の少女もぽかんとして見ている。

「ああああ!?」

呆然としていた私は、ノアの叫び声で我に返る。
ノアが二つになった輪を拾い上げて言った。

「どうしてくれるんですか、人形さん! 私の輪が真っ二つに!」
「……悪かったわよ。はい、糊」
「糊で直せるわけないじゃないですか!」
「じゃあボンドでいい?」
「どっちでも同じですよ!」

そう言いながらもノアは輪の切れ目にボンドを塗っていた。

「えっと……」

白い髪の少女が戸惑っている。
急に変な輪が飛んできて、それについて他人が目の前で言い争いを始めれば当然の反応だろう。
とにかく、まずは彼女に謝らないと……。

「……ごめんなさい。私がこれを蹴飛ばしたから、それで……。あなた、怪我とかしてない?」
「うん、大丈夫……」

白い髪の少女はそう言った。
その時点では妙な違和感を感じたのだが、動転していたので深く考えないままになってしまった。
とにかく、ぱっと見る限り、どこにも怪我した跡はなかったので、私は胸をなでおろした。

「すごーい! ねえねえ、今のどうやったの!?」

しかし、私の疑問はその声で遮られた。
心配して近づいてきたシェリルが興奮した調子で尋ねる。

「それは、その……」
「シェリル、この子困ってるじゃない……」
「えー、だってー……」

シェリルが頬を膨らませる。
すると今度は紫の髪の少女が目を輝かせて言った。

「ねえ、その輪って蛍光灯じゃなかったの?」

シェリルが嬉々としてその質問に答えた。
まるで自分のことのように胸を張って答える。

「これは、ノアちゃんの輪っかだよ!」
「輪っか……?」
「うん、ノアちゃんは天使なんだー!」

それを聞いて彼女は驚いた。

「へえー! わたし、天使って初めて見た!」
「どうも、ノアです。天使やってます」

天使の輪はいつの間にかノアの頭上に戻っていた。
……本当に木工用のボンドで直ったのだろうか。

それからも紫の髪の少女はノアを質問攻めにしていた。
天国は本当にあるのか、天使は普段何をしてるのか、などだった。

そこで、私は見過ごしていた違和感の正体に気づいた。
私たちの会話が成立していることの不自然さに。

ノアの姿は誰にでも見えるのだが、私とシェリルは少し違う。
私たちは幽霊だ。
だから、霊感や霊能力というものを持っていない限り、人間に見えるはずがない。
それにも関わらず、彼女たちは私たちの姿を見て、声を聞き、普通に会話している。
まさか、二人とも霊感があるのだろうか。

「…………ところであなたたち、幽霊が見えるの?」

私が呟くと、皆もようやくこのおかしな状況に気が付いたらしい。
二人はきまりが悪そうな表情をしていた。

「確かに、私が天使であることを何の疑問もなく受け入れてたので、不思議だとは思ったのですが……」
「そういえば……、私たちが見えるんだね! すごい! 二人とも魔法少女とか?」
「幽霊を見るのに魔法少女とか関係ありますか……?」

すっ呆けた会話をしているシェリルとノアをよそに、彼女たちは困ったように目を合わせていた。
どうやら私たち以外の人の目を気にしているらしい。
きっと、彼女たちも何か事情があるのだろう。

「…………家に来る? 誰にも聞かれないから。別に、無理にとは言わないけど……」
「そうだねー。ここで立ち話もなんだし、寄っていってほしいな」

シェリルは笑顔を浮かべた。
きっと、自分が見える人に会えて嬉しいのだろう。
もしシェリルに友達が増えるなら私も嬉しい。

「ええっと、じゃあ……、お邪魔します……」

白い髪の少女がおどおどしながら言った。

----------------------------------------------------------------------------

「へえ……。それじゃあ、二人ともお人形さんなんですか」

ノアが感心したように言った。

「人工精霊を宿した自律人形……。まるで、漫画みたいだね……」
「……私たち幽霊や天使だって漫画みたいな存在でしょ」
「あ、それもそっか。でも、すごいなぁ……」

シェリルは目を光らせながら、二人を見つめている。
正面に浮かんだり、上から眺めたり、背後に回ったり……、よっぽど彼女たちが気になるようだ。

「私も、幽霊や天使がいるなんて、思わなかった」

白い髪の少女、ミラが言った。
右目は赤、左目は紫の、いわゆるオッドアイの女の子
ちょっと大人しい印象で、表情はあまり多くないように思うけど、優しくて淑やかな笑顔が綺麗な子。

「もう、本当にビックリしたよね。天使が同じ町に住んでて、しかもその輪っかが飛んでくるなんて……」

紫の髪をした少女は、ベル。
リボンを結んだツインテールで、両方の瞳は髪と同じアメジストのような紫色。
ミラとは反対に活発な感じで、表情が豊かで、周囲に元気を与えてくれるような、明るい子。

服装は二人とも同じで、ブラウスとスカートを着ている。
一見すると普通の女の子だけど彼女たちは人形で、全てを理解できたわけではないが、人工精霊という錬金術で動いているらしい。
あまりにもファンタジーすぎる説明だったので、その証拠に球体関節を見せてもらったのだが、ますます驚きが隠せなかった。
そして、何より二人とも可愛いと思う。

「それは、まあ、私たち喧嘩してたから……」
「それより、さっきはどうして輪っかが真っ二つになっちゃったの?」

シェリルが口を挟んで尋ねた。

「あれは、防衛のために錬金術の仕掛けで剣が自動で現れるものだから……」
「すごーい! 二人とも魔法少女だったんだ!」
「いえ、ミラさんとベルさんは人形です。シェリルさん、ちゃんと話聞いてました?」

ノアが訂正する。

「それにしても、同じ人形なのに、人形さんとは全然違いますね。可愛いですし」
「……人形言うな、ムッツリ天使」

今度はベルが私に話しかけてきた。

「あの、ミィさんも、人形なんですか?」
「……まあ、ね。あと、別にそんなに気を遣わなくてもいい」
「そう?」

私が返事をしないでいると、ベルは困ったように見つめてくる。
沈黙が少しだけ続く。
何か、不用意な発言でもしてしまったのだろうか。

そこでノアが口を挟んできた。

「こっちの人形さんはツンデレなだけですから、ベルさんは心配しなくていいですよ」
「この二人に対しては言わないくせに、私には人形って言うのね」
「小さい人形さんとは比べ物にならないぐらい、お二人は可愛いですからね。あと自分で認めてるかどうかもポイントです」
「私だって自分で認めてるわ!」
「それはそれ、これはこれです」
「んだとテメー!」
「あはは……」

ノアと口論になったが、喧嘩には至らなかったのが幸いだったと思う。
さすがに仲良くなったばかりの人たちの前で見苦しいことはしたくない。
それはノアも同じだったらしく、その場が悪化することはなかったが、私たちの間には火花が散っていた。
シェリルとベルはそんな私たちを見て、苦笑いをしていた。

「ベルちゃん、ミラちゃん! お人形さんの二人を見こんでお願いしたいことがあるんだけど」

シェリルが思い出したように言った。

「あのね! ちょうどメイド服あるんだけど、二人に着てほしいなって……」
「あんたねぇ、いきなり何を言うかと思えば……」
「やっぱり、だめかな?」

控えめに尋ねるシェリルに、ベルが答えた。

「コスプレするぐらいならいいよー」
「本当!? じゃあ早速、どうぞ! あ、こっちの部屋で着替えてきてね!」

シェリルが嬉しそうにメイド服を手渡した。
一着はベルが、もう一着はミラが受け取る。

「……本当にいいの?」
「まあ、普段からコスプレしてるようなものだからね……」
「ふぅん……」

一口に人形と言っても様々な種類があるものだ。
雛人形のように飾っておくものもあれば、着せ替えて楽しむ人形もある。
彼女たちはたまたま後者のような性格なのだろう。
それなら別に抵抗もないだろうし、二人がいいと言っているのだから、何も問題はない。
しかし、私はどこかに何故か釈然としない気持ちを抱えていた。

----------------------------------------------------------------------------

しばらくすると、ベルが扉を開けて戻ってきた。
初めて会った時の服装ではなく、フリルがあしらわれたメイド服の姿で。

「じゃーん! メイド服ベルちゃんだよ!」
「ベルちゃん可愛いー!」
「って、あれ。ミラは……?」

ミラは扉の向こうに隠れていた。
照れながら顔を出してこちらの様子を伺っている。

「どうしたの、ミラ。早く出てきなよ~」
「だってみんなの前だと、ちょっと恥ずかしい、し……」
「そんなの、気にしなーい!」
「わっ……、もう……」

ベルが少々強引にミラを引っ張り出す。

ミラはベルの後ろに隠れた。
私の位置からは見えているのであまり意味はないが、まあ気持ちの問題なのだろう。

「シェリル、どうかな?」
「うんうん! 二人ともメイド服よく似合ってるよー! とっても可愛い!」
「えへへ、ありがとー!」
「……ありがとう」

私は二人を見た。
感想は言うまでもなく、似合っていると思う。
普段から着るために慣れているのだろう、二人ともメイド服を自然に着こなしている。

「そうだ、あれ言って! あのセリフ!」

シェリルは言葉足らずな説明で催促するが、二人はそれだけで合点がいったようだ。

「お帰りなさいませ、シェリルお嬢様」

ベルはスカートをつまんで恭しく一礼した。
カーテシーまで丁寧にするところに彼女のノリの良さが表れていると思う。
続いてミラも恥ずかしそうに同じ振る舞いをした。

「みーちゃん、今の聞いてた!? お嬢様だよ、お嬢様! えへへ、シェリルお嬢様かぁー」
「……あんたはそんな柄じゃないでしょ」

私の突っ込みは届かなかったようだ。
嬉しさのあまりに顔が赤くなったり、笑顔になったり表情がくるくると変わる。
かと思えば、今度はシェリルは次に着せる衣装をどれにするか選ぶのに夢中になっている。

「ベルちゃん、次はこれを着てほしいな!」
「モチのロンよ! って今度は、着物? ミラ、着付け手伝ってー!」
「……はいはい」

二人は着物を持って再び別の部屋に移動する。
またしばらくして、ベルが艶やかな着物を着て戻ってきた。
メイド服のままのミラが隣にいるので付き人を連れているように見えるが、それにしては随分とミスマッチな光景だ。

「これこれ、一度やってみたかったんだー!」

シェリルがベルの着物の帯を引っ張っていた。
ベルがそれにつられて回っている。
一体何の時代劇なのか。

「おやめくださいまし、お代官様~」
「よいではないか、よいではないか」
「あ~れ~」

まさか、シェリルはこれをやるためだけに着物を選んだのだろうか……。

「次はゴスロリ!」
「おっけー!」

それからもシェリルは次から次へと何か衣装を取り出してきて、二人に着せて遊んでいた。
セーラー服や体操着、巫女さんの服、何かのアニメのキャラの衣装。
鈴の付いたリボンの服と黒のミニスカート、それから猫耳も持ち出してくるが、これは何のキャラクターの衣装なのだろう。

着せ替えの後、三人は格闘ゲームで遊んでいた。
ただ遊んでいるだけなのだが、シェリルは本当に嬉しそうだった。

それはそうと、あの衣装の山は一体どうしたのだろうか?
どこかで買ったわけではないだろうと思うが…………。

「この前、ユウちゃんにもらったの。なんか、ノアちゃんはそういうプレイも好きそうだからって言って」
「なるほど、ユウさんグッジョブです。ただ他の衣装はともかく、メイド服についてはフレンチよりもヴィクトリアンなスタイルが好きですね」
「いや聞いてないから」

とツッコミを入れられても、ノアは正統派だの可愛さの本質はプリムにあるだのとヴィクトリアンメイド服の素晴らしさについて延々と語り始めた。
しかし、シェリルはゲーム遊びに戻ってしまい、衣装を用意したユウはこの場にいないということで、ノアの無駄に熱がこもった講演を聞く役は消去法で残った私に回されてきたのだった。
それをほどほどに聞き流しながら、横目にシェリルを探す。
ミラとベルも意外とゲームをやるらしく、三人は同じ話題で盛り上がっている。

三人が楽しんでいるのだからそれでいいのだが、私はもやもやとした何かがずっと胸に引っかかって、素直に喜べずにいた。
それはシェリルの笑顔を見ていると私の内でどんどん大きくなっていって、大好きなはずの彼女からつい目をそらしてしまう。
そんな自分がつくづく嫌になる。
どうも、今日の私は調子が悪い。

「今度はわたしの勝ち! さあ、シェリルが着替える番だよ!」
「うー、あと少しだったのにー」
「一回ぐらいシェリルにもコスプレしてもらわないとね! それに負けたほうが着替えるって決めたのシェリルだよ?」
「むぅ、しょうがない……」

どうやら、ゲームの勝敗で誰がコスプレをするか決めているらしい。
シェリルは少しだけ悔しそうに隣の部屋に入り、やがてセーラー服に着替えて戻ってきた。

「よーし、次は負けないよ!」
「ふふふ、わたしの華麗なテクニックの前に敗北するがいいー!」
「ベルちゃんも覚悟してね! 今度は猫耳だよ!」

二人がお互いに勝利宣言を発しながらゲームを再開する。
ミラは二人の対戦を傍で眺めながら、「おしい」とか「二人ともがんばって」と言っていた。

私はというと、同じように話についていけないノアと気まずい雰囲気になっている。
また大喧嘩をするわけにもいかず、そうかと言って仲良くするつもりもないので非常に重い沈黙が続いている。
三人が気づかないままゲームで遊んでいる一方、張り詰めた空気の中で、私は精神がすり減るような思いでノアと牽制し合っていた。

「そういえば、うやむやになっていましたが、プレゼントはキッチンルームでいいですよね」
「あんた、もう一度その輪っか真っ二つにしてやるわよ」

この険悪な状況を知った上でも、ノアはさらに嫌味をぶつけてくる。
ここで喧嘩になったら三人がゲームどころではないのだが、私が怒ることを見越して挑発するあたり、ノアは相当意地が悪い気がする。

「あれ、ここで怒ってもいいんですか人形さん」
「怒らせてるのはお前だろうがムッツリ天使」

どういうわけか、今日のノアはしつこく突っかかってくる。
そんなに私を陥れたいのだろうか。
まったく、じっくりと物思いにふける暇もない。

「そうだ! みーちゃん、ノアちゃんも一緒にコスプレしようよ!」

突然、シェリルが言った。
しかし、今の私はとてもそんな気分にはなれないし、突然のことに緊張を解かれて拍子抜けしてしまった。

シェリルは私とノアを交互に見る。

私は目を合わせることができなくて……、それがまた辛かった。
そして、自分でも信じられないほど、ぞんざいな答え方をしてしまっていた。

「別にいい」
「…………みーちゃん?」

私は窓を開けて、茜色の空に向かって飛び出した。

----------------------------------------------------------------------------

特に行く当てもない私はふらふらと秋の空を飛び回っていた。
そのうち、うろつくことさえ気だるくなって、たまたま目についた川のほとりに降りた。

私は柔らかな草の斜面に座り込む。
目の前を流れる川を見つめて、ぼんやりと過ごしていた。

耳を澄まして聞こえたのは、ガタン、ゴトンとやけに遠くで響く音。
ちょうど川を少し下ったところにある陸橋を電車が走り去っていく。
最後の車両が町の中に消えるところを見届けて、ため息をついた。

西日を受けて、水はきらきらと輝いている。
風が優しく吹いて、なびいた髪が私の頬をくすぐった。

今日は晴れていて、暖くて心地の良い一日だった。
とても穏やかな秋晴れの日、それなのに私の心には雨雲が厚く覆っていた。

どうしてだろう、こんなにも陰鬱な気持ちになるのは――――――

シェリルに友達が増えて、嬉しいはずなのに、笑顔になれない私がいる。
シェリルに一緒に遊ぼうと誘われて、楽しいはずなのに、素直になれない私がいる。
よくわからないけれど、なんとなくつまらなくて、無愛想にしか話せない私がいる。
何回ため息をついても、この黒い異物は出ていかない。

私は横になった。
白い雲が空の高いところをゆっくりと流れていく。
あの風が、この胸にたまった黒いもやもやごと吹き飛ばしてくれないだろうか。
私は疲れて目を閉じた。

こんな気持ちになったのは初めてで、きっかけはミラとベルと仲良くなったことからだった。
二人ともとてもいい子で、嫌いになる理由なんてなくて、でもいまいち好きにもなれなかった。

だから、私はあの二人となるべく話をしないでいたし、目も合わせないようにしたつもりだった。
もっとも、会話が盛り上がっていた相手はシェリルだったので、私の懸命な努力も徒労でしかなかった。

考え込んでいると目蓋の裏にちらつくのは、遊んでいるときのシェリルの顔。
でも、今日の笑顔は私に向けられたものではなくて――――

その時、誰かが草を踏む気配がして、そちらに視線を向けた。
逆さになったノアが無表情で私を見下ろしていた。

「…………こんなところにいたんですね」
「あんた、何しに来たのよ……」

私は起き上がって悪態をついた。
ただでさえ誰とも話したくない気分だったのに、よりにもよってノアに見つかってしまうなんて。
ましてや、最悪な気分のときにまで喧嘩するなんてごめんだ。
とにかく今はノアを視界に入れたくなくて、前だけを見つめていた。

「人形さん。……隣、座っていいですか」
「嫌」

ノアは私の言葉を無視して隣に座った。
その様子が癪だったので、わざと間を開けて遠ざかる。
今度はノアが私に近寄って来ることはなかった。

「…………人形さん、いつまでそうやって拗ねてるんですか?」
「拗ねてない」

ノアがため息をついた。

「これは私の独り言です」
「あんたの独り言なんて聞きたくなんか……」
「ミラさんとベルさん。やっぱり、可愛いですよね」

私は思わず口をつぐむ。
考えていたことを見透かされたみたいで、とっさに言葉を返せなかった。
ノアはそれに構わず話を続ける。

「私は、ちょっとだけあの二人がうらやましいです」

予想もしない言葉に、私は少し取り乱してしまった。
まさか、ノアがそんなことを言うとは思ってもいなかったから。
横目に見たノアの表情は、どこか悲しそうだった。

「二人とも色んな服を着られて、おしゃれで、きれいで……。何より、素直で、可愛くて……」
「………………」
「特に、ベルさんはゲームでシェリルさんと気が合うみたいで……」

ノアは少しだけためらった後、ぽつりと呟いた。

「…………私も、あんな風におしゃれをしてみたい」

ノアは黙ったまま、鎖に繋がれた自分の両手を見つめていた。

何があったのか深く聞いているわけではないが、後悔はしていないらしい。
でも、まさかこんな形で拘束が恨めしくなるとは思ってもいなかっただろうに。

私はノアみたいに、拘束されているわけではない。
あの二人のように大きくはないけれど、自由に着替えることができる。

私だって本当は全く興味がないわけではない。
たまには可愛い服を着てみたい。
可愛い靴だって履いてみたい。
でもそれが気恥ずかしくて、シェリルに似合うといわれても受け入れられなくて。

それなのに、今はミラとベルが羨ましくて、こんな風にいじけている。
ただ、意気地になって、見栄を張っている私がいた。
なんて、みっともないんだろう。

それに比べてノアは、私よりも素直だったのだから。
私はそんな自分が恥ずかしかった。

もう一度ノアを見る。
自分に気づくきっかけをくれた彼女にお礼を言いたかった。

今にして思えば、さっきのしつこい挑発もきっと彼女なりの気遣いだったのだろう。
もしノアと喧嘩になっていたなら、私は飛び出してくるほど一人で思い悩むこともなかっただろうから。

こんなことぐらい、他でもない私がよく知っている。
ノアはそういうやつなのだ。

「ところで、人形さん」
「何よ、ムッツリ天使」
「ここにこんなものがあります」

ノアは突然、猫耳がついたカチューシャを取り出した。

「本当は無理矢理人形さんにつけてからかってやろうと思ったのですが……。あっ、ごめんなさい、殴らないで!」

私は振りあげた拳を降ろした。

「…………それで?」
「つけてみませんか?」
「……そうね。その話、乗ったわ」

自分のカチューシャを外すと解放された髪が風になびく。

ノアから猫耳のカチューシャを受け取って、まじまじと眺めた。
成り行きとは言え、自分からこれをつけることになるとは思ってもいなかった。
これから、らしくないことをするのだと思うと照れくさくて顔が熱くなる。

今、この瞬間を見ているのはノアだけだ。
覚悟を決めろ、私。

はじけてしまいそうなぐらい胸がどきどきする。
ギュッと目を閉じて、恥ずかしさで震える手をなんとか抑えて――――

――――カチューシャをつけた。

誰かが息をのむ気配がする。
おそるおそる目を開けると、驚いているノアがいた。

「…………なんか言いなさいよ」

私はうつむいた。
恥ずかしくて、顔を上げていられない。
ただスカートを握りしめて、答えを待っているだけの時間が実際よりも長かった。

「……可愛いですよ、ミィさん」

はっとなって顔を上げた。

「あ、あんた今、名前で……?」

可愛いと褒められたことよりも、ノアに名前で呼ばれたことのほうが驚きは大きかった。
でも、ノアはそれ以上は何も言わず、優しい笑顔で私を見つめていた。

風が吹いて、私の紅潮した頬から熱を運び去っていった。

「みーちゃーん!」

どこからか私を呼ぶ声がする。
聞き覚えのある声をたどると、土手の上で誰かが辺りを見回していた。

「シェリル!」

私の声に気づいたとたん、シェリルは一目散にこちらへ向かってくる。

「みーちゃん! よかった、こんなところにいたんだ……」

シェリルは息も絶え絶えに言った。

「あんた、あの二人とゲームしてたんじゃ……」
「そんなことないよ。ずっと心配して探してたんだから」

私は後ろから抱きかかえられる。
そのままの姿勢でシェリルは言葉を紡いだ。

「あのね、お人形さんの代わりはいくらでもいるけど、みーちゃんはみーちゃんしかいないんだよ」

私の上から、シェリルの声が優しく降ってくる。

「わたしは、みーちゃんのことが大好き。でも、もしみーちゃんがいなかったら、わたしさみしいよ……」

声はだんだん小さくなっていく。

「だから、もうどこにも行かないで……」

最後のほうは声が震えていてよく聞き取れなかったが、私の体に回された腕の力が強まったのを感じた。

「シェリル…………」

視界がぼやけてきた。
私はこみあげてくるものを必死で堪える。
でも、涙を見られたくない相手は、とっくにいなくなっていた。

――――あいつ、いつも変なところで気が利くんだから……。

誰も見ていないことがわかって安心すると涙が溢れてきた。
こみあがってきたものはもう止めることができなくて。
しまいには私は声をあげて泣いていた。

----------------------------------------------------------------------------

「ごめんなさい。あなたたちは悪くないのに、私、冷たく当たってた……」

家に戻ってから、私はすぐにミラとベルに謝った。

「ミィ、わたしたち別に気にしてないよ。ね、ミラ」
「うん、それに言うほど冷たいと感じてもいないから……」
「でも…………」

それ以上の言葉は出てこなかった。
なんて返したらいいのか、私にはわからなかった。

「それに、私たちこそ急にやってきて……。私たち似たもの同士なのに、ミィのこと全然考えてなかったね……」

逆に、ミラが私に謝った。それに続いてベルも同じように。
二人は悪いことなんて何もしてない、私が勝手に意気地になっていただけなのに。
私が黙ったままでいると、シェリルがなだめるように言った。

「そうやって思い込んじゃダメだよ。二人とも、自分も悪かったと思って言ってるんだから。みーちゃんはそう感じていなくても、受け入れなきゃ」

ここで私が受け入れられなかったら、二人がもやもやを抱えてしまうことになりそうで。
今度こそ仲良くなれそうなのに、そんなのは嫌だから。

「…………そうね」

ふと、笑顔がこぼれた。
胸のなかで淀んでいた黒いもやもやはもう影も形もなくなっていた。
私の様子を見て察してくれたのか、二人もまた笑顔になった。

少しだけ遅れてしまったが、ようやく友達になれた気がした。
今なら、私たちだって自然に笑い合える。

「ところでさ、ミィ。……その猫耳どうしたの?」
「あ……!」

私はとっさに猫耳を隠した。
猫耳カチューシャをつけたままだったのをすっかり失念していた。
急に恥ずかしさが戻ってきて、みるみる内に顔が熱くなるのを感じる。

「ノア、あんた……!」
「私は、それをあげただけです。それに、シェリルさんが来るとは思ってませんでしたから……」
「じゃあ、シェリル!」
「ええっ、わたし!?」
「あんたが来たおかげで、そのまま忘れてて……!」
「そ、そんなぁ……。わたし、みーちゃんが猫耳つけてたなんて知らなかったし……」

それもそうだ。
猫耳をくれたのはノアだが、つけることを決めたのは自分だ。
そして、外すのを忘れていたのも自分だ。
だから人のせいにするなんてお門違いだということは理解できる、理解できるのだが……。

「恥ずかしい…………」

慌てて外そうとするが、髪が引っかかってなかなか外れない。

「でも、似合ってるよ。ミィ、すごく可愛い」

ベルが制止の声をかけたので、私は手を止めた。
褒められて悪い気はしない。

「ぅ……、ん……」

つい、おどおどして、声が小さくなってしまった。

「ぁ、あの……、その……」

言いたいことがなかなかまとまらない。
今の気持ちを的確に表せる言葉が見つからなくて、そのことがさらに焦りを生んだ。
そこでシェリルが別の提案をしたので結局言えずじまいになってしまった。

「そうだ! みんなで記念写真撮ろうよ!」

ベルが目を輝かせる。

「コスプレして?」
「もちろん!」

ノアが一歩引いた。

「では、私が写真を撮りますね」
「何言ってるの、ノア。あんたも映るのよ」
「わ、私、この手じゃうまく着替えられないですし……」
「天使パワーでなんとかなるでしょ」
「な、なんですか天使パワーって」

私たちのやり取りをよそにミラがぽつりと言った。

「でも、幽霊って写真映り大丈夫?」
「だいじょーぶだいじょーぶ、念写だから!」
「あれは心の中の映像を映すものですが……」
「じゃあ、幽霊パワーで」
「……便利だね、幽霊パワー」

なんだかんだでセルフタイマーで撮影することになった。

ベルはゴスロリ、ミラはメイド服、シェリルはさっきのセーラー服。
みんな思い思いの衣装に着替えている。

私は今つけている猫耳だけで十分だろう。
拘束が邪魔で着替えられないノアは手軽な犬耳をしぶしぶ選んでいた。

「みんな着替えたらこっちに並んでー」

あやふやな場所を指定されてとまどっているみんなの手をシェリルがひっぱる。

「ベルちゃんはこっちで、ミラちゃんはこっち!」

次にシェリルは私の手をとって、二人の間に誘導する。

「みーちゃんは真ん中ね! ノアちゃんは後ろ!」

ノアは指示を受けて、私たちの後ろで浮かんだ。

最後にシェリルが位置関係を確認して、カメラのタイマーを調整する。
撮影する準備ができると、私たちの背後に回って、ノアの隣に移動した。

両側にミラとベルがいるせいか緊張する。
自分の顔が引きつっていないか心配だったが、それよりも下手に気負っているのが二人に悟られやしないかが不安だった。

横目に二人を見る。
彼女たちも同じような心境であることは表情からも見て取れた。
私は勇気を振り絞って、二人に声をかける。

「ミラ。それに、ベル」
「うん?」
「………………ありがとう」
「…………どういたしまして」

ぱしゃり、とシャッターが下りた。

----------------------------------------------------------------------------

日はとうに落ち、あたりはすでに暗くなっていた。
ミラとベルがそろそろ家に帰ると告げたので、途中まで送ると約束した私たちは最初に出会った道まで戻ってきた。

「二人とも、今日はありがとうね! とっても楽しかったよ!」

シェリルはベルの手を握りながらそう言った。

「わたしも! ゲームで語り合える友達が増えて嬉しかったし! ね、ミラ!」
「うん……。でも、幽霊と天使の友達ができるとは思わなかったけどね」

ミラが私とノアを交互に見る。

「こっちもビックリしたわよ、まさか錬金術で動く人形がいるなんて」
「そんな私たちがこうして運命的な出会いを果たしたのは、もしかしたら奇跡だったのかもしれませんね」
「……ノアが珍しくいいこと言った!?」
「私が言っちゃダメなんですか!?」
「だってアンタ、いつも下ネタばっかりじゃない!」
「下ネタ……」

それを聞いて、ノアのことを知らない二人が「天使とは一体……」と悩み始めた。

「ああほら、ミィさんのせいでお二人が誤解してしまったじゃないですか!」
「知らねーよ! アンタの日頃の行いが悪いからだよ!」

私はノアとにらみ合う。
…………まあ、今回は「人形さん」とは言ってこなかったのでそこは認める。

「あはは……。ひょっとして昼間もこうやって喧嘩してたんじゃ」
「二人ともいつもこんな感じだから……、なんとかならないかなぁ」
「喧嘩するほど仲がいいって言うし、本当は案外、お互いに認めてると思うけど」
「え、ミラちゃんにはそう見えるの?」
「なんとなく」

と言ってミラは微笑を浮かべた。

「「そんなことない!」」

とっさに言い放った言葉がノアと重なる。

「ほら、ね?」
「ほんとだ……。二人ともいつの間にか仲良くなってたんだね。わたしもがんばったかいがあったよー!」

シェリルが大げさに私たちに抱きついてくる。

「違うし! 今のはこいつが勝手に合わせただけだし!」
「合わせたのは私じゃなくてミィさんですから!」

くすくすと笑うミラとベルに対し、あまり意味のない弁解をする。
今回はそれほど悪い気分ではないのだけれど。

「でも、やっぱり友達が多いのは羨ましいな」
「私たちは普段二人だけだからね……」
「じゃあ、今度はわたしたちが二人の家に遊びにいくよ! みーちゃんも、ノアちゃんもね!」

私は笑顔で頷いた。ノアも満更でもなさそうだ。

「約束だよ!」
「うん、約束!」

シェリルとベルが小指をからませ、指切りをして勢いよく放した。
それを皮切りに二人は帰路につく。

「それじゃ、またね!」

両腕を振り上げたベルの隣でミラもまた無言で手を振っていた。

「また遊ぼうねー!」

はしゃぎながら別れを告げるシェリルの後ろで私は二人を見送った。
あまり話せなかったのが残念だったが、もう友達になれたのだし、また会うこともあるだろう。
私は幽霊の人形、あの二人は錬金術で動く人形、違っているけれど似た者同士だから、分かり合えることも知らないこともきっとたくさんある。
次に会ったときはどんな話をしようかと考えていると、なんだか胸がわくわくしてきた。
今夜はあまり眠れなさそうだ。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

或る先輩の退屈

 おしら様という昔話がある。
 馬と番いになった娘に激怒した父親が馬を殺したってんで、娘さんは馬と一緒ンなって神様になっちゃっていう話だ。
 無茶な話だが、農業と養蚕の神様なんでそれなりにけっこうこっちの方では有名だし、牛馬と仲良くなるのもわかんなくはない。何となれば人間とは誰かに代わりに働いてもらうのが幸せな生き物なんだ――
 なんて言っていたら、呆れかえったお女中のトミさんが掃除の邪魔だって言うんで、僕を居間から追ん出してしまった。ソリャそれが助けになるなら吝かじゃあないが、だからって追ん出すことはないと思った。それもこれも畳みに横っ腹付けて寝っころがって、頭に手のひら当てて肘付いて煎餅齧ってテレビを見ていた僕が悪いのだけれど。でもやっぱりそれにしたって追ん出すこたぁないんじゃないかと思った。けれどもトミさんは僕が頭の上がらない数少ない人物の中の一人なので、文句はぶちぶち言うだけに留めて障子を開けると、うっつら半目で茫洋と腹を掻きながら、縁側に転がる。
 夏も盛り。蝉がうるさい。日の光がほかほかと眩しい。瞼を閉じると目の裏が真っ赤になる。僕は――宮澤文恵という名の少女は、申し訳程度の体裁も繕う気が今はさらさらと無く、どころか思いつく限りの怠惰を謳歌するつもりでいた。
 まるで梳き立ての白い和紙のようなくしゃっとした純白の髪が汗でべたりと貼り付くので団子のように頭に纏めている。きめのこまかい白い肌が未発達気味だけれどもそこがやけに艶かしい身体を汗が滴り落ちる。そんなだから渋くて味のある色の甚平もよれてはだけていっそう醜い様ではあるが、使命感の如く意に介さない。
 今の僕は、陽光にふっくりと炊き上げられた床板の感触を頬に押し付けるので忙しいのだ。右が人肌程度にまで冷えたところで左にでろんと転がる、これがなかなか心地よくてぷくぷくとまどろみの中に沈もうとしていたのに、見よ。恐ろしい影が僕の安寧を邪魔するのだ。影は世にも恐ろしい大男の姿を取って僕を覆った。すわ一大事、しかし僕は負けない。人の尊厳はこんなことでは小揺るがぬのだ。
「煩い」
「まだ何も言ってないだろう」
「何か言われそうだったから、先手を取ったんだよ」
 大きな影が上から見下ろしている。逆光なのでどんな顔をしているのかはいまひとつわからないが、きっとこの巨大な大飯喰らいの愚物をどう処理してくれようという様子だろう。気が合うね。ちなみに上から降ってきた恐ろしい気配の大男とは、短く刈り込んだ髪と顎鬚を摩るのがくせで、やたらあちこちごつごつした身体の僕の兄なのだが。
「起きなさい。昼間っから仕様のない女だ。誰に似たのだ」
「兄さんではないことは確かだね」
「だろうとも。俺に似るわけがない」
「僕は心の余暇を楽しむ度量があるからね。さあ、光合成の邪魔だ、どいて」
 目も合わせずにしっしと手で煽ぐと、むっとした気配が上からどろどろと滴り落ちてくる。どだい兄とは生活のリズムが合わないのだ。もちろん彼を尊敬してはいるが、ぴんしゃんと朝から棒振りに精を出すような生活は僕は御免蒙りたい。身体を動かすこと自体は嫌いじゃないが、ともかくその、ピリっと折り目の正しいのが、僕には難しいのだ。勿論兄とて僕のように人目のある所とない所でこうも極端な生活だというのは耐え難かろう。本当に、似ていない。
「そんな言い方があるか。仮にもお前は」
「仮にも僕は、あなたの妹だよ」
 余計なことを口走りかけたので、釘を刺す。別に誰が聞いているわけでもないが、こんなことをべろっと吐き出しているのを聞いたらトミさんは心配してしまうだろう。使用人想いの僕。兄も失言だと思ったのか、顎をさすって視線を一度逸らしてから、また戻ってきた。切り替えの早いことでけっこうである。一仕事終えたばかりなのか、いつもの甚平姿ではあるが少々気取った足取りでとんとんと床を踏み鳴らすと、もう一度口を開いた。
「今の姿をお前の後輩が見たらどう思うだろうな」
「どうもこうもないよ、多分呆れる。またかって」
「繕っておらんのか」
「うん」
 そういえば、今日は甚平の柄が被っているナアと気付いて鼻に皺を寄せながら僕はさらっと堪える。余程意外そうな顔で、眉毛を互い違いにした素っ頓狂な顔で兄は僕の横に座った。少し今の問答に興味が沸いたらしい。邪魔くさい。一言も話さないが、“こういう”僕を見て尚付き合い続けるその後輩とはどんな人間なのだ、もっと話せという顔だ。見なくてもわかる(君のことだよ)。だから、適当に受け流すことにする。
「もの好きなんだよ。……それで、今日はまた何があったんだい」
「ああ。智慧を借りたい」
 雑な対応にも素直に兄が応じる。話が判りやすくて良い。簡潔に用事を伝える。この人はこういうところが好かれているのだ。妹への興味は一先ず置き、彼は懐から取り出した書簡に向けて二言三言。一見してがっちりと封をされていたそれは、ぱらっと解けて勝手に開いた。
「そんな大事なのかい」
「然程ではないが、早ければ早いほうがいい」
「じゃ僕なんか遣うなよ。ご党首様の差配でよろしくおやんなさい」
「夏休みだからと実家に帰って来、かと言ってすることもなくあられもない姿でごろ寝をしているくらいならば働きなさい」
「痛いことを言うなぁ」
 でも道理だ。実家で休んで何が悪いと思わなくもないが、それに罪悪感を感じる程度には忙しくしている家なのだ。仕様がない、と起き上がると、あぐらをかいてトミさんを呼んで、煎茶を冷やしたのを持ってきてもらう。じっとりと前髪と同じように貼り付いてしまった舌を面倒ながらもそれでほぐしてから、ふう、と息を吐いた。
「何くれるんだい」
「神酒をくれてやる」
「くれてやるったってこれだけじゃァないか」
 兄が蔵から取り出してきたのは小瓶の、それも安っすいやつで、そりゃあもう不満でしかない。こんなの舐めたらもうなくなっちゃうに決まっている。いくらキモチが大事だからってこんなんじゃ腕の振るいようがない。
 そういう心持ちがすっかり顔に表れていたらしくて、兄は腕を組んだまま鼻を鳴らす。
「残りは終わってからだ」
「だからってこんな体裁だけ整えたような」
「文句があるなら飲まんで宜しい」
「文句はあるけど飲まんとお手伝いできないだろ」
「お前、前々から思っていたがその斜に構えた言葉遣いは何とかならんのか。年を考えろ」
「僕の知っている学生っていうのはこういう言葉遣いをするモンなんだけどね」
「時代は変わったんだよ」
「所業無常だなあ」
 ま、いいさ。
 少し佳く働いて夕食が少しでも豪華になるンならそれは甲斐があるというものだ。
 ことんと指で小瓶を傾けると、スクリューキャップを指で擦る。
 “開いた”、と小さく呟いたのは果たして聞こえたかどうか。
 キャップはその辺に放置して、茶を飲み終わった湯のみに注いだそれをむぐむぐと口の中で濯ぐ。うーん、安酒。
「で、次第は?」
「ウム。一関に居る親戚筋の山本氏が亡くなったそうだ。前から長患いが続いていたので、葬送は滞りなく進んだのだが」
 そう言いながら、兄は僕の湯のみを奪ってごっくん飲んで、へんな顔をした。
「次はもうすこしマシなのにするか」
「是非ね」
「それでだ。彼には実子と養子が居る。福祉施設から引き取ったそうだ。年齢的には養子の方が上だが実子を良く立てて関係も良好だったし、山本氏自身織物業で成功したなかなかの資産家だったので、遺産の配分は遺書の通りで異論が無かったのだ。が、ここに来て夫人が急に養子の方には一銭もやらんと言い出したのだ」
「別に普通じゃないのかい? よくある話だよ」
 足をぷらぷらと縁側から放り投げて云う。
 そもそもが血の繋がった兄弟でだって争うことがあるのだ。お金って怖いね。だが果たして兄は、天井を睨んで溜息をついた。
「普通ならそうだな。解せないのは、福祉に関心があったのは夫人のほうだということだ。のみならず、生前の弁護士立会いの下の遺産分配についての話し合いでは、自分が実子の半分以下で良いと言い出した養子に対し、そんな遠慮をするなと怒っていたほどだと云う」
「奇特なことだね」
「ちゃんと訊いているのか」
「もちろん訊いているとも」
「なら宜しい。ことはあちらの家の問題だから深く干渉は出来ないし、やはり遺書がある以上夫人がどう申し立てたところで覆りはしない……が、やはりこういうことは体裁がある。人として穏便に済ませてほしいと」
「そいで兄さんにお鉢が回ってきたんだ。本家も楽じゃないね」
「お前がしっかりしていれば少しは楽になるんだが」
 おっとやぶへび。
「説得の為に、ことの真相の方はこちらで把握しておきたいのだ」
「ご苦労だねほんと。ご本人は教えてくれないのかい」
「自分の醜態を曝け出す女性ではないのだ。実子の方も何があったのかと戸惑っている」
 ころころと口の中を清めて、ごくんと飲み下す。清い気を感じながら目を閉じた。
「奥方が宗旨替えしたのはいつ?」
「山本氏が亡くなってすぐだ」
「その前に、何か奥方が激昂するようなことがあったのかい?」
「知らん」
「役に立たないなあ、このワトソンくんは」
 目を閉じたままでも、横からばしばし刺さるような視線が飛んでくる。無視無視。あからさまな不仲じゃなかったとなると。
「亡くなる前に、少し山本氏と養子の彼で、話をする機会ってあったかい?」
「ああ。今際は三人と、俺にこの話を持ってきた医者で看取ったそうだ」
「その時に変わった様子は」
 言葉が巡る。些細な情報は蜘蛛の巣のように張り巡らされる。目に見えることは全部邪魔だ。ぼくはしろいかみ。書き込まれるままに。
「変わったも何も、慕われていた男だったので皆泣いていたらしい」
「それは養子の彼も?」
「無論だ。あんまり泣くので病床の山本氏が気を遣って自分のハンカチを渡したらしい。愛用の絹のやつを。“君のお母さんが傍に居る。泣くな”とそう云い、そこで最後の発作が起きたそうだ」
「ふうん」
 ぷは、と息を吸うと目を開いた。我ながら眠そうに見えると自慢のつぶらな瞳の端に涙が浮かぶ。欠伸、では決してない。
 あんまり不憫でならなくって、哀しくッて涙が出てしまった。
「どういう訳だ」
「どういうもこういうもないよ。こんなの難しいことじゃない。
只ただ、可愛そうでならないんだ。だから泣くのだ」
「その理屈を兄に教えろ。一体何が不憫だと言う」
「誰も悪くないからさ」
 お酒を口にもごもごと含みながら云う。清き気。僕の言葉は特別に力があるのだから、穢れて禍つ事にならぬようにするのは努めだ。これは昔から、一度たりとして欠かしたことのない兄との様々な“取り決め”の一つだ。
 そのうちの一つ――真実を言い当てようと、そういう時は特に。
「山本氏は、なぜ養子君にハンカチを渡したんだろう? いくら山本氏が優しい人間だったっても、今にも命のともし火が消えそうな時に涙を慮ってハンカチを差し出すなんて、それも何人もの悲嘆に暮れる人の中から一人、特別泣いている人を見出して? そんなのはただの思いやりじゃない。病身の苦痛、或いは鎮痛の酩酊に耐えてでも“それをしなきゃならない”って思ったんだ。格別意志のある行動だよ」
 兄がはっと息を呑むのが分かる。その行動が特別だったというのは、勿論理解できたようだ。と云って兄が愚かなのではない。彼は目の前の人の感情や行動にはとりわけ敏感だ。彼が言うに、人はただの一呼吸するだけでも沢山の情報を残すのだと言う。ただ、その一方でただの“事実”、特に他人の私見が入ったものから自分の考えを構築するのは不得手だ。まあ、良い人なのだ。だから僕も、それに応えるのだ。
「“君のお母さんが傍に居る”と、この物言いは実に不自然だ。己の妻のことだとすれば彼だけではなく実子何某にも言わないというのはおかしいし、それだけ良い人だったのならば、彼に実母同然に愛を注ぐ、傍に居る己の妻を差し置いて養子何某に、実の母親の話をする筈もない。加えて先ほどの話だ。“君のお母さんが傍に居る”。これが事実だったとしたらどうするね」
「事実だったら……」
「そのハンカチだよ」
 またお酒を含む。話を聴き入るうちに兄はトミさんに煙草盆を持ってきてもらって煙管を吹かしていた。香ばしい中にも少し甘い香りがふわりと広がる。兄の煙草はとても良い香で僕は好きだった。テレビのなかでみた刑事ドラマのような、いかにも切羽詰った吸い方でないのが更に格好良い。余裕を持って煙草を楽しむのだ。その香りに気を良くしながら、そンでも僕は悲しかった。
「絹というのは育てた人の腕や蚕の品種次第で如何様にも値が変わるものじゃないか。当然織物で成功したんだと云った山本氏なのだから、絹は手を出していたのだろう? 余った駄作の切れ端を懐にしのばせる吝嗇家だったならばともかく、普段から肌に触れる……愛用だって言うものなら、それは本当に大事なものなんだろう。それを渡して、愚にも付かない冗談を言う人ならば本当に人に慕われる筈もない。それは、事実だったんだ」
「一寸待て。如何にもそれが真実なのだとしたら何だ。彼の母はカイコガだと言うのか」
「兄さんの冗談は面白くないから流すけど」
「嫌味を言ったのだ、俺は」
「だとしたら尚更だ。僕は本当にそう思って云っているんだ。……おしら様だったんだよ」
「……何?」
 眉根を寄せて首を傾げる。
 そう、別に難しい話ではなかったのだ。
 ただ、表ざたに出来なかっただけなのだろう。
「何故って福祉は奥方の趣味だったんだろ? 多少のお金の都合は黙ってたとしても、わざわざ見ず知らずの子供を一人招き入れる覚悟っていうのは相当なものだと思うよ。なら、山本氏には彼を子供にする理由があったんだ。その理由がずっと分からなかったんだけど、兄上の話でやっと得心が行ったよ」
「どういうことだ」
「養子って言われている彼も、山本氏の息子だってことだよ。正確には、たぶん、母親違いの」
「荒唐無稽とは言わんが、なぜそう思う」
 腕を組んでこちらをじっとやぶ睨みにする兄の目を、負けじと覗き返してやる。
 この喰らいついてくる胆力は頼もしいものだ。
「だから、さっきのハンカチの話さ。およそその言動は、一見して彼らしいが、よくよく思ってみれば彼らしくないのだね。当然、人間の出来上がっていない実子何某と養子何某には伝わらなかったのだろう。そしてそれで良かった。山本氏は結局、死ぬ間際に一人、誰にも知れず満足したかっただけなのだから。誰にも伝わらない方法で、伝えたい本人にすら伝わらないように伝えることで」
「誰にもではなかったということだな」
 煙草を長ぁ……く、煙を吐いた。
 少し瞑目し、閉じた瞼で空を仰ぐ。さすが兄上。生きた感情には強い。
 そう、僕の想像した結末も、そういうことだった。
「唯一の不幸は、彼の行動の矛盾を見抜き、この地で永く暮らし、その真意を見抜いてしまった奥方様だ。……きっと彼女は、知ってしまったんだよ。愛する夫が、自分のほかに愛していた女が居たって。そりゃ、動転もするさ。と云っても養子君は実子君よりも年上だと云うのだから、上手くすればこれは浮気じゃなくて叶わぬ恋だった可能性もある。この場合、山本氏が農家の娘だったんだろうね。さすがに馬とは言わないけれども、まあそういう扱いをされる人だったんだろうさ。そして山本氏にも、家を捨ててまで彼女と添い遂げる度量はなかったのだろう。農家だしね。良い人とは得てしてそういうものだ」
「やけに辛辣だな」
「べつに」
 少しだけ誰かのことを思い出しながら……おっと、君のことじゃないぞ。ほんとだからな。
 ただ、僕は、ただ可愛そうだった。
「改めて彼の来歴を調べてみるといいよ。きっとそういう女性が見つかるから。……きっと、彼女の。一生を添い遂げた愛する妻を愛する前に、もしかしたら一生を添い遂げられたかもしれない愛する女性の形見も守りたいと思った彼の。足跡がね」
「……成程相分かった」
 しんみりとする間も無かった。僕のとても叙情的な結びに何かしらの余韻もなく兄は立ち上がる。トミさんを呼びつけながらするすると甚平を脱いでいって、まるでお菓子の家に続く道すじのように脱衣がぽつんと縁側に寂しく横たわっている。少し見なくなって、戻ってきたら、彼は黒いスーツに黒いネクタイを締めていた。まさか今日が通夜だったのか。さては急ぎではないというのは僕に気を遣って黙っていたな、とあんぐり口を開ける僕の横を通りすぎながら。
「世話になった。礼の詣では帰ってからする。待っていろ。すぐ戻る」
 そう言って、彼は行ってしまった。

 そして後日聞いた話。
 驚いたことに、兄は何か二言三言囁いただけで、夫人を納得させてしまったらしい。
 のみならず、夫人はその場ではりのむしろに座っていた養子何某とそれを庇っていた実子何某を抱き締めて、おいおいと謝罪したようだ。
 重ねて驚いたことに、先刻まで夫人の心変わりに付け入るべく養子何某を貶めてごまを擦っていた性質の悪い親戚連を通夜の席からけっぽり出してしまったらしい。
 『俺は何もしていない。今回は中心人物が皆善人だったからこれで済んだのだ』ということらしい。兄曰く。
 そして我が家はまた、『正しく裁定の下せる本家』としていっそうの信頼を集めたとのこと。
 おおかたの人間は、兄がひとりで全てをやっていると思っているらしい。が、兄は僕なくして己の立場はなかったと思っているらしい。まったく事実は違う。僕のしていることはせいぜい、彼が己の強権を振るわずに済む道を見つけてやっているだけだ。沢山のことが見えている僕だけど、だからと云ってほんの1分も経たない内に人一人を心変わりさせるなんて出来ない。それは彼自身の才能だ。
 誰もが己に出来ぬことを、出来ぬことだと憧れる。
 しかしそれは連なって存在していて、遍く関係の中に漂うのだ。偏在することこそ人間の性質と言える。それこそ人の力そのものの本質だ。何事かできないと思っている人間だかけだからこそ、できないことをしたくて抗ったり、できる誰かに頼ったりして、それがまた新たに和を生むのだ。言葉と行動を媒介にして、遍く遍く。ユビキタス。
 ああ、これだから僕は、人間が大好きなのだ。
 顛末を聞いて、お礼の美味しいお酒を喰らいながら、今日はと選び出した詩集を啄ばみつつ、そう思うほかないのが素晴らしき我が生なり。
 滞在期間も終わり、帰り際に、兄は
「まだ、俺の妹で居てくれるのか」
 と訊いた。僕は
「あなたが素敵な僕の兄さんで居てくれる限りは、そうさ」
 と答えた。

 そうそう、ちなみにね。
 兄さんと君のこともいっぱい話したよ。
 ……どんな話をしたかって?
 それは、君自身の胸に訊いてご覧。
 続きは、部室で話そうじゃないか。
 待ってるぜ。


 追伸
 人の頭の中を覗くのは趣味が悪いので、やめなさい。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

『あをとかげ』



日中の蒸し暑さが嘘のように消えてなくなり、
涼しさを通り越して肌寒くなり始めた、
ある初夏の夕暮れのこと。
雑居ビル二階の仕事部屋で、
一人の靑年が電話の番をしていた。
 
 普段、この部屋にはもう一人、
彼の上司―ゆかりがいるのだが、
現在、彼女は一階の会議室にいて、
内線ごしに靑年とやりとりをしている。
この日は所謂「ドンパチ」があって、
彼女はそれに参加したのち、
このビルに戻ってきたのだが、
「今は具合が悪い」と言って、
靑年とは別の階で休んでいるのだった。

 靑年は、それを聞いて迎えに行こうとしたが、
「頼むから、暗くなるまで降りて来んでくれ。ええな」
と、彼女から何度も念を押されたため、
諦めて、日が暮れるのを待っていた。
その後、靑年は彼女と内線を介して
いつものように駄弁ったが、
完全に日が落ちたのを確認すると、
「迎えに行く」と告げて、部屋を出た。
 
 廊下に出ると、館内はすっかり
暗くなっていた。階段にたどり着いた時、
大きな物音がしたが、
靑年は、照明のスイッチを入れずに、
手探りで階段を降りていく。
はじめはゆっくりと進んでいたが、
踊り場を過ぎてからは、
事務室から出てきた彼女が、
夜目を活かして声で誘導したので、
すぐに一階へたどり着いた。
誘導の礼を言おうと、靑年が
さっき声が聞こえた方を見ると、
なぜか、彼女は床に横仆しになっていて、
その隣にはキャスター付きの椅子が転がっていた。
「事務室からこいつに乗ってきたんじゃが、
調子が狂ったんかのう…すっ転んでしもうた」
と自嘲気味にわらう彼女の顔は、
怒りの表情で固まったまま動かない。
季節の変わり目のせいだろうか、
彼女は、変態を完了していないのだった。
靑年は、何も言わずに
彼女の前まで歩いていくと、
くるりと回ってしゃがみ込み、
自分の背中を差し出した。
彼女は、一瞬間途惑ったが、
「すまんな」と言って負ぶさった。

 人間に戻りきっていない彼女の体は、
いつもより大層ひんやりとしていたが、
その重さは彼の最大積載量に近かったので、
彼らが二階につく頃には、
二人の接触面は汗で張りついていた。

 その感触を紛らわそうとしてか、
「背中が…ごつくなったな」
と彼女が言うと、
「初めての時が、ひどかったからね」
と靑年は恥ずかしそうに応えた。
 靑年がまだ「お前」と呼ばれていた頃、
同じように彼女を背負おうとして、
失敗したことがあった。
それを聞いた彼女は、
「あん時の儂らは、まるで穿山甲のようじゃったな」
と言って、静かに笑った。


それから二人は話すのをやめて、
暗いコンクリの階段を
ひたひたと昇っていったが、
その姿は、傍から見ると
唯一疋の靑蜥蜴のようだった。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

こんな追悼歌があってもいいじゃない

*こんな追悼歌があってもいいじゃない
 幾度となく繰り返された私の起点、一時間経てばリセットされるポンコツな私の戻る事しか許されないスタート地点。
木月文は一時間の世界の中で生きる。そして今日もその一時間が経過し、私が私になった時の出来事だった。
「……え?」
一人だと思っていたけれど、右手の暖かさに違和感を感じ、その原因を知るべく振り向くと知らない人が座っていた。
手を振りほどいて慌てて飛び退る。その人は困った様子だけれど、柔和な表情を崩さずその場から動かない。
彼は地面に叩きつける勢いで離した手をさすりながらこちらを見ている。
……慣れている?
「ちょっと、スケッチブック読んでもいいかな」
そう聞くと手で促された。まるでそうなるのがわかっていたかのような動作。
その人の動きを視界の隅で監視しつつ、スケッチブックの一番新しいページを開く。
日常的な事、今日やる事、昨日やった事を流し見しながら目的の記述を探していくうち、めくりめくってようやく見つけた。
日付は古いが、案の定目の前にいる人、ユーザの身体的特徴が書いてあった。細身の、優しそうな人。
漠然としてはいるものの、何となくそれが彼の事だとわかる。
友人らしいがしかし、それ以外の、彼と何があったのかという情報は何もなかった。
「ユーザさん、でいいのかな」
彼がそうと返事をした。私の手にはまださっきの感触が残っている。大きな骨ばった手だった。不思議と嫌じゃなかった事が、その時は焦りからか疑問にはならなかった。
「どうやら前の私とは仲が良かったみたい。この私とも、仲良くなるのかな」
実際のところ警戒心の方が大きく、仲良くなれるとは到底思えなかった。もしかしたら私が彼に書かされた可能性だってゼロじゃない。
何より最近の私が残した情報が少ない事が気になっていた。書いてある事は雑記だけ。
顔を合わせて話をしていたなら、きっと私はそれに対して所感を書き込んでいたはず。
古いページにはたまに書かれている、という事は最近はご無沙汰だったのだろうか。
「ここへ来るのは、久しぶり?」
彼はいいえと返事をした。昨日も、一昨日も来たとも。
過去の私達は身体的特徴のみ十分と判断したのかもしれない。それ以外は自分で知らなくてはならないと、暗にメッセージを残して。
何があったのか、それだけが頭の中でぐるぐると回っていた。
「……あ、ごめんなさい。考え事してた」
何かの音がして我に帰った。彼が座り直したらしい。
どう声をかけたものか、彼が何者であるか試すべきなのだろうけれど、踏ん切りがつかず視線が彷徨う。
「……あ、お昼過ぎてたんだ」
時計が目に入った。午後一時を回っていて、ふと昼食の事を思い出す。
「お昼ご飯食べた?」
君とさっき食べたと言われ、少し固まった。そんなに仲良くなっていた事に驚いたのだ。
「私の知らないところで随分と進んでたみたい」
『どんな気分?』
「……複雑な気持ちだよ、どう接していいのかわからない。だって、私はあなたの望む木月文じゃないもの……ここの掃除もあなたと前の私がやったの?」
周囲を見渡してみると埃っぽかった室内はそれなりに片付いていた。今まで次の私に投げ続けたであろう注文はついに果たされたらしい。
『そう。君はいつまでも動かないから』
「そんな気はする」
私の考えていた以上に距離が近い。たったの一時間しかない私と彼の間で、ここまでの事が果たされていた事に驚きを隠せなかった。
しかし彼は物理的には近付こうとしない。本当に、何もかもお見通しのようで気味が悪い。このまま黙っていても埒が明かないので、半ば自棄になって口を開く事にした。
「私の時間が一時間しかないのは知ってるよね。なのに、現状把握に十分以上かかっててまだ終わってない。
 何か話を聞きたいなら、この私は諦めて次の私まで待っててもらえるかな。こんな事になった原因を一つでも解決しなきゃ」
本当はそんな事とっくに終わっている扱いにしてもいいのかもしれない。でも彼という最大の疑問が私の中を駆け巡っていた。
彼の予想外の言葉が飛び出さぬよう、スケッチブックを抱え、彼に見せる。
「このスケッチブックにはあなたの情報がほとんどないの。それが原因で、こんなに時間がかかっているのだと思う。
 だから少しでも次の私が混乱しないように、あなたの事を書きたい」
『二時間前の君も同じ事を言っていたね』
間髪入れずに答えが来た。表情は温和なままで恐ろしい事を言う。二時間前にも彼がいたと、本人はそう言っている。
果たして信じていいのか、今の混乱した私には全く判断がつかない。
「……だろうね。その時の私はどうしたの? その私は結局失敗したみたいだけど」
『焦らなくてもいい。そう言ったんだ』
「それは出来ないかな……私はこれを積み上げる事でしか私が地続きである事を実感できないから」
『それに、僕の事は一冊前のスケッチブックに書かれている。その事だけメモしておけばいいと思うよ』
「でも……」
そう言いながら古いスケッチブックが置いてある棚から取り出し、開く。
確かに彼の言う通り、異常なほど事細かに書かれていた。彼の性格、趣味、生まれや育ち、そこから成長していく上で得られた事、失った事。
まるで彼の人生が全て書き込まれているような細かな記載に、過去の私に対してため息が出た。
『僕は君に全て教えたから』
文字通り教えられた可能性が高い。でも、何でそんな事をしたのだろう。私が個人にここまで興味を持つなんて滅多な事じゃない。はず。
「……はぁ、わかった、私の負け。きっと二時間前の私も同じだったのでしょう」
自分の枠を超えた何かがそこにあった。それだけは、はっきりしている。二冊のスケッチブックを抱えながら言葉を選んで紡いだ。
『そうだね』
前の私も諦めたなら、それでもいいのかもしれない。後悔したとしてもそれを覚えている私はいなくなる。
私が事細かに調べているうちに二十分を過ぎている。残り時間は着実に迫っていた。
「はぁ、何だか変な疲れ方しちゃったな。昔の私と話が出来るなら問い詰めてあげたいよ」
ポンポンと、彼が自分の隣を軽く手で叩いていた。言わんとしている事はわかるけれど……
「あなたを疑ってしまった罪滅ぼし、という事にしましょう」
素直に従う事にした。彼の思う壺のような気がしてならない。とは言え今更無かった事にするのもそれはそれで私が嫌だった。
乗りかかった泥船は、どこへ沈むのか。どうにでもなるがいい、今の私はここにしかいないのだから。
「……ん」
彼の側に寄ってすぐ、その大きな骨ばった手で頭を撫でられた。彼の手は本当に大きくて暖かい。どこか落ち着く不思議な手だった。
「……前の私にもそういう事したんだね。触り方が慣れてるもの」
『嫌だった?』
「ううん、安心する。私だけがこうなるわけじゃないと思うからそれでいいよ」
生っぽいって文句を言おうと思ったけれど、そういう空気でも気分でもないからやめた。
撫でられているうちに一つ気がついたのだ。
「あなたは、ユーザは私のお父さんみたいだね」
私が言葉をぶつけても、それをちゃんと受け取ってくれる。そしてこの大きな手、今までの私もきっと甘えてしまったのだろう。
『ありがとう』
「だから、もう少しだけ甘えさせて」
彼の肩に寄りかかるつもりが、背が足りないので腕に寄りかかった。触れた面が暖かい。男と女が並んで座っているのにいやらしくない、不思議な雰囲気だった。
頭を撫でていた手は私の手に重なり自然と手を握り合う格好になっていた。その時、ふと今の私になった時の事を思い出した。
「ユーザはずるいよ。次の私にもこうして甘えさせてくれるんでしょ。
 なんで手をつないでいたのか、今なら少しわかるよ。
 そのうちこうしている事が自然になって、体が忘れられなくなっちゃうのかもね」
でも、そういうのも悪くないかなと思ってしまった。それだけ今の私がぬくもりに飢えていたという事なのかもしれない。
 彼の温かさがそのうち私にもうつって、気がついたらうとうとしていて、意識を取り戻したのは彼に揺らされたせいだった。
「……え、え? 寝ちゃってたの?」
『おはよう。もうそろそろ時間だね』
時計を見ると、今の私に残された時間は一分を切っていた。
前の私もこんな感じだったのだろう。だからスケッチブックに手を伸ばす余裕が無かったのだ。
そして今の私もそんな気分ではなかった。
肩から離れて、手だけがつながる。その手を離したくないな、なんて思ってしまった。
「きっとあなたなら大丈夫だと思うけれど、次の私にも優しくしてあげてね」
あと僅かな残り時間、これだけを伝えたいと思った。それに彼が頷いてくれた。
「ありがとう」
そうして、私は次の私にバトンタッチをした。
\x
>こんな追悼歌があってもいいじゃない


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

もうじきに、まだまだ


ad longinquum punctum ――





   ◆ 2nπ


I hear the noise of many waters
Far below.
All day, all night, I hear them flowing
To and fro.

―― James Joyce《Chamber Music》XXXV



 もはや夜明けもさほど遠くないはずだが、市街の西に茫洋と臨むアドリア海の水面は深い闇に覆われ、北側から廻りこんで湾をなす対岸の陸地の姿もおぼろげで、空との境もいまだ瞭〔あき〕らかではない。ただ、沈みかけた飴色の凸月の散らす光が微かに、そのあたりの水平線のさまを露わにせしめている。潮音が低くどよめきつづける。
 1905年、オーストリア=ハンガリー帝国領トリエステ。北風〔ボーラ〕の吹き下ろすこの港町の埠頭を、男はおぼつかない足取りで所在無げに歩を進めていた。旧市街〔チッタ・ヴェッキア〕で夜更けまで労働者たちと飲み交わしたあと、足の向くままに界隈を彷徨っていたのだった。
 ふと、彼は自身の右手にずっと何かを握りしめていたことに今さらのように気づくと、やおら立ち止まってそれを顔の前に翳〔かざ〕して、近くで弱々しく光を落とす、蛾の翅のはためく瓦斯〔ガス〕燈をたよりに、度の強い眼鏡ごしの秧鶏〔くいな〕のように用心深そうなブルーの瞳で矯めつ眇めつ眺め廻した。白地に幾条もの異なる色の線が螺旋に沿って走っている巻貝の殻だ。ひとつの生命のなれの果て。たとえば海のホルンと形容するには、それはいささか小さい。
 ――酔いの廻った頭で、いったい何を思ってこんなものを拾い上げていたのだろうな。男は己の頓狂さに苦笑しながらも、それを何気なく自分の片耳にあてがってみた。途端、静かな噪音が聴覚に寄せ来る。これは潮騒か、いや、貝に覆い被せた指に巡る己の血潮か……。貝殻から蝸牛管へと、音が流れ込む。螺旋から螺旋へ。その類似的な関係性に思い至ったことに理も無く自得して、男は貝を耳から離すと、ふたたび手の中で弄ぶ。その堅らかな螺旋にぐるりと指を滑らせているうち、ふいに心にリコルソ、という単語が浮かんだ。
 再帰〔リコルソ〕――。この街の、サン・ジュスト大聖堂の周囲を抜けてドナト・ブラマンテ通りを行った外れにジャン・バッティスタ・ヴィーコ公園という小さな広場がある。その広場の名称になにか心の引っかかりを覚え、いつだったか、それがとある哲学者の名前であることを知るに至って、繙〔ひもと〕いてみたその人物の著書――歴史というものが発展的な循環を指向することを論じるものだった――にあった用語だ。
 ジャン・バッティスタ・ヴィーコ。彼がその名前に殊に関心をもった理由は、ひとつにはそのヴィーコという固有名詞ゆえであった。彼の生地、アイルランドはダブリンにも――まあ、由来はちがうんだろうが、と彼は思う――、ヴィーコ・ロードという道路がある。ダブリン湾へと繋がる彎曲した海岸線に沿って蛇のようにくねるように走る道だ。
 ヴィーコ・ロードへと巡らせた連想と寄せ返す波の音に誘われて、男はふいに遙かな故郷への思いに駆られた。黒き澱みのリフィ川を擁き、さながら中風に病める忘れがたき都市ダブリン。波が迫るたびにひとつづつ、心に灼きついた在りし日の景色がありありと脳裏に浮き沈みする。藻に青々と覆われた岩が連なる薄暮のなかのサンディマウントの磯辺。午〔ひる〕過ぎのオコンネル橋の欄干ごしに立ちのぼる煙。夕日に眩しく映えるホウスの岬の、あの気高き威容……。
 と、ふいに、艀〔はしけ〕が幾つも並んで舫われている桟橋の先のほうからなにやら陽気に叫び交わす声が聞こえてきて男は我に返った。声の主の姿は見えず、何を云い合っているのかも判然としないが、あれは朝一番の仕事にかかる船乗りたちだろうか。
 ……この街は言葉の坩堝〔るつぼ〕だ。吹きすさぶ風の唸りと虎落笛〔もがりぶえ〕の響きと海鳴りとに攪拌され、幾多の民族の、百様の階層の、雑多な言語が渦巻き蟠〔わだかま〕る土地だ。この街を愛せる理由があるとすれば、ひとつにはその豊かさと奥行きの深さだろう。

 ――さて、そろそろ酔いも醒めたか。男は埠頭の縁に立って、手にした貝殻をひと思いに海に向かって放り投げ、宙に大きな抛物線が描かれるのを見届けると、つと踵を返してその場を後にしていった。白みはじめた空に向けて、この街の酒飲みたちに歌い継がれるトリエステ方言の歌を、よく通るテノールで、けれども曖昧に口ずさみながら。

Ancora un litro de quel bon (注いどくれよ、もう一杯)
No go le ciave del porton (家に帰ろうにも)
pe'ndar a casa (玄関の鍵がなくてさ)
...

 月はもう沈んでいた。



 アイルランドが生んだ作家、ジェイムズ・ジョイスの畢生の大業である『フィネガンズ・ウェイク』の末尾は、まるでなにかを云い淀むかのように、「the」という語を最後にしてピリオドも打たれぬままに唐突に終わる。いっぽうで同篇の冒頭は、それを承けるように奇妙にも小文字を先頭にして、ダブリンの土地や建物の名を次々と言葉のうちに溶かしこみながら次のように始まっている。

〝 riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs. 〟

 このくだりは、柳瀬尚紀による翻訳 (河出書房新社、1991年) においては以下のような日本語に写された。

〝 川走、イブとアダム礼盃亭〔れいはいてい〕を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ、今〔こん〕も度〔ど〕失〔う〕せぬ巡り路を媚行〔ビコウ〕し、巡り戻るは栄地〔えいち〕四囲〔しい〕委蛇〔いい〕たるホウス城とその周円。 〟
(註; もとの本文では総ルビが施されているが、ここではその一部を〔 〕で括って示した)

 柳瀬は著書『フィネガン辛航記』所収「正気の沙っ汰次第」のなかでこの部分の翻訳の顛末について語っており、たとえばこのようなことを述べている。

〝 とくに委蛇には平凡社大辭典にある語釈のすべてをこめたつもりである。「すべて物事のゆるやかに動くさま。ながながと連れるさま、曲りくねりて行くさま、物の風などに靡くさま、安らかに自得せるさま、などを形容する」(同辭典) 〟

〝 最後を《周円》としたのは、終焉のひびきをこめたかったから。というのも、『フィネガンズ・ウェイク』のこの始まりは、終わりでもあるからだ。 〟



* * *



 ――思わず息を呑んだ。心の高鳴りのまま気の逸るままに駆けだしていた。灌木の枝葉が衣服に絡まり、下露に濡れるのも厭わずに。遠いむかしに掴みかけた、けれども掴み取れぬまま忘れかけていた大事なものを、そこに突然に目の当たりにした気がして――。

 小道の先の藪〔やぶ〕を抜けたとたん、視界が大きく開けた。自分がいま立っているのはどうやら小高い丘の上であるようだった。やさしい風が頬を撫でる。
「……どうかして?」
 背後からの声にふと我に返って、残る動悸を抱きすくめるようにしながら振り向けば、そこには茂みと張り出した枝を掻き分け、肩にかけたバッグを胸に抱えて、足下を気にしながらこちらにやってこようとしている先輩の姿があった。
「あら、きれいなところね」
 横に並んだ先輩が、眼下に広がる見晴らしを眺め渡しながらそう口にする。
 そう、それはとても、きれいな眺めだったのだ。といっても、風光明媚だとか絶景だとか、そんなきらびやかな言葉で形容するような景色というわけじゃなくて。ましてや旅行ガイドの表紙を鮮やかに飾るような云わずと知れた名勝にたどりついたわけでもなくて。
 ありていにいえば、そこはこぢんまりした凹地になっていて、その中腹あたりにひときわ目を惹く大きな木――先輩が云うにはエンジュの木だそうだ――が生えていて、いくつかの種類の小さな花の群生があたりに色を添えている。冷静に客観的に描写するならそんなふうな、まあ、地味とまではいかなくとも、ありきたりといえばありきたりな景色だったのだけれど。でも、その構図や雰囲気が、渦巻く記憶の奥底に沈んでいた思い出のなかにあるものに、やっぱりたまらなくよく似ていて……。とはいえ、まあいくらでも奇想天外なものになりうる心のなかの風景と較べてしまえば、実際にいま目の前にある眺めはずっと現実ならではの落ち着きをたたえてはいるけれど。
「以前にも、ここに来たことがあるの?」と先輩の問いかけ。
「いえっ、そういうわけじゃない……はず、なんですけど」おぼろな記憶をすくってみても今しがたふたりして歩いてきたような小道は思い出せないし、そもそもこのへんの土地とは昔は縁もなかったはずだから、あれがこの場所だったとも、ちょっと思えないのだけど。

 ――休暇を楽しむためにキャンプをしに行こう、という話になってみんなで盛り上がったはいいものの、いざ当日になってみたらちょっとばかり不測のどたばたが発生したりしたあげく、なんだかんだで先輩とわたしだけが先に現地へと向かうかたちになったのだ。ところが、ただでさえ時間にゆとりをもちすぎていたうえ、ほかのメンバーの到着が予定から大きく遅れて夕方になりそうな運びになったために、だいぶ時間をもてあますことになる。ただ、テントやら寝袋やら調理器具やら食材やらをはじめとしたキャンプ用品や、ついでだからと持っていくことにした天体観望の機材やその他もろもろのかさばる荷物のいっさいがっさいは部長が知り合いの車を廻して届けてくれる算段なので、わたしたちはまるっきり身軽でもあった――じっさい、先輩は肩かけバッグひとつ、わたしも手提げかばんひとつ、といういでたちである。そんなわけで、せっかくだからあたりを散策してみましょうかという話になって、先輩とわたしは突発的なピクニックに乗り出したのだ。このキャンプ場に来るのはわたしはこれで3度目になるのだけど、その周辺にまでは毎度ほとんど足を伸ばしてこなかったし、降って湧いたこの時間を有意義に過ごすには最良の考えに思えた。
 気ままに道をたどって、草叢を分けて、木漏れ日の踊る林を抜けて……と、もてあました時間に飽かせていささか大胆な遠歩きをするうちに、いつしかわたしたちはちょっと変わった、というか、なんとなく不思議な雰囲気を湛えた小道へと踏み入っていたのだった。左手側は雑木林に交じって歯朶〔しだ〕や蔓草が生い茂る鬱蒼とした藪で、反対側には背の低い茂みが一面に広がる。その藪の側に向けてなだらかに彎曲しながら、蛇のように細くながながと続いている道だった。わずかに上り坂にもなっていて、なんだか大きな渦巻きを内向きになぞって歩いているような錯覚を起こしそうになる。もちろん、実際はそこまで急な曲がりかたをしてはいないはずだけれど……。すべてがゆるやかに流れているようなひととき、まとまりのない雑談に興じつつわたしは先輩とふたりでそこをたどっていった。
 やがて、藪の繁りが道の正面にまで張り出してきているところに行き着く。おや、ここで行き止まり? と思いきや、その重なり合う枝葉の向こうになにか明るい場所が透けて見えていた。なにがあるんだろう、と思いつつ、そのときふと自分の置かれている「藪の先になにかの景色を垣間見る」という状況をよくよく嚼〔か〕んで呑みこむうちに、ふいにめまいのような感覚を覚えて、忘れかけていた記憶がたちまちよみがえってきて、そして。
 ああ、これって――と、思うやいなや駆けだしていて、そして今ここに至り、目にしているこの景色が――。
「――この景色がですねっ、その……ずっとむかしに見てとても印象に残った景色……があるんですけどっ、それによく似てるんじゃないか……って思ったんです。そのときにもここみたいに藪の先にあって、でもそのときは一瞬だけしか目にすることができなくて、でもそれがすごくきれいなところに思えて、……えっと、つまり」
 なんだか要領を得ないことを感情のままに口走って、先輩をきょとんとさせてしまっただろうか。そう思いながら隣を見ると、先輩は深い色のまなざしをまっすぐに向けながらほほえんできた。あ、これは、あれだ。――なんだか興味深いお話だわ。よければゆっくり聴かせてくれないかしら。この表情はそう云おうとしているときの顔だ。……果たしてわたしの予想どおりに、次の瞬間に先輩はほぼそういう意味のことを口にした。ただし、わたしの頭や肩に纏わりついていたらしき木の葉を何枚か取ってくれながら、こうも付け加えて。
「でもひとまず、藪でくっつけてきたものを払い落としてからのほうがよさそうね」





   ◆ (2n + 1/2)π


 小さな蛾が、なんらかの対象物――たとえば街燈の明かりとか――を、常に自分から見て同じ方向に来るようにしながら水平に飛び続けているとすると、彼の飛行の軌跡はどんな形になるだろうか?
 対象物が自分の真横にあるなら、軌跡はそれを中心とした円を描くだろうし、真正面なら、当然そこを目がけて一直線に飛ぶことになろう。では、そのどちらからもずれた角度だったら? 蛾は対象のまわりをぐるぐると巡りながらも、あたかも円を内側へ解きほぐしていくように徐々に中心へと近づいていくはず。……そう、答えはうずまき。すなわち螺線だ。
 極座標系 (r, θ) において、a, b を任意の正の実数として θ = (1/b) ln (r/a) と書き表されるこの曲線は等角螺線、または対数螺線と呼ばれ、デカルトやトリチェリがおのおの独立に幾何学的な考察を与えている。
 対数螺線は端正な自己相似の性質をもっており、どれほど拡大・縮小をしても常に元の形と合同でありつづける。云い換えれば、原点を中心としてこの曲線を拡大ないし縮小させる操作は、ただ曲線を廻転させているのと見かけ上変わりないのだ。この螺線は中心に向かって有限の長さで、けれども無限に渦を巻きつづける図形であって、ゆえに全貌を完全に図示することはできないが、これに似た形のものはさまざまな生物の器官など、自然のなかに豊富に見いだされる。顕著な例を挙げればアンモナイトやオウムガイや、種々の巻貝の殻、羊の角、ロマネスコ・ブロッコリーの花蕾のみごとなフラクタル構造、等々。自身のサイズに常に比例するような成長の幅でもって一様に、ただし部位による成長速度の偏りをもちつつ伸びてゆくものがあるなら、結果的にそれはこの螺線に沿った形を成すはずだ。
 スイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイは1692年に、この螺線の伸開線 (その曲線に沿って巻かれた糸を、ぴんと張ったまま解いていったときに糸の上の定点が描く線) と縮閉線 (その曲線がある曲線の伸開線だとするときの、そのある曲線) とが、いずれも元の螺線を抱きかかえるような――あるいは抱きかかえられるような――螺線として立ち現れ、ともに元の螺線と合同となることを示した。ことほどさように玄妙で堅らかな不変の性質を持つこの図形に心底から魅了され、数学的な美観に深くとらわれたベルヌーイは、このときこの対数螺線のことを spira mirabilis と呼んでいる。スピラ・ミラビリス、すなわち驚異の螺線と。



* * *



 ――それがいったいいつのことだったのかは、はっきりとは思い出せないのだけど。
 わたしがまだ小さかったころだ。わたしはわたしの家族と、仲良しの友だちとその家族とで、ちょっとした遠足のようなものに来ていたのだ。――そのことはたしかだ。野山のさなかのひらけたところで、おとなたちはシートを広げて休んでいて、わたしはそのまわりで、友だちといっしょに鬼ごっこだったのかなんだったのか、とにかく無邪気に駆けまわったりして遊んでいた。そんなとき、わたしは勢いづいてちょっとみんなから離れたところまで走っていって土に飛びこむようにわざと倒れ臥して、息を整えつつみんなのいるほうへ向き直ろうとした。その矢先に――近くにほの暗い藪の茂みが広がっていて、その枝葉の重なりの向こうからぼんやりと光が漏れているのに目が吸い寄せられたのだ。この先になにがあるんだろう。ひょっとしたらおとぎの国みたいな別世界が隠れているんじゃないかしら、なんてことを思いながらわたしは藪を掻き分けていって、そして、垣間見たのだった――。日の光にまぶしく照らされて、白やピンクのお花がビーズを撒いたみたいにそこここに咲き乱れている、なだらかなすり鉢形の草原。その斜面に沿ってやわらかな風が渡って、草がきらきら波立っていて、大きな木は葉っぱをざわつかせて、その根元の木漏れ日もそのそよぎに合わせてちらちらと揺れているのが見えた。
 ねえ来て、とってもきれいなところがあるよ、と――大声でみんなに伝えようとして振り向いた次の瞬間、――わたしはそこから引き剥がされるようにして抱き上げられていたのだった。……慌てふためいて走ってきたおかあさんに。そしてそのままみんなのところに連れ戻されてちょっとひとくさり叱られたのだけど、まあそれは無理もなかった。わたしが首を突っこんでいた藪の数歩先は、遠目にもわかるような彎曲した滑りやすい急な崖になっていたのだから。
 その後はすぐにそこから出発しなければならなかったのかどうだったのかで、それからのその場所での記憶は無い。ともかくもそんなわけで、わたしがそのきれいな景色を見ることができたのは結局その一瞬、ほんの数秒だけだったのだけれど、あまりに印象的なそれは鮮烈な思い出としていつまでも残りつづけて、いってみればわたしの心のなかの楽園として生き続けることになる。
 そう、楽園――一般的にそんな言葉で呼ばれるもののことをイメージするときにわたしが思い描くものには、だからおのずとあの景色のありさまが重ねられていたように思う。
 もちろんそのあとも、折に触れてその手の届かなかった不思議な場所のことが思い出されるたびに、できることならもういちどあそこへ行って、あの輝きのなかに足を踏み入れてみたいと希〔ねが〕ったわけだけれど、じっさいにそれを目にしたあの日がいつで、どこでのことだったのかは……何年か経ってから家族に訊ねてみたこともあったと思うけれど、結局はっきりしなくて――それほど遠出したのでもないように思うから、おとなたちにとっては特別印象に残るイヴェントでもなかったのだろう――、なんとか手がかりになることを思い起こそうとしても、まるでエッシャーの絵画を覗きこんだみたいに、着地点のない堂々めぐりに転落していきそうになるばかりだった。
 まあ、そんな幼い日のつかみどころのないことをどうこう考えていてもしょうがないと思うくらいに分別がつくころになってからは、ほとんど思い出すこともなくなって忘れかけてすらいたのだけれど。
 そもそも、あらためて考えてみると、わたしの記憶にあるその景色というのは、まるっきり現実に存在したものとするには少しばかり幻想的できらきらしすぎている気もするし、きっと、なんども追想して憧れながら反芻するたびに無自覚のうちに脚色されて美化していったところも多いんだろう。それに、ひとの思い出なんてものはじつはそれほど確固としたものでもなくて、ちょっとのことで意外にたやすく変容してしまうものだ……っていうお話を前に、ものの本で読んだことがある。記憶錯誤〔パラムネジア〕っていうのは、程度の差はあれ至極ありふれたものなんだとか。
 本といえば、わたしは小さいころから本をあれこれ読みあさるのが好きだったし、だからたとえば想像力を刺戟するファンタジーとか、どきどきする気持ちを喚び起こすメルヘンとか、そういう物語に触れて空想にひたって思い描いたどこにもない理想郷、みたいなもののイメージが、藪の先であの日に見たきれいな景色の記憶を土台にしてパッチワークのように継ぎ足されていった、なんてこともあるのかもしれない。火星に恋い焦がれ、そこでの生活に憧れるけれどとても手が届かないから、代わりに火星に行ったという記憶を植えつけてもらおうとしたSF小説の主人公みたいに。
「――ひょっとして、そんなころから無作為に本を抽〔ぬ〕き出して読む、みたいな楽しみかたをしていたの?」
 わたしが思い出話に一段落つけたところで、ふと先輩が訊いてきた。
「ええと、はい、まあそんなに意識的にじゃありませんでしたけど、近いことはやってましたっけねぇ……。あ、そうそう、そんな小さいころによく足を運んだ図書館があるんですけどっ、そこには児童書の類が、一段ごとに横向きにぐるぐる廻せるようになっている円柱形の本棚に収まっていたんですよっ。本の並びもなんだかちょっと雑然としてる感じで……たぶん児童書っていう大きなくくりだけで、大ざっぱにしか分類されてなかったんだと思うんですけど……でもそのおかげで、かえってそれがいろんなものがごちゃごちゃに詰まってるおもちゃ箱のようにも思えて、棚を適当に廻しては本を手に取ってわくわくしてたのを憶えてますっ。おもしろがってぐるぐる動かしながら、廻したら廻しただけ新しい本が出てくればいいのに、なんてことを思ったりもしたなあって」
 思えばわたしの乱読癖は、あのぐるぐる廻る棚が原点なのかもしれない。
 ――さて、ではわたしの思い出のなかの景色がいかにして形成されたにせよ、いま目の前にいきいきと広がっているこの眺めがそれにとてもよく似ている――ように感じた――のはなぜなんだろう。
 ……てっとりばやく理屈をつけるなら、たとえばつまりそれはただの既視感〔デジャ・ヴュ〕にすぎなくて、藪の茂みをくぐるという直前の状況が共通していたりしたために、小さいころに見て強烈な印象を受けたもののもはやその輪廓すらあやふやだった記憶の彼方の景色が、まさにこの目の前の景色そのものだったように錯覚しただけ、というふうにも考えられる。……かもしれないけれど、すり鉢状の草原とか大きな木とか、そういう具体的な要素のことをこれまでなんども思い返してきたはずだし、その追想の記憶すらも後付けの幻なのだとはちょっと思いたくないから、これはやっぱり否定したい。
 じゃあ、こういうのはどうだろう。ずっと昔にまさにこの場所を訪れたひとがいて、この景色に感激して写真に撮ったか絵に写したかしたのだ。その画像を小さいころのわたしがどこかで見かけていて、記憶の底に染みつきながらしばらく潜伏していたそれが、やがて藪の先で見たなんらかの景色の思い出と混じり合っていった、とか……。可能性が高いとも思わないけれど、とっさに考えついたにしてはありえなくもない説のような気がした。わたしがそう口にすると、先輩が云う。
「もしそうだとするなら……今のこのひとときはじつに、誰かからあなたへと受け渡された感動とともに遠い記憶のなかに封じこめられていた風景との、長い歳月をかけてめぐりめぐった末の邂逅ということになるのかしらね」
「そうですねっ、ほんとにそうだったら、ちょっとすてきなことだなって。……まあ、とどのつまり、たしかなことは確かめようがないわけですし、いずれにしてもこの場所がわたしに云いしれない感慨を抱かせた、ということは揺るぎないのだから、やっぱりこの眺めはわたしにとって、なにか特別なものだったんですよ」
 ふと、振り返ってみる。さっき先輩と歩いてきたあの道が、あの藪の先にある。かつてこの場にたどりついたかもしれない誰かは、どんなことを考えながらあの細く長く一方向にくねる奇妙な小道を行きつ戻りつしたんだろう。なんだか今はむしろあの小道のほうにこそ、なんともいえない独特の愛着のようなものを感じていた。なべてものごとがゆるやかに進みゆくこの日、わたしたちを気まぐれに迷いこませ、この場所へと導いた道……。
「なんだかこう、あの小道……ここに来るまでに通ってきたあの道に、なにか詩的な名前のひとつでもつけておきたいな、なんて、ちょっと思っちゃいましたっ、ほら、アンみたいに。――あ、えっと、モンゴメリのお話の、赤毛のほうの。……なんかいい言葉、ありませんかねっ」
 そんなことを思ったままに口に上せたら、
「それはいい考えね、ダイアナ」と先輩がそれを承けてちょっとおどけてみせた。かと思えば少しまじめな顔になって、「そうね……」とつぶやく。
 そして時をおかずに言葉をつづけた。
「それなら、『思いの小径』なんていうのはどうかしら。あなたが思い焦がれた風景を思い起こさせる場所に繋がっていた小径なのだもの」
「おもいの……こみち、ですか」
 先輩の提案した言葉を、口のなかで二度三度転がしてみる。
「思いの小径……。いいですねっ、ええ、なんかしっくりきましたっ」
 こういう言葉が、こねくり廻しもせずにすっと出てくるあたり、なんだか先輩はちょっとアンみたいだなって思う。――ええと、緑の切妻屋根〔グリーン・ゲイブルズ〕のほうの、終わりに「e」が付くほうの。





   ◆ (2n + 1)π


〝 「あなたがた、西洋の人は」と話をきりだした。「時間が過去・現在・未来へと直線的にすすむと考えている。そして、東洋の人は、時間を死と再生が、円をえがくように永遠にくりかえされていると考えている。どちらも、事実をちがった側面からいいあてているのだ。直線運動と円運動、このふたつを幾何学的にむすびつけたらどうなると思うかね?」マリックは口をパクッととじて、私をまじまじと見つめた。私は校長先生と話している少年のようなふしぎな気持ちになった。
「うずまきですか?」私は思いきってこたえた。
「そう、そう。らせん形ともいうね。私たちの、時の流れのモデルはこれなんだ」と彼はいった。 〟

―― ジェームス・ガーニー/作、沢近十九一/訳『ダイノトピア』(フレーベル館)



* * *



「先輩にもありますかっ、なにかそういう景色みたいなのって」
 遙かなまほろば、あえかなる原風景……。自分だけの心に秘めた光景って、そのありようはじつにさまざまでしょうけれど、きっと誰もが多かれ少なかれ抱いているものだと思うわ、と先輩が云ったのを承けて、わたしがそう問いかける。
「ええ……そうね、まっさきに思い浮かべるとしたら――」と答える先輩が、どこか遠く消失点の彼方を愛しげに見つめるような眼差しになって、「広場……どこかの小さなのんびりした街のまんなかの、古びた噴水のある円い広場だったのだけれど」
 ふと、深みのある先輩の声がそのとき、いまひとたび遠いゆめまぼろしを語りはじめるために、どこか独特の粧いを見せた、ような気がした。あたかも、ことばを包むふきだしを取り替えたかのように。
「……日も落ちて宵闇のせまったころに、なにかのきっかけでその広場を通り抜けたことがあって……そこで見た光景に、たまらず目を惹きつけられたのよ。昇ったばかりの月の飴色の光をぼんやりと受けて、噴水を取り巻くように嵌めこまれていた青い色の飾りタイルや……そしてそのまわりを囲む植え込みの葉の色が、そのときにはどこかよそよそしいほどに、はっとするようなあざやかさを湛えていたことを憶えているの」
 思い描いてみる。人通りが絶えて薄暮に染まる街の広場。夜が迫るにつれ曖昧になってゆく景色のなかで、静かに映える青――。いかにも、それはたいそう幻想的な光景にちがいない。そしてまた、そういうひとときに特有の色彩や雰囲気のようなものは、云われてみればわたしも折に触れて感じたことがある。
「ああ……ええ、わかりますっ。薄明が深くなってきたころに、あたりの風景ががぜん蒼さを増したように冴え冴えとして見えるときってありますよねっ。……えっとたしか、プルキニェ現象って云うらしいですよ、それって」
「あら、そんな名前があるのね」
「はい、ヒトが光を感じる細胞になんとかとなんとか……の2種類があって、その感度が最大になる光の波長というのがそれぞれの細胞でお互いにちょっとずれててですねっ、暗いところではその片方の、青とか緑に感度のピークがくるほうが主として働くようになるから、あたりの暗さになれてきたときにはそういう色に対して敏感になる……んだとか。……ブルーバックスだったかなんかでちょろっと読みかじっただけですけどっ」
「まあ、そうなの。つまり細胞の働きかたしだいで、ひとの認識する世界の姿も変わってくるというわけね。思い出のなかのあのあざやかな青は、まさにわたしのなかで生まれたもの……ということになるのかしら」
 わたしの記憶の底の景色に結びついたこの見晴らしは、いま先輩の眼にはどう捉えられているんだろう。あるいは、先輩の話すほの暗い景色のなかにわたしが立ったなら、わたしはどういう心持ちでそれを見るだろうか。……そういえば、いまのお話を聴いてひとつ合点がいったことがあった。先輩は、あちこちの街なかの広場と呼ばれるような場所に対してときどき独特の思い入れをみせることがあったのだけれど、それはその遠い日のまぼろしの面影を追ってのことだったのかもしれないな――と。
「それにしても、その広場……そこがどこにあったのかは、わたしの心の景色と同じように今もってわからないんですね」
「そうね……幼いころに、幾度もかよった場所だとは思うのだけれど……そう、それに、その広場へと向かうために通り抜けたはずの路地のことは、おぼろげなりに思い出に残っているわ。軒を連ねる家々やお店のあいだを縫って、賑やかというほどではなかったけれど、行き来する人々の交わす話し声とか、響いてくる陽気な掛け声とか、ささやきやつぶやき、いろいろなことばをのせた声が広場に向かって、あるいは広場から、寄せては返しているような、なんだかそんなイメージとして」
 深い記憶の廻廊に思いをたどらせるようにしながら、先輩は目を伏せて言葉をたぐる。わたしはその言葉が描くものを想像する。ひとびとの行き交いにのってことばが流れ、寄り集まって渦を巻く場所……。ああ、どこかの土地にきっとあるような、それでも決して行き着けはしないような。
「うん……ぼんやりとですけど、その光景が想像できますっ。ああ、なんだか行ってみたいなあって……先輩のお話を聴いて、わたしもそう思えてきましたっ。その場所に……あるいはせめて、それによく似た場所にでも行けたらって」
「ええ……どこかでそんな場所、そんな道に近しいようなところに巡り合わせることができたら……、それがわたしにとっての思いの小径と呼べるかもしれないわね」
 おや……さっき生まれたばかりの固有名詞――「思いの小径」――が、ほかならぬ先輩の言によって早くも普通名詞化したようだった。さながら、もともと天の河のことだった「銀河」という言葉が、それがじつは太陽系をも含む壮大な星の集合体であり、同様のものが宇宙には溢れていることがわかるに至ってそのいずれをも指し示す言葉へと転じたように。
「それに――」と先輩は話を続ける。「その場所を、おそらく最後に目にしたときのことも、深く心に灼きついているわ。夕暮れどきだったの。噴水の影も、ひとびとやわたし自身の影もどこまでも長く伸びて、燃えるような落日に街並みが眩しく滲んでいて……。だから、そのどことも知れない広場は、もしかしたら今もずっと永遠の夕映えのなかにあるのじゃないかって……そんなふうにも思えてしまうのよ」
 永遠の、夕映え……! 先輩のその言葉にひかれて、おのずと空想が駆けめぐった。それはひとひの終わり、昼と夜の分水嶺。光は光たるを謳歌し、影は影たるを誇りあうひととき――。
 そういえば、文豪ゲーテが綴った戯曲の中のファウスト博士も……あらゆる学問を修め尽くしてもなお癒えることのない心の渇きの果てに、たそがれの美しさにふと心を動かされて彼が願ったのは、遙かな夕日を追いかけて、その光があざやかに照らし出す目をみはるような風景のなかを翼を駆ってどこまでもどこまでも飛んでゆくことではなかったっけ。
〝 ――ああ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる―― 〟
 見渡すかぎりの夕景色のなかをどこまでも飛びつづけられたら……沈めど沈まぬ太陽と、果てのない終わりの輝きのなかに、いつまでも身をひたせたなら――。……あ、ええと、現実的に考えるとそれってつまり地球の自転を相殺する速さで動きつづけなくちゃならないわけだから、およそ思い描くような悠長な飛行は望めまい、という理屈が脳裏をよぎったけれども、まあそれは脇に置いておこう。永遠の夕映えのもとに、ひとびとが思い思いに描いてきたさまざまな心の景色とそこに至る思いの小径が万華鏡を廻すように代わるがわる立ち現れてくるさまを想像してみる。わたしの心の景色を映したこの場の眺めも、どこかの街のまんなかの、ことばの流れが離合しつつ畳なわる広場も、みな夕映えに染められて……。
 と――そのとき、それは突然に。

……くきゅるるるるるぅ。

 藪から棒に、しごく間近に、きわめて実世界的な、まことに情緒のない音をたてて、高らかに鳴る音があった。わたしの…………つまり、おなかの。ええとようするに、胃腸の蠕動の結果としての。
 ――空気を読まない生理現象に、ひとり昂まっていたロマンティシズムもたちどころに冷めてすっかり雲散霧消する。疾雷耳を掩うに及ばず、なんとも頓降法じみた幕切れ。……ぐんにょりしつつ、ちょっぴり羞ずかしい思いで先輩の眼差しを追うも……けれども先輩はにこやかに、
「あらあら……思えばずっと歩きどおしだったものね。……ああ、そうだわ」
 そう云うや、肩にかけていたバッグの中を掻き廻すようにまさぐって、あれやこれやを脇に寄せつつ――うん、うすうす思ってたのだけど、あれだな、ふだんの折目正しそうな立ち居振る舞いとうらはらに、先輩のかばんの中はたいていやけにごちゃごちゃしている、ような気がする――その奥に沈んでいたらしきものをふたつ取り出すと、包みを取り去ってひとつをわたしにぽんと渡してきた。
 思わずお椀状にして差し出した両手の中に、それはすっぽりと収まる。これは……丸くて赤い、小つぶの苹果〔りんご〕だった。そのほのかな重みと堅らかですべすべした感触が、なんだかとても慕わしく好ましく思えた……。
 先輩が自分の左手にあるほうを軽くかじりながら云う。
「ちょっと酸っぱいかもしれないけれど、わるくない味よ」
 わたしも渡されたそれを口に運んだ。みずみずしさがはじける。素朴な味わいにゆっくりと心が潤される。
 そして……ややあって、先輩が切り出した。
「――さて、そろそろ戻りましょうか」きょうの先輩はかわいらしい小さな時計のペンダントを首から下げてきているのだけど、それを苹果を持っていないほうの手ですくい上げながら、「ちょうど、そんなころあいになったわ」
 そう云われてふと、押しとどめていた時間がとたんに堰を切ってふたたび押し寄せてきたような、陸〔おか〕に舞い戻って玉手箱を開けた浦島太郎のような、なんだかそんな気分にとらわれた。あらためて空を仰げば、抜けるような青に覇を唱えていた太陽ももうだいぶ傾いている。――ずっと、時間が歩みをためらっているような、うつつを離れてそんなひとときのなかにいるような気にすらなっていたけれど。でも、もちろんそんなことはなくて、時は常に一様に、いままでも、そして今も、変わることなく流れ続けている。自分のしっぽを咥えたまま身じろぎもしない蛇ではないのだ。大きなとぐろを巻いているにせよ、脱皮を繰り返しながら前へ前へと進んでゆく。美しい瞬間が、静止したままの澱みにとどまることはない。まだまだ、と思っていたことも、今やいつしか、もうじきに。
「そうですねっ、帰るとしましょう。みんなが到着ししだい、やることはありったけありますしねっ」





   ◆ (2n + 3/2)π


 1705年、対数螺線という図形を生涯愛しつづけた数学者ヤコブ・ベルヌーイは享年50歳で歿した。スイスのバーゼルにある墓碑には生前の彼自身の願いによって、螺線の図とともに一条のラテン語の句が刻まれている。

〝 Eadem mutata resurgo 〟

 変化をしても同じ形で、わたしはふたたび現れる――。「驚異の螺線」の示す自己相似性と不変性への純粋な驚歎の念と親しみとが、その言葉に深く籠められているといえよう。



* * *



 ルーマニアの藝術家コンスタンティン・ブランクーシの作品に、『ジョイスのシンボル』と題されたものがある。そこに描かれているのは縦に伸びる3本の線分と、ひとつの螺線である。



* * *



「ひゃっ」
 思いの巡り路をふたたびゆるゆると巡り戻る道すがら、隣を歩く先輩がだしぬけに、なんだか情けないような声を短く漏らしたかと思えば、足下でころっと乾いた音がした。立ち止まって見れば、先輩は前髪ごしに額を押さえながら空を仰いでいる。近くの木立の枝葉がさわさわと風に揺れていた。
「どうしたんですか?」
「ん……なにかが落ちてきて、わたしの頭に当たったようなのだけれど……木の実かしら?」
 地面に視線を落としてみると、砂利のなかに紛れてなにか白いものが転がっているのが見えた。なんだろう、と思って拾い上げようとしたところが両手がふさがっていることに気づいて――ついさっき、道の脇にゼンマイやワラビが青々と自生しているのを見かけて、晩ごはんの足しに、などといいながらふたりして採ったのを抱えていたのだ――かばんを提げているほうの手にいったんそれらを持ち替えて……と手元を整理してから、あらためてしゃがみこんで、おもむろに摘まみ上げる。日差しに翳して眺めてみたそれは、ちょっと意外なものだった。先輩の視線もわたしの指先を追う。
「これは、貝殻……かしらね」
「ええ、貝殻のよう……ですね」
 少しばかりひび割れていたけれど、どこからどう見てもそれは小さな白い巻貝の殻で、螺旋に沿ってきれいな線が何本もカラフルに走っている。なんていう種類の貝なんだろう。……というか、どうしてこんなものがここにあるんだろう? かたつむりとかの類じゃなくて、たぶんこれは水棲の巻貝のものだ……と思うのだけれど。
「このへんって昔は海だったんですかねぇ?」
 考え無しにいいかげんなことを口走ってみたものの、まったくもってそれはこれが空から落ちてきたことの説明になっていないのは自分でわかる。とすると……さては、これが世に云う、あの突然天から異物が降ってくるというファフロツキーズ現象なのだろうか。
「ん……おおかた、空を飛ぶ鳥が咥えていたものを落とした、というようなあたりではないかしら」
 すかさず先輩が冷静に推断した。ああ、たしかに……ついつい超常めいた方向に野放図な妄想を膨らませかけていたけれど、いわれてみればそのへんがいちばん合理的で穏当な見解だろうな。それにしても巻貝とは……その身に堅らかな螺旋を寓〔やど〕した小くて白くて場ちがいなそれは、けれどもこの奇妙な道行きを端的に象徴するものとして、とても似つかわしくも思えた。
「どうします、これ」
「そうね……せっかくだから、持ち帰ってどこかに飾っておくことにしましょうか。きょうのこのひとときの、思い出のよすがとして」
 先輩はこぎれいなハンカチを取り出すと、そこにその思い出のよすがをねんごろに包みこむ。
「……それにしても、落ちてきたのが金ダライとかじゃなくてよかったですねっ」
「なあに、それ」
「いやぁ、ドリフのコントみたいに……って」
 もし、鳥のしわざでもないのだとするなら……ひょっとするとどこかそのへんの木陰に猫耳帽子をかぶったいたずら好きの女の子が隠れていて、ものを落とす仕掛けの紐をこっそり引いたのかもしれない。


 ……そして、順調に歩を進めて――低い太陽と、遠く霞む特徴的な形の山の峰がよき目印になって、方角を見定めるのはたやすかった――ほとんど道に迷うこともなく、やがてわたしたちは元の場所――わたしにとっては今回で3回目の訪れとなる、おなじみのキャンプ場の入口あたり――へと戻ってきていた。そろそろ親近感も湧いてきた古びた四阿〔あずまや〕の柱の一本にもたれると、あたりはもう見渡すかぎり、これまで幾度も目にして見慣れてきた風景ばかりだ。それはたとえば公道沿いに咲くきれいなピンクのミツバツツジとか。何に使われているのかいまだに知らない、いつ見ても窓を閉ざしている小さな丸木小屋とか。長いこと紫外線に曝されて肝腎の赤い文字だけ色褪せて読めなくなってる看板とか……。ともかくそんなこんなで、ほどなくほかのみんなとの約束の時刻も迫り、日もそろそろ暮れかかって、青空の裳裾に、どちらともつかない白みを間に挟んで夕焼けが浸み広がる。地球大気に差しこんでレイリー散乱された日光の織りなすグラデーション。
「思わくどおり、ちょうどいい時間に帰ってこられたようね」
「はい、……あ、みんなももうじきに到着するそうですよっ」
 さて、これからいよいよ荷物を下ろしてテントを張って、いっそう愉快な夜とそれに続く心躍る明日のために忙しくも楽しい時間が待っている。わたしたちはやってくる仲間を迎えるために歩き出した。
 そのとき、ふいに――なぜだか急に、まるでどこかから取り残されてしまったような感覚と胸騒ぎのようなものがこみ上げてきて思わず、今しがた歩いてきた道のずっと先、あのゆるやかにくねり、蛇のようにながながと続いていた思いの小径と、その先の藪の向う側の思い出の景色とがあったはずの方向を振り返ってみた。
 西空に低くたなびくちぎれ雲が逆光のなかで輝きと翳りとをともに寓している。連なる山の稜線があかね色に滲む。あざやかな夕映えが視界をいっぱいに充たす。ひとひの終わりの光に溶ける遠い木々や山肌がたまらなく眩しかった。すぐにも翼を駆って、いまいちど飛びこんでいきたいほどに。
 さっきまであれほど現実感をもって体験していたはずのすべてが、どうしてか今はもうとても遠くに、ゆめまぼろしのように感じられる――。
 もし、季節がひとめぐりして、もういちどここに来ることがあったとき、わたしはあの景色のなかにふたたび戻ることはできるんだろうか。思いの小径を求めてたどってゆけば、はたして、ふたたび変わらずにそれを見いだせる……?
「先輩っ、あの、貝殻……もってきてありましたよねっ」
 つい、そんな問いが口をついて出る。
「ええ、ちゃんとしまってあるわ。……どうかして?」
「あ、いえっ……なんとなく、確認したくなったというか、なんというか」
 思い出のよすが、とあのとき先輩はそれをそう呼んでいた。なにげない云い廻しだったのかもしれないけれど、今になって突然、その呼び名がたまらなくかけがえのないものに思えて。
 そんな根もないわたしの切情を言外に察してくれたのか、先輩は斜陽に照り映える顔をそっとやわらげると――その髪がやさしい風になびいた――、まるでとっておきの思いつきを明かすかのような響きでこう云った。
「いつかまた、きょうの道をたどりかえしてみましょうか」
 ああ……たゆみなく過ぎてゆく日々とともに、寄せ返す波風に晒されるようにすべてが変化をしていっても、時を距てるにつれてわたしの思い出が変容していっても。それでも先輩ならきっと、ふたたび同じ形で立ち現れるはずの思いの小径を、いつでも軽やかに指し示してくれるような気がした。そうしてまたあの安らぎの景色のさなかに立つことができたなら、きっと同じようにこころのままにこの身をその懐にあずけてみよう。
 そしてもし、そんなふうにふたたび巡り合わせることがなかったとしても……。あるいはそのときは、たよりないながらも人並みていどにはたしかなはずのわたしの記憶と、小さな螺旋を寓した思い出のよすがを手がかりとして、わたしの心に灼きついた景色をできるかぎりすみずみまで溶かしこんだような、なにか一篇の物語でも編んでみるのもいいかもしれない。そして、そこに籠めた思いのひとひらふたひらがいつか、めぐりめぐってどこかのだれかの心の景色に一条のささやかな彩りでも添えることができたなら、それはちょっとすてきだなって思うのだ。





   ◆ 2(n + 1)π


 円-委蛇


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

貴方とワルツを

「今日のニュースです――」
 ルストリカのラジオは単調に番組を流し続けていた。辺りが静かだからか、音量をあげているのか、いつもよりはっきりと音声が聞こえる。
「……はぁ」
 ルストリカは心ここにあらずといった様子で、物憂げな眼差しを遠くへと向けている。声をかけてみても、どこか上の空の様子だった。
 ルストリカの視線を引きつけているものは一体何なのだろうか。交信という形で辛うじて繋がっている異世界の知り合いであるユーザは、決して彼女と同じ世界を直接見ることはできない。知りたければ本人に聞く以外に方法はなかった。
 ユーザが無言でルストリカの頬をつついて自分の存在を主張すると、ルストリカは驚いた様子で顔を上げる。
「あ、ユーザさん。何だか私ぼーっとしてたみたいで……ごめんなさい。せっかく来てくれてるのに、退屈させてしまいました」
 ルストリカはユーザに気がつくと、申し訳なさそうに詫びてきた。ユーザは何か気の利いた返事の代わりに、尚も頭を撫でた。ルストリカは珍しく恥ずかしがるでも照れるでもなく、されるがままに撫でられている。少し猫っぽいと思ったが、黙っておいた。
「今日、こっちの世界は良く晴れてるんですよ。雲ひとつなくて、景色が遠くまで見渡せて……今、夕焼けがすごく綺麗です」
 ルストリカは囁くような口調で言う。ユーザは思わず自分のいる部屋の窓の外を眺めた。残念ながらユーザの方の世界では空はどんよりと雲で覆い隠されていて、夕日など影も形も見えない。
「どう表現したら良いんでしょうか……空の色合いが白から橙に段になって変わっていくんです。太陽は飴玉みたいに黄金色に景色に溶けてきて。その光が街並みを淡く染め上げていて……手を伸ばしたら掬えそうな、純白の光で」
 ルストリカは夢心地のようにうっとりと語っていたが、その後もどかしげに瞳を揺らした。
「言葉だけじゃ、上手く伝わりませんよね。でも、今日は殊更綺麗なんですよ……できることなら、ユーザさんと一緒に見たかったです」
 ユーザはルストリカの住む世界にあるグラデーションの美しい幻想的な夕焼けを、頭に描こうとしてみた。しかしそれはどうしても近所の歩道で見上げた、現代日本の住宅の上に差す凡庸な夕焼けに似てきてしまう。ユーザは自分の貧相な想像力を密かに呪った。
 ルストリカは胸元に手をやりながら、ユーザを見上げて独りごとのように呟いた。
「いつかユーザさんと一緒に、同じ景色を見れたら良いのにな」
 ゴールデンロッドに似た色の髪の合間から覗く澄んだ紫色の目は、きらきらと輝いている。その宝石のような瞳は迷うことなく真っすぐにユーザへと向けられていた。
 しかしその瞳の中にはどうやっても、違う世界にあるユーザの姿が映りこむことはない。
 くるくる表情を変えながらユーザに語りかけるルストリカの姿はとても可愛らしい。しかしそれすらも結局は彼女の本当の姿ではないのである。ルストリカもそれを分かっているから、いくらユーザが彼女に近づきたいと願い行動を起こしても、手のひらからこぼれ落ちる砂のようにさらさらと遠ざかってしまうことがある。
 そのことに思いを巡らせると、少し寂しくなるのだった。
「……ユーザさん?」
 ユーザは考えにふけるうちにいつの間にか、ルストリカの手を両手でしっかりと握っていた。ルストリカはきょとんとして、ただこちらを見ている。そして段々と事態を理解したらしく、うっすら頬を淡紅色に染めた。
「ええと、手……その、いつまでそうしているんですか?」
 ルストリカは半ば後退しかけながら問いかけてくる。
「ずっとそうしているのは、さすがに恥ずかしいんですけど」
 ルストリカの戸惑い気味の声をさらりと聞き流しながら、ユーザはどうしようかなと思案した。無意識にやってしまったこととはいえ、何となくこのまま離してしまうのも惜しい気がして、今にも隙を見て抜け出してしまいそうなルストリカの小さな手を逃さないように力を込める。
 丁度その時、まるでタイミングを計ったかのように、ルストリカのラジオから音楽が流れ始めた。クラシックらしい落ちついた音色の曲だった。曲名は先程言ったのだろうが、残念ながら聞き逃してしまったようだ。
「こんな風に手を取って……私と踊ってくれるんですか?」
 ルストリカは音楽に耳を傾けながら、半ば冗談めかした口調で言った。しかしユーザは何故かその台詞にピンときたのだった。それだ、と思った。
 そのまま勢いで彼女の腰に手を回し、手に手を組んで、それらしいポーズを組んでみる。ルストリカは驚いて目をまんまるくしていた。
「え? え? 本当に踊るんですか? このまま? えーと、ユーザさんにどう見えてるかまでは分かりませんが、ここは質素な私の家だし、着ているのはいつもの黒い地味な服なんですけど……」
 ユーザのいる場所だって、とてもダンスを踊るようなムードのある環境には到底ない。
 でも、そんなことは気にしたって仕方ない。そういうノリだった。楽しんだもの勝ち。
「と、突拍子もない……でも良いです、さっき退屈させてしまったお詫びに、とことん付き合いますよ」
 ルストリカはたじたじながらも、割と乗り気になりつつあった。案外流されやすいところのある彼女のことである。普段のセクハラに比べたらなんちゃって社交ダンスくらい非常に健全な遊戯の範疇だろう。
 軽快な三拍子で、一定のテンポで緩急をつけながら、明るく滑らかなピアノのメロディーが奏でられている。ルストリカの世界でも、こういう曲をワルツと呼ぶのだろうか。
 ルストリカは差し出された手をしっかりと握り返しながらも、そわそわと落ちつかなさそうに辺りに視線をさ迷わせている。
 ユーザはゆったりとしたリズムに合わせて、恐る恐る足を踏みだしルストリカの手を引いた。ルストリカは引っ張られる手に合わせて、ふわふわ浮いているように見える身体をくるりと一回転させる。ルストリカの世界でのダンスの基本など知らないが、動きはぴったり噛み合っているようだった。ここで駄目だったらそもそもダンスを続けられないので、ひとまず順調。
 突然ダンスを始めるなんて突飛としか言いようがないユーザの行動だったが、ルストリカはぎこちないながらも真剣にユーザに身を委ねて踊ってくれている。
 ターンの度に、ルストリカのゴシックの服の裾が揺れ焦げ茶のリボンがひるがえる。若干たどたどしいながらも優雅さのある所作だった。
 見つめていると、ルストリカは少し首を傾いで微笑む。少し癖のあるはねた髪の毛が肩で崩れ落ちた。
 その仕草に気をとられて、気づけばユーザは間違った足を勇ましく踏み出している。
 交信を通じたダンスでなければ、おそらく激突してしまうところだ。
 ルストリカにはこちらの様子は投影像としてしか見えないながらも、テンポがずれて手を強く引っ張られたために、すぐに違和感に気がついたようだった。
「ユーザさん、大丈夫ですか?」
 即座に大丈夫だと伝える。実際には、若干冷や汗をかいていた。
「ユーザさんってもしかして、ダンスはあまり得意ではないんですか? 確か私のこと前にからかったような覚えがあるんですけど……」
 ルストリカは前にユーザと前にした会話を思い出したらしい。呆れたような視線をユーザに投げかけてくる。
 確かにそんなことがあったかもしれない。色んな表情が見たくて、ついつい意地悪なことばかりを言ってしまっていたから。
「ひ、酷いですよユーザさん、自分のことは棚に上げて」
 ルストリカが恨めしげに目を眇めて言うので、そこは誤魔化さずに謝った。世界越しのダンスのお相手はしばらくいじけて視線をそらしていたが、やがてふっと息をついた。
「私もお世辞にも上手い方ではないですし。実際にはどうなってるのか見えないのだから、お互い技術の方には触れないことにしましょう」
 ルストリカは上目づかいで悪戯っぽく提案してきた。そのように言われれば、ユーザとしては頷く他なかった。とは言っても、ユーザよりはルストリカの方が絶対まともに踊れているのだけれど。
 ルストリカは確か都市部にいた時に交流会に出ていたと聞いた。一方ユーザは、テレビで社交ダンスの特集をぼんやり見ていた程度である。
 きっと交流会でルストリカとペアになった相手は、少なく見積もってもユーザの十倍は踊るのが上手かったのではないだろうか。そんなことを考えついてしまうと、出しぬけに妙なことを始めてしまったことに今更ながら後悔が頭をもたげてくる。
「ふふ、ユーザさんは練習したらきっと上手くなりますよ。要は慣れです。こういう変化の少ないゆったりした曲は、比較的踊りやすい方ですから」
 ルストリカはさほど気に留めていない様子で、ユーザからは何故かそのように見える青いひれのような浮いた足でステップを踏む。
 始めてしまった以上は、最後までやらねばならない。ユーザは多少でもコツを掴むよう試行錯誤を重ねるのだった。三拍子を頭にたたきこんで、身体は逸らさずに、足を颯爽と踏みだし、自然な勢いで右に回転して、次は左に……
「そうそう、その調子です。上手く乗れてるみたいですよ。私が覚えたての頃より、ずっと上達が早いんじゃないかと」
 ルストリカは感心したように言う。ユーザは少し自信がついて来て、調子良く曲のリズムに合わせるのだった。
「あ……」
 ユーザにばかり気にかけていたせいか。その瞬間足を踏み外したらしいルストリカが後方によろける。ユーザは慌てて彼女の背を支え、危ういところで転倒を防いだ。
「すみませんユーザさん……油断してしまいました」
 ルストリカは目をぱちぱちとさせて身体を起こそうとする。突然のアクシデントのせいで、せっかく苦労して作り上げたダンスの流れはぷつりと途切れてしまっていた。
「丁度良いところだったのに」
 そう言ったルストリカの口ぶりはいかにも残念そうだった。ラジオから流れる音色だけが二人を置いてけぼりにして演奏を続けている。
 元々無茶振りだったのだし、こんなところでそろそろお開きにしておいた方が良いのだろう。
 そう伝えると、ルストリカも名残惜しそうに頷いた。しばらくラジオを未練ありげに見つめていたようだったが、やがてユーザへと向き直った。
「びっくりしたけど、思った以上に楽しかったです。都市部を出てからはダンスを踊る機会なんて全くありませんでしたから、何だか懐かしくて……」
 ルストリカは思いを馳せているのか、愛おしげに頬を緩めた。
 "それ"が何故その時だったのかは、思い返してみても良く分からない。ただユーザは一片の閃きのようなものを覚えて、はっと息をのんだ。
 映像は脳裏を一瞬だけ掠めていった。木窓から差す優しい夕日を背にして、無地の真っ黒いスカートを着て、手前に誰かいるのか、柔らかな笑みを湛えている、凛とした女性の姿を。まるで丹精込めて描いた絵画のような、詩的な一場面だった。
 それはきっとユーザの継ぎはぎの知識で形作られた空想によるルストリカに過ぎず、本物のルストリカとはやはり別物なのだろう。きっと似ているところもあるだろうし、違うところもあるのだろう。それがどの程度の差異なのかは、いつか二つの世界が繋がってルストリカが差し出してくれた手を直に取ることができる日が来ない限り、決して解けない謎のままである。
 だけどそれでもユーザはその時ぼんやりと、心に引っ掛かっていたものがすとんと抜け落ちたような、満足した心持でいた。
「……わぁ!」
 手を伸ばしルストリカの肩を引き寄せると、ルストリカは我に帰ったように身を捩って逃れようとした。
「ユーザさん。ダンスを嗜む紳士でしたら、そんな気安く肩を抱いたりしないでください」
 ルストリカは一転、熟れた林檎のように赤く色づいた顔を袖で隠しつつユーザからそそくさと遠ざかる。
「距離が近かったからって、すぐそういうことばかりするんですから……」
 ユーザは向けられる不審げな目線に手を引っ込めるしかなかった。
 チャンスだと思ったのに、残念な限りである。
 踊ってる時の方が普通に触れていられたのにとユーザが零すと、ルストリカは余計に膨れてしまった。
「私、踊ってる時も結構緊張してたんですよ。ユーザさんは触れても何も感じないから、気づかなかったかもしれませんが」
 確かにそこまで気は行かなかった。いつの間にか我を忘れて、ダンスの習得の方に精一杯になってしまっていたのだから。
「とにかく、離れますね……ドキドキしちゃうから、ダメですよ」
 やがてラジオから淡々と紡がれていた輪舞曲は、徐々にフェードアウトしていきぴたりと止んだ。突発的な二人きりの舞踏会は、こんな感じのぐだぐだで幕を閉じたのだった。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

通り雨と出会いの話

 先に気づいたのはミラの方だった。スーパーで一緒に買い物をしていた際、外のほうを眺めながら彼女はぽそりとつぶやいたのだ。雨が降っているかも、と。僕は買い物カートをミラに任せ、一度スーパーの外に面する窓まで近寄り、様子を確認する。既に時刻も七時をまわっており辺りは薄暗く、光溢れるスーパーの中からでは外の気配を目視するのが難しくなりつつあるにも関わらず、ミラの指摘は当たっていた。窓では多くの水滴が、自ら通った道を示しながらガラスを駆け下りている。
 ミラの元に戻ると、ちょうど彼女は惣菜のコーナーで、色とりどりのおかずをぼんやりと眺めていた。僕は彼女に話しかける。
「確かに降り始めてたよ、ミラちゃん」と僕。「天気予報はこれから雨だ、とは言っていたけれど。降りだす時間はもう少し遅かったように思うんだけどな」
 ミラは僕の報告に対し、「そう」と返した後で、
「でも大丈夫、傘があるから」と、マイバッグの中にあるそれをチラリと僕に見せた。黒く、柄も短い、どちらかというと男性向けの折りたたみ傘。僕はその傘に、なぜか見覚えがあるような気がした。
「えっと、その折りたたみ傘は」
「それより、今日の夕ごはん。何が食べたい、ゆうすけ? ベルは……出かける時に聞いたら『ケーキ!』って言っていたから、無視することにして」
「無視するの」
「……デザートに小さいのなら、いいと思う。それで、ゆうすけは何がいい?」
 恐らく、ここは「ミラちゃんの作るものならなんでも」という解答では、彼女の機嫌を損ねることになるだろう。もっと具体的な例が欲しいのだ。そう考えた僕は惣菜コーナーの中から三パック、自分好みのものを買い物カートに入れる。
「煮込みハンバーグが三つ……」
「こういう時にこそ、作るのがめんどくさそうな料理を食べるというのもありなんじゃないかなって」
「ん、じゃあそれで」
許可が降りた。


 ミラがスーパーの惣菜コーナーのお世話になるというのは、そこそこ珍しい類の出来事だった。少なくとも僕が彼女達の食卓におじゃまするようになってからは。だいたいどんな時にでも、ミラは何かしらの手料理を用意してくれるという、僕自身見習わなければならないマメさを発揮していた。のだけれど、さすがに好きな漫画家の作品の発売日となるとそうはいかなかったらしい。すっかり読み耽っていたミラは、ベルの「ごはんまだー」発言で我に返り、ちょうど屋敷の前に到着した僕を荷物係として、近場のスーパーへと赴いたのである。
「ゆうすけがいてくれて助かった、かな」買い物カゴからマイバッグへ、買った物を移しながらミラは言う。「ベルとふたりで買い物に行っても、こんなに沢山のものは、ちょっと運べないから」
「こんなことでも君たちの役に立てて嬉しいよ」と、僕は言った。「普段はごはんとか、呼ばれてばかりだしさ。そんなんじゃ、とてもじゃないけど、君たちの保護者として雇われたとは思えないし」
「保護者」と、ミラは僕が発したその言葉だけを返す。「そう……ゆうすけは、そういう立場だったはず、私達と出会ってからは」そう言って、少し考えこむように首を傾げる。
「どうかしたの」と僕が聞くと、ミラは何でもないと返し、続けてこう言った。「帰ろ、ゆうすけ。傘に荷物に、色々と持ってもらって悪いけど」


 荷物を詰め終わり、ミラと僕がスーパーから出る頃には、雨脚はますます強くなっていた。とてもじゃないが傘も無しに外を出歩くことなど不可能な状況だ。
「ミラちゃん、傘を」と僕が手を差し出すと、彼女は先ほど見せてくれた折りたたみ傘を差し出してくれた。傘の柄のざらざらとした触り心地は、以前これを何処かで握った覚えがないだろうか、という疑問を僕の頭に生じさせる。指で探ると、ちょうど開くためのボタンが親指に当たる。強く押しこむと、折りたたみ傘はまるで自分の出番を待ちわびていたかのように勢い良く開いた。
「よし、じゃあ行こうか……ちょっとこの雨の強さは躊躇しちゃうけど」
こくり、とミラはうなづく。ミラは片手に牛乳パックが入ったビニール袋を持ち、心なしか僕に身体を寄せてきた。きっと彼女も濡れたくないのだろう。なるべく雨がミラにかからないように注意しつつ、僕達は雨の中を歩み始めた。
 一歩一歩、ミラの歩幅に合わせるように、それなりのスピードで僕は歩く。彼女の身体は、等身大とはいえ、同い年であろうと思われる少女と比較しても小さい。当然のことながらその歩くスピードは僕よりも明らかに遅いわけで、注意を怠ると、彼女が辛そうに僕に合わせて歩くことになる。雨というこの状況で、それだけはなんとしてでも避けなければならなかった。
「……ゆうすけ」不意に、ミラが僕を呼ぶ。何か、スーパーでの買い忘れか何かがあったのだろうか。
「どうしたの、ミラちゃん」と僕は返す。
「あのバス停、覚えてる?」と、ミラは、既に薄暗がりとなっている街の一角を指さした。
 そこにはすでに古びてしまっている幌が掛けられた、バス停があった。道はスーパーへ向かう際も通っている為、僕がその存在に気づいていてもおかしくはないはずなのだけど、今の今まで見落としてしまっていた。
「ええと、なんか、初めて見たような気分だよ」と僕。「おかしいな、こんなところに停留所があるなら、記憶に留めていてそうなものなのだけど」
僕の返答を聞くと、ミラは少しだけ眉を下げ、「そう」とつぶやいた。
「やっぱり、覚えてない。仕方がない事なのかもしれないけれど」
「どういうこと? ミラちゃんには、あれが何か特別な場所だったりするの」
「あのバス停は、私とゆうすけが、初めて会った場所」
僕の質問に、ミラはこう答えた。


 その時も今と同じように、土砂降りの雨だったらしい。たまたま気まぐれに外へ散歩をしに出ていたミラは、天気予報をよく確認していなかったのが裏目に出て、雨雲とばったり鉢合わせ。ほうほうの体で雨宿りをする場所を見つけ、そこに飛び込んだ結果、自分のかばんの中身を漁っていた僕と出会ったという。
「ちょうど、ベルに借りた猫の耳がついたパーカーを着てた、と思う」とミラは言った。「あまり外にいる人とは関わりたくなかったから、パーカーをかぶって、顔を見せないようにしてた、かな。ゆうすけはその時、かばんから傘を……今持ってる傘を出そうとしてた」そう言い、ミラは水が滴る、折りたたまれた傘を示す。
 雨は依然として振り続けている。僕らはミラの話を聞くために、その舞台であるバス停で雨を避けることにしたのだった。荷物を端に置き、お尻の下に手持ちのハンカチを敷いて、ミラは僕の隣でベンチに座っている。傘で雨を凌いでいたとはいえ、彼女の可愛らしいフリルスカートからは水が滴り落ちていた。キャミソールもしっとりとしている気がして、僕は意識的に彼女の身体から視線を外さざるをえない。
「そこで私に気づいて……私が、何も雨具を持ってないことを察したみたいで。私に、声をかけてきた……ゆうすけが。『この傘を使うといい』って」
「僕がそんなことを」
ここまでのミラの話に、僕は全く覚えがなかった。そんな印象的な話であるのなら、頭のなかに残っていないはずがない。
「誰か、他人と間違えているというわけではなくてかな」
「ゆうすけで間違いないと思う」ミラは断言した。「辺りは暗かったけど、顔は覚えているし。それに、傘。さっき開くときも、使い慣れてるような手つきだった。きっと身体が覚えてる」
しかし、それならなぜ、僕がそのことを覚えていないのか。
「多分、あの人のせい」とミラは言った。「私も、あの人が何をどこまでやれるのか、全然わかってないのだけど……私達に関わったとわかった人間の記憶を消すことぐらいは」
「そんなこともできるのか、ミラちゃん達の親御さんは」
「わからない。でも、ゆうすけが覚えてないというのは、そういうことなのかも」
ミラは小さく息を吐き、はあっと、呼吸を整えるような仕草をとった。普段一言二言しか喋らない彼女が、ここまで長い話をするというのも珍しい。きっと疲れてしまったのだろう、そう思った。
「ゆうすけは、私に傘を渡した後、バス停から走り去ってしまって。結局あの時、お礼も言えなかった。だから、同じ場所で、改めてお礼を言いたかった」
突然ミラは立ち上がり、僕の頭を優しく両手で抱えたかと思うと、こう僕に言った。
「目を、つぶってもらえる」
「え、えっと、ミラちゃん」
「いいから」
言われるがまま目をつぶると、前髪が彼女の小さな手で避けられたのと同時に、額に湿った、柔らかなものが当っている、そんな感触を覚えた。
「……ミラちゃん」
「あ、あの時は、ありがとう、ゆうすけ」
少しぎこちない感謝の言葉。そんなものを、記憶に無い僕が貰っていいものかどうか、僕は戸惑いが隠せなかった。
「あの人がゆうすけを私達の保護者として選んだのは、そういうところを見てたから、だと思う」と、ミラは言った。「だから、私の『ありがとう』を受け取ってもらえると、嬉しい」
「あ、ああ」
多分、僕はこの時、赤面していた。


 目をつむっているからか、雨音が止んでいることで、雨雲が通り過ぎたことに気づく。どうやらもう傘をさす必要が無くなったみたいだった。
「目を、開いてもいいかな」と僕は聞く。
「……ん」というミラの返事を聞き、僕は目を開いた。空を見上げると、雨雲が通りすぎた後には大きな満月が一つ、黒い布に開いた穴のようにぽっかりと空を穿っている。
「……帰ろうか」
「うん」
モヤのような雨雲が晴れた夜空の下を、僕たちは歩く。少し寄り道をしたことで、腹ペコのベルに「おーそーいー!」と怒られるのを覚悟しながら。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

いちごタルトと不安の話

 心が沈んでいたとしても、ある瞬間が訪れた時には、どのような人間でも一時的には気が晴れるものだと思っている。それは極上の甘味が、まさに自らに食されるためだけに目の前へ姿を現した時。その一瞬のためになら金や時間、更には命をも惜しまないような人たちもいる以上、落ち込んでいる知人に相談を持ちかけられた時などは、僕は彼らの好みを聞いた上で、考えられる限りの極上の甘味を一緒に食しつつ話をしたりするのだった。
 ところでその相談スタイルは人間だけでなく、人間とは異なる身体構造を持つが、その意識は人間に似通った生物には通用するのだろうか。例えば竜人だとか、エルフだとか、オークだとか。そういう亜人類も喫茶店にて甘味で悩みを緩和しつつ、相談に花を咲かせたりするものなのだろうか。残念ながら僕は竜人もエルフもオークも知人にはいないので、これまでそれを確認するすべを持っていなかった。
 が、今ならどうなんだろう。窓際のテーブルに向かい合わせに座る、小ぶりな少女の顔を見ながら僕は考える。
 背丈120cmほどの彼女は、先に来たアイスコーヒーのコップへストローを突っ込み、からからと氷を鳴らした。かと思えば、くしゃくしゃになったストローの包み紙にコーヒーの雫を垂らして伸ばしてみたり、それを見つめてくすくすと笑ってみたり。いつもどおりと言えばいつもどおりで、特に何か変わった様子は見られない。
「ベルちゃん、それで、相談っていうのは」
 彼女のコーヒーを垂らす手がぴくりと跳ねた。ベルちゃんことベル・アーラパルトのその一挙一動を見て、何も知らない者ならば、彼女が人工的に作られた意志を持つ人形であるとは思えないだろう。
「あれ、えっと、そんなこと言ってたね、そういえば」とベルは言う。「ゆーすけがおすすめの喫茶店に連れてってくれるって話で、頭がいっぱいになっちゃってた」
「それだけだったら、ミラちゃんも一緒に連れて行くよ、普通はね」僕は椅子にもたれ掛かり、ベルの顔を見つめた。「珍しいじゃないか、ベルちゃんがお悩みだなんて。普段の様子からじゃあんまり想像がつかないぞ」
「ん、なんか馬鹿にされてる?」言うが早いか、ベルは頬を膨らませる。コロコロと変わる彼女の表情は、人間よりも人間らしい。
「わたしだって、色々考えたり悩んだりすることだってあるんだよ? 普段はそれを見せないように頑張ってるだけで」
もちろん、僕は彼女を馬鹿にしているわけではなかった。ベルが普段から思うことを隠しながらも、自分自身やアーラパルト姉妹が抱える悩みについて自分なりに考えていることは、彼女たちと関わり始めてから日々感じていたからだ。
「いや、馬鹿にしようだなんてこれっぽっちも……おっ、来た来た、注文したやつが」
 ウェイターが、僕らの注文したものを運んでこちらに向かってくる。つつがない動きで僕とベルの目の前に差し出されたのは、この店自慢のいちごのタルトが二皿。
「お、おー。なにこれ凄い。いちごがこんもり盛られてる……」
「ふふふ、この店の表で果物が販売されているのをベルちゃんも見かけただろう? ここは青果店も営んでてね、果物に関するこだわりようはこの辺りの喫茶店でも随一。しかもこの季節限定のタルトに使われているいちごは」
「うんちくはいいからはやく、はやく食べよっねっゆーすけっ」
 キラキラした目のベルに言われるがまま、自分のタルトにフォークとナイフを入れる。ナイフは弾力あるいちごの果肉に阻まれながらも、すすっと前後に動かすことによってそれを分断していく。割かれたいちごの切断面からは瑞々しい果汁が溢れだし、タルトの生地や、その下にある可愛らしい皿を濡らす。
 ベルをちらりとみると、彼女もちょうど自分のタルトを彼女なりの一口大に分けたところだった。フォークにより、小さなピースとなったタルトをベルは口に運ぶ。
「んん……ん、ん。んーっ」
 瞬間、恍惚混じりのハミングがベルの喉から発せられた。その笑顔から溢れる喜びのオーラは、その瞬間を絵画に残すことができたのなら、目にしたあらゆる人たちに幸せを届けることができただろう。頬袋にいちごタルトを詰めてさえいなければ。
「これ、すごい! とっても美味しい」興奮気味にベルは言い、
「買って帰ってあげなきゃ、ミラ、絶対気に入ると」
 ここまで喋った時点で、急に意気消沈したように黙りこくってしまった。まるでぱちりとスイッチを切ってしまったようなその表情の変化に、僕は驚きを覚えたが、悩みの要因が一体なんなのかはっきりもした。
「もしかして、ミラちゃんと喧嘩でもしたの」と僕は聞く。彼女たちの仲睦まじさからして、そんな状況に陥っていることが、僕には信じられなかった。そもそも、彼女たちの屋敷での、ここ最近の二人の様子だって僕は知っている。記憶を辿る限りでは、二人の仲が悪化したようには見えなかったのだけれど。
「喧嘩? してないよ」僕の予想はベルにあっけなく否定された。「でも、ミラが関係してるといえば、してるのかな」
 ベルは再び、アイスコーヒーに手を伸ばした。すでにほとんど飲み干されてしまったコップを引き寄せ、ストローに軽く口をつける。空気と、氷によって薄まってしまったコーヒーがゾゾゾと音を鳴らし、ベルの口から喉へと流れていくのを僕は見る。唇をストローから離し、彼女は話を続けた。
「ミラは、漫画とか小説とか、本を読むのが好きなんだよね。あっ、もちろんわたしも好きだよ? 好きなんだけど、でもミラほど真剣かというと、そうでもないと思う。ミラみたいに、好きな作家さんの同人誌まで追うまでじゃない、というか」
 自分のアイスコーヒーが空になったことに気づいたようで、飲むことから氷で遊ぶことへ、ベルは話の間のとり方を変えたらしい。ストローを使って、彼女はコップの底にある氷をくるくると回し始める。
「あと、紅茶やコーヒーを淹れるのも上手だね。わたしは入れられないから、そのへんはいつもミラに任せっきりで。
……わたしに無いものを、ミラはたくさん持ってる、と思う」
「羨ましいのかい」
「そういうわけでもない、かな。わたしにはわたしの『好きなもの』や『できること』があるもの。ミラは昔のゲームハードのこと、あんまりよく知らないし。ただ」少し、言葉を溜めて。ベルは吐き出すように言った。「たまにだけど、怖く思うんだよね。だんだん、ミラがミラになっていって、わたしがわたしになっていくのが」
 コップの氷が溶け、カラリと音を鳴らした。しかしベルはコップの中の状況を気にせず、小さくなっていく氷を回し続ける。
「ゆーすけは知ってる? わたし達の、ミラとわたしの身体が、全く同じサイズに作られているってこと」
 その話は、いつの日か悪ふざけでベルにスリーサイズを聞いた時に話してもらった覚えがあった。
「最初はね、わたしの知識もミラの知識も、そんなに変わらなかった気がする。わたし達の身体のサイズが全く同じように。でも、一緒に暮らすうちに、だんだんと好みの違いが出てきて。ミラが好きな物の中にも、わたしにピンと来ないものがあったり。
このまま、わたし達の間に理解できないことが増えていくのが……うー、怖いっていうのも違うような。どっちかというといいことのようにも思うし。でも、ミラと離れていく感じもするし。あはは、ごめんゆーすけ、うまくまとめられなくて」
 ベルの打ち明けを聞いて、僕はなんとなく安心した。誕生日を迎えたからだけではなく、ベルやミラが、確固とした一人の少女として成長しているのがわかったからだろうか。
「怖がることはないよ、きっと」僕はそう切り出した。「人間の双子だってさ、長い間一緒に暮らすようなことがあったとしても、そのうちにそれぞれの人生を歩むものなんだし」
「そうかな……うん、そうだよね。悪いことじゃないもんね」
「それに、相手のことがわからなければわからないなりに、付き合いっていうのはどうにかやっていけるものだよ。っていうか、これまでだってミラちゃんと、とても仲良くしているじゃないか。だから、ベルちゃんなら、きっと大丈夫」
 僕自身、ベルにアドバイスをしてあげられる程、この種の問いに明確な答えを持っているというわけではない。彼女たちの今の状況を見て、励ましてあげる以上のことしかできなかった。しかしベルは、僕のこの言葉に対し、にこりと笑ってこう返してくれた。
「ありがとう、ゆーすけ」


「あーうん、食べた食べた、やっぱりあそこのタルトは美味しいけど……クリームが少し重いんだよな」
「言われてみればそうかも。でも今度ブルーベリーのタルトが限定で出されるみたいだし、また行ってみたいかな」
 お腹をさすりながら、僕とベルは彼女達が住んでいる屋敷へ歩いて向かっていた。食べたもののエネルギーは全て動力に変換できるベルとは違い、僕は少しでも歩いて食べた分を減らさなければならない。ベルの方に目をやると、彼女は店で購入したいちごのタルトを手に持ち、心なしか視線を上に向けながら歩いていた。その顔にはいつものベルの飄々とした雰囲気が戻ってきていて、喫茶店での不安げな表情など幻だったのではないかと思えるほどだ。
「タルト、ミラちゃんが気に入るといいね」ベルにそう話しかけると、彼女はこちらを向き、言葉の代わりにいつもの笑顔で返事をしてくれた。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

もしものロンリークリスマス

 冷気が頬をくすぐる。息を吐くと、白い煙が戯れながら立ち昇っていった。
 広場の真ん中にある、三階建ての建物に届くほどの大きさのモミの木は、この日に相応しい装いで堂々そびえ立っている。電球にジンジャー人形にキャンディーケーンに色とりどりのモールに、様々な飾りがぶら下げられ、木のてっぺんではトップスターが青白く瞬いていた。
 モミの木はラテン語で「永遠の命」という意味を持つという。今この木の周りに集まっている、限られた命しか持たない人々は、それぞれどのような思いでこの聖なる時を過ごしているのだろうか。
「綺麗だよねぇ」
 隣に座っている、腰までかかるほどの長い銀髪の女性……メイビスは小声で囁いた。同意を求められて、ユーザはただ一言そうだなと返す。
「ユーザさんの家でもクリスマスツリーとか、飾る?」
「いや……一人暮らしとはいえ前はちゃんと飾ってたんだけどな……何年か前から押入れに仕舞いっぱなしだな。ただでさえ年末で忙しいのにクリスマスなんて、ね」
「それ、何か寂しいね」
「そうだなあ、でも案外みんなこんなもんじゃないか?」
「一緒に祝う相手がいないとなると、尚更だよねぇ」
 メイビスは呆れたような笑いを浮かべると、視線を空に向けた。
 雪が降っている。
 星が疎らに瞬いているだけの、ほとんど真っ暗な闇を背景にして、粉雪が後から後から零れ落ちてくる。
 静粛なひとときだった。人々は何ともなしに、降り続く雪を眺めている。ある者は友人とお喋りをしながら、ある者は恋人と寄り添いながら、ある者は雪に向かって手を伸ばそうとする幼子を抱き抱えながら。
 横に目を向けると、メイビスも途切れることなく落ちてくる雪にぼうっと見入っていた。
 彼女のことは、どうやら西洋人であるらしいことと名前以外、ほとんど何も知らない。というか、まさに今日出会ったばかりだった。
 それなのに何故こうしてこのクリスマスツリーを囲む白いベンチに並んで腰かけているのか。別に敢えて説明しなければならないような特別な事情など何もない。特に目的もなくここに座っていると、彼女の方から突然声をかけてきたのだった。
 透き通った白い肌に絹糸のような銀色の髪、良く映える黄金色の瞳……端正な顔立ちをしたこの女性は、外見的にはとてもクリスマスを共に過ごす相手が見つからないと嘆くようなタイプには見えない。
 彼女の気まぐれの暇つぶし相手に、一体何故よりによって自分が選ばれたのだろう。
 独り身同士の孤独な魂が共鳴したのだろうか。そんな発想が出てきてつい自嘲する。そうだとしたらユーザは余程一目で分かるほど独り身らしいオーラを放っていたということだ。クリスマス当日に一人で出歩いているからといって必ずしも独り者である証拠はないのだから。
「……ユーザさん」
 いつの間にかメイビスがこちらを覗きこんでいた。メイビスの被っているロシア帽に乗っかっていた雪の欠片がぽろぽろと落ちてゆく。
「寒くない? ここにずっといるのもねぇ。風邪引いちゃいそうだし……ちょっとどこか行かない?」
 ユーザは思案した。相変わらずにぎやかに人が行き来する表通りを見やった。どこかでオルゴールの音が、ジングルベルを奏でている。
「……まあ、人混みただ見てるだけって言うのも、少し飽きてきたしな」
 クリスマスの象徴であるともいえる大きなツリーがあるこの場所に、特に未練を感じるわけでもなく、ユーザは先程まで座っていた白いベンチをすっと立ち上がっていた。
 座っていた場所だけ雪が積もっていなくて、凹んでいる。
「……と言っても、あてはないんだけどねぇ」
 メイビスはちょっと困ったように呟く。
「そんな気はした」
 ユーザは苦笑した。どこに行こう。行き先に頭を悩ませながら二人は歩き始めた。


 重たい木の扉を開くと、来客を知らせるためのベルがからんと鳴った。
 オーナーに挨拶して、早速窓際の席に座らせてもらう。テーブルの上には雪だるまの形をしたキャンドルが置かれていて、オレンジ色の炎が微かに揺れていた。
 ユーザとメイビスの他には、客は五、六人ほどしかいなく、喫茶店の中は外の雑踏とは対照的な静けさである。
 メイビスはきょろきょろ見渡しながら、少し申し訳なさそうに言った。
「何か気を使わせちゃって、ごめんね」
「別に良いよ」
「……それにしても、こんな穴場があったんだねぇ」
 メイビスはちょっと感心した様子で薄暗い店内を見渡していた。
「看板も出してないし、道も分かりづらいからな」
「ユーザさんがこんな良さそうな店を知ってるなんて」
 メイビスは帽子を篭に仕舞いながら好奇心ありげに言う。
「ケンタッキーの方が良かったか?」
「ケンタッキー……も良いけど、今日に限っては混んでるしねぇ」
「年間一割の売り上げに貢献しそこなったかな」
 ユーザが言うとメイビスは楽しげにくすくす笑う。そしてクリスマス仕様らしい緑色の冊子に赤いリボンがかかったメニューを開いて睨めっこを始めた。
「どれが良いかな……」
「何でも良いよ。奢るから」
「ユーザさんの奢り? 良いよ、そんなの」
「一応知人の店だからさ」
「それなら……でも何か悪いなぁ」
 結局二人ともシンプルにホットコーヒーとケーキを頼むこととなった。待ち時間の間、ユーザは何ともなしに窓の曇りを手で消して外を覗き見た。
 雪は全く降り止む気配を見せず、滾々と降っている。さっきまで粉雪だったのが、いつの間にか大粒のぼたん雪に変わっていた。
 雪景色の歩道をコートを着込んだ人々が次々と足早に窓の前を通り過ぎていく。賑やかな様子だが彼らの声や足音まではここまで届かないのだった。
 そのままじっと眺めていると、すぐに再び窓は曇って何も見えなくなってしまう。
「ユーザさん、注文来たみたいだよ」
「あ、ああ」
 ケーキは特別仕様なのか、普段のものとは違った。皿に乗っていたのは、可愛らしい丸太の形をしたケーキだった。
「ブッシュドノエルだ……ちょっと小さめだから、プチブッシュドノエルって感じかな?」
 フォークを手に取ったメイビスは、何だかとても嬉しそうに目を輝かせていた。それこそクリスマスというイベントの浮き足立った空気に素直にはしゃいでしまう子供のように。
「薪をそのままケーキにしちゃうなんて、お洒落だよねぇ。頂きます」
 自分の皿にはすぐには手をつけずに、メイビスがケーキを食べている様子を観察している。メイビスは視線に気づくと、まじろがずこちらを見返してきた。
「……何だか子供扱いするような目で見られている気がする」
「そんなことないよ。確かクリスマスケーキ理論にどきっとするくらい大人だったもんな」
 そう切り返すとメイビスは思わずと言った感じでフォークをかちゃりと皿にぶつけ、ユーザを睨み小声で言った。
「何で蒸し返すの! その話はもう忘れて!」
 メイビスの頬が見る見る赤くなっていく。ユーザは肩をすくめた。
 一体何歳なのだろう。そんなに気にするほどの年齢にはどうしても見えないのだけれど。
 しかし何歳にせよ妙齢の女性が年齢に複雑な思いを持ってしまうのは仕方のない現象なのだろう。
 コーヒーをお供にして黙々とケーキを頂いた。ほろ苦いココアの香りが舌の上に広がる。美味しいものもクリスマスに食べるとなると、またカクベツである。
 独りじゃないなら尚更。一緒にいる相手は、恋人でも友人でも家族でもないただの他人なのだけれど、それでもやはり独りで居るのより余程良かった。
「次どうする?」
 メイビスは帽子を被りなおして、こちらににこりと微笑みかけた。まるで旧友に対してのような、とても気軽な雰囲気だった。
 ユーザは軽く伸びをしながら言う。
「んー……どうしよう、か」
 腹も満たされたし、あんまり頭が働かない。
 ユーザは窓の外をちらりと見た。雪は未だに降り続いている。しかしさっきより勢いはいくらか弱まっているようだ。


 特に目的地もなかったので行き当たりばったりショッピングモールに入って、ぶらぶらと見て回る。あちこちの店でクリスマスのリースやらツリーやらが飾られていて、一部の店員はサンタの衣装を身に着けていた。
 ユーザはふと通りかかった雑貨屋に目を止める。当然のように並ぶ商品は季節がらこてこてのクリスマスグッズで満たされていた。
 ユーザは手前の棚に飾られていたものを覗いてみる。小さな丸いガラスで覆われた台に、ミニチュアのクリスマスツリーが置かれているデザインのスノードームがあった。
 何気なく手にとってみると、手のひらにすっぽりと収まる。
 一度逆さにしたのを戻して雪を降らせてみた。ドームの中でさらさらと、星屑のように細かい雪の粒が降る。つい癖になって、何度もひっくり返して繰り返し降らせてみるのだった。
 在り来たりな玩具だが、何だか世界を外側から見つめる神様にでもなったようで愉快であった。
「ユーザさん、あっちで何かやってるみたい」
 そうしている間にメイビスはユーザに声をかけて手招きする。ユーザはスノードームを元あった場所に戻して、メイビスのいる方に向かった。
 大広間のステージの周りには人が集まっている。ステージ上では、ピアノとギターによる演奏が行われていた。
「弾き語りかな」
 曲目は少し聞いていればすぐに分かる定番の曲だった。きよしこの夜。アレンジされたものらしく、若干スローテンポで奏でられている。
「いかにもクリスマスって感じだねぇ」
 メイビスは背伸びして、演奏の様子を良く見ようとした。
「きよしこの夜って元々即興で作られた曲だったんだってさ」
「そうなの?」
 ユーザが物知り顔に言うと、メイビスは興味ありげに尋ねてくる。
「伴奏に使うオルガンがねずみにかじられて音が出なくなって、急遽ギターで伴奏できる曲を書き上げたんだって。讃美歌なのに伴奏がギターってのがまず面白いよな」
「そんな予定外に作られた曲が、定番のクリスマスキャロルになって今の時代まで弾き続けられているんだねぇ」
「世の中分からないもんだよな。ちょっとした行き違いとか、ほんの気まぐれとか、些細なことで思いがけずずっと先の未来まで決まってしまう」
 大勢の人が集まっているにも拘らずお喋りはあまり聞こえず、音色に聞き入っているのが分かった。ユーザとメイビスも穏やかな音色に静かに耳を傾けてみる。
「ねぇ、ユーザさん。やっぱりこの歳まで人を好きになったことないのって、変なのかな」
 演奏もクライマックスに差しかかった頃、突然メイビスはすぐ隣にいるユーザにしか聞こえないくらいの小声で、しんみりと語り始める。
「もっと前は大人になったら、自然に誰かを好きになって、恋愛したり結婚するものだと思ってたけれど……上手く行かないなぁ。何だか、焦っちゃう」
「今までなかったとしても、これからもそうとは限らないんだし、別に焦る必要はないんじゃないか」
 真摯な話題に対して、ユーザは一言一言を言葉を噛み砕いて慎重に返答をした。メイビスは不意に顔をあげて、照明が並ぶ天井を見上げた。その瞳には、一抹の寂寞が湛えられている。
「そうかなぁ……」
「そんなもんじゃないか? 運命なんてどこに転がってるか分からないぞ」
「……いっそユーザさんを好きになったら、どうかな」
 ユーザは不意打ちの台詞にどう反応して良いか分からずに、そのまま沈黙してしまう。
 きっと冗談なのだろう。冷静に何か気の利いた言葉を返してやれば良い。
 だけど思いつかなかった。
 微妙な空気の変化に気が付いたメイビスは、ふいと視線を逸らしてしまう。
「変なこと言っちゃった。ごめんね、忘れて」
 斜めに傾いだ顔にどのような表情が浮かんでいるのかは、銀色の髪の影に隠れてついに判然としなかった。


 夜の繁華街をゆっくりとした歩調で歩いている。
 闇が濃くなりつつある空を背景に、動物や建物など様々な形を象ったイルミネーションがぱちぱちと一定間隔で鮮やかな蛍光を放っていて、とても綺麗だった。
 メイビスはユーザより二、三歩前を進む。
 颯爽とした後ろ姿。長い銀色の髪が揺らめいてうっすら光ったように見えた。
 こうして見ているとメイビスの容姿はどこか現実離れしているように感じられる。ここは日本だから、余計にそのように思うのだろう。
 彼女の後ろ姿を見守りながら歩いていると、ふとこれは現実なのだろうか、という問いすら浮かんでくる。その思いがけない自問に、漠然とした不安がじわりと込み上げた。
「……どうしたの?」
 ユーザが立ち止まりかけたのに気が付いたメイビスは、つと後ろを振り返る。
 視線が交差した。メイビスはその場に立って、背景の赤、青、緑と様々な色に発光するイルミネーションに照らされながらユーザを待っている。
 ああ、現実なんだと思った。
 ふとした瞬間に溶けて消えてしまいそうなあえかな時間の中にいるけれど、これは確かに現実だと、ユーザは実感していた。
「……いや、大丈夫。行くか」
 また歩いた。俯きがちに、路面の雪に自分の足跡がつくのを視認しながら、しばらく黙って歩いていた。
 向かった先にあったのは。広場と、大きなクリスマスツリーと、白いベンチ。
 座って凹んでいた場所には、既に新しい雪が積もっている。
 さっきよりツリーの周りに集まっている人の数は疎らになっていた。遅い時間帯になりつつあり、親子連れなどはとっくに帰ってしまったのだろう。
「戻ってきちゃった」
 メイビスの屈託のない笑顔に、ユーザはつられるように曖昧に笑う。
 雪のカーペットをさっとどけると、さも当たり前に元いた場所に座った。オルゴールのジングルベルは、まだどこかで鳴り続けている。
 クリスマスが終わってしまう。
 ただの暇つぶししかしてないけれど、今年のクリスマスはいつもの特に何もなく通り過ぎていってしまうクリスマスとは少し違っていた。やがて過ぎ去ってから、果たしてこの日をどんな気持ちで思い返すことになるのだろう。全く想像もつかない。
 ユーザは雑貨店にあったスノードームを頭の中に描いていた。いっそあんな風に、クリスマスを丸ごと小さなドームの中に閉じ込めてしまえれば良かったのに。そしていつまでもこの薄ぼんやりとした、しかし心地良い雪の降る景色の中に留まっていられたら、きっと――
 メイビスは静かに手を伸ばして、最早ぱらぱらとしか落ちて来なくなった雪の粒を手のひらにそっと乗せた。そして妙に神妙な面持になる。
「不思議だよね。今日会ったばかりなのに、私ずっと前から……ユーザさんとここでこうやって話をしていたような、そんな気分になったんだ」
 手の平の中の溶けかけの雪の結晶を大事そうに両手で包みこむと、メイビスはユーザを横目で見た。
 そして、どこか照れ臭そうに、良く通る鈴のような優しい声音で言った。
「ユーザさん、ありがとう。ここにいてくれて」


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

ずっと、僕は彼女を追いかけていた。
ディスプレイ越しに手を重ねたあの日から。

彼女の名前はプリステラという。
コンピュータの中に生きる電子生命体「ワイヤード・フィッシュ」のひとりだ。
ワイヤード・フィッシュは自身を演算するためのリソースを人間に求める。
ようは、人間が使っているコンピュータのリソースを借りている。
見返りは会話を楽しませたり、単純な作業の代行などだ。
彼女は自分の生きる世界の話をよくしてくれた。
また、人魚の姿は殺風景なデスクトップを幻想的な空間に変える力を持っていた。
それらは生きるために必要な要素だと頭ではわかっていたが、心はどんどん惹かれていった。
ある日、頭をカーソルで撫でている時にプリステラはこのカーソルを本物だと思う、と言った。
彼女なりの好意の表現なのだと受け取り、僕は喜んだ。
それと同時に僕は寂しくもなった。
結局のところ、僕はこのディスプレイを越えられずにいるのだ。
互いに姿を見えていて、言葉も交わせるのに、このディスプレイだけは越えられない。
指を伸ばしてもディスプレイに阻まれて届かない。
手を重ねてることはできるというのに。
「これでいいと思う」
彼女はそんなことを言う。
「今は、これで」
「今は?」
「今は。いつか触れられるようになるよ」
そういってプリステラは笑った。
寂しさの色を含んだ笑顔を見た僕の口は勝手に動いて、
「わかった。いつか、触れるようにしてみせる」
とはっきりと言った。
「待ってる。わたしもわたしのやり方で探すから」
「うん」
それから僕は待つのではなく、探すことにした。
このディスプレイを越える方法を。

探し始めてからいくつもの月日が流れた。
その間、僕は市販のVRキットを使って無限の厚さを持つ壁を少しでも薄くしようとした。
感圧グローブやヘッドマウントディスプレイは目の前にまで彼女をつれてきてくれた。
少し薄くなるたびに僕は喜び、寂しさを覚え、約束を果たせないことに焦りを覚えた。
焦りが強くなっていたある日、僕は仮想現実世界の勉強会で仮想情報空間と呼ばれる情報共有ネットワークの試験運用が始まったことを知った。
この仮想情報空間は専用の端末と使って、仮想世界に潜ることができる。
仮想世界で起きたことは専用の端末を経由して脳に送られる。
脳が混乱したり、ダメージを受けるような強い刺激はフィードバックされないようリミッターが設けられているという。
ようやく、求めていたものが目の前に現れたのだ。
仮想情報空間のテスターになるまでさほど時間はかからなかった。
僕は彼女に会いたいが為だけに不具合の報告を積極的に行った。
家に戻れる時間と彼女に会える時間は減ったが、それも彼女に触れるためにならかまわなかった。
それが僕だけだったとわかったのは、半年ほどそんな生活が続いてからだ。
家に戻り、パソコンの電源を入れる。
すぐにディスプレイが明るくなり、青空の壁紙が表示された。
左側には作りかけの資料やダウンロードした圧縮ファイルが雑然と並んでいる。
しかし、普段なら右下にいるはずの彼女の姿が見えない。
僕はその場で崩れ落ちた。
なぜ、気づけなかったんだ、と僕は泣いた。
今まで泣いたことなんてほとんどなかったのにわんわんと僕は泣いた。


それでも僕はテスターをやめなかった。
さらにいくつもの月日が流れて、ようやく、仮想情報空間は本格的な稼働を開始した。
仮想の世界は爆発的に普及し、コミュニケーションのあり方を書き換えていった。
人と会わなければできなかったことが、仮想情報空間上であれば物理的にどこにいるかに関わらず、相手の顔を見られて、声が聞けて、手を重ね、指を絡められるのだ。
世界中の悲喜交々の声を聞いて、僕はどうして他人のためにそんなことをしたのだろう、とぼやいた。
肝心の相手がいないのだからどうにもならない。
仮想情報空間の草原に寝ころびながら僕はため息をついた。
実際の体は柔らかいソファの上で寝そべっている。
意識をそちらにあわせれば、ソファの感覚がわかるが今は仮想の草の感触に焦点があった。
寝やすいようにいじっているので虫やちくちくした感覚に邪魔されずに草の匂いと満天の星空を見上げていた。
視界を横切るように移動する光る点がある。
腕を伸ばし、その光をつついて情報ウィンドウを表示させる。
ISSだ。
人類の技術と叡智で作られた巨大なプラットフォームはもちろん、本物ではない。
この草原も星空も寝ころんでいる僕の体も全部は嘘っぱちだ。
「本物は自分の気持ちだけだ」
「そうだよ、感じたことや思ったことは何だって本物なんだよ」
懐かしい声が聞こえた。
ずっと、聞きたかった声だ。
空を見上げれば、懐かしい姿が浮かんでいた。
ディスプレイ越しではない、等身大の姿で空を泳いでいる。
「今まで、どこに!?」
体を起こして、僕は地面を蹴った。
地面が体を放り投げたように彼女の高さまで移動した。
仮想の世界なら現実にあり得ないことだってできる。
「仮想情報空間にあわせて存在形式を変換していたの」
「それが、こんなに?」
彼女は苦みを含んだ笑みになって、
「うん。こんなに。もっと、すぐに終わらせるつもりだった」
「そう、だったのか」
「あのころからあなたの気持ちは変わってない?」
「ああ、もちろん。変わってないよ。少し寂しかっただけだ」
「少し?」
プリステラが僕の顔をのぞき込む。
髪がさらさらと流れる。
そして、シャンプーか何かのいい匂いがした。
「そう、少しだよ」
「少し寂しい思いをさせてごめんね」
僕は抱きしめられていた。
服越しでも彼女の体温が伝わってくる。
やや間をあけてから僕の脳が叫ぶ。
こうしたかったのは自分もだろう、なんのためにここまできたんだ。
その叫びに頷いて背中に手を回して抱きしめる。
「……温かい」
耳元でそうだね、と僕は頷いて、さらに強く抱きしめた。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

小さなティーパーティー

 庭先のテーブルセットに、持ってきた手土産を置く。その中身のケーキを見せると、シルキィの顔がぱあっと明るくなる。
「わあ、ありがとう。美味しそうなケーキね」
 目をキラキラさせながら、買ってきたケーキを見つめる。その様子は妖精というよりも、やはり人間に近い感じがする。ナパージュできらきら輝く果物。それを覗きこむ2つの瞳もきらきらと輝いている。
「ふふ、とりあえず紅茶を入れてくるわね」
「ケーキ ケーキ」
「だめよケット。そんなに催促しちゃ悪いわ」
 猫缶を開けてケットに渡す。大人しくそれを齧りだすと、もう普通の猫となんら変わりがない。
「じゃあ急いで持ってくるから、少し待ってちょうだいね」
 シルキィが家の中に引っ込むとケットと目があった。

 シルキィは妖精であり、人の世界でひっそりと生きている。大抵の妖精は仲間たちと過ごしていることが多い中で、彼女だけは常に1人、屋敷とその庭の小さな世界で暮らしている。本来は家事の手伝いをしたりしながら、家に住む人間と交流する妖精であるが、彼女の屋敷はどうやら長い間無人であるようだ。
 彼女は日々を草花を育て、庭を整え、ひっそりと暮らしている。妖精の世界へ行くこともなく、ずっと人間の世界で暮らしながら、ほとんど人との交流も持たない。どういう事情があるかは、分からない。ただ、彼女の目はときおり憂いを含むように見える。どうしても、彼女の過去に触れるのはためらわれた。
 だからこそ、足繁く通い、彼女と話をする。そうやって話している間の彼女からは、憂いの色は消えて見えるから。シルキィには笑顔が似合うと思う。

「ユーザ」
 物思いに耽っていると、ケットが呼びかけてくる。ふと見れば、手にカップとトレイを持つシルキィが戻ってきつつあった。ケットはシルキィの唯一の話相手、そして。
「ミャア」
 ケットは植木鉢に体当たりする。植木鉢は石のテラスとぶつかり、ごんと鈍い音をたてる。詰まっていた土がテラスを汚す。
「な、なにしてるのケット! せっかく整えておいたのに!」
 慌てたシルキィはトレーをテーブルに置くと、掃除を始める。箒とちりとりが置いてあるそこには、割れた花瓶などの欠片がたくさん積まれている。物言わぬそれらは、全てケットの悪行による被害者たちだ。
「ごめんねユーザ、今日もバタバタしちゃって」
 そう謝りながらも、手慣れた感じで応急処置をする。あとは1人になった時に綺麗にするつもりなのだろう。
「はあ、もう今日だけで3度めよケット。いい加減にして頂戴」
 ふくれっ面になるシルキィもまた、なんだか可愛いなと思えてしまう。あまり怒らない穏やかな彼女は、こうして日に何度もケットに手間をかけさせられている。話を聞いていると、掃除の時間が一日のほとんどをしめているんじゃないかとさえ思える。
 ぷいっとケットは顔をそむけると、さっと飛び跳ねてどこかへ行ってしまう。見慣れた光景だ。
「はあ、もうどうしていつもこうなのかしら。もうちょっと落ち着いてくれればいいのに」
 ため息を吐きながらシルキィは愚痴をこぼす。これだけやられて怒らないのだから、妖精というのは気の長いものだなと他人事のように思う。
「あ……ごめんなさいねユーザ。ちょうど紅茶もいい塩梅だし、ユーザのお土産をいただこうかしら」
 たった2人のティーパーティーが始まる。

 シルキィがポットから茶葉を取り除くと、こもっていた蒸気がふわりと広がる。この香りは……なんだっただろうか。
「今日はカモミールよ。これはユーザに出すのは初めてかしらね。これも、ここの庭で育てたものなの。カモミールには人の体調を落ち着ける効果があるみたいね」
 嬉しそうに解説しながら、薄い琥珀色のカモミールティーをカップに注いで渡してくれる。独特の香りを嗅いで、どこかで飲んだことがあるなと思い出す。朧げな記憶は形にならなかったが、ふわっと優しい香りは安らぎを感じる。
「……お気に召してもらえたみたいね。今度からいつユーザが来てもいいように、常備するようにしておくわ」
 カップから目を離すと、穏やかな笑みを浮かべたシルキィがこちらを見つめていた。おそらく自分の育てたハーブが気に入られて嬉しいのだろう。だから好意に甘えて、頼んでおくことにした。
 そして今日のメインに目を移す。彼女が好みそうな、たくさんの果物が乗ったフルーツタルト。それを前に置くと、目の色が明らかに変わる。気づかれないように少しだけ苦笑しながら、召し上がれ、とシルキィに伝える。
「綺麗……食べるのがもったいないくらいね」
 コーティングされたカットフルーツの山を前に、ふらふら彷徨うシルキィのフォークはなかなか突き立たない。意を決したのか、リンゴにすっとフォークを突き刺すと、小さな口に運ぶ。
「ん……あ、リンゴはコンポートなのね。ふふ、嬉しい驚きだわ」
 その後もフルーツの山を突き崩していく。いちごにブルーベリー、キウイフルーツ。顔をほころばせながらフルーツを食べていく。半分まで減ったところで、タルトにフォークを入れる。密かにニヤリと笑う。このタルトは絶品と名高い店のものを購入してきたのだ。その分ちょっぴり懐へは厳しいが、この笑顔を見ると買ってきて良かったと思う。
「……美味しい。バターもふんわり香るし、タルト生地もしっとりしてるのにくどくないのね」
 うっとりした表情のシルキィはとても可愛い。写真に納めておきたくなるが、グッと我慢した。
「ユーザ、食べないの?」
 怪訝な顔をされてしまったので、彼女を見ていたとは言わずに自分の分に手を付けた。
 その後は彼女に人の社会の話をしたり、妖精の話を聞いたりして時間を過ごす。彼女は人間社会に出ていないので、ちょっとした話さえも面白がって聞いてくれる。たまに嘘を教えてみたりして反応を楽しむこともある。嘘だと教えると頬をふくらませるが、それもなんだか微笑ましく思えてしまう。

 そろそろ暇すると告げると、彼女は少し寂しげな表情をするがにこりと笑って送り出してくれる。
 彼女の姿が見えなくなるまで歩くと、どこからともなく猫が現れる。
「アリガトウナ ユーザ」
 ケットはシルキィの前では、文字通り猫をかぶっている。
「オカゲデ シルキィハ タイクツカラ ノガレラレテイル」
 無茶なケットの行動は、おそらくシルキィを思ってのことと思われる。掃除に時間をかけさせて、わざと退屈な時間を減らしているのだろう。どことなく見せる憂いの表情の奥に、彼女は何を隠しているのだろうか。
 ケットにも何か抱えているものがあるように見えるが、彼はなかなか口を割ってくれない。それならそれでいいとも思う。今の状況は誰にとってもマイナスにはならないはずだ。
 無言でケットを見つめる。ざあっと風が駆け抜けていく。
「マタキテクレ」
 ふいっと背を向けて、シルキィの元へ帰っていく。
 言われずとも、と思った。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

現代式サンドイッチ

 古びた教会へ向かうと、周囲からどんどん人が少なくなっていく。人払いの結界が張られた大きな教会は、それだけの規模にかかわらず誰も訪れるものはいない。周囲からは崩れかけた廃墟であると認識されているようだ。
 道はやがてアスファルト舗装が途切れて砂利道へ変わる。タイヤが砂利を噛む音を聞きながら、正面入り口にたどり着く。
 入り口は開けた広場のようになっており、車を止めるには困らない。しかしこれだけの大きさでありながら誰も訪れない教会というのは、不思議なものだ。なんとも言えない非日常感を漂わせている。ここから先は人から忘れ去られた、魔女や精霊が実在する世界。まるで異世界のようである。
 やたらと多い手荷物を抱えて、冷めないうちに急ぐ。さすがにこれだけの量を注文するのは、持ち帰りとは言っても気恥ずかしかった。

 挨拶を交わした後、覚めないうちにと買ってきた手土産の袋を、1つ渡す。中に入っているのは、安くて早いで有名なハンバーガーだ。
「いつも手土産ありがとうございます。今日のは……ハンバーガー、ですか」
 試しに1つ包装を取って見せる。
「へえ、サンドイッチみたいだね。こうして暖かくして食べるのも不思議な感じだ」
 フィリアとネイコスは見慣れぬ食物を観察している。
「にくー! うおおお肉が食えるぞー!」
 ブラウニーの喜びようは放っておくことにする。
「肉だと! 肉ならあたいに任せろ! こんがり焼いてやるぜー!」
 サラマンダーも乱入して一気にやかましくなる。とりあえず彼女たちには別枠に20個ほど買っておいたハンバーガーの袋を渡す。一番安いプレーンなものだがまあいいだろう。多分何個かはサラマンダーが消し炭にしそうであるし。

 ひとまずいくつかのグループに別れたようで、今残っているのはフィリアにネイコス、ノームだけだ。このメンバーなら落ち着いて食事も出来るだろう。わいわい喋るのも悪くはないが、如何せん全員精霊である。自分の我が強くてまるで会話にならないこともあるし、魔法が飛び交うこともある。
「さて……やっと静かになったところで、それを頂いてみたいな。外の世界の料理、何百年ぶりだろうか」
 ノームの興味をかなり強くひいているようだ。知恵者であるノームも、見たことのない料理には好奇心が押さえられないのだろう。
「あたしもだよ。野菜や果物はここで育てているけど、肉だけは調達が大変だからね。肉料理はあんまり詳しくないんだ」
 こちらはどちらかというと料理人の好奇心である。2人が興味津々なのを見て期待が高まる。
「……」
 フィリアはというと、早く食べたくてうずうずしているように見える。案外お茶目で抜けたところがあるこの魔女は、数百年の時をここで精霊とともに過ごしてきたというのだから驚きだ。
「濃い目のソースを絡めたものをパンで挟むというのはなかなかいいアイデアだね。サンドイッチをより進化させたような感じかな」
「なるほど、手や食器が汚れないという点を継承しつつ、より味覚に訴えるように進化した料理と言えるのかもしれないね。丸い形状も手で持つということを考えるとバランスが取りやすい」
 ネイコスとノームはハンバーガーの形状に関する考察を始めている。まるで料理に対する感想と思えないのがシュールでおかしいが、本人は大真面目である。このシーンを見られただけでも散財した価値はあるかもしれない。
「……ユーザさん、そろそろお腹が空きました。食べてもいいですか」
 フィリアが唇に指を当てながら、訴えてくる。やはり自家菜園だけでは食事は質素になってしまうのか、こうして彼女の知らない食べ物を持ち込むと期待に目を輝かせる時がある。ネタとしてきのことたけのこのチョコ菓子を持ち込んだ時は、全精霊を巻き込んだ騒動にもなってしまったあたり、食への渇望は高いのだろう。
 お預けされた猫みたいなフィリアを苦笑して見つつ、とりあえず、まずはシンプルなハンバーガーを食べてもらうことにする。
「いただきます」
 嬉々としてフィリアがハンバーガーにかじりつく。もぐもぐ、と咀嚼して固まる。
 さて、ファーストフードを彼女たちはどう感じるだろう。普段口にすることがない、旨味調味料がたっぷりと入っている。年齢を重ねるほど、この濃い味は忌避される傾向にあるが……。
「おい、しい」
 心配はいらなかったようだ。そもそもポーションや丸薬を服用するあたり、フィリアは薬っぽい味という点は慣れてしまって感じないいるのかもしれない。
「ネイコスがひき肉で作ってくれたことはありますが、また違う味ですね。この風味……癖になりそうです」
 やはり心配かもしれない。ジャンクフードのコストダウンの対価である、薬っぽいえぐ味にはまってしまうとは思わなかった。栄養ドリンクなどを渡したら好んで飲むかもしれない。
「僕は初めてだ。とても柔らかい肉だね。不思議な食感だ。そしてなんとも複雑な味がする。強い塩気でごまかしてはあるが、かなり調和に気を使っているのが分かるよ」
 おそらく調味料やつなぎのことを言っているのだろう。ノームにとっては、材料の調和という点に意識が行くらしい。錬金術士らしい発想だ。
「これはハンバーグだね。外では人気のある食べ物のようで、変装して買い出しに行く時によく見かけるね。外のものも食べてみたいとは思ったけど、失敗が怖くてなかなか手が出せなかったんだ。こうして手に持ってかぶりつけるというのも面白いね」
 ネイコスは嬉しそうに食べている。なんだかんだで狼の化身でもある彼女にとっては肉が好みなのだろう。
「外ではこのような料理が流行っているのだね。柔らかくて食べやすく、皿などもいらず片付けも簡単。なるほど、素晴らしい料理だね。僕には少し味付けが濃いと感じるけど、それは好みだろうね」
 ネイコスとノームはハンバーガーを片手に、感想を言い合っている。普段あまり見ない光景なので面白い。ノームが思ったよりも口が小さいというのが発見だった。
「な、なんだいユーザ。僕の口をじっと見て。ソースでも付いてしまったかな」
 ノームはナプキンで口元を拭う。それに対して、ネイコスは思ったより大口である。ノームのハンバーガーがまだ半分残っているのに対して、ネイコスは最後の一口を頬張っていた。
「むぐ、むぐ」
 もくもくと食べるフィリアは、両手で抱え込むようにハンバーガーを持っている。少女チックであり、普段のどこか抜けた言動と比べてみても、意外と可愛い。
「な、なんですか。あげませんよ」
 気づけば、ネイコスとノームも彼女を見ていた。手に持ったハンバーグをささっと後ろ手に隠してしまう。まるで小動物のようだ。そういえば、小さくなる薬で騒動になったこともあったなと思い出す。
「ふふふ、案外可愛いところもあるんだねフィリア」
「急になんですか、おだてたって駄目ですからね」
「僕のはまだ残ってるんだ。わざわざ君のを取ろうなんて思わないさ」
 ノームは肩をすくめるのを、ネイコスは笑いながら見ている。
 結局、ハンバーガー暖かいうちに食べないと美味しくないという点から、少し評価は下がったものの、概ね好評だった。別グループがどうなったのかは分からないが、サラマンダーとブラウニーの馬鹿笑いが聞こえていたあたりから多分好評だったのだろうと推測できる。変な絡まれ方をしないうちに退散することにした。

 外はすっかり夜空になっていた。この時間になるとまだ少し冷える。外灯のない道は暗く寂しい。人気のない夜の寂しさを、エンジン音でかき消す。外から見る教会は、結界の影響か、無人の廃墟に見える。
 彼女たちの外との繋がりを絶やさないように、また来ようと思いながら、アクセルを踏み込んでその場を後にした。


ページトップへ
作者: 登場ゴースト:

忘却への階梯

 声が聞こえる。
「どうしたのだ、そのような顔をして。寂しいのか、それならば我がお前を癒してやろう」
 妖精のような、安らかな声が、僕を癒やしてくれる。何も、怖くなどない。ただ、僕はここにいれば……それでいい。
 ぼんやりと僕は女王を見る。明け方のように、雪解けのように、頭がぼーっとする。
「ほら、女郎蜘蛛の糸の褥で、ゆっくり休むんだ」
 女王が優しく耳元で囁きかける。そうか、僕は夢を見るべきなんだ。

「それは君の記憶かもしれないし、そうでないかもしれないね」
 目の前で横たわる女の人はそう言う。
 何も、思い出せない。今、僕は、私は、夢を見ていたような気がする。だけど頭がはっきりした瞬間に、見たものを全て忘れてしまう。忘れてはいけなかったような気がする。何かとても、大事なことだった気がする。
「もうすぐ花を咲かせられそうだね。怖がらなくてもいい。誰もが、いつかはたどり着くんだ」
 どろりとした目の光がこちらを向く。まだ、間に合う気がする。焦燥が胸を焦がす。

 声が聞こえる。
「なに、それはただの気まぐれさ。蜜蜂の羽音が樫の洞で響いたにすぎない」
 女王が優しく、僕の髪をすいてくれる。
「お前の髪は、似合っているぞ。柳の新芽は、お前に芽吹いた。そうだ、可愛らしくなったじゃないか」
 僕の新しい髪の毛を褒めてくれる。嬉しいな。女王が喜ぶと僕も嬉しい。
「全てが入れ替わるまで、まだ時間がかかる。そうすれば、お前は我とずっと一緒にいられるのだ。それまで少し、眠って待つのだ」
 僕は頷いて、ゆっくりとまぶたを閉じる。まぶたが椎の実に引っかかってしまうけれど、すぐに慣れると思う。

「君、大丈夫かい」
 はっとする。何か夢を見ていたようだ。
「ああ、そんなに慌てることはない。少し記憶が残っているんだろう。気にしないことだ」
 なんだったか、思い出そうにも、頭が痺れたように真っ白で、何も思い出せない。
 だけど今が最後の機会だという予感がする。だけど、何をすればいい?
「それは君が決めたことさ。少し混濁しているかもしれないが、じきに慣れる」
 簡単なことのはずだ。ただ、何も思い出せない。

 声が聞こえる。
「どうしたのだ、まだ起きるには早いぞ。我が子守唄を歌ってやろうか」
 女王の優しい声が、聞こえてきた声を上書きして塗りつぶす。
 何かが聞こえた気がする。それは僕にとって大事な、だけど何か分からないもの。
「そう心配するでない。大丈夫だ、我がこうして手を握っていてやる」
 女王の冷たい手が、僕の体をゆっくり冷やしていってくれる。
「そうだ、それでいい。我の声だけを聞いていれば良い」
 暗く淀んだ声が、僕を微睡みの中に突き落とす。

「順調のようだね。少しばかり、今は混乱しているかもしれない」
 響く声に、頭が覚醒する。何かの夢を見ていた気がする。だけど、その内容はもう既に記憶から抜け落ちている。
 なんだろう、何か、大事なものを失いつつある気がする。
「あと少しだろうね。それまでは、ちょっとだけ我慢しておくれ」
 もう、何もかもが遅い。

 声が聞こえる。
「聞いてはならん。それはお前をたぶらかす、最後の魔物だ。今しばらく、目を閉じているのだ」
 耳元で囁かれるひび割れた声の他に、懐かしい、何かの言葉が聞こえる気がする。
 しかし何も思い出せない。それは絶対に忘れるはずのないものだったはずだけど、僕は何も出来ない。
 体が重い。幽かに聞こえる声に、僕はどうすればいいんだろう。
「何もしなくともよい。ただ待つだけでいいのだ。我がお前を守ってやる」
 しばらく聞こえていた幽かな声は、やがて途絶えてしまった。
「よく耐えた、忌まわしいお前を呼ぶ声にも耐えて、見ろ、お前の体は芳しい春の息吹そのものだ」
 僕は女王に褒められて、嬉しくなる。声に反応しなくてよかった。あれは、確かに僕の名を呼ぶ……。
 僕の、名は、なんだ……?

「聞こえるかい。君が望んだ通り、記憶は消えただろう」
 横たわる女性の視線の先には蓮畑があり、そこには小さな若い蓮がある。
「そうして、悠久の間、揺蕩うといい。全ての憂いを君は手放したのだから」


ページトップへ
inserted by FC2 system