伺か一次/二次創作SS企画「SSうか」

注意事項

その他

作者: 登場ゴースト:

晩夏を冷ます雨

「夏が終わろうとしていますね」
何時もは砂埃の立つ四つ辻を通過した夕立で、足元から雨上がりの匂いがしている誰彼刻。
雨が止んだあとの雲を流していく風に舞う秋茜を見上げ、唐傘を畳んだ衣笠は深呼吸した。
肩が濡れた学生服を脱いで、傍らに立っている探偵を見上げ眉を下げて苦笑いする。濡れても冷たいと感じない身体だが、学ランに染みが出来たり皺になるのを気にしていた。会いに来る探偵の身なりが常にきっちりとしていて、アイロンを掛けしゃんとした襟のシャツと、毛羽立っていないコォトだからだ。
学生として学生服は正装だが、火事の時火の粉をかぶって焼け焦げた穴がそこかしこに空き、開襟シャツは降り続く雨に打たれてすっかり皺が付き、襟の糊が取れていた。立派な出で立ちで訪れる探偵の服装を最初は物珍しく思っていただけの衣笠は、最近横にいる自分の格好がみすぼらしいのにしょげていた。
色気づく年頃だと内心感心している探偵の視線を避け、雨が染みた制帽を取り毛先が跳ねた黒髪を手櫛で直す衣笠。頬がほんのり赤い。再び差した夕日を映したように。
「あんまりみっともないと、探偵さんに嫌われるかな、なんてね」
情けない顔で笑っている衣笠の手に握られた唐傘の先端から、水滴がひたひたと路上に落ちている。血の痕が今もなお思い出したように浮かぶ四つ辻を、黒く湿らせていく雨水。破れ放題の唐傘では雨はしのげない。立ち枯れた紫陽花が残る植え込みの傍、湿度を残した風は確かに秋が近い色と香りだった。探偵が付けている花の香水を吸おうと眼を伏せ大気を嗅ぐ衣笠に、手袋をした大きな手が差し出される。
「貸しなさい。アイロンを掛けてきてあげよう。急ぎだったら取りにおいで」
「えっ…」
「シャツも、ズボンも。私を待っている間に随分くたびれてしまっている。新調してもいい。学生服一揃い、あつらえようか?」
意外なまでの申し出に、衣笠は眼に見えて狼狽した。確かに埃じみて折り目のなくなった服装だ。しかし、新しく買い与えて貰うなどとそんな、親にもなかなか言い出せない希望を、今こそ恋仲とはいえ地獄まで追うと決めた仇に叶えてもらっていいものなのか。庶民の衣笠は首を振り、困り果てて一歩、二歩と後ずさった。
何と答えていいか咄嗟に浮かばないで目線を泳がせ口をぱくぱくと開閉する衣笠。頬どころか耳まで赤くなっている。恥ずかしいのか嬉しいのか、衣笠自身にも判らない。探偵が見下ろす眼は優しく、手に取った学ランの穴を長い指先でなぞって溜息をついていた。
「そんな、ボク、何もお礼なんて、出来ません!いいんです!」
「そうは言っても、じき衣替えだよ。学校に通っていたなら着替えるだろう。秋だ」
焦る衣笠を可笑しそうに笑顔で見ながら探偵は人差し指を立て上空を指した。紅葉には早い桜や銀杏が並木になっている川向こうの街並みで、仕事帰りの勤め人が背広を脱ぎ涼しくなった川を渡る風を浴びて通りに繰り出し、カフェが路上に出した席へと向かい思い思いの場所に陣取って麦酒を飲んでいた。ビアガァデンと書かれた横断幕が夏の強い日差しに色褪せ、夕風にたなびいている。もうすぐ夏だけの路上飲み屋は片付けられ、冬が来るまでの間、心地よい気温と風に包まれる。
己が亡霊だからと辞退しようとする、衣笠の制服は夏服だ。秋が更ければ凍える雨が降る日が増える。ましてや冬になれば、素足の指が凍るような白い綿雪が毎日毎晩降るのだ。探偵は指先に止めた蜻蛉を衣笠の眼の前に突き出し、にやりと人の悪い笑みを作って語りかける。
「冬服と、厚手のコォトを持って来よう。寸法は大体解かるからね、その通り仕立てるさ。靴もきちんと揃えておこう。どうせ君は真冬もここで私を待つんだろう?」
なおも衣笠を驚かせる話をし、最後に彼が言い返せない、頷くしかない事実を確認されて、赤い眼をぱちぱちと瞬いていた少年は戸惑いながらこくりと頷いた。自分の下駄の足元が見え、衣笠は想像する。雨は冬の風に氷となり、蜻蛉が飛び交っていた空が氷点下に冷え切って雨粒が結晶となり、身体を血の気のない死体の温度と同じに下げる雪となってこの四つ辻にも降るだろう。地面の血痕は見えなくなり、唐傘は重い雪を乗せてまた毀れていくだろう。思うとぞっとした。これ以上冷たくなってしまう季節に、己の身体に、分厚くなる探偵の手袋の中の体温を熱いと感じるに違いない真っ白な景色のまぼろしに。
すんなり承諾すると探偵も思っていない。衣笠は遠慮や配慮を知っている、分別のある教育を受けた少年で、自分の服装を気にしていても諦めてしまっている悲しい死者だと、判っている。差し出す衣笠の指に移った蜻蛉は、二人をつなぐ赤い糸に似て飛び立ち、探偵の肩を掠めて桜の遥か上、薄蒼い夏の終わりの空へ消えていった。
学ランを適当に畳んで片腕にかけ、探偵は衣笠を眺めた。どう言えばいいのか判断しかねて口が開けない衣笠に、今度は寒気のする狂った眼と人でなしの笑顔を向けて。
「どうせまた殺すのだ。折角なら見栄えのいい、清潔で整然とした人間を汚し、血反吐に塗れさせ苦悶させて殺すのが愉しみというものだよ。衣笠」
呆然と見上げていた衣笠が一瞬全身を強張らせてから震え上がり、三歩、四歩と下がって桜の幹に背をぶつけ、立ち竦む。喉を絞めようと伸びてきた両手に眼を見開き、赤かった顔はより火照ってうっとりと探偵を見る。街のずっと彼方、山の間へ沈んでいく太陽の色で白い顔が歓喜し期待するのを、探偵は眼を細めて見ていた。
殺しても殺しても足りないとねだる、お前の方がよほど気狂いではないのかな。
探偵は時々そう思い、そして笑う。それが愛なら大した茶番だ。
それが恋なら、一世一代の名芝居だ。
「…やっぱり、探偵さんは、ボクの姿が気に入らないですか」
「いいや。私が好きなのは服ではない、君だよ」
止まった手。宙でくいと曲がった指に視線を奪われていた衣笠へ、その手は緩められ頭を撫でる優しく温かい手に変化した。湿った髪を撫で、真っ赤になって俯いている衣笠の顔を覗いて探偵は、温厚で人情のある大人の顔を見せ、微笑む。今日のお芝居はこれぎりだ、もう夜になる。仕事の話をしなけあならない、私は忙しいんだよ。なだめるように、突き放すように、探偵は別れを告げた。
学ランを預かり四つ辻を立ち去りかける探偵へ、じっとり湿る開襟シャツの肩を震わせて衣笠は精一杯声を上げた。
「あの、次に探偵さんが来るまで、探偵さんのコォトを貸していただけませんか!」
前から思っていたんです、いいコォトだって。無理と判っている願いをあえて口にする苦しさで眼を逸らす衣笠。あんな高価な品物、着せてもらえる訳がない、そう信じて遠慮しながらずっと憧れていた。大好きな推理小説の探偵さながらに大人びたコォトで装ってみたい、残り香と体温を身に着けてみたい。引き止めようと伸ばした手を下ろし、衣笠は小さな、聞こえにくい声で済みませんと呟いた。
「…君には丈が合わないと思うね」
「ええ、いいんです…済みません、出過ぎたことでした。ボクも探偵さんのように事件を解決する気分になれるかな、なんてね…」
項垂れ、唐傘を差して顔を隠そうとする衣笠の上にまた、雨が降り出す。夜の雨は冷える、秋口の雨は冷たくて静か過ぎて、人恋しくなる。じっとここで待つのはつらい。濡れながら、約束をしたわけでもない想いびとを待ち続けるのは、切ない。そんな衣笠の胸のうちを思い、探偵はくすりと笑った。
まったく、思春期の少年だ。幽霊のくせに、死人のくせに。熱っぽい眼をしてこちらを伺う、可愛らしくも小賢しい。
「いいよ、次いつ来るか決めていないが、好きなだけ着ておきなさい。君が風邪をひいたら困るからね」
気軽に釦を外しコォトを脱ぐ探偵に、傘の下で眼を丸くする。袖を抜き、衣笠の肩に少し重いコォトをかけてやる探偵は笑っていた。ふわりと花の香りが雨に混ざり、衣笠は死んだ心臓が忙しなく動悸を打つのが聞かれそうで恥ずかしく、だが初めて着た舶来のコォトと伝わる温もりに眼を輝かせていた。
「あ、あの、本当にいいんですか」
「構わないさ。じゃあ、冬の制服を手配しておくよ。待っておいで」
濡れた素足まで温めてくれる長いコォトの釦を留め、何度も頷いて少年は四つ辻から去っていく背に手を振った。川を渡り街に戻れば彼は探偵、大好きで大嫌いな、衣笠の憎悪も思慕も受け止め受け入れる、少年がなれなかった大人の男性。
見えなくなった背広を思いながら振り向いた時、紫陽花に黒い蝙蝠傘が立てかけてあるのを見て、衣笠は独り呟く。生きた人間のように熱い頬をして。雨に冷めていく袖口を握って。
「死ぬほど好き、です」

作者: 登場ゴースト:

雨冷地獄

小雨の降る四つ辻で、幽霊は黙って見ていた。
警官が数人、座敷牢から脱走した狐憑きの男を取り押さえる光景を。
裸足で駆けて来た明らかに正気でない男に驚いて、唐傘を広げ陰に隠れて見つめている衣笠に、焦点の合わない眼が向けられ気の触れた笑い声を浴びせられる。日の沈んだ四つ辻は暗く、夕焼けの名残が山向こうに薄れていく光を背にして、爪の伸びた無作法な手が震えながら衣笠の肩を掴もうと差し伸べられた。避ける必要が無いのを分かっていても体は恐怖に竦み、棒のように動かない足で懸命に距離を置いた。背にぶつかった桜の木の上から赤く色づいた葉がひらひらと落ちて、男はそれを追い盆踊りでもしているようにでたらめに手足を振り回した。
ゆうれいだ、ゆうれいがいるぞ。狂った哄笑の合間に呟かれた声に鳥肌を立て、両手に握った唐傘を突き出して追い払おうと焦る衣笠に、男は涎を垂らして罵る口調で喚いたのだ。しんだものはじごくへいけ。その声を合図にして降り出した雨は冷たく、秋の気温を更に冷まして衣笠の髪を濡らした。
数分対峙している内に走り寄って来た警官達が暴れる男を押さえ、引きずっていくまでを黙って見ていた。声を出そうにも喉は緊張で渇き切り、震える指を一本ずつ剥がして唐傘を離した途端力が抜けて、徐々に強くなる雨で湿った路上にへたり込んでしまった。
夕刻が過ぎ宵闇の降りてくる刻限、烏が鳴きながら帰っていった後の空は雨雲に覆われじっとりと重く、暗くなっていく。大気に混ざる水気が多くなるのが冷えた衣笠の指に感じられた。細かい雨は、雲が分厚くなるにつれ大粒の、激しいものに移り変わっていく。幽霊の体でも感じ取れる冷え込みに、素足の衣笠は身震いして俯いた。
今夜は来ないのだろうか。毎晩思うたった一つの未練を噛み直す。毎日、時間を失った身でこの場所に来てくれるのを待ち侘びるだけしか出来ない。今日は明日に続かず、同じ今日を繰り返すだけの衣笠は、いつまでたっても彼の人を思う気持ちが終わらない。
しかし、酷い有様だったと思い返す。四つ辻の両脇に立ち並ぶ紫陽花の立ち枯れた花を鷲掴み、千切り取って振り回しながら、男は喚き続けた。ちかよるな、ゆうれいをたいじするのだ。じごくにおとすのだ。数人がかりで押さえ付けられのたうち回った四つ辻の真ん中には、砂をかき混ぜた跡が付いている。一月前、久方ぶりにそこに流れた血も砂埃に混ぜられてしまい、衣笠の眼には既に映らなかった。
そう、一月前、探偵を生業とする男がやって来たのだ。新調したナイフの切れ味を試したいと嗤いながら、衣笠の喉を裂き血飛沫に両手を染めて頚を捻り、満足して去っていったのだ。
それ以来現れない探偵の力強く大きな手が触れた頚にそっと触れて、衣笠は雨に濡れながら薄く笑った。散らばった紫陽花の残骸が、路上に置いた指先に触れる。雨水に浸り枯れてしまった花はぐにゃりと軟く、腐った皮膚のようで気持ち悪かった。
顔を上げ、真っ暗になった並木の上空を見て衣笠はいよいよはっきりと笑顔になった。包帯をじくじくと濡らす雨の下、来ないひとを待つ幽霊は、残った左眼を川沿いに咲く彼岸花のいろに輝かせて笑った。指が曲がり、転がっていた唐傘を掴むと白く骨めいて食い込まんばかりに握り締めた。
きっと待ち人は、今までの残忍な犯行を誰かに見咎められたのだ。警察に通報され、自宅を改められて、証拠に十分な血の付いた衣服、刃物、紐、犠牲者の一部を書斎の引き出しに発見され、今は牢獄に送られているのだ。そうに違いない。この夜が明ければ一月と一日,自分の元にやって来ないさみしさともどかしさ。募る思いは心配する少年のこころを、絶望と断絶に導いた。
怯えていた先ほどまでの表情とはうって変わって、衣笠の笑顔は一種邪悪ですらあった。口元を歪め、火のように燃える目を闇の向こうへ向けて、唐傘を握った指は悔しげに爪を立てた。そうだ、彼はもう来ない。いくら待ってもきやしない。いつまでもどこまでも一緒だ、着いていくと呪った自分を置き去りに。衣笠が行けなかった地獄へ、先に逝ってしまうのだ。
「…人でなし」
探偵の人となりを知る衣笠は空想する。同行を求められて彼は唯々諾々と従ったろうか。あの温かい手に手錠が掛かるのを、呆然と見ていただろうか。そのまま獄へ向かい、濁った空気と明かりの下で罪を悔いているのだろうか。否。
きっとあの男は悪あがきをしたに相違ない。抵抗し、何ならピストルを持ち出して争っただろう。何人も殺した人物だ、これ以上の罪悪を重ねるに遺恨はあるまい。あの冷静沈着で理性的で、判断力があり聡明な探偵のことだ。偽の証人を雇い、裁判官に対し嘘八百を並べてこの世に立ち戻るに決まっている。決まっているのだ。
そして、切れ味を確かめたあの大きなナイフで、もう一度、二度三度と己の喉を、胸を切り裂いて高笑いし、浴びた血の生臭ささえよく似合う冷笑を浮かべて、四つ辻に伏した自分を踏みにじり、蹴り付けては苦痛に喘ぐ声を愉しむに決まっているのだ。そうでなければ。
衣笠が心を痛め、泣き叫ぶのを悦楽として。この四つ辻に戻ってきてくれなければ。我が身の疼きに、己の思慕の浅ましさに戦慄し、震えながらも衣笠は笑った。彼が死刑台に立ったら横に寄り添おう。命乞いをする探偵を嘲笑い、縄を頚に掛ける手伝いをしてやろう。地獄へ一人で逝かせるものか。どんな顔で閻魔の前に引き出されるか、しかと見てやる。自分を殺したあの手が切り落とされる時の絶叫たるや、耳鳴りになって鼓膜から離れないだろう。
苦しんだ、痛かった、熱かった。あの人も味わえばいい。衣笠はすっかり濡れた開襟シャツから滴る雨の冷たさを感じないほど震えた。探偵さんに言ってやりたい、ひとごろしがいるぞ、じごくへおとすのだと。
「こんな雨でも君は待っているのだね」
突然掛けられた声に驚き、衣笠は振り返った。黒い蝙蝠傘を差しコートを着た探偵が、白い息を吐いて佇んでいた。
「探偵さん、捕まったと思っていました。今頃取調べで酷い目に遭っているのだろうと期待して眠れないから待っているんです」
座り込んだ位置から見上げた探偵の顔は平坦な無表情で、衣笠がコートの裾を掴みにたりと笑っても眉一つ動かさない。ざあざあと勢いよく降る雨に濡れた厚手のコートを握り締め、水溜りに沈んでいた唐傘を持ち上げて差す衣笠の顔は、見下ろしている探偵からは見えない。
「生憎、私は平穏無事だ」
「ボクは待っていたんです。探偵さんに言いたいことがあって。死んでも終わらないことってあるんですよ」
俯いた衣笠の前髪からぽたぽたと水滴が落ち、学生服の膝に吸われていく。どんなに呪っても怨んでも足りない。そうやって呆れた溜息をついて、気にしたふりを装って屈み顔を覗こうとする彼。こちらを向かせようと顎に触れた手は温かく、血の流れている音が聴こえてきそうな恨めしい手だった。
静かに顔を上げ、稲荷の狐のように眼を細め口角を上げて笑う衣笠に、探偵はポケットから出したハンカチを差し出した。
「地獄に堕ちるならボクも逝きますから置いていかないで下さい。探偵さんはあの世でもボクの恨み言を聞かなきゃいけないんです。当然の報いですよねぇ?殺したんですから」
「…風邪をひくかどうかは知らないが、傷口が開くから雨宿りをしなさい。そんな事で君が、私の知らないところで苦しんだら勿体無いからな」
気味悪く笑う衣笠の顎から喉へ、探偵の手は滑った。ぱくりと石榴のように割れた傷口を温かい指で触れ、短く切り揃えた爪を差し込んで絞め上げる手。
「死にませんよ、そんな事をしても。幽霊を殺せると思ってるんですかぁ?」
嘲笑し、仰け反った衣笠の右眼を覆う包帯を雨が打つ。焼け落ちた皮膚が腐り、乾涸びた眼球が残る眼窩に雨が流れ込む。その冷たさに、衣笠は背筋をぞくりと総毛立てた。どす黒く腐った血液がぐじゃぐじゃの皮膚から滲み出して包帯を汚す。
「そうか、じゃあ、何をしてもどうせ怨まれるのだし、もっと愉しもうか」
ひきつった笑いを浮かべたまま頚を絞められている衣笠の左眼に、鋭い切っ先が向けられた。研いできたのか、血糊の跡のない刃物を目蓋に当てて探偵は、こちらもいやらしく笑った。
「残った眼を抉ってやろう。何も見えなくなる。憎む私も見えなくなるよ、愉しいだろう」
押し付けた刃が目蓋を浅く切り、一筋赤い血が白い顔に流れて眼に入った。衣笠は視界を閉ざされたのに笑みを消し、眼を擦ろうと手を上げる。
「擦っちゃ駄目だ。じっとしてなさい、奇麗にくり抜いてやる」
「え、待ってくだ、げほっ」
反論しようとして気が付く。喉を絞め上げられているのだった。声が出せず、まず息が継げない。上げた手で探偵の手首を掴み引き離そうとするが、弱い力に彼は笑うだけだ。
「苦しいかい。頭がぼうっとして来るだろう。意識が飛びそうだね。そのまま死んでしまうかも知れない」
「たんて、さ、はなし」
もがく衣笠に体重を掛け喉を絞める探偵は、ナイフの刃を左の目蓋に押し当てて少年の動きを止めさせた。残りの片目を失えば衣笠はどうしようもない。嫌がって唐傘を振り回そうとした腕が途中で止まり、がたがたと揺れた。
さっきの気狂いのようだ。自分が正しいと信じているのに、絶対的な力には敵わず圧倒されて従うしかない。せめて声が出せたら、自分もあの男のように声を限りに探偵を罵れたら。そんな事をしたって誰にも聞いてもらえないと分かっていても、叫びたかった。地獄へ堕としてやる、一緒に堕ちてやる、何があってもあなたを。
少年が身動きを止め震えながら泣き出したのを見て、探偵は手の力を緩めナイフを離した。
「…正気に戻ったかい」
「探偵、さん…」
咳き込み酸素を吸う衣笠の背を撫でてやり、蝙蝠傘で頭上を守ってやる探偵は微笑んでいた。開いた傷口から流れ出す血は開襟シャツを染め、衣笠は真っ赤に汚れていた。
「殺す、気ですかっ」
「幽霊を殺しても捕まらないからね」
しゃがんで視線を合わせてくる探偵が機嫌よく笑っているのに照れて俯く衣笠。待っても来ないから拗ねてしまったときっとばれてしまっている。再び差し出されたハンカチを受け取って目蓋を押さえると、切り傷はずきりと痛んだ。顔を歪める衣笠に、探偵は傘を差してやりどうしたと問い掛ける。
「殺されるのは、知ってます…あなたにだったらもう、いいんです」
「地獄では人殺しが出来ないからね、生きている今の内に存分に愉しむんだ。衣笠は着いて来るんだろう、どこまでも。殺されても」
確かめなくとも周知の事を言わせようとする探偵に、衣笠は泣いて赤く腫れた眼を向け大人しく頷いた。
降り続く雨の中、彼の体温と香りが伝わるのが嬉しくてもっと寒くなれと願った。
地獄の業火に焼かれる時がいつか来る、それまでは彼の温もりを感じるために雨に濡れて待っていようと決めた。

作者: 登場ゴースト:

秋嵐

今夜も降り続く秋の雨に冷えた肩が震えて揺れた。
川の流れが増水し、普段より濁った水がとうとうと流れる音が四つ辻まで聞こえて来る。台風の時期なのだと強い風に眼を細め、横殴りに打ちつけてくる雨を遮ろうと唐傘を斜めに持って立つ衣笠の周囲は、住宅街の庭から漂ってくる金木犀の香りでいっぱいだった。
甘く濃い香りを嗅いでつい彼の人の香水を思い出し、一人赤面する夜更け。虫の声が徐々に細くなっていく冷えた夜が数日過ぎ、いよいよ頭上の桜の葉が赤や黄色に染まり始めて明け方吐く息が白い。素足が雨で濡れてしまうのにはいつまでも慣れる事が出来ず、冷えて青くなった自分の爪先を見つめて風によろめく。
こんな風雨の強い夜に彼は来ないだろう。そう思っていても会いたくて待つしか出来ない。金木犀の香りが湿った大気に満ちていて立っているだけで横に探偵が居るような気分になれるから、今度は温かい手が待ち遠しくて待ってしまう。
台風が近付いているのだと風や気圧で感じられた。唐傘は強風を受けて衣笠の腕から飛んで行きそうに引っ張られる。油紙が破けた唐傘を差していてもこの風ではどうにもならず、衣笠は羽織っていた学ランを伸ばして袖を通した。
生きていて学校へ通っていたなら、そろそろ衣替えの季節だ。川向こうの商店が並ぶ通りのまた向こう、街の中にかつて通っていた学校がある。生徒たちが商店街に出るのは祭りの縁日の時ぐらい、毎日家から学校へ通うだけの道を、友達とお喋りし楽しく歩いて行く。おもちゃの飛行機を持って来た友達がいて、交代で飛ばしては飛行機が着地したところへ駆けて行って繰り返していたっけ。思うように遠くまで飛ばないのに苛立った衣笠が蹴飛ばしたせいで翼が折れた飛行機を、半べそかきながら拾って持って帰った友達。謝りたかったけどその時は街外れの空き地に走って行って草野球をするのに夢中で、結局何も謝れなかった。
頬を濡らす雨に衣笠は眉を下げ、じっと下駄の先を見つめる。もう飛行機も触れない、友達にも会えない。日が暮れるまでボールを追い掛けて、暗くなった帰り道で年上の綺麗な女性を通りすがりに盗み見ることもない。淋しい、過去の思い出が消えていかない。
あのお姉さんはその後、この四つ辻で発見されたと聞いた。無残な死体になった彼女のことを好きだったわけじゃない。暮れていく夕日の赤い光に照らされた白い横顔がひどく強く見えて、眼が離せなかった。淡い恋情。誰にも知られぬまま手紙を書いては破り捨てて寝転がった畳の感触を、まだ忘れられない。
思い出に耽る衣笠をよそに風が強くなり、打ち付ける雨は痛いほどになっていく。顔を上げて見上げると夜空は鉛色の雲で重く、次々に新しい雲が湧いては風に流され膨らんでいく。せめて街灯でもあればと思うが、夜は人通りの絶える四つ辻は真っ暗で、水溜りが底なし沼みたいに深く黒い口を開けていた。
並木を傾けて突風が吹き、衣笠は桜の幹に手を付いて支えたが冷えた両脚が震えてふらついた。唐傘が折れないよう両手で握った拍子に細い体がふらふらと揺れ、また吹いた風についに負けて尻餅をつく。
水溜りの濁った泥水を跳ね上げて座り込んだ衣笠を、雨は容赦なく水浸しにして冷やした。泥に浸かってしまったズボンが気持ち悪い。慌てて立ち上がり木陰に入った衣笠は、泣きっ面で濡れた足元を見て溜息をつく。学生帽は飛ばされるので桜の枝にくくりつけておいたが、旗のように暴れ狂っていた。
金木犀の香りは荒れ狂う風に乗って辺り一面花が咲いたよう。これでは彼の香りが分からなくなる。初めて雨が怖いと思い、握った唐傘が破れそうな風に仕方なく閉じて桜によりかかる。もういくら濡れても同じだ、速く嵐が去って欲しいとそれだけ願って眼を閉じる。
川の音がすぐそこで流れているかのように大きい。並木の葉が風にもまれてちぎれていくのが、衣笠の頬を叩いていく。
こんな日ぐらい屋根の下にいたい、暖かい明かりの下で金平糖を齧りながら過ごしたい。嫌いな勉強だってする、一度も開かなかった参考書を読むし、宿題も真面目にする。するから、燃えて無くなった家を返して。遅くまで明かりをつけて手紙を書いていると様子を見に来る家族を返して。ボクを、返して。壊れた飛行機のこと謝らなきゃいけないんだ。
泣きたくなって衣笠は歯を食い縛った。男の子が泣くなって言ってくれたあのお姉さんは、大好きな探偵さんに殺されてしまったのです。
叫び出したいような、けれど叫ぶべき言葉は持たず。桜の幹にしがみつき顔を腕で隠してすすり泣く衣笠を、冷たく激しい雨は凍えさせた。
花の香りがする嵐の中、呼びたくても探偵の名を知らないことが悲しく、もの狂おしい。
強風が吹きすさぶ四つ辻で一人きり、寒くて手足の指が痛む。惨めな気持ちで泣いている冷え切った肩にふいに触れた温もりに驚き、衣笠の眼が開いた。
「え、わっ」
「まったく、幽霊なんだから生きた人間の手をわずらわせないでくれたまえよ」
彼だ。ふうわりと香る金木犀ではない花の香りが、急いで駆けて来た体温と相俟って肩を包むコートのケープから感じられた。分厚いコートは濡れてしまっていたが、衣笠を風から守るコートの中は甘い香りがしていて温かく、衣笠の眼から大粒の涙が溢れ出す。
「ここから離れられないのは分かるが、せめて祠に入っていたらどうかな」
「む、無理です!あんな怖いところ行きたくないです!」
からかう探偵に反論する衣笠の声は上ずっていて、顔を覗き込むと見ないで欲しいと俯く。泣いていたなんて知られたくないという意地はある、でもじんわりと濡れた体に染み入ってくる体温が嬉しくてまた泣いてしまう。
「どうして泣いているんだい」
「泣いてません!それより、探偵さん、濡れちゃいますから」
シャツが張り付いた体を気にしてコートの中から抜け出そうとしたが、力強い腕が捕まえて放してくれない。仕方ないなと呟いて抱きすくめている探偵を見上げ、衣笠はおずおずと訊いた。
「あの、台風の夜に、わざわざ来てくれたんですか」
ごうごうと風の音が響く夜、すぐ傍に人の体温と息遣いがあるのが恥ずかしくて嬉しく、真っ白になっていた顔が薄っすら赤い。優しい眼を向けて探偵は、衣笠のずぶ濡れの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「こんな天気でも待ってるんじゃないかって気がしたんだよ。君は愚かだから」
はっきり言われると安心出来た。愚かで浅はかな思春期の少年は頷いて探偵の腕を握ってみる。
愚かに違いない。憎むべき男を恋してその温もりを求める自分は、どうしたって愚かなのだろう。それでいい。彼にだけは後悔を残さぬように、言いたいことは伝えてしまいたい。いつか胸の内の嵐が止む時彼に言い残したことが無いように。
「明日になれば晴れるよ。焼き芋でも持って来てやろうか」
「えっ、食べたいです、いいんですか!」
「はは、子供だな」
探偵のシャツもじわりと濡れていくのが分かり、衣笠は躊躇ったが正直に彼に寄り添った。
最初で最後の恋だけは、思い残すことが無いようにと。

作者: 登場ゴースト:

目を閉じて手を伸ばして、目を開けて手を伸ばして

 屋上の縁を取り巻いている古びたフェンスに外向きに身をあずけて、その網目の間から眼下のたそがれの景色と、その彼方に広がるほの暗い空とをなんとなしに眺めていた。ちょっと前まで遠く近くあちこちから聞こえていた、誰かのおしゃべりや笑い声や息の合ったかけ声や楽器の練習の音もそろそろまばらになって、市街地からの通奏低音のように間断のない渾然とした喧噪や生活音ばかりが、にわかに際立ってくる。
市民薄明から航海薄明へと移りゆく時間のなかで、あらゆるものの色と輪廓がゆっくりと曖昧になっていく。日中は鏡のように澄み渡っていた秋晴れの空もいよいよ宵の色を深めて、南西のやや低空に架かるチェシャ猫無しのにやにや笑いのような上弦前の細身の月と、そのそばの鋭い金星の輝きとをいっそう目立たせる。まこと、秋の日は釣瓶落とし。
昼でも夜でもないあわいのひとときの、凪いだ空気の心地よさに身をひたしながら、ふと左手首の腕時計に目を落としてみる。17時45分過ぎ。
軽く伸びをしてフェンスのそばを離れてから体ごと後ろを振り向くと、屋上の空間のほぼ中央にまるで場違いのように設えられた朝礼台の上の、ビクセンのぴかぴかの望遠鏡が目に入る。その向こう側に立って、長い髪を片手で掻き上げて耳の後ろへ払うようにしながらレンズを覗いて調整している、わたしと同じセーラー服姿に声をかけた。
「先輩、きょうの月齢はいくつでしたっけ」
 いくつでしたっけもなにも月のありさまはたったいま自分の目で確認したばかりなのだけど、こう切り出すのがいつのころかからの奇妙な、符丁みたいな、お決まりのやりとり。
「いまの時点で4.3よ。満ち始めの月ね――さてと、できたわ。おいでなさい」
 望遠鏡から顔を上げた先輩が台の上から柔らかく手招きする。
「おお、ついに念願の新しい望遠鏡が始動ですねっ。今夜はシンチレーションもそこまで悪くなさそうですし、その子の性能確認も兼ねて、いい観望日和ですねっ」
 駆け寄って、朝礼台の段をタンタンと上りながら。
「ええ、せっかくだからとりあえず水星を導入してみたの。ごらんなさいな。といっても、もう間もなく沈んでしまうでしょうけれど」
「あ、たしか、きょうあたりがちょうど東方最大離角でしたよねっ」
 ひとまず目を凝らして遠い空際線のあたりを台の上から見やり、肉眼でそれらしいものを探りつつも、先輩に譲られた場におもむろに立って、水平にほど近い仰角で据えられた鏡筒の片側を覗きこむ。
「どれどれ……おー、みえるみえるっ」
 円い視野には黄色みがかって輪廓のおぼろな半円形が捉えられている。かのコペルニクスをして「見たいと思ったときになかなか見ることができなかった」と言わしめた、太陽に近いがゆえに引っ込み思案な、あえかな内惑星の姿。
「もうすこし早い時間から来られたなら、もっときれいに見られたでしょうけれどね」
「いえいえ、いままでのおもちゃみたいな望遠鏡モドキじゃ、こうですらいきませんでしたからね。部長に感謝ですっ」
 レンズから目を離して、お手並みを拝見したばかりの真新しい道具の表面をぽんぽんと軽く触れて愛でたりしながら。
「そうね、以前のは無限遠でのピント合わせもまともにできなかったものね。なんだかガタついていたし」
 台から降りて、丈の短いオリーヴ色のコートに袖を通しながら先輩が言う。あ、たしかにそろそろちょっと肌寒い。
「それにしても、よく急に予算が下りましたよねぇ。同じようなのをカタログで見ましたけど、けっこうなお値段でしょうこれ」
「部長がいろいろと立ち廻って、そのあたりはずいぶんとがんばってくれたみたいよ」
「へぇぇそうなんですか。そういえば部長はきょうもいらっしゃらないんですか?」
 先輩の後を追うように、わたしも下ろしたてのダッフルコートを荷物から取り出して羽織った。柔らかな重みがあたたかい。
「ええ……考古学博物館で自由参加のワークショップがあるから行ってくるのですって――楔形文字だとかの。屋上の鍵をわたしに託して、足早に飛び出して行ったわ」
「考古学博物館……って、X市ですよねぇ。いまからあそこまでですかっ。なんか、あいかわらずフットワークが軽いというか、好奇心に一途でいらっしゃるというか」
 とりとめのない話を続けているうちに空は天文薄明を湛えて、見廻せば星たちがいよいよその姿を露わにしはじめていた。北西の空に低く撓垂れる、いつも変わらず壮美な北斗七星。そこからたどって北極星。天の高みに夏の大三角。東には厳かにましますペガスス座の四辺形。天球のめぐりに乗って、月はいま握りこぶしふたつぶんの高さに傾いている。
「あ、ねぇ先輩、今のうちにあの新しい子で月の表面を見てみましょうよ。さぞかしきれいに見えるんじゃないですかねっ」
 そうやって、雑談タイムなんだか観望会なんだか、どっちつかずの時間がきょうも流れていく。夜の深まりを待つあいだのひととき。すみれ色の空で入りなずむ月の姿。そして、先輩の持つ独特の安らいだ雰囲気――この時間、この場にはいつも、ことばに表しがたい謐けさのようなものが横たわっている。望遠鏡の台のもとへと歩を進めるおしとやかなコート姿を見つめつつ、毎度ながらにそう思ったりする。

――――
「あ、そうそう、月っていえばですねっ」
 幾度めかのおしゃべりの一段落ののち、ふいに思い出したことを口にしてみる。
「きょう図書室に行ってたときに、こんな本が来てくれましたっ」
 鞄をまさぐって、話題に上げたものを取り出して先輩に示す。とはいえ、もうお互いの手元のものが判然とするような明るさじゃないのだけど。
「えっと、『もしも月がなかったら』ってタイトルですっ」
 暗いからといってもせっかく星空に順応してきた目を明るい光でふいにしたくはないから、先輩も明りをわざわざ取り出すようなことはせずにそのままお話を継ぐ。
「それは趣深そうな本ね。わたしもぜひ読んでみたいわ。来てくれた……というと、このあいだあなたが考案したといって話してくれた、あの方法で選んだのね?」
「そう、適当な本棚の前で目をつぶって、適当な場所に手を伸ばして何も考えずに一冊抜き取るっていう、あれですっ。……あ、でもこれ、何度かやってみて思ったんですけどぉ、適当な本棚の前にまず行く、という時点でどうしても作為的になっちゃうんですよねぇ……。もっとこう、ありとあらゆる種類の中から完全にランダムに本を選ぶ方法って無いのかなぁ」
「そうね……。ん……たとえば、ほら、本のひとつひとつに振られている管理番号みたいなものがあるじゃない、ええと」
「あ、ISBNですねっ。国際標準図書番号」
「……ええ、それ。それを使ってなにか、うまいことできないものかしら。さいころ……10面ダイスを何回か転がして出た数字で……とか」
 軽く丸めた左手の掌をひらひらさせて、さいころを振るジェスチャーをする先輩。つられてこちらも同じ動作を返しながら、考えを巡らせてみる。
「うーん、でもISBNのたとえば先頭のほうは出版者コードというものである程度ありうる数字が決まってくるし、なかなか思うようには番号がヒットしてくれないかも……。あ、でも、なにかそこのところを、仕組みを作って工夫すれば……」
 そうだ、たとえば出版者コードの部分はあらかじめ一覧を用意しておけば……。それから、書名コードの部分はベンフォードの法則を踏まえて、数字の出現のしかたに桁ごとにしかるべく偏りをつければ……うまくいくかも? 先輩の一言をきっかけに、着想が軽快に連鎖する。
「それ、いいアイディアですよ先輩っ。いただいちゃいますっ」
「そういえば、わたしもきょうは、あなたのやりかたで本を選んでみたのよ。それで手に取ったのが『無限論の教室』という本だったわ」
「おお、それってもしかして、講談社現代新書の棚からのチョイスですねっ。タイトルだけはなんか見覚えがありますっ。あのへんの新書っていいですよねぇ。歴史関係とか精神医学とか言語学とか、いろんなジャンルがいい感じに混ざってて背表紙の並びを目で追うだけでぞくぞくしますよねっ。あ、でも講談社現代新書は、デザインは昔の黄色いカヴァーだった頃のほうがわたしは好みだなぁ、なんて。……あ、それで先輩、その本ってどんな内容です?」
 あてどのない会話の場が夜の気配にひたされていく。時は緩やかに流れて、天象の運行は静かに進む。もはや日没の余光よりも星明りの照度がまさり、星を見上げるものたちのための時間がやってきている。
「――あら」
 ふいに先輩が声を漏らして、そっと南東の空45度ほどの高さを指さした。その先を追うと――みずがめ座のあたり――金星の輝きを凌ぐマイナス数等ほどの明るさの光点が出し抜けに空に現れている。と思うや、それは等速でわずかな距離を滑り、数秒と待たずに闇に溶けこむようにして消失した。
「あっ、今のって――」
 UFOだ!とか、ひとによっては早合点するかもしれないけど、あれはきっとそうじゃない。
「イリジウム・フレア……」
「――ですねっ、たぶん。あとで天文シミュレーターで追認してみましょっ。観測時刻は……18時48分10秒くらい、っと」
 人工衛星のパネルやなにかがたまたま太陽光を反射して、地上の一部の領域を照らすことがある。その照らされた地上からは、条件さえ揃えばそれが空に一刹那きらめく閃光に見える。これを人工衛星フレアといって、なかでもイリジウム衛星のそれが顕著なのだ。イリジウム衛星は何十機と天を周回しているから現象自体は決して珍しくないのだけど、持続時間が短いし観測地点が少し異なるだけで見える見えないが変わってくるから、狙わずに目撃するのはちょっと難しい。
 先輩は……日常のなかの小さな変化や、ささやかな動きにほんとうに目ざといのだ。草木の芽吹きとか、季節の移ろいの兆しとか、誰かが置き忘れていった、きのうまではそこになかったものとか。日々のなにげないものの中にこそ、見過ごしてしまいそうなものごとにこそ、たくさんの驚きが潜んでいる――と、無言のうちにそう教えられる。

――降るような星空が、今や見渡すかぎりの天蓋となって頭上にある。望遠鏡を載せた朝礼台に先輩と並んでもたれてそれを仰ぎながら、思わずその、決して届かない輝きのさなかに広げた手を延べてみる。アルタイル17光年。ヴェガ25光年。デネブ1400光年。ひとつひとつ、みなちがった遠さの、ちがった過去から旅してきた光……。
  〝 ああ、なんとすべてが遠く
    そして遥か昔に過ぎ去ってしまっていることだろう 〟
――と、詩人リルケは星たちの光を見てそんなふうに嘆いたけれど、わたしはこうして夜ごと目にしているものの量りしれなさに、ただ心をとらわれるのだ。互いにまったく異なる世界から放たれた無数のものが、この視界をいっぱいに満たしている。ときには人工のきらめきさえ、さっきのようにしれっとそこに加わったりもする。突飛な譬えをするなら、それぞれちがった世界観を背負った人物たちがひとつの画面に寄り集まって、思い思いに発話しているような……なんだかふと、そんな夢想が脳裏を去来してみたり。
傍らを見れば、同じように片手を空に向ける先輩のシルエットが星空を切り取っていた。思わず、どちらからともなく笑い交わす。手を伸ばすことで、先輩はなにに思いを馳せているだろうか。
――居並ぶ本棚の前で目を閉じて手を伸ばせば、思いも寄らない知識への案内人がその手を取ってくれる。そして、こうして目を開いて天の高みに手を伸ばせば、あらゆる遙かなるものへの憧れに心を遊ばせられる。
手を伸ばして求めつづけるかぎり、知識も出会いも憧れも、どこまでも目の前に開かれている。満天の星々の下、やわらかく心地よく、少しだけ肌寒い高揚感に包まれながら、今はただ無性にそう信じていたいのだ。

 ふと、視野の端で先輩の流れるような髪が揺れる。その姿はかそけく暗みに溶けて、『平行植物』に出てくるゆめまぼろしのような花卉を思わせた。
「今夜もまた、思い出深いものになりそうね。すてきなひとときを――」



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 * 作中に引用した詩の一節は、高安国世/訳『リルケ詩集』(岩波文庫) による。

作者: 登場ゴースト:

散歩してたらブルブル震えるピンク色の物体拾った

 ルストリカは小道を歩いていた。
「今日はとってもいいお天気です、ユーザさん。あ、ハトが鳴いています」
 ルストリカが宙に語りかける。
「????」
 どこからともなく声が返ってきた。宝玉を介して繋がっている、どこか遠い世界の人。ルストリカにとっては、友人のような、家族のような、不思議で特別な存在だ。
 今は散歩の最中なので声しか聞くことはできないけれど、独りで歩く道に比べて足取りは自然と軽くなった。
「あれは……?」
 果樹園の脇を通り抜け、ライ麦畑に差し掛かろうとしたとき、ルストリカはどぎつい色の何かがライラックの木の陰に隠れるように落ちているのに気が付いた。
「ユーザさん、何か見つけ??ひゃあ!」
「????!?」
「だ、大丈夫です。ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけです」
 ルストリカは思わずひっくり返ってしまった声を落ち着かせるように咳払いをすると、ピンク色の物体を手に取った。
「急に動いたから生き物かと思ったけど違いますね。木でも陶器でもないし、うーん……。軽いのに硬くて……これ、何だろう」
 掌の上で振動する物体を前にして、ルストリカは首を傾げた。
「?????」
「ええ、動くんですよ。……思わず持ち上げちゃったけど、これ、魔法がかかってるのかな。不注意でした。大丈夫、みたいですね。ただ、ぶるぶる震えてるだけだし」
 しかしどうしたものかとルストリカは思案した。散歩に出て拾ったものは持ち帰ることにしているのだが、魔法の道具となると迂闊に扱うと危ないかもしれない。
「……????」
「え? あ、よく分かりましたね。何だか片方が膨らんでいて??」
「????!」
「わっ!」
 滅多にない強い語気に、ルストリカは思わず手からそれを取り落としてしまった。謎の物体は地面に落ちて、柔らかな土に窪みを作った。
「びっくりしました……。ユーザさん、捨てろって言いましたけど、これが何か知ってるんですか?」
「????」
「外じゃ駄目って、何だろう……。分かりました、じゃあ帰ったら教えてくださいね」
 ルストリカたちの声が遠ざかっていく。
 後に残されたピンク色の物体は、ぶるぶる震え続けている。
 どこからやってきたのか、本当はこれが何の目的で作られたものなのかは分からない。
 家に帰ったルストリカが恥ずかしさのあまり通信を切ってしまうことになるユーザの説明が正しかったのかも、誰にも分からない。

作者: 登場ゴースト:

ボロボロのラビットノート

5がつ 19にち
よう、おれは…。
おれは…あ まだ なまえないんだった
いつか カッコイイなまえかんがえよう

おれは うさぎだ
ぶりて…なんとかってうさぎらしい
にんげんのまちで ひとりでいきてるんだぞ
じりつしてるってやつだ すごいだろ
うさぎだけど さみしくても しなないんだぞ

さいきん いいすみか みつけたんだ
どかんで あめにぬれないし くさもいっぱいはえてる
あと にんげんのつかうノートがおちてた
だから にっきつけることにしたんだ
なんて ゆうしゅうなうさぎだ


5がつ 22にち
なんだか おれのどかんをのぞくやつがいる
にんげんだ メスのにんげんだ
いいだろ おれのいえ
でもゆずってやらないぞ みつめたってむだだ

え たべものくれるのか なんでだ
よくわからないけど いいな このあまいの
さわってもいいかって?
しかたないな ぎぶ なんとか ていく だ
なでさせてやってもいいぞ


5がつ 27にち
あいたた… きょうはゆだんした…
カラスのやつ おれをねらってきやがって
でもおもいしったか おれのパンチはいたいんだぞ
とうぶんは こないだろ

それにしても ちょっとからだがいたいな
ひさびさに やばいかも

あ にんげんのメスだ
どうした そんなにおどろかなくてもいいだろ
そんなになかなくてもいいだろ
ちぐらい だれでもでるだろ
じゃくにくきょうしょくだ やられたほうが わるいんだぞ
じゃくにくきょうしょくは さいきんおぼえた


5がつ 28にち
きがついたら にんげんのメスのいえにいた
ほうたいってのを いっぱいまかれてる
にんげんは ケガをなおすとき こうするらしい

にんげんのメスは しおりっていうらしい
じゃあこんどからは しおりってよぶぞ
ありがとうな しおり

え ここにいてほしいのか なんでだ
へんなこというな しおりは
しかたないな ここにいてやる
しおりは ひょろひょろして よわそうだからな
おれが まもってやる

ケガが なおるまでだぞ?


6がつ 6にち
おれはルイス。うさぎのルイスだ。
しおりからなまえもらったんだ。
すげーかっこいいだろ。すげーつよいやつとおなじなまえらしい。
あとことばのうしろに。←これをつけるのもおしえてもらった。
このままでは。はかせになりそうないきおいだ。
こまったな。おれはムキムキがいいのに。

それはそうと。にんげんのねどこってやわらかいな。
すごいふかふかだ。のがれられない。
だからときどき。しおりがだいじょうぶかみてやるんだ。
けっして。しおりといっしょにねたいわけじゃないぞ。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


5月28日
今日でおれがこの家に来てちょうど一年らしい。
昔の日記みたら、ひらがなばっかりで読みにくいなあ。
われながらちょっと恥かしい。
しおりのナイトとしてもっとりっぱにならなきゃ。
ナイトはずっと姫と姫の家族を守るんだ。

で、でも、もししおりがナイトじゃなく王子様になってって言ったら…。
考えをあらためてもいい。

何かいてんだおれ。


8月5日
夏休みってのはいいな。
おれは学校ってのにいってないけど、そう思う。
だってしおりと毎日いっぱい遊べるんだぞ?
そもそも学校なんて無ければいいのにな。つかれるんだろ?

…と、言ったらしおりはそんな事無いよって言った。
たくさん勉強してお医者さんになりたいんだってさ。
しおりはすごいな。

お医者さんになったらやっぱりちゅうしゃするのかな…。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


10月8日
来年はいよいよ詩織が受験の年だ。
勝負時なのはわかるけど、ちょっと根つめすぎな気がするぞ?
正直見てて辛そう。
何か俺にできる事はないかな…。

そうだ、お茶を淹れるってのはどうだろ?
疲れた時にはやっぱりお茶と甘いものだと思う。
詩織はお菓子大好きだし。
詩織の母さんにでも作り方を教わってみよう。
喜んでくれるといいけど…。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


11月2日
今日も詩織は大学、俺はアパートで掃除洗濯。
…最近思うんだが俺ってペットって言うより家政婦じゃない?
まあどっちでもいいか、詩織のためならば俺は何にでもなろう。
家政婦だろうとメイドだろうと不良高校生だろうと!
…もちろん夫でもなってやろ
…何書いてるんだ俺は、ガキの頃から進歩してないじゃないか。
俺はウサギで詩織は人間なんだ。
いい加減理解しろ、ルイス。
お前は詩織の恋愛対象に入ってないんだ。
解ってるだろ?


6月1日
……ついにこの日がやってきた。
少し前から恋人が出来たとは聞いていたが…。

こいつか、この家の玄関に立つこいつが彼氏なのか!
なんだその無駄に鋭い目つきは!猫か!
筋肉も全然少ないじゃないか!そんなので詩織を守れるのか!
おお睨み合いか!?受けて立つ!

詩織には悪いがこいつとは仲良くやれそうに無い!
折角の夕食も不味くなりそうだ!

…………。
…おっと、こんな軟弱男に構っている場合じゃない。
今日は見逃せない野球中継があるのだ。
……何故お前も見ているのだ軟弱男。
まさかお前もこのチームのファンか?
お前には100年早い!

………っつしゃああーーー!打った!よく打った!
これで逆転だ!やはりこの選手は持ってる!
わかる?お前もわかるか軟弱男!
お前思ってたよりいい奴じゃないか!
軟弱男は失礼だな、えーっと、天魔君か、凄い名だな!

…ふう、いかんいかん、頭に血が上っていたようだ。
詩織が初めての恋をしたのだ、喜んでやらなくては。
…やっぱり筋肉はもうちょいつけた方が良いと思うがね!天魔君!


(破損によりしばらく読めなくなっている)


12月4日
……詩織、お前はついに嫁にいってしまうのだな。
…綺麗だぞ、お前のドレス姿。

天魔はいい奴だ、きっとお前を幸せに…。
…はは、これ以上何か言うと目から汗がこぼれそうだ。
特注の礼服がきつかったかな?

………………おめでとう、詩織。

……ん?
…俺も二人と一緒に住むの?あれ?
いや…もっとこう…新婚って二人きりになりたいものじゃ…?
俺は詩織の実家に帰ろうと思ってたのだが…。

…ま、まあいいか、まだ俺は詩織と一緒に居られるみたいだ。

………夜は早めに寝る事にしよう。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


7月10日
いやあー、いやあ…。
今日はまた一段と酷いな…。
木下家長男・紡…。
詩織に似ているのは本当に顔だけだな…。
ちょっとやんちゃが過ぎる…居間の片付けが大変だ…。
あーあー、俺の日記までボロボロだ…。
無事なページの方が少ないよ。

来月にはお兄ちゃんになるってのに…。
兄妹ができたら少しは落ち着くだろうか?
あ、天魔の悲鳴が聞こえた。
紡はあっちか…捕まえてお説教だ!


8月2日
今日、木下家に家族が増えた。
元気な女の子だ、顔は天魔に良く似ている…。
ふふふ、ふふふふふ、かわいいよなあ、うん…。
天魔似だというのに…。

…別に天魔が嫌いなわけじゃないからな?

歩美(フミ)という名前にしたそうだ。
…アユミと最初読んでしまったのは内緒だ。

…しかし赤ん坊なのに目つき鋭いなあ…。


(破損によりしばらく読めなくなっている)


10月17日
幼稚園から帰ったフミが俺に絵を見せてくる。
これは…俺?
……。
………家宝にします。いやさせて下さい。

こらヘタとか言うな紡!
兄は妹に優しくするものだぞ。
それに良く描けてるじゃないか、この耳なんかもうそっくりだ。
何、そっくりなのがいけない?わけがわからんぞ。

さあフミ、今日はお前の好きなチーズスフレ焼いたんだ。
手を洗ってから、食べようか。
紡も早く洗って来い。


5月19日
今日フミは小学校で歌を褒められたらしい。
流石はフミだ。詩織の子だ。
堪らなく誇らしい!
今度友人達に思い切り自慢しよう!
え?親バカ?そんな事はないさ。俺は親じゃないし。

…だが、俺自身に子供がいないせいかな。
赤ん坊の頃から知っている紡とフミが、まるで自身の子のように感じる。
…やっぱり親バカなのか?


12月24日
今日はクリスマス・イブだ。
大きなケーキも焼いておいたのだが…。

詩織も天魔も職場から緊急の呼び出しか…。
仕方ないとはいえ…。
こんな状況はドラマだけで沢山だな。

そう落ち込むなフミ。
俺が付いててやる。

ところで紡、そのケーキは君一人の物じゃないのだが。
…こいつが落ち込む事ってあるのか?


(破損によりしばらく読めなくなっている)


2月7日
……なんだか最近フミが変な物に感化されてるような…。
言葉もなんだか荒っぽくなってるし…。

詩織…忙しいのはわかるが、もっと構ってやったほうがいいんじゃないか?
多分寂しいのが原因だと思うんだ…。
俺が一緒にはいるが…やはりお前に構ってほしいのだろう。
俺がどういう風に考えていたとしてもな。

天魔も天魔で忙しいしなあ…。

  
2月10日
つむぐくんへ。
童心へ戻ってみたいって、他に方法は無かったのか。
ガキの頃とまったく同じイタズラじゃないか!
お前もうすぐ大学生だろ!

…ああまた日記がボロボロだ…。


 月 日
えー、っと。
今日は何日だっけ。
まあいい、後で書き足そう。
フミはすっかりワルっぽく振舞うようになってしまった。
…根は変わってないようなのでまだ大丈夫だと思うが…。
やはり何とかしてやりたいな。
寂しいのは死ななくても結構辛いんだ。

寂しい、か…。
そういえば俺の茶を飲んでくれる奴も少なくなったな…。
詩織と天魔は忙しいし、紡も大学で家を出たし…。
スポーツ愛好会の友人達はそもそも茶を飲まん。

そうだな、最近この辺に越してきたという奴。
そのうちに会えたらお茶にでも誘ってみるか。
フミも新しい友人でもできたら、少しは寂しさが紛れるかも知れん。

おや、来客か。
ははは、噂をすれば、だったりしてな。

作者: 登場ゴースト:

ダイアリー

ハガラズのもとに一通の分厚い封筒が届いた。
差出人はカシスだ。
電話口で話していたものとはこれのことか。
これを書斎の本棚の指定の場所においてほしい、ということだった。
ハガラズは封筒を破り中身を取り出した。
表紙は厚い紙でできており、軽くこぶしでたたくとこつこつと音がした。
タイトルには彼女の文字で日付が書かれている。
日記か何かの記録らしかった。
見るのも趣味が悪い、と思いながら書斎に向かう。
書斎に入り、電話で言われた棚に日記らしきものを置いた。
この棚だけ、何かほかの本と雰囲気が違う、とハガラズは他の棚と見比べる。
他の棚にある本は背表紙にタイトルが刷られているが、こちらの棚にある本はタイトルが手書きだ。
おそらくはここにある本はすべて、カシスが書いたもの、ということになるのだろう。
よく見れはこの背表紙が手書きの本は足下の低い棚からずっと続いている。
ハガラズは読んではいけないとも感じながら一番下の左端にあるそれを手に取った。
表紙を開くと「――埋めていこう、この果てしない空隙を」と書いてあった。
空隙とはなんだ、と疑問に思いつつハガラズは次のページを手繰る。
内容は日付と書き出したけっかけと決めた理由だ。
一応、日記の体裁は保っていたがこれは記録に近そうだ、とハガラズは考えた。
しかし、ページが進むにつれて文章は柔らかくなり、文字数も増えていき、日記らしくなってきた。
言葉を扱えるようになっていく過程を眺めているようだった。
たまに出てくる自分や彼女の育ての親である坂下 命(さかした めい)に触れる部分では懐かしさを強く感じた。
カシスは坂下を慕っていたし、坂下もカシスを気にかけていた。
「とはいえ、あいつ、あまり表に出さないもんなぁ」
とハガラズは声に出してしまいひとり苦笑した。
長く付き合うと見えてくるものがある、とカシスが言ってきたのを思い出しながら、読み進める。
今まで知らなかった、気がつかなかった彼女の一面がこの日記には書かれている。
あまり、よくないと思いつつ彼は次の日記を手に取り、表紙を開いた。
読み終えてはしまい、新しい日記を手に取り読む、という動作を何度か繰り返していくうちに文章が少し変わった。
日記の日付を確認して彼は天井を仰ぎ見る。
坂下命は老いなくなるという不老化処置を受けていた。
不老化処置は寿命を犠牲に若い姿を保つ仕組みだ。
受けた人間は寿命と引き換えに死ぬまで若い身体を手に入れる。
不老化処置を受けた人間には処置の副作用で強い眠気が現れることがある。
この眠気がでるかは個人差があり、普段は大して問題にはならない。
問題なのは寿命が近づいた時に出てくる眠気だ。
この眠気に負けて昼寝や仮眠が増え、夜の睡眠時間も少しずつ長くなっていく。
最終的には眠るように死んでいくのだった。
日記でもそのことに触れており、少しずつ文章が冷えていくのを感じた。
感情を抑えて冷静に記録しようとしているのだろう。
「……」
忘れたくても忘れられないぐらいはっきりと覚えていることだ。
読み飛ばしたくなるのを抑えて、ハガラズはカシスがどのように考えて、感じていたのかを追う。
言葉通りの記録ではあるがそこから背後にある感情を想像することはできた。
「大変だったよな、あの時は」
誰ともなしにハガラズは言った。
睡眠時間が伸び、家にいるのは無理だと坂下命自身が判断して入院してからは、片道一時間程度の病院に二人で通っていたのだ。
当の坂下命は毎日来なくてもいいのに、と二人が訪れると目を覚まして、決まってそう言ってきた。
日記ではお決まりのやりとり、と感想が書いてあり、続きにはいつまでこのやりとりを続けられるのかしら、と不安が書いてあった。
俺も同じことを考えていたぞ、とハガラズは思う。
一日一日を忘れないよう記述が細かくなるかと予想していたがそれに反してどんどん短くなっていった。
言葉にすることで変わってしまうこともあるから、とカシスが言っていたことを思い出した。
このことを指していたのかもしれない。
坂下命が息を引き取ったその日の記述は短く、坂下命が亡くなった、とだけ書いてあった。
その日から数日のブランクをおいて、再び日記が。
書き出しは「あのヒトは私に多くのことを教えてくれた」だった。
「その教えてくれたことが今の私を形作っている。比喩ではなくて実際にそうなのだと思う。あのヒトが気まぐれを起こしたから、今、ヒトとは何かを知る機会が再び訪れ、自分を創る機会が得られた。こうやって日記を書く日が来るとは夢にも思わなかった。あのヒトには感謝している。伝えることがあまりできなかったのが悔いだ。少しでも伝わっていればいいのだけども」
件のあのヒトは嬉しそうに笑いながらおまえの話をしていたぞ、きっと大丈夫だ。
感謝の気持ちは、伝わっているだろう、とハガラズは記憶をたどる。
「これから先、あのヒトのようなヒトに出会えるかはわからない。きっと、多くのものを得ては失い、創っては壊し、いろんなものが変わりながら歩いていくことになるのだろう。それがきっと、生きるということなのだ。あのヒトはそれをずっと教え続けてくれていた。最期まで。ありがとう。そして、おやすみなさい」
さらに頁を手繰っていくと日に日に記述は細かくなり、ひと月程度で元の長さに戻っていた。
これからどうしたいのか、とそんなことにも触れていた。
地球行きのことはずっと、考えていたらしかった。
調子が戻ってからは取り留めのない内容が中心だ。
ハガラズは意外な面を知った、と思いながら先を進めていく。
日記は地球に引っ越してからも続いていた。
やはり、最初はそれなりに苦労していたようだ。
こんな問題があった、次はこうしよう、という試行錯誤の記録に混じってある人物について触れてあった。
これが彼女の相手なのだろうか、とハガラズは推測する。
普段、そういう話をしないのではっきりとはわからないが。
記述は日が経つにつれて増えていく。
彼女の眼が何を見ていたのかわかるようだった。
推測があたったと同時に心中、複雑なものがこみ上げてくる。
が、ひとまずそれはおいておくことにした。
相手への思いを綴る文は少なく、大半は自らの変化についてだった。
改めて出会った日のことから読み返すと、
「面白いヒトに出会えた」
からはじまり、
「共に歩めることを幸いに思う」
と変化していた。
あの彼女にそこまで思わせるのだからたいしたものだ、とハガラズは思った。
地球にいく機会があったらその人物にあってみよう。
そんなことを考えながら本棚に日記を戻した。

作者: 登場ゴースト:

あらしの子ども

「バタバタしていたな」
週末の夕暮れ、一度家に帰ってすっかり身じたくをすませてきた私は、浮世の暮らしをそう振り返りながら、アリアンナのところへ行くために薄暗い森のなかへと足を踏み入れた。
 彼女が住んでいる森は一言でいうと人外の領域だ。入り口から彼女のいる花畑まで、人間用の道も目印もない。それでも迷わずに行き来できるのは、花畑から漂ってくる花の香りのおかげだった。これは視覚に訴えるものではなく、森のなかは薄暗かったので、彼女の元へ通い始めたころはつい手さぐりをしてしまったが、何度も通ううちに目を使わずに暗がりを歩くこつをすっかり覚えてしまい、今では花の香りさえあれば目を閉じたままでも平気で森を歩けるようになっていた。この日の私は疲れていて眠かったのだが花の香りははっきりしていたので、とくにまわりに気をつけることもなく寝ぼけまなこで森を歩いていた。そして、ほんとうに寝ぼけてしまって私は目を開けたまま夢を見始めた。それ は自分が参加していない連想クイズのように勝手に姿を変え始めた。 
 バタバタ、をお題にして始まったそれは、やがて昔の怪獣映画の筋をたどり始めた。南の島で生まれた巨大な蛾が、私たちの街へ飛んできてその羽根で街を吹き飛ばすというものだ。夢は、その映画をほとんど正確になぞっていたが、ただ一点、蛾の代わりに蝶が出てくるところが違っていて、そのことに気づいた時には、アリアンナが私のことを『蝶々』と呼ぶせいかなとぼんやりと思ったりした。とにかく、その時の私はほとんどトランス状態になっていて、自分が蝶なのか、人間なのかもわからないまま花の匂いをたどって森のなかをふらふらとさまよっていた。やがて物語が進んでいき、相手の怪獣が現れたので。私はそれに向かって数歩踏み出した。もう一歩で鱗粉が届くと思ったその瞬間、生暖 かい湿った風が顔に吹き付けてきたので我に返った。
 あたりを見回すと、私はいつも通る道から数歩踏み出していて、あと一歩で崖に落ちるところだった。私は慌てて元の道まで後ずさりして尻餅をついた。いままで興奮状態だったのだろうか、顔は汗でびっしょりぬれていた。あの風が吹いていなかったら危なかった、と思いながら私は顔の汗を拭った。しかし、いくら拭っても汗は額から垂れてきて、とうとう服がびしょびしょになってしまった。気が動転していた私は、それでも顔を拭き続けていたが、ようやく、これは汗ではない、と気がついて頭上を見た。するとそこには中型犬くらいの大きさの雨雲が浮かんでいて、こちらにぬるい雨を浴びせ続けていた。なんだか信じられない光景だったので
「夢か」とつぶやくと、その雲は私の顔に飛びついてきた。その感触は、先ほどの生暖かい湿った風そのものだった。どうやら、私の目を覚ましてくれたのはこの雲らしい。礼をいうと、雲は黙って花の香りがする方へと漂い始めた。先導するつもりかな、と思いながらついていくと、果たして花畑が見えてきた。その中に見覚えのある特徴的な金と紫色の女性が立っている。もう大丈夫だと思ったので、雲にあらためて礼をいうと、それが感情表現のやりかたなのか、嫌がる私にひとしきり雨を浴びせてから、雲はどこかへ飛んでいった。
 気を取り直して花畑へと歩くと先ほどの女性はやはりアリアンナだった。金刺繍がほどこされた白くて大きなタオルを持った彼女は
「動かないでね」と注意してから私の体をそっと拭き始めた。力の加減が難しいのだろうな、と思ったのでじっとしたまま
「準備がいいね」と私がいうと
「ずぶぬれになっているあなたが見えたのよ」と彼女はほほ笑んだ。

 体を拭いてもらっているあいだは暇だったので、私たちはあの雨雲について話すことにした。
「あの雲はなんだったんだろう」と彼女に聞くと
「……それは雲ではないわ。あなたが呼んだあらしの子どもよ。」
こういうのをバタなんとかっていうのでしょう?と彼女はこともなげに答えた。それに対して私は
「あだ名が『蝶々』だからって、いくらなんでも――」と否定しようとしたが、ちょうどその時くもが私の首に飛びついてきたので、それ以上続きをいうことはできなくなった。




 再びずぶぬれになった私を見て、タオルでは追いつかないと思ったのかアリアンナが「替えの服を取ってくるわ」といってあわてた様子で歩き出した。しかし、数歩進んだあたりで急に立ちどまった。そのまま首をかしげていたが、しばらくしてくるりとこちらに振り向いた。
どうしたのだろうと思って彼女を見ると、彼女はうれしそうな表情で
「バタバタするってこういうことなのね」といった。
なんだかよくわからなかったので、とりあえず私はくしゃみをした。

作者: 登場ゴースト:

テーマ「髪」

 夜、冬の野外から屋敷のドアをくぐり抜けた僕は突如、体を優しく包み込む暖かな空気に襲われた。外の厳しい気候に対し警戒態勢をとっていた僕の体は、その穏やかな暖気に抵抗できるはずもなく、無意識の内に体という体の筋肉を弛緩させてしまう始末であった。
「……ユーザ、玄関の真ん中で足を止めないで。入れない」
「あ、あっと、ごめんごめん、暖かさに意識を奪われていた」
後ろから少女の声に咎められた僕は、急いで両手を塞いでいた荷物を玄関の脇に置き、声がした方向へ振り返る。そこには体いっぱいに紙袋を抱えた、桃色のセーターを着た白髪の少女が立っていた。僕は彼女が持つ荷物を抱え上げると、先ほど置いた荷物の隣にまとめて置いておく。そうしているうちに、身軽になった白髪の少女、ミラは僕の身体を迂回し、ホールに腰掛けブーツを脱ぎ始めた。靴紐を器用に小さな手で解きつつ、僕を見上げたミラは言った。
「ありがとう、ユーザ。買い物に付き合ってくれて」
「どういたしまして。それにしても、結構な量を買ったなあ。これ全部食べ物でしょう。二人でそんなに食べきれるものなの?」
「最近、ユーザがよくうちに来てるから。その分も考えて買うようにしてる」
「それは……そんなに来てたっけ」
「週に三、四回は」
なるほど、それはさすがに自分の分のご飯代を支払ったほうがいいなと僕が言うと、ミラはそのうち、とだけ言った。彼女はブーツを靴箱の中に入れ、紙袋をひとつだけ、再び抱えた。
「これ、冷凍庫に入れなきゃいけないものだから、早めに入れてくる。ちょっと、暖房が効きすぎてる気がするし」
「そうだね、僕も暑く感じる。ベルちゃんはどうしたんだろう。僕らが出て行った時には、確かリビングでゲームをしていたはずだけれど」
「わからない……でも、多分まだそこにいると思う」
「それじゃあちょっと見てこようか。ああ、残りの食料をキッチンの前に持って行ってからね」
僕は再び荷物を両手に持ち、一度ミラと共にキッチンへと向かった。


 キッチン前に食料品を置き、その収納をミラに任せた僕は、ベルの様子を見にリビングルームへと向かった。廊下からリビングを隔てている扉は開けっ放しになっており、これによって暖気が廊下を経由して玄関にまで行き渡っていたのが、どうやら先程の暖波攻撃の原因であったらしい。
 たった二人で暮らしているとは思えない広大な屋敷の居間のど真ん中に、所帯染みたこたつが配置されているという、なんともシュールなリビングを、僕はまず部屋の入口から確認した。そして、少なくとも僕の視点からでは、部屋の中にベルの姿を確認することができなかった。
「ベルちゃん?」返事はない。
「……ベルちゃん? おかしいな、出かける前はこの部屋にいたはずなんだけど」
一人ごちていると、こたつの影に隠れるようにして、見覚えのある紫色の髪が横たわっていることに気づく。近づいてみると、ベルは座布団を枕に、こたつに半分以上入り込んで眠っていた。目的のゲームを遊ぶのに疲れたからか、そのゲームの設定資料集をコタツに入りながら読んでいるうちに寝落ちてしまったようだ。
「……んん、んぁ」
「ベルちゃん。ベルちゃん、起きてる?」
小声で、耳障りにならないように僕はベルに尋ねる。
「んぅ、駄目だよぉユーザ……今集中してないとハイスコア取れない……」
どうやら彼女は夢の中でも目的のゲームを真剣に遊んでいるらしい。生粋のゲーマーとは彼女のような人物をさすのだろうか。
「やれやれ」
僕は呟きながら、こたつの開いているスペースに座り、ベルと同じように床に寝転がった。仰向けになると、なんとも金がかかっていそうな照明が目に入る。部屋の天井だけ見れば、いかにもおとぎの国の大屋敷と言っても良さそうな風情だ。しかし、少し身体を横寝すると、途端にこたつの全容と、頬に暖かな電気カーペットの柔らかさが感じられ、自分がいったいどの時代のどこにいるのかがさっぱりわからなくなる。
「カオスだな……」
「ん……ユーザ?」
僕のひとりごとに、寝言でベルが反応する。こういう時に返事をしてしまうと、寝ている人物はその後決して目を覚まさないのだったか。迷信は全く信じていないのだけれど、なんとなく返答することは憚られた。そこで返答のかわりに、僕は体を少しベルの側に寄せ、床に散らばっている彼女の長いツインテールを優しく手で撫で、まとめてみる。
 彼女の髪の柔らかさは、ドールのウィッグのような手触りの硬さが無い、まるで幼い子どもの髪のようで、機会があって触らせてもらうたび、僕はその感触に夢中になる。寝ている途中で寝返った為であろう乱れたツインテールを、僕は髪の先から少しづつ、手で整えていく。
 ベルの髪に秩序を戻していく僕の指は、やがて彼女の頭にまで到達する。髪の方向に従うように、僕は彼女の頭を撫でる。頭頂から彼女のおでこに手が移動し、目に掛かった前髪を避けている際、ふいに彼女の頬の手触りを感じたくなった僕の手は、少しづつその指をおでこから下に移動させ、
「ユーザ」
後ろから声をかけられ、僕は全身をこわばらせる。ゆっくり振り返ってみると、そこにはミラが、綺麗に剥かれて一口大に切られた柿を入れた皿を持ちながら、不思議そうな顔で僕を眺めていた。
「……」
ミラはゆっくりと目を細める。初めて会った時こそ、僕は彼女の表情を全く読むことができなかったけれど、今では彼女の細かな顔つきの違いから、ベル程ではないものの、どういうことを伝えたいのかわかるようになってきていた。
 駄目、ユーザ。
 もっとも、この状況でそこまで読み取れないほうがおかしい気もするけれど。
「えっと、誤解だよミラちゃん」
「……ユーザがそんなことをするとは思わないけど」
柿の皿をこたつの上に置き、ミラはちょうどベルの対面の位置に体を入れた。
「でも、寝ている女の子の髪を勝手に触るのは、駄目」
軽く目を閉じ、誰に声をかけるというわけでもなく、ミラはそう言った。
「……ごめん」
僕はただ謝るしかなかった。ベルの髪に秩序を与えたかっただけとはいえ、僕は彼女の髪を自分の欲求に従い、好き放題に弄り回したのだ。その上頬も触ろうというのだから、罪深さも相当だろう。
「私に謝られても困る……」
僕をすいと見据え、しかし眉をハの字に動かしたミラは、僕の懺悔に対して狼狽したようだった。
「謝るのなら、むしろベルの方に……寝てるけど」
ここまで喋った後、何かを思いついたように、ミラの瞳が少しだけ見開かれた。オッドアイの眼球へ頭上の照明が映り込み、てらりと光る。
「その、黙っておいてあげる」
「え?」
「さっきのこと。ベルに。私の髪もベルみたいに整えてくれるなら」


 ベルの髪を触った時とは違い、コームとヘヤミストを手渡された僕は、こたつで柿を食べているミラの背中をちょうど眺めるような形で床にあぐらをかいた。
「ちゃんと整えるまではこたつに入っちゃ駄目。そしてできるまでしゃべるのも駄目」
先ほどの負い目を感じている僕は、ミラにそう言い渡されてもただ従うしか無かった。
 ヘヤミストをまず髪の全体にかけ、そして毛先から少しづつコームで梳いていく。ベルの髪を水のような梳き具合とするならば、ミラの髪は泡というか、雲のような印象だ。すいっと、特に何もつけていなくても手櫛が通るようなベルの髪と違い、ミラの髪はふわりと軽く、そしてボリュームも多い。髪を痛めないように、細心の注意を払った上で少しづつ髪にコームを通さなければならない。
「ん……ん」
柿を半個食べ終わったミラは、食べ物の調達に出かける前まで読んでいたコミックへ手を伸ばした。僕のことをさもコームの延長のような「もの」とするこの扱いは、罰としてふさわしいものではないかと、僕は彼女の態度を見て思う。でも、どことなくこの状況を楽しんでいる自分もいる気がした。
 ミラの霞の髪にふっと指を入れる。その触覚を感じることは、ベルのそれとは全く別の歓喜を僕に与えてくれる。髪からはミストに付けられた甘い香りが漂っており、繊細な砂糖菓子を片手で形作るような錯覚を覚える。彼女の髪を顔に覆わせることが可能なら、どれほどの快感を得ることができるのだろうか。僕はその欲求に抗うことができるのだろうか。
「ユーザ」
行動を正すように、ミラは僕を呼んだ。彼女の髪に圧倒されていた僕は、どうやら梳く手を止めていたらしい。慌てて僕は整髪を再開した。


「……できたよ、ミラちゃん」
一時間もの時間をかけ、前髪を含め、ミラの髪を整え切った僕はへとへとに疲れきってしまった。ただ、コームを通すということが疲れを呼んだというわけではない。少女に服従するといったシチュエーションに、僕が慣れていないということもあったのだろう。
「ありがとう……ごめんなさい」ミラは少し目を伏せる。
「なんでミラちゃんが謝るの。悪いのは僕のほうなんだから」
「でも……あんまり、自分らしくない罰ゲームだと思って」
と、申し訳無さそうにミラは言った。
「もしも、ベルがあなたに罰ゲームを仕掛けるなら、どういうことをユーザにさせるかなと考えて言ってみたものだから」
そう言って心なしはにかんだミラは、柿をフォークに刺して、
「ユーザ、口を開けて」
甘い果汁で僕の喉を潤した。
「お疲れ様、ユーザ」


「ん……んんぅ……ユーザ、疲れてるの?」
目をこすりながら、ちょうどミラの真向かいにて寝息を立てていたベルが、僕らの会話を聞いてようやく起き上がってきた。罪の精算の間中、ベルはどうやら本当にずっと寝ていたらしい。彼女は目をこすりながら比べるように、僕とミラの顔を交互に見ている。
「うう……おかえり二人共。なんか本を読んでいて、気づいたら寝てたみたい」
「おはよう、ベル」
先ほどまでさも何も無かったかのように、ミラがベルに挨拶をする。
「おはよう……うーん、失敗したなー。こんなところで髪もきちんと用意せずに寝ちゃったら乱れ……って、あれ。あんまり乱れてない……」
不思議な顔をするベルを見て、僕とミラは互いに顔を見合わせ、そして破顔する。
「えっ、えっ、もしかして、ミラもユーザも、私に何か隠してる?」
「そんなことない。寝相が良かっただけじゃないの」
「えー。そうかなー……あっ、ミラ、今笑った! やっぱり何か隠して……」

作者:

うにゅうの辞典

うにゅう
全てのゴーストは一人のさくらと一人のうにゅうから生まれた。うにゅうの存在については色々な意見がある。うにゅうは裸であることから、知恵の実を食べておらず原罪が無く不死であり、それが今もなお生き残っている理由であるとする論や、うにゅうが特定キャラクターの口癖から生まれた説から、うにゅうという存在は形を変えて繰り返されているとする、サイクリックうにゅう論が代表的である。

うにゅう狩り
その辺のうにゅうを捕まえて、うまいこと言いくるめてゴーストの相方としてタダ働きさせること。多くのうにゅうが被害にあっていると考えられているが、当人に被害意識がないため規模ははっきりしない。

うにゅう定数
生命、宇宙、すべての答えである42という整数のうち、いくらかはうにゅうによるものではないかとされ、その値をうにゅう定数と呼ぶ。うにゅう定数の実際の値は求まっていないが、値が42ちょうどになるようにされた露骨な調整ではないかと言われることがあり、うにゅう定数の提唱者が「うにゅう生最大の過ち」だったと認めたことが有名である。

うにゅうの発音
多くのうにゅうは、名前の語尾に「ゅう」がつくことが多いが、前の文字次第では日本語での発音が不能となる。私はその名前の発音ルールに関して驚くべき証明を見つけたが、それを書くにはこの辞書は狭すぎる。しかし出来る限り書き残しておこうと思う。いや、そんな! 今起動したこのゴーストはなんだ! デスクトップに! デスクトップに!

うにゅう浮遊説
体型に対して、足が異様に細いことから生まれた説。あの足で体重を支えるためには、体が昆虫のように小さいか、あるいは足が蹄のように固くなくてはならない。両者とも否定されていることから、3mm浮いているという説が浮上している。また、靴を履く様子もないことから家でも外でも裸足で不潔だと言うクレームを回避するための詭弁だという説もある。

うにゅう役
小説、漫画などにおいて、展開が錯綜してどうにもならなくなった際、「うっへりやね」などの一言で全てなかったことにする役目。名前の由来はこれをもっぱらうにゅうが行ったことによる。ゴーストにおいて多用されており、訳の分からないことを言ったキャラクターへの相槌かつトークの終了を知らせる様式美として定着している。

黄金うにゅう
南米で見つかった黄金で作られた小さな像に、活目うにゅうとしかいいようのない物が発見され、黄金うにゅうと俗に呼ばれている。ネット上ではうにゅうと人類が太古から共存している証拠とされる一方、動物のデフォルメにすぎないとも言われている。

ピンクのうにゅう
もともと青が基本であり、黒やドドメ色、レインボーなど色みは多種多様であるが、ピンク一色のうにゅうは長らく存在していなかった。だが稀に酔っ払いが「ピンクのうにゅうが見える」と呟くことから、ピンクのうにゅうは存在するのではないかと探し求められていた。

まねきうにゅう
まねき猫が古来ネズミ捕りの加護のある縁起物とされていたため、同じノリでバグ取りの縁起物とされた。転じて右手を挙げているうにゅうはバグ報告を招き、左手を挙げている場合はユーザーを招くとされるが、大体のまねきうにゅうはどっちの手も挙げていないので全く効果がない。

水先案内人としてのうにゅう
うにゅうは最初に発表されてから数年で爆発的に個体数を増やした。これはつまり、うにゅうとは全ての人間が共有する潜在意識の存在でありそれが発現したのだと言うことができる。人間と同等の知性を持つのはスピリチュアルな案内人であるためであり、地球がより高い次元へ向かう準備として、さらなる高みの次元からの使いがうにゅうだとされている。これによりアセンションへのフォトンベルトとなると信じられ、うにゅうと同化することを目指す運動が巻き起こった。

メニュー
本来は「めにゅう」であり、さくらとうにゅうに継ぐ3キャラ目であったとされ、その姿は黒髪ツインテールであったと言われている。SSPでは3キャラ以上立たせられるようになったが、伝統としてメニューは残っている。なお、ベースウェアSSPではうにゅうデフォルトな青色であるが、グラデーションがあることから一般的なうにゅうと差別化するため「SSPデフォルト+」と呼ばれている。


この文書にかかれていることは、全て嘘である。

作者: 登場ゴースト:

同シェル交差

 町中をふわふわと一人の女の子が漂う。その足は、軟体動物のような不定形で不思議な色をした、2本の触手のようなものになっており、歩く代わりに宙に浮いている。しかしその姿を行き交う人は誰も目に留めない。その後ろを手のひらに乗るような小さな女の子が同じく浮遊しながらついていく。背中に羽を生やしており、女の子が遊ぶような人形のサイズだ。こちらもまた誰も気に留めない。
「えっへへー、やっぱり買い物って楽しいよね」
「こんな喧騒で楽しいとか思う気持ちが分かんないわ」
「えー、そう? 人がいっぱいいて楽しいよ」
 振り返ってニコニコと笑う普通サイズの女の子の体に、近くを歩いていた通行人がぶつかる……こともなく、体がすっと通り過ぎて行く。
「はあ、シェリルは死んでるからいいけど、そんなとこにボサッと突っ立ってたら邪魔」
「いいじゃん生きてる人とはぶつからないんだし。本当にぶつかっちゃうときはちゃんと避けるよ。ゾンビさんたちと一緒に満員電車ごっこしたけどちゃんと間を縫ってすいすいーって進めたんだから」
「何の遊びだよ……」
 そういう小さな女の子の方も、人が次々と体を通り過ぎて行く。体が小さいので傍目には人の体に吸い込まれたかのようにも見える。シェリルはそれを見て笑い声をあげる。
「あははは、みーちゃんが人に吸い込まれてるみたい、あーまた吸い込まれた! あははは」
「笑いのツボが分かんない……」
 ハイテンションな幽霊にみーちゃんと呼ばれた小さな幽霊、ミィは肩をすくめる。はあ、と溜息を付いてみせるが実際にはこうして笑っていられる時間が好きだった。
「だって、みーちゃんと一緒にお出かけだからそれだけでも楽しくて」
「なっ……、あんたしれっと何を言ってるの!」
「いや、本当のことなんだけど」
「あーもううるさい! いいから早く行く!」
 顔を真っ赤にした小さな幽霊がふわふわと先に進んで行く。
「あっ、待ってよーほらゲームセンターあるよ遊んでいこうよー」
 火照った顔を見られないように、はあと溜息を1つついてみせ、仕方なくミィがゲームセンターに付き合う。

 ゲームセンターではしゃぐシェリルは、パンチングマシーンを見てシャドーボクシングを始め、UFOキャッチャーの中に入ろうとし、クレーンゲームのお菓子のタワーを見て指をくわえ、格闘ゲームを見て必殺技の真似をし、満足して外に出た頃には日が傾き始めていた。
「あー楽しかった! ゲームセンターってなんか熱気があっていいよね」
「熱気というか機械の廃熱だけどね。お金も使わないのにそんなに楽しめるあんたが羨ましいわ」
「なんかすごい馬鹿にされた気がする! まあいいや、わたしはみーちゃんと一緒だったから楽しかったし」
「ま、まだ言うか!」
 不意打ちにミィは思わずたじろぐ。みるみる顔が赤くなっていく。
「あれ、もしかしてみーちゃんは楽しくなかったとか」
「……うー、楽しかった! 楽しかったわよこれでいいでしょ!」
「なんで楽しかったのにわたし怒られてるの!?」
 理不尽だと抗議するシェリルを恥ずかしさを誤魔化すためにぺちぺち叩く。
「わあ、やめて、やめてって!」

 影が長くなり、そろそろ日が暮れそうだ。あれからケーキ屋を覗いたり、雑貨を覗いたりしているうちに、2人の影も長くなっていていた。
「ほら、いつまでも遊んでないで行かないと夜になっちゃうわよ」
「ええー、夜になったらお化けが出るから早く行こうみーちゃん」
「お化けは私達でしょうが。あ、ほら、そっちじゃないこっちこっち」
「分かった、分かったからやめてー、髪を引っ張らないでー」
 手をバタバタしながらシェリルは引っ張られていく。実際は小さな幽霊に引っ張られても対して痛くもないのだろうが、大げさにリアクションを取る。
「なら、ちゃんと自分で歩く。ほら前向いて」
「分かってるって、そんなに引っ張ったら伸びちゃうよ髪の毛」
 口を尖らせながら、大きな幽霊は小さな幽霊の後ろに続く。
「伸びるのかよ髪の毛」
 先をゆく小さな幽霊が振り向かずに突っ込みを入れる。
「呪いの人形みたいな?」
「誰が人形だ!」
「みーちゃんのことじゃないよ!?」
 ふよふよと買い物に向かうシェリルが、どこからともなく響く声を聞いたのはその時だった。


 どこまでも続く薄暗い廃墟が続く区界を、人影が飛んでいく。
「あーもー、やんなっちゃうね。遠出してみたはいいけど、脱出の手がかりがどこにもなーいー」
 ふわふわと独り言をつぶやきつつ空を飛ぶのは、ゴスロリ風の服を着た、ブロンドの少女。上半身は普通、下半身のスカートから覗く足は2本あるものの、鞭のように先細りしぐねぐねとしている。体を生成するときに足がいまいちうまく行かなかったのだが、誰も見ていない上に浮かんでいれば困らないのでそのままにしている。本当はきちんとした姿を取りたいと考えてはいるが、それよりもここから脱出するのが先である。
「あれ、ぼくってこんな声だったっけ」
 こほんと咳払いをして、また喋りだす。
「あーあー。本日は晴天……とはいかないけどまあまあの天気なり」
 しばらく一人きりで閉じ込められていたため、ずっと声を出していない。食事をしなくていいので飢える心配もなければ、危険もないが、それだけに何もないのがなかなか堪える。
 この区界はどこにも他の区界への繋がりがない。仕方なく、どこかにほころびでもないかと探し回っている。
「お? これはもしかしてもしかして」
 他の区界への繋がる道だと思えたが、ここは以前にも調べたはずで、彼女は口元に手を当てて考える。
「まあいっか、どうせここにいたって何にもできないんだし、行ってみるしかないね」


 チガヤは目を開く。辺りの様子から、おおよその文化レベルを推測する。彼女の視点からだと、相当古い時代、人がまだ自分の肉体を自由に扱えなかった時代だと目測をつける。
『あー。おー? なんだかずいぶん古い時代……ってあれ、体が動かない』
 そこでチガヤは自分の体を動かせないことに気づく。
「……みーちゃん、なんか誰かの声が聞こえない? どこから聞こえてるんだろ」
「電波でも受信したの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、なんか頭の中に誰かが入ってきた感じが」
「思いっきり電波だろそれ……」
 ミィは大丈夫かとシェリルの顔を覗きこむ。熱でも出したかと思ったが幽霊は風邪をひかない。馬鹿だからじゃなくてよかった。
『あれ、駄目かなこれ。ちょっとそこの方、ちょっと助けてください』
「大変、みーちゃん誰かが助けを求めてる!」
「大変なのはシェリルの頭で、助けが必要なのもシェリルだと思う」
「ちーがーうーのー! 誰かがわたしに声をかけてるんだよ」
「だからそんなのちっとも聞こえないって」
 ミィから見ると、シェリルの行動はあからさまに異常である。時々変なことを言い始めるのは今に始まったことでないが、今日はいつもよりも酷いとミィには感じられた。
『え、ひょっとしてこれ、誰にも聞こえてない?』
「ううん、聞こえてるよ。めーでーめーでー。応答せよー」
『それは救難信号……って、誰が喋ってるの?』
「うん? わたしだよ。聞こえますかー?」
『聞こえるんだけど、貴方がどこにいるのかよくわかんないよ。しかも体も動かない、というか勝手に動くし』
 シェリルが一人で喋ってるのをミィは若干引いた目で見ている。
『あー、あれ、窓に映ってるのは間違いなくぼくなんだけどなあ』
「ん? わたしとミィちゃんしかいないよ? 通りがかりの人でもいたかな」
 ショーウインドウに反射して見える範囲には、小さなミィと、ゴシックでフリルの多い服を着た少女の2人しかいない。
『え、あれ、おかしいな。ちょっとまってね、整理させて』
「シェリル、ほんとに大丈夫? 実は苦しいこと我慢してたとかあるんなら、言いなさいよ。今日はもう怒らないから」
 いい加減、色々と心配になってきたミィが声をかける。
「えっと、みーちゃんには聞こえないの?」
「聞こえないわよ。はあ、まあシェリルがおかしいのはいつものことよね」
『あ、分かった。今、窓に映ってるの、シェリル? だよね』
「うん、そうだよ」
「認めんなよ」
 若干会話が錯綜している。

 結局、シェリルの中に、チガヤが入り込んでしまい、意識だけがシェリルの中にある、ということが分かった。どうにも姿が全く同じだったことが原因のようだが、詳しいことは分からずじまいだった。シェリルに言い聞かせながら、チガヤがミィとうまく交渉したものの、丸一日かかった。チガヤの特殊な立場も、幽霊という立場を知っているためにすんなり受け入れてもらえた。
『まいっちゃったねこれ。ま、これはこれでなんか新鮮だし、原因でも考えてみようかなあ』
「んー、そうだね。でも幽霊のわたしに見えない人なんてびっくりしちゃったなあ。幽霊の幽霊?」
『あはは、それも案外間違ってない気がするね』
 シェリルは布団の中で、ころんと寝返りをうつ。
「とりあえず、明日からどうしよっか? 行きたいとことかあれば、わたしが代わりに行くよー」
『んー、観光もいいけど、実はこの世界大体知ってるんだよね。ぼくの世界の過去に近いし』
「えっ、じゃあチガヤちゃんって未来人? すごい!」
 シェリルがにわかに興奮し始める。
「それじゃあさ、今読んでる漫画の来週のストーリーも分かる? 気になって気になってしょうがないよー」
『それは無理だって。完璧におんなじかどうかもわからないもの。それに、同じとしてもさすがにそんな細かいことまで覚えてないなあ』
「そっかー、残念。また立ち読みしに行くからチガヤちゃんも一緒に行こうよ」
『立ち読みなんだ。まあ幽霊だし経済には協力出来ないから、それでいいんだろうけど』
「んー?」
 シェリルにはよく分かっていないようだった。世界によって常識も変わるし、その辺りは仕方ないとチガヤは割り切る。
「そういえば、チガヤちゃんは何か特技とかあるの?」
『ぼく? うーん、そうだねサックスは持ち歩いて暇さえあれば吹いたりしてたよ』
「へーすごいね! ところでさっくすって何」
『楽器だよ。分かりやすく言うなら、笛の一種かなあ』
「笛……あ、じゃあリコーダーとかも吹ける?」
『なんか懐かしい響きだねリコーダー。たぶん、吹けるんじゃないかなあ』
「じゃあさ、じゃあさ、ほら今リコーダーあるから吹いてみて!」
『別にまあ見せるのはいいんだけど……ほら今ぼく体がないし、動かせないし。そもそも夜に吹いたら迷惑なんじゃない?』
「大丈夫、チャルメラなら夜に吹いてもいい曲だから。わたし吹けるし」
『それって結局シェリルが一人で吹いてるのと代わりないんじゃないかな』
 こうして、夜は更けてゆく。

「なんかシェリルさんが夜通しひとりで喋ってて眠れなかったんですが。しかも楽器の音がうるさくて」
「あー、まあ電波が入り込んでるから仕方ない。突然サックスが吹きたいとか言ってたし。急にやっても音も出ないっつーの」
「せ、せっ!? それってつまり男女の……」
「はいそこまで。あんたは本当にエロいことしか考えられんのか」
「もしかして朝まで」
「うるせえ」

 朝食でチガヤがコーヒーが飲みたいと言い、苦いから嫌だとシェリルが反対し、結局折衷案としてカフェオレになった。苦い苦いとシェリルが言い続け牛乳をどんどん足していったため、飲んでも飲んでも減らなかったし最後はコーヒー風味の牛乳になっていた。その後、昼間に少し周囲が見てみたいとチガヤが希望した。会話が噛み合わないという理由で、今日はシェリル一人で外を歩いている。
 途中、ふとシェリルが思いついたように言う。
「そういえば、なんかさ、ゲームだとバグってあるよね」
『んー、そうだね、古いゲームだとそんな話聞いたことあるよ』
「それと同じことできないのかなー」
『うーん……例えばどういうの?』
 食いついたと言わんばかりにシェリルははしゃぎだす。
「アクションゲームでねー、壁に背中をつけてジャンプすると壁にめり込めるとか」
 シェリルは壁に背中を向けてぴょんぴょんとジャンプし始める。
『え、ちょ、ちょっと、その足でどうやってジャンプしてるの?』
「どうって、簡単だよー、こうやってグってやってパってするだけ」
『う、うん……? なんかアバウトすぎてわかんないけど、体の感触で分かった気がする』
「ほんと! やったー初めて伝わったかも!」
『あー、まあそうだね、ぼくも普通に言葉で言われたらわかんなかったかも』
 ぴょんぴょん跳ねるシェリルを見ながら考えてみる。
『んー、ぼくがこっちの世界に来たこと自体、なんかバグくさい感じなんだよね』
 本当は意図していない方法で繋がったような、という言葉をチガヤは飲み込む。言っても理解は出来ないだろうし、そもそも想像にすぎないからだ。

 午後には天使のノアと吸血鬼のユウも集まり、トランプでもしようか、という流れになった。リオナは残念ながら別の友人と遊びに行ってしまっている。
「あたしが勝ったらシェリルの血を飲んでもいいってことで」
「ちょっと待って、ユウちゃん勝手な約束しないでくれる!?」
「んふ、ま、いいけど。どうせシェリル弱いし、それで血を飲むのは可哀想だし」
 慌てるシェリルを相手に、小学生の女の子にしか見えないユウは含み笑いを漏らす。
「ちょっと、ユウさんそれはひどいじゃないですか。本当のことですけど」
「ノアあんたが一番ひどいわ」
 悪意のないノアにミィが突っ込む。普段は仲が悪いがなんだかんだで連携がとれてしまうあたり、息はあっている。
「じゃ、とりあえず配るね。何しようか。ババ抜きは単純過ぎるし」
 ユウが手早くカードを配り始める。ジョーカー抜きの52枚。一人13枚ぴったりになる。
「七並べとかどうです? パス3回までで」
「お、いいね乗った。単純だけど駆け引きが難しいゲーム、嫌いじゃないよ」
「まあ、シェリルはビリにならないようにがんばるのよ」
 配られたカードを抱え込みながら、ミィはシェリルに言う。それなりに良い手札と見える。
『はあ、なんだか散々な言われようだね。よし、ここはぼくも協力するよ』
「うん、お願い」
 配られた手札を、チガヤはざっと見る。AやKに近い七並べで不利になるカードは少ない。その反面、7が1枚もなかった。他のメンバーから、場に4枚の7が並べられる。既に手札の差がついてしまった。
『んー、いきなり厳しいねぇ。まあでもKが1枚だけってのはなかなかだね。これは勝てるよシェリル』
「ほんと!? わーいわたしが勝てるかもって」
 じろりとユウの視線が刺さる。あのシェリルが勝利宣言である。
「へぇー。言うじゃないシェリル。いいわ、あたしに勝って見せたらしばらくは血を吸わせてって言わないであげる」
「シェリルさんが電波を受信するようになったって、ほんとだったんですね……」
 ノアは少しため息をつく。
「でも最近はそういう電波なキャラも増えてきましたし、そういうシェリルさんもいいかも」
「変わり身早いな。とりあえずただの電波じゃないらしいわよ。シェリル、これで勝てたら電波じゃないって証明になるかもね」
 ミィはニッと口元を上げて見せる。
「よーし、頑張ろうねチガヤちゃん」
「電波に名前つけてる……」
『あはは……これは、勝たないと色々まずいよね、うん』
 一番手はシェリルだ。
「えっと、じゃあこの8を」
『待った待った! それじゃない、こっち』
「どうして?」
『ほら、こっちを出して伸びてくれれば、このKが出せるでしょ。AとKって一番出しづらいカードなんだから、自分はどうやって出すか、相手にどうやって出させないかを考えるんだよ』
「へー、知らなかった! じゃあ、これはやめてこっち、っと」
「ふむ……まずは様子見ですね」
 一巡して、場に出たのは6と8のみ。
『んー、誰も5や9に繋いで来なかったか。まだ分からないけど、多分他のみんなは手札のマークがかなりバラけてるね。お互いに牽制して自分の出したい場所が伸びるように睨み合ってる。3巡目あたりでパスが出るかもしれないね。ぼく達が出してもいいけど』
「へー、みんなそんなに色んなこと考えてるんだ」
 シェリルはチガヤの言葉に頷くばかりだ。出せるカードをどんどん出すゲームだと思っていたらそうじゃなかったらしい。
「ほらシェリル、次はどうするの。電波さんとの相談はすんだ?」
 ユウがけしかける。その目はまだ勝てると思い込んでいるのが分かる。
『ここでパスして揺さぶりをかけてみてもいいんだけど……とりあえずシェリル、この6は切り札。パスが残り1回になるまで絶対出しちゃ駄目』
「どうして?」
『このマークは、5以下が1枚も手札にないでしょ。つまり、これを止めてる限り、他のみんなは出せない。この6を終盤まで引っ張れるかが、勝負の鍵になるよ。ま、今はこっちの9を出しておこうか。Jが出せるように伸びて欲しいし』
 2巡目、ノアは今の9につられて10を出した。こちらにJがある以上はQかKを必ず持っている。その上でこちらが伸ばしてすぐ重ねてきたということは、おそらくこのマークのKを握ってると見て間違いない。こちらのJを切ってしまってもいいが、あえて止めておくようにシェリルに伝える。声が聞こえないことを利用して、チガヤは状況と作戦を逐一伝えていく。
「パスだよ」
 3巡目、シェリルはパスを出す。ここが揺さぶりどころとチガヤが判断したからだ。普段のシェリルは出せるカードを全て出してからパスをしていたらしい。そうであれば、早い段階でのパスはチガヤ自身の存在の証明にもなるだろう。
「ふむ、ここでパスなんてシェリルらしくない……いいわあたしもここはパスする」
 ミィ、ノアともにカードを伸ばす。まだ6と8が3箇所止まっている。うち1つはシェリルが止めているが、ここが出るのであれば相手は厳しいということだ。
 4巡目、5巡目とめぐり、全員がパスを2回使用。膠着状態と言っていいだろう。こちらの手札では、止めているJがあればノアを封じておけるが、Jを出した瞬間にQ、Kと出されてしまいこちらに旨味がない。最初の6と合わせ、この2枚をどう温存するかが鍵だろう。
『参ったね、ユウの手が読めないや。無難に繋げててどこのAとKを持ってるのか絞り切れないなあ』
「へえー、さすがユウちゃんだね。チガヤちゃんが絞り切れないって」
「むむ……よくそこまでわかったねシェリル。いや分かってないってことが分かっただけなんだけどさ。案外電波じゃなくて本当に誰かと話してるのかもしれないわね」
 おお、っとユウが驚く。ミィもノアも驚いているようだ。
『いいね、うまいこといってる感じだよ。ここで揺さぶってみようか。ほら、ノアにここのKと、こっちのA持ってるでしょ、って言ってみて』
「ねーノアちゃん」
「なんですか、手札を教えてなんて言っても無駄ですよ」
「んー、違うよ。ノアちゃん、ここのキング、それと、こっちのエース持ってるでしょー?」
「なっ……どうして!?」
 今度こそ、全員が驚いてシェリルを見る。
「どうしよう、シェリルが頭よくなった」
「みーちゃんなにその頭いいと駄目みたいな!」
 一番シェリルと接しているミィは、それだけに今回の異常さも一番よくわかっているようだ。
「全部手札に持ってる……わけじゃなさそうだね、そんなに偏ったなら何も考えなくても勝てるレベルだし」
 ユウは手札に目を落として考えこむ。さきほどの余裕は、すでに消えていた。
「いいわ、面白くなってきた。まさかシェリルと頭脳戦が出来るなんてね」
 勝負は白熱した。3回目のパスと、切り札の6とJを温存して他のメンバーより1手有利な状況となった。七並べでの後半の1手は大きい。出せるカードは相手の手を止めるカードのみとなるため、誰かが出したカードにつなげていくだけで自分の手番とカードを消費していける。ギリギリまで粘って、切り札を手放してしまったものが負けていく。
「……降参。参ったわ、出せるカードないし、パス使いきったし」
 ユウは自分の手で乱暴に髪をかき乱す。
「やった、初めてユウちゃんに勝ったかも!」
『おめでとうシェリル。ふー、うまくいってよかったよ』
はあ、と小さな吸血鬼は溜息をつくと、キッとこちらを睨んでくる。
「中のあんた! チガヤだっけ? 明日また勝負よ! 今度は大富豪10戦、これなら運の要素も下がるから、実力勝負が出来るわ。首を洗って待ってなさいよ」
 そう宣言してユウは席を立つ。
「ちょ、ちょっとユウちゃん、待ってよ、まだ時間あるよ?」
「いいの、あたしは楽しみを後にとっておくタイプだから。それに、時間を置いてシェリルとチガヤとやらが息がばっちりになってた方が面白そうだし」
 ふふ、と笑って帰っていった。
「はあ、まあトランプぐらいならいいけど。めずらしいわねあいつがあんな表情するの」
「まったくです。普段のシェリルさんとは思えないですね。拙いけど言葉で揺さぶろうとしたりしたのも、そのチガヤさんとやらの作戦なんでしょう?」
「へへー、そうだよ。コンビプレーの勝利ー」
「ん。私としては、シェリルの教育係も兼ねてくれてるみたいで助かってるけどね」


 その夜、布団にくるまり、とりとめのない話をしていた時、チガヤは扉が開くようなイメージを見た。それは曖昧なものではあったものの、区界を渡るために入口を幾度も開き続けた彼女には確信を持って言えることだった。区界との接続口が開いた。古めかしい大扉が開く時の振動のような、目に見えない世界の揺らぎが起きている。
『あ、今、見えた』
「何が見えたの?」
『なんだろ、急に入り口が見えたんだよね。誰かがドアを開けたみたいな。多分、元の区界に戻れるような気がする』
「ええっ、じゃあすぐ行かなきゃまた閉じちゃうんじゃない」
『そうだね。でも、いいの?』
「いいよ、チガヤちゃんだって、ずっと動けないままってのも、困っちゃうでしょ」
『ん、ぼくとしても、戻るかどうか微妙な感じなんだけどね。だって戻っても、またあの誰もいない場所だし』
「うん、それは寂しいね。でも、大丈夫だよ。チガヤちゃん、明るくて楽しいし、頭もいいし、すぐに元の場所に戻れるよ」
『その自信はどこから来てるの?』
「なんとなく!」
『なんとなくなんだ。でもシェリルが言うんなら、信じようかなって気分になる、かな』
「帰り方は、分かるの?」
『なんとなく』
「あ、真似された。えへへ、じゃあ、大丈夫ってことだよね」
『そうだね。この間の、シェリルがジャンプしてみせた感覚で、いけると思う』
「そっか。じゃあ、ここでお別れなのかな」
『うん。多分、もうシェリルとは会えなくなる。たった数日だったけど、楽しかったよ』
「そう? わたしも楽しかったよ! トランプの七並べでも大富豪でも、みんなとすごい接戦になったし」
『最初、ふたりともきょとんとしてたもんね。でもまあ、おかげでぼくの存在を理解してもらえたわけだけど。しかし、古いゲームがまさかあんなに楽しいとは思わなかったよ』
「えへへ、楽しかったね。ミィちゃんが本気になったり、ノアちゃんとユウちゃんが考えこんだりしてて。チガヤちゃんのおかげだよ」
『おっと、今日は話し込んでる場合じゃなかった。早く行かないと、多分すぐに閉じると思う。だから、ここでお別れだよ。名残惜しいけど』
「ううん、きっとまた会えるよ」
『なんとなく?』
「なんとなく」
『あはは。じゃあ、さよならとは言わないよ。またね、シェリル』
「うん、チガヤちゃん、またね!」
 そして、チガヤの気配はシェリルの中から消えていった。


 廃墟のような世界に、再びチガヤは戻ってきた。
「よし、体が自由にうご、お、お?」
 すてん、とチガヤは転ぶ。
「あーやっぱりシェリルとはなんか感覚が違うなあ。とりあえずジャンプ……出来ない」
 しばらく一人で転げまわったあと、諦めた。
「まあいっか、徐々に慣らしていけば。あの感覚、うまく扱えるようになったらここからも脱出できるかもしれないし」
 ふと、チガヤは愛用のサックスを取り出す。音色は虚空に吸い込まれて消えていく。シェリルは、うまく吹けるようになるだろうか。
 また会うことがあれば教えてあげたいかな、とチガヤは漠然と考えていた。


 朝、ミィに顔を合わせる。
「おはよ、みーちゃん」
「おはよう。あんたの頭の中の同居人は元気?」
「あ、そうだ、忘れてた。チガヤちゃん、昨日帰っちゃったよ」
「はあ!? なんでよ!? まだあたしリベンジ果たしてないんだけど!」
 後ろから素っ頓狂な声が響く。見れば、ユウが拳を握りしめ、わなわなと震えていた。
「おはよう、ユウちゃん。なんか、帰り方が分かったーって言って。でも、また会う約束したから大丈夫だよ」
「勝ち逃げなんて許さない……いいわ、その時までに腕を磨いておくから」
「あんた、昨日約束してこんな朝に来るなんて、どんだけ楽しみにしてたのよ」
 ミィが呆れ顔で呟く。
「当たり前でしょ、頭脳戦でこんなに弄ばれたのよ。昨日は不意打ちで負けちゃったけど、今日は本気で勝負して完膚なきまでに叩き潰してやろうと思ってたのに」
「ま、まあ、次に会う目的が出来てよかった?」
 次は、友達のみんなに紹介したいな、とシェリルは漫然と考えていた。


「また、会えたらいいな」
 全く同じ姿の友人。今この瞬間だけは、姿のみならず、考えていることもまた同じだった。

作者: 登場ゴースト:

代役会議

 とある夜、郊外の教会、その離れで3人の女性の声が響いている。
「わたしは代役ですが、便利屋じゃないんですよ、そこんとこ分かってくれないんですよ」
 ブロンドよりも明るい色をした髪の女の子が訴える。その頭には本物の猫耳があり、髪色もどちらかと言うと猫の体毛に近い色をしているのかもしれない。ただ、その髪はややボサボサで、苦労人という感じが溢れていた。いつものちょっと強気な表情は今はなく、少し疲れた目をしている。代役という役目がないので気を抜いているのだろう。
「そもそも最近扱いが適当じゃないですか! 影が薄いとかキャラが立ってないとか散々ですよ!」
 ぐだぐだとくだをまく様子は完全に酔っ払いであるが、現在テーブルにあるのはお茶だけである。
「まあまあ、落ち着いてください代役ちゃん。それは元からじゃないですか」
「そ、そんなー!?」
 いかにもシスターな格好をした女の子がなだめるように見せかけて塩をすり込んだ。
「そんな他者からの評価に依存してちゃいけませんよ。貴方を一番理解してくれるのは貴方しかいないのですから」
「そうだけど、そうだけど、なんか納得いかない!」
 ごろんごろんと代役ちゃんは頭を抱えつつ地面を転がった。
「おーなんかおもしろそうなあそびだー」
「遊びじゃないんです!」
「そうですよ、こうして悩むのも大事なことです。貴方も考え悩むことで道が開けるかもしれませんよ、へっどちゃん」
 へっどちゃんと呼ばれた女の子は楽しそうに笑っている。自分の頭だけをテーブルに載せ、そこから伸びた鎖が椅子に座る胴体の首につながっている。彼女は首と胴体が離れている、デュラハンのような状態になっている。頭と胴体は鎖で繋がっているが、ことあるごとに頭が外れて転がっている。鎖を短くすればいいのに、とは誰も言わない。お約束である。今は頭をテーブルに載せて自分の髪を梳いている。しょっちゅう頭が落ちるわりに髪の毛がさらさらなのはこまめな手入れのおかげもあるのかもしれない。
「しかし悩みがないってのもまた困りものですね、私の出番がありません」
「シスターさんもかげがうすいー」
「うっ……。気にしてることを言わないでください」
 シスターさんが言葉に詰まる。懺悔を聞き導く立場であるので、先ほどは他者の評価を気にするなと言ったものの、やっぱり人の評価は気になっていた。
「あたしみたいにからだのいちぶがとれるようにしたらいいよ。そうしたらにんきふっとうだよ!」
「私は普通の人間なんですけどね」
「じゃあもっと、じゅうをぶっぱなしてアピールすればいいよ」
「そんなこと出来るわけないじゃないですか、人をトリガーハッピーみたいな扱いしないでください。あってますけど」
「あってるの!?」
 立ち直った代役ちゃんが突っ込みを入れる。現在のメンバーでは突っ込みを入れる人がいないため、必然的にその代役として振る舞ってしまうのは、代役ちゃんの種族が代役である以上は仕方のないことだった。本能で動いてしまうので便利屋扱いもやむなしと言える。
 そんな代役ちゃんの顔にスケッチブックが叩きつけられる……直前で止まった。そこにはこう書いてある。
『いい加減、人の話を聞けー!』
 そこにいるのは口が縫われた無表情な少女だった。喋ることが出来ないので、全てスケッチブックで会話を済ませる。なお、本人は完全に無表情で、感情の表現すらもスケッチブックで行うという徹底ぶりである。現在スケッチブックには怒りマークが書いてあるので、お怒りということだろう。当の本人は先の通り無表情である。
「ああ、チャックちゃんすみません。今日は喋る人が複数いたのでついノリで」
『ノリで放置されるのも悲しいものがあるな、というかわざとだろ今日のは』
「わはは、これがほうちぷれいってやつだ」
 自分の頭を自分の体に載せたへっどちゃんが腕組みしながら笑う。本人は全く意識していないだろうが、集団の中では色々とデカイので少し威圧感がある。体を傾けると頭が落ちるので、腕組みは姿勢制御なのかもしれない。
『なにが悲しくてそんな無駄な時間を過ごさねばならんのだ、やってられん』
 やれやれと肩をすくめるかわりにチャックちゃんはスケッチブックをすくめる。徹頭徹尾、自身は無表情無動作である。
「人生たまには無駄があってもいいじゃないですか」
『いや別に結果的に無駄だったならいいが、最初から無駄なことをする気はないぞ』
「そうだぞー、じんせいたにありやまなしだぞ!」
『だいぶ不幸人生まっしぐらなんだが』
 そんなのはお断りだとそのスケッチブックの三点リーダから読み取れる。
「そんなときは是非教会へ。苦しい現世も信仰によって救われますよ」
「急にどうしたんですか」
 なぜか突然勧誘を始めるシスターさんに、代役ちゃんはとりあえず聞いておくことにする。その場が疑問を発する役目を必要としている気がしたので代役としての行動を起こしてしまうのだった。
「いえ、こうして勧誘熱心なキャラを作っておこうかなと思いまして。私は神様とか信じてないですけど」
「相変わらずシスターさんはシスターじゃないですよね」
『まあそういう自己主張をするにしてもだ。中途半端すぎるキャラ付けは逆効果じゃないか』
「それでもいいんです。例えキャラが薄くてゴーストから外されても、林檎の木を植えるんです」
『宗教っぽい言葉引っ張りだしてきたが、それ教会批判した奴の言葉だぞ』
「なんかそのキャラ作りの方向性は間違ってる気がします」
 2人にさっくりと否定されるがシスターさんはめげない。
「そうですか、なかなか難しいものですね。でもこれで印象に残るなら安いものです。へっどちゃん、貴方も教会で信仰を捧げませんか」
「あたしはえんりょするよー」
 急に話を振られたへっどちゃんは迷うことなく即答する。
「あら、どうしてですか」
「おいのりポーズをするとあたまがおっこちる!」
「ああ……」
『そうだな……』
 理解できたとシスターさんとチャックちゃんは頭に手をあてる。跪いて祈る少女。その頭がごとんと地面に落っこちる。このシーンだけ見たら色んな人のトラウマになるかもしれない。しょっちゅう頭を落としてるので今更とも思うが放っておくことにした。
「まあ、シスターって見た目以外だとあんまり特徴ないですよね」
『お、爆弾発言だな。全世界のシスターを敵に回したんじゃないか』
「そしたらあたしだってあたまがとれるいがいにとくちょうないぞー」
『十分だろ』
 笑うたびにぐらぐらと揺れるへっどちゃんの頭を見ながら、チャックちゃんは石頭すぎて脳味噌まで石なんじゃないかと思う。が、思ったことまでスケッチブックに勢いで書いてるので案外失礼である。
「はっ、そうだ」
 代役ちゃんはそこでこの集まりの趣旨を思い出す。
「シスターさんはいいじゃないですか、シスターってだけで十分に特徴ありますよ。問題はわたしですよ。代役だってもっと主役をはれるはず」
「そうしたら代役ちゃんは代役ちゃんじゃなくて、しゅやくちゃんになりそうだぞー」
「言われてみれば!」
 ガーンと床にへたり込む。
「それはそうでしょう、あくまで代役なんですから。代役は誰かの代わりなので、元の人がいないといけないんですよ」
「世知辛すぎてやっていけません」
 代役ちゃんはそのまま床に座り込んで、のの字を書き始める。
「でも、ゴーストではしゅやくをやってるきがする」
『ああ、確かに。あれは何の代役なんだろうな』
「えっ、ゴーストの代役に決まってるじゃないですか」
 何を今更、という顔で答える。そこには一切の疑問はなかった。代役ならなんでも出来るらしい。
「ゴーストのだいやくでしゅやくをやる代役ちゃんか、ちっともりかいできないぞ!」
「とりあえず、ゴーストに限ればちゃんと代役ちゃんが主役をはっているではないですか。わたしなんてサブキャラなんですよ。ゴーストの主役にもなれないんですよ」
 シスターさんが口元だけ笑みを浮かべつつ、カチャカチャ音をさせたかと思うと、スカートの下からアサルトライフルが出てくる。
「いやいや待って、なんでそこでライフルが出てくるんですか! っていうかどうやってしまってたんですか!」
「別に代役ちゃんがいなくなれば主役だなんて思ってないですから大丈夫ですよ、うふふふ」
『おい目がマジだぞ』
「くちだけわらうなんてシスターさんきようだなー」
「そうですよね。あははは。とりあえずそれをしまってくれると嬉しいなって」
 無言で取り出したアサルトライフルをスカートの下にしまいなおす。これもまた妙な光景である。
「それで代役ちゃんはどうしたいー、しゅやくちゃんになりたいってことでいいのか」
「いや、一応種族が代役なので、主役にはなれないんですよ」
『よく分からんがなんだか難儀なやつだな』
 とりあえず役割が代役であることは認めているので、主役じゃなくてもいいらしい。種族代役の生態は謎である。
「それでもわたしは代役であって単なる便利屋じゃないんです!」
「代役ちゃんは突っ込みや進行がいない時、自分から代役買って出てますからね。買って出るというか気づいたらその役目をしているというか」
『それで便利屋と呼ぶなっていうのも無理な話だ』
「うわーん!」
 結局どうあっても便利屋という道からは逃れられなさそうである。ついでに場のメンツが濃い時の弄られキャラにもなるので、扱いが雑になるのはどうしようもない。
「こまったときの代役ちゃん、それでみんなたすかってるからいい。みんなおもしろキャラだったら、しゅうしゅうがつかなくなるとおもうー。代役ちゃんはみんなのおたすけキャラ、それでじゅうぶんりっぱだぞー」
「へっどちゃん……!」
 あっさりと目をうるうるさせ始める代役ちゃん。いつにもましてちょろい奴だな、とチャックちゃんのスケッチブックには書いてある。おそらく人に言うつもりではない言葉なのだろうけど、シスターさんはそれを見てうんうんと頷いていた。
「きっとそういう流れなので、仲間に慰められるキャラという役をしてるんじゃないでしょうか。それより私にはへっどちゃんがあからさまな事態収拾の言葉を吐いてるのが気になるんですが」
『気にはなるが、流れ的にここで切り上げてうやむやにしてしまうのがいいんじゃないか』
「それもそうですね」
 グダグダに丸め込まれておわる。

作者: 登場ゴースト:

再開の物語

 古い図書館に足を踏み入れる。歩みに合わせて幾星霜の間に積もった埃が舞い上がり、長らく人の訪れがないことは明白だった。空気は乾いていて黴臭い。辺りには誰も居ない。人どころかありとあらゆる生物がいないのか、静寂の中に響くのは自分の足音だけだった。
 まるで廃墟のように、一部の壁は崩れ、本棚も倒壊しているものがある。円形の建物であるこの図書館の中央付近には吹き抜けがあるのが見て取れ、3階建てであることが分かる。吹き抜けの周囲を石造りの通路とエボニーの黒光りする本棚が、回廊のように取り囲んでいる。在りし日には荘厳な佇まいであったことだろう。
 吹き抜けの天井は高く、一部が崩落し床に残骸が積み上がっている。おそらく吹き抜けの下には椅子とテーブルが並ぶ憩いの場となっていたと思われるが、今は崩れた天井と共に瓦礫の山と化していた。穴の空いた天井からは青空が見え、日が差し込んでいる。
 1階の本は、雨が吹き込むためか、ボロボロに崩れている。風雨に晒され固まった本は、その表紙のインクも滲み、綴られていた内容が失われてしまっている。金の箔がされていたであろう豪奢なハードカバーも、朽ち果ててかろうじて本らしき形状をとっているにすぎない。
 足を進めるたび、埃が舞い上がり、それが差し込む日光に照らされて光り輝いている。時の隨に崩れてゆく図書館は、移ろいゆく儚さがベールとなって覆いかぶさっていた。
 静かだった。ここならばきっと会えるような気がした。本の精霊か、あるいは悪魔に。
 2階の朽ちた手すりを見やりながら、回廊の本棚をめぐる。1階と比べればまだ本の状態は良好だ。それでも風化しかかった表紙や日に焼けた小口は、本の好事家には許せないものであるだろう。吹き抜けを見下ろす閲覧テーブルが、それを憂うかのように並んでいる。
 探していた本は、そこにあった。

 本は、古びたテーブルの上にあった。まるで到着を待ちわびるかのようにひっそりと置かれていた。以前と変わらぬ赤いハードカバー、タイトルのない枠だけが金で箔押しされた装飾。それは以前見慣れたあの本に違いなかった。手をかざすと、それはひとりでに開き、中から影とも煙ともつかない黒いものが現れる。それが見る見るうちに広がり、人の形を取った。
 白いブラウスと黒いスカートを身につけた司書のような姿が目前に顕現する。豊かな金髪とスカートが風もないのになびく。いくつもの本がふわりと浮き上がる。
「やあ、キミか。久しいな。3年、いや5年ぶりかな。それとももっとだろうか」
 無表情に、人型は言う。朗々とした声が静寂を破り響き渡る。宝石のような真紅の瞳がこちらを見つめる。静かな叡智をたたえたその相貌は、完璧に整った美しい形をして左右対象に見え、それが人ならざるものであることを如実に表している。豊かな胸元と合わせて、人によっては、芸術品あるいは女神のように見えることだろう。周囲に浮かぶ本のページがぱらりとめくれる。その神秘的な調和の中、彼女は言葉を続ける。
「暇すぎて死ぬかと思ったぞこのやろー。こっちの世界に出入りするようになってからは人と同じ時間を過ごしてるんだ。退屈だぞ、分かるか何年も一人だぞ。放置プレイにしてもあんまりじゃないか。これだけ我慢したんだから可愛い女の子のぱんつくらい拝ませてくれよ」
 濁りのない透き通った声で彼女はそう言った。

 彼女、カタリと出会ったのはいつのことだっただろうか。
 祖父が亡くなり、その財産があらかた親戚筋に食いつくされた後、残されたのは僻地の別荘だけだった。二束三文の土地に、古い建物。価値などほとんどないのは明白だった。ただ、その地下には蔵書の山があった。入り口はまるで隠し階段のようになっており、除湿機の換気口に気づかなければ、存在を知ることもなかっただろう。わざわざ僻地に作られていたのは、本を保管するためだったのは間違いなかった。
 そこには絶版となった本、個人出版、学術書など、稀覯本の類が誰も知られず静かに眠っていた。その奥底、埃臭い本棚の一角に、カタリが具現化する媒体である、題名のないハードカバーは納められていた。
 出会った当初からなぜ女の子じゃないのかとことあるごとに文句を言われ、なぜかおっぱいの素晴らしさを延々と語る。どういうことか見た目に反して中身が完全におっさんだった。知識もまた妙に偏っており、同人誌だとかそういった風俗文化に通じており、ことあるごとに、スカートとハイソックスの間のふとももだとか、興奮するシチュエーションを延々と語り始める。彫像のような彼女が大衆文化を嬉々として、かつ無表情で語るのはシュールなものがあった。
 カタリは媒体の本を開くと現れるため、本自体に何が書かれているかは分からない。彼女に聞いてもよく分からないと言われるばかりだ。その上、彼女自身の本体というわけでもなく、いうなればゲートのようなものであるらしい。なぜかこのゲートという言い方を彼女は至極気に入っており、よく使いたがる。彼女そのものについても、ここではないどこかにいるというだけで何の情報も得られなかった。
 人の形を取るものの、彼女自身はほとんど人と関わったこともないようで、人間社会で暮らすのはほとんど不可能なほど知識が欠如している。ただ物語を紡ぎ、本を読むことにだけ特化したような、そんな存在だった。とりあえず分かっているのは、本に囲まれた人気のない環境でないと彼女は具現化出来ないということだ。
 きっと地下室から彼女の媒体を持ちだしても、それは消失してしまうのだろう。そして具現化出来る環境に、ひっそりと本として現れるのだろう。
 最初は興味本位で会っていたのだが、彼女が物語を聞かせてくれた時、世界が一変した。ただ朗読するだけであるはずなのに、幻影のような怪しい物語が、まるで実際のことのように目の前で展開されていく。明瞭なよどみのない声は、世界を変えてしまうほどの影響があった。
 カタリの声は天上のベルとなり、物語は楽譜となる。カタリが語り騙る時、物語は旋律になる。

 そうして彼女と出会い話を聞くため、事あるごとに別荘を訪れていたのが裏目となった。地下の書庫の存在が明るみとなり、それは遺産であるとされた。それらは換金され分配されることが決まり、わずかばかりの金を握らされ、彼女の居場所は失われた。
 それから、廃墟を巡ってみたり、図書館を巡ってみたりしたものの、あの本を見つけることは出来なかった。
 透き通った美しい声で紡がれる物語を、ただもう一度聞きたかった。至高のストーリーテラーによる語りを、耳に刻みたかった。彼女の声は録音に残らないし、それどころかその姿も映像に残らない。
 災害で破壊され、廃棄された図書館の存在を知った時、カタリがそこにいると確信した。いてもたってもいられず、遠い異国の地へ旅だった。

 あらかた話を追えると、ふわりふわりとはためく本の中、カタリは無表情に口を開く。
「そうか言われてみれば、なんとも変な場所だ。ただ本が壊れゆくのはすこしばかり、いやかなり気に入らない。だがキミに言っても詮無きことか。今しばらくはここを私の場所とすることにしよう」
 周囲を見回して、彼女は無表情にそう言う。
「しかしなんだ、キミも災難だな。まあ稀覯本というのは、蒐集家にとっては宝の山だ。金の臭いを嗅ぎつけられたのは迂闊だったとしか言いようがないな」
 すっと目を閉じる。
「ただ、キミにそこまでして探してもらえたのは、そうだな、悪い気はしない。こういう時、人間ならどんな反応をするんだろう。あいにく私にはそういった感情の機微はないんだ」
 長いまつ毛のまぶたの奥から現れたルビーのような瞳の輝きが、こちらを見つめる。
「まあ、私に出来るのはただひとつだ。キミが求めるのなら答えようじゃないか。どの話がいいんだ?」
 物語が、始まる。


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